第10話 ミズキA、ミズキB(2)
瑞樹が目を覚ましたのは、それから一週間後のことだった。
長いトンネルの中をとぼとぼと歩いていたら明りが見えた。明りがある方へ行きたいのか行きたくないのか分からないまま、とにかく歩き続けていたら目が覚めた。
そんな茫漠とした気分のまま天井を見つめる。
――ここは……どこだろう。
ぼんやり考える。起き上がってみる。どこも痛くなかったし具合も悪くなかったが、何かがいつもと違う気がする。
――いつもと違う?いつもの私ってどんなだったかな。
そして、恐怖に包まれる。
――私は……誰だろう?
名前を思い出せない。
ベッドから飛び降りて鏡を探す。
――顔を見なければ……。
顔を見れば自分が誰だか思い出すかもしれない。
鏡はなかったが、何かの装置の銀色の部品に反射して映る自分の姿が目に入った。見知らぬ女が映っている。青白い肌に深い翠色の瞳、明るい茶色の髪、後ろを振り向いたが誰もいない。恐る恐る前を見ると見知らぬ女も自分と同じ行動をとった。ごくりと唾を飲み込むと、見知らぬ女も途方に暮れた表情でごくりと唾を飲み込んだ。
「瑞樹! 目が覚めたんだね」
茶色の髪の男が部屋に入ってきた。
男は手に持っていた様々なものを壁にある穴の中に押し込むと軽快な足取りで近づいてきた。
――瑞樹?
「具合はどう? 今ブラキカムに知らせてくるよ」
ここまで言うとふと気づいたように立ち止まった。
「そうだ! 自己紹介していなかったよね。僕はイベリスって言います」
人懐っこそうな笑顔に勇気づけられて瑞樹は口を開いた。
「あの……私はミズキっていう名前なんですか?」
イベリスの顔が一瞬曇る。
「名前を思い出せないの?」
「うん。私……変ですよね?」
「とにかく、ドクターを呼んでくるよ」
記憶採取が上手くいかなかったのかもしれないとブラキカムは言った。
「何も思い出せないか?」
「何か思い出せそうな気はするんだけど……ダメ、頭が痛い」
瑞樹は眉間に皺を寄せた。
「無理することないさ。ハル語を覚えているみたいだから、近い記憶から思い出していけるかもしれない。何か思い出せそうだと自分で思うのならそれは正しいと思うよ。焦らないで、よく睡眠をとってリラックスすることだ。再生してすぐは悪い夢を見ることが多いかもしれないけど、しっかり眠ることが回復の薬だからね」
ブラキカムは明るく言うとイベリスを促して部屋を出て行った。
「なぁ」
部屋を出るとすぐにブラキカムはイベリスに話しかけた。
「彼女、別人になっちまったんじゃないかな?」
暗い瞳でイベリスを見上げた。
「どうしてそう思うんですか?」
イベリスは声をひそめる。
「エリアEで一度だけ瑞樹を診察したことがあるきりなんだけど、微妙に違う気がする。それにどうしていきなりハル語を話す? 地球の言葉は彼女が生まれてからずっとしゃべっていた言葉なんだぜ? あれは生まれつきのハル人の話し方だった。瑞樹はうまく言えないけど、癖のあるハル語をしゃべってた」
「じゃあ、あれは誰なんですか? まさか……」
イベリスは絶句したまま立ちつくした。
* * *
瑞樹はエリアGの廊下を一人ふらふらと歩いていた。
――確かこの辺にあったはずだ……でも何が?
行けば分かるかもしれない。そう思いついたら居ても立ってもいられなくなって、一人医療センターを抜けだした。
エリアGの廊下に、張りがあって良く通る女の声が響いていた。
「これを借りるわ、私にも操縦できるように軌道を設定して頂戴!」
アーマルターシュはニシキギに向かって言った。
「軌道の設定を自分でできないような人間はこれを操縦しない方がいい」
ニシキギはしかめっ面で言った。
「地球とここを往復できればいいのよ。その設定だけしてくれたらいいの、簡単なことでしょ?」
高飛車なアーマルターシュにニシキギは溜息をつく。
――なんでこんな女が早々に再生されたんだろうか。
仕事が増えるだけなのにとニシキギは心の中で毒づく。
そこへ別の心細げな女の声がした。
「あの……あなたそのシャトルでどこに行くの?」
ニシキギはうんざりと声のする方を見て驚愕する。
長い茶色の髪、翠色の瞳……。
――あれは……間違いない。
「地球よ、私が行って何とかしてくるわ」
アーマルターシュは鼻息荒く言い放った。
「地球? どこなのそれ」
瑞樹の言葉にニシキギは眉を顰めた。
「あなた地球を知らないの? 再生したばっかりなのね」
アーマルターシュは馬鹿にしたように言った。
「私、ナンディーに帰りたいの。地球に行く途中に寄ってもらうことはできないかしら」
アーマルターシュもニシキギも目を丸くする。口を開いたのはアーマルターシュだった。
「帰還おめでとう。ここがナンディーよ。これに乗る必要がないんだったら邪魔しないでさっさとどこかに行っちゃってくれる?」
「ここがナンディー?」
瑞樹の問いにニシキギが怪訝な顔で頷いた。
「ナンディーに帰ってたんだ、私……ナンディーに……良かった」
瑞樹は安堵した表情でへたへたと座り込んだ。
「良かった……」
声が次第にフェードアウトしていく。幸せそうに目を閉じて……しかし再び目を開いた途端、瑞樹は悲鳴を上げた。
[ここ、どこ? 私……]
瑞樹はパニックに陥っていた。ニシキギは瑞樹の豹変に驚愕する。
――人格が変わった?
「何なの? この子。今なんて言った? なんか変じゃない?」
アーマルターシュも眉を顰める。
「とにかくあんたはラークスパーの所に戻ることだ。俺はこの子を医療センターに連れて行かなければならないようだ。ラークスパーはあんたの行動を知っているのか?」
「知ってるわけないじゃない」
アーマルターシュは傲然と言い放った。
「俺に命令するつもりなら彼の許可を取ってからにしてもらいたいね」
ニシキギは言い捨てると、蹲って泣きだした瑞樹を医療センターへ引っ張って行った。
「人格が変わった?」
瑞樹に鎮静剤を投与した後、ニシキギから状況を聞いたブラキカムは目を丸くした。
「最初見た時はミズキ・ヒュウガじゃない別人になってしまったのかと思ったんだが、自分がナンディーにいると聞いたら豹変した。後に出てきた人物が瑞樹だと思う」
「つまり、瑞樹と誰か別な人格があると君はそう言ってるんだな」
「ドクターも豹変した瞬間を見れば信じられるだろうよ。後に出てきた人格の言葉は理解できなかった。恐らく瑞樹の国の言葉なんだろう」
鎮静剤で朦朧としてきた瑞樹の顔をニシキギとブラキカムが覗き込んだ。瑞樹のぼんやりとした瞳がニシキギの瞳を見つめ返す。
「おい、おまえのこと睨んでるぜ。ムラサキのことでまだ怒ってるんじゃないか?」
「そんなことは覚えてるって言うのか?」
ニシキギは渋面で立ち位置をずらす。ニシキギがずれた方を瑞樹の視線が追いかけた。
「ほら、やっぱりおまえを見てるぜ」
「もうムラサキはちゃんと修理されている。確かに中身は新しくなっているが、前の記憶もきちんと残されるんだから問題ないだろう?」
ニシキギは弁解をする。
「なんで俺がこんな弁解をしなければならんのだ?」
ニシキギは忌々しそうに呟いた。
「おまえが勝手に弁解してるんだろ?」
ブラキカムは吹き出した。
瑞樹はニシキギの言葉には反応しなかったが、それでもニシキギの瞳を見詰めたままだった。
「俺の顔がどうかしたか?」
ニシキギはイライラして問いかけるが瑞樹からの返答はない。
「瑞樹、少し眠りなさい」
ブラキカムはニシキギを促して外に出た。 外に出ようとしたところで、瑞樹が慌てたようにニシキギを必死な様子で引きとめた。
「何だ?」
ニシキギの問いかけに、瑞樹は途方に暮れたように言葉もなく、ただひたすら彼の瞳を見つめる。
「困ったな。ニシキギ、この子が眠るまで傍にいてくれる? 俺、他の患者診なくちゃならないからさ」
「なんで俺がそんなことしなきゃならんのだ?」
「理由が聞けそうなら聞いておいてよ。俺も知りたいからさ」
ブラキカムは肩を竦めるとさっさと出て行った。
それから瑞樹は何度となく医療センターを抜けだした。一つの人格はエリアGにいるニシキギを探して回り、もう一つの人格はエリアEの中で当ても無く徘徊した。前者の人格をミズキA、後者をミズキBと呼び始めたのはブラキカムだった。
カナメが初めて見た人格はミズキAだった。エリアGの片隅で彼女はニシキギを目で追っていた。次に見たのがミズキBだった。彼女はエリアEをうろつきまわっていた。
「よく一人で来るんじゃが、何かを探しちょるらしくてずっと歩きまわっちょるよ」
コブが困ったように言った。
「ミントが話しかけてみたんじゃが、会話がかみ合わんち言うちょった」
カナメは溜息をついた。記憶採取がうまくいかなかったらしい。それにしても人格が複数出るなどとは予想していなかった。外見がここまで変わることも予想外だったが、人格までも変わってしまうとは予想していなかった。
「カナメ、どうする? 外見だけなら再再生しようかとも思ったんだが。人格まで変わったとなるとそれも難しいな。記憶採取がもうできないもんな」
ブラキカムは盛大に溜息をついた。
「あの二人は誰なんだと思う?」
カナメはブラキカムを見つめた。
「俺が想像するに、ミズキAが元の瑞樹だと思う。ミズキBはハル人の誰かだ。誰かはわからんがね。どこかに残っていたデータがミックスしちまったんじゃないかと思うんだが……」
「装置は全面的にチェックしたけど、異常はなかったよ。ニシキギのシステムもチェックしてみたけど、それらしい問題はなかった」
「ニシキギを疑ってた?」
「最初はね。彼のシステムは完璧だ。大したもんだよ」
「なのにこれだ」
「ミズキBは何を探しているのかな」
「さあな、でも、ニシキギが言うにはミズキBはナンディーに帰りたがっていたそうだ」
「ナンディーに帰る?」
「ナンディーに帰りたがるハル人って誰だ? お前、心当たりあるか?」
カナメは考え込む。ナンディーに帰りたがるということだけを考えれば、心当たりはあり過ぎた。あの時、ナンディーからガルダに救援部隊を送ったのは約二十名。誰一人無事に帰ってこれなかった。死んだか、ガルダと共に宇宙のどこかに消えたかだ。しかし、ナンディーに帰りたがる人の記憶がナンディーに残っていると考えるのには無理がある。皆無だ。
「お前、ミズキBにもう会ったか?」
ブラキカムがカナメから目をそらしたまま訊いた。
「見かけたことはあるけど……」
カナメは怪訝そうにブラキカムを見つめる。
「……まさかとは思うが、あの時ディモルフォセカはガルダに行ってないよな」
ブラキカムの声は震えているようだった。
カナメは固まったままブラキカムを凝視する。
「ディムは……ガルダで死んだんだ……」
カナメの言葉にブラキカムは目を見開いて凍りついた。
「先生? 急患なんですけど……」
突然声をかけられて、二人とも呪縛から解かれたように我に返った。
「カナメ、悪いな、その件はまた後で話そうぜ」
ブラキカムは堅い表情のまま診察室へと戻って言った。
瑞樹はエリアGにいた。ニシキギを目で追い続けている。カナメはその瞳を追う。
「あ、カナメさん。今度はどこに行ってたんですか? セレーネは順調だそうですね」
エリアGのスタッフが話しかけてきた。
「小惑星帯に行ってきたよ。あそこは資源の宝庫だね。マンガン鉱をたくさん含んだ小惑星が固まってる一帯があってね、かなりの量を確保してきたよ」
「マンガンですか。まさか本当にあれをやるつもりじゃないでしょうね」
「たぶんやるだろうね。あの量のマンガンを見たら君もやりたくなるだろうよ」
カナメは薄く笑った。
「ところで瑞樹はいつからああしてるの?」
「ああ、あの子、瑞樹って言うんですか? 何にもしゃべらないから名前も知りませんでしたよ。そうだな、もう二時間近くああしてるかな。昨日なんて一日中ああしてましたよ。ニシキギを見てて何か楽しいんですかね。最初はニシキギも嫌がってましたが、最近は慣れちゃったみたいで……」
呆れたように言う。
「ふうん」
カナメは釈然としない面持ちで目を離した。
「あの子どういう子なんですか?」
「……さあ」
カナメは苦笑する。
「何のためにこんなに早く再生されたんですかね。それでなくても人手不足なのに、もっと使える人間を再生してほしいですよ」
ブツブツ言いながら持ち場に戻って行った。再びカナメはニシキギを目で追う瑞樹をしばらく見つめていた。