第8話 月に死す(2)
気がつくと目の前にムラサキが立っていた。
『あれ? 治ったんですか?』
ムラサキの姿は、全体的に淡く光っているように見えた。
『瑞樹、私など運ぶ必要はなかったのですよ。肩……折ってしまいましたね。ごめんなさい』
ムラサキさんは痛々しいものを見るように瑞樹を見つめた。
『あれ? でも変だな、肩折れてないよ』
瑞樹は自分の体も淡く光っていることに気づく。
『私……どうしたんだろ?』
悲しげなムラサキの視線を追う。そこには壁にもたれたまま蹲っている瑞樹自身がいた。
『私……死んじゃったの?』
呆然と呟く。
『どうしてすぐカナメに言わなかったんですか? 一度死んでしまったら、再生不良になってしまうことがあるんですよ』
ムラサキさんは美しい眉をひそめた。
『一度って……そんな……二度も三度も死なないでしょう?』
ムラサキの奇妙な言葉に死んでしまったことを悲しむタイミングを失ってしまう。
『ここにいても仕方がありません。外に出てみましょうか。実は私、この地から地球をまだ見ていないのです』
ムラサキの体がフワリと浮いて天井を突き抜けて行った。慌ててそれを追いかけようとして、ふと自分の死体を見つめた。
――こんなにあっけなく死んでしまうとは思ってなかったなぁ。
自分の遺骸をしばらく見つめた後、瑞樹もフワリと飛び上った。
外は月面だった。月の南極の永久影から上昇して地球が見える面へと移動する。青く光る地球に瑞樹は目を見張る。
――私、本当に地球にいなかったんだー。
最後の最後まで信じてなかった。ムラサキに言われても、カナメに言われても、ミントに言われても、どこか心の隅で自分は地球から離れてないって思ってた。
『私、死んだ後、もしこんな風に色々な所に行けることができたら、月に行ってみたいって思ってました。月から地球を見たらさぞかし綺麗だろうなって。まさか月で死ぬなんて思ってもみなかったなぁ』
地球は、丸くて、青くて、白くて、緑で、オレンジ色で……宇宙の中にぽっかりと、ただ一つの存在のように浮かんでいた。
――私はここで死んでしまって……もうあの青い球体の上には戻れないんだ。
淡い寂寥感が心に浮かぶ。それは本当に淡い、淡い気持ちで……。自分の魂の淡さに依っているんだろうかとふと思う。
『美しいですね。昔のハルにそっくりです』
『ミントもそう言ってました』
『私達は子供達の記憶の中に美しかった頃のハルを植え付けるか、最後の現実のハルの姿を植え付けるか迷ったのです。そして私達は前者を選びました。それが正解だったのだと今わかりました。あの美しかったハルのイメージがあったからこそ、私達はここに辿り着けたのだと……』
『はあ……なんと言ったらいいのか……良かったですね』
地球人としてはどのような反応をしたらいいのか困る。悪いことなのか良いことなのか、分からなかったからだ。ただ、鮭の遡上みたいな感じかなと何となく微笑ましく感じはする。
鮭は元の川じゃない似たような川に、間違えて戻ってしまうことはあるのだろうか。あったとしたら、鮭はそこで幸せになれるのだろうか。そんなことを考えていた。
『ハルから脱出したのは六隻の船団でした。はぐれたり、事故にあったりして消えたものもあります。その船の一つが随分前に地球に既に着いていたかもしれないとあなたは考えることはありませんか?』
何気なく言葉をふるムラサキを瑞樹はぽかんとした顔で見つめる。
『……いやいや、私達は地球上で発生したんだと信じていますよ。そんな途轍もないこといきなり言いださないでくださいよ』
うろたえる瑞樹にムラサキはふふっと笑った。
『長い間、メインコンピューター・ナンディーと私は一緒に宇宙空間を漂ってきました。船に乗っている私たちの子供達が幸せに暮らせる惑星を求めてね。私は人間ではありませんから、寂しいとか退屈したとか人間が感じるような感情はないのですが、それでも、銀河系の中で太陽を周る地球を見つけた時、正直私はホッとしたのです。アンドロイドがホッとするなんて変でしょう? でもこれで使命が果たせる、そう思った時、私の神経ネットワークの上の信号がいつもより滑らかに流れるのを感じました。幸せといっていい感覚でした。ここだ、間違いないと思いました』
『他にも地球みたいな惑星がたくさんあるって聞いたことありますよ。銀河系の中にもその他の島宇宙にも』
『……瑞樹は輪廻転生という言葉を聞いたことがありますか?』
――あれ話題そらされた?
『生まれ変わるってことですね。宗教によって違いますけど、ありますよ、そういう考え、地球にも』
『地球では生まれ変わった人間が前はどんな人間もしくは生き物だったのかを知ることはできますか?』
『そんなこと知ることができるわけないでしょう? 時々怪しげな占い師があなたの前世はシジミでしたとか言ってることはあるけどね』
瑞樹はクスクス笑う。
『そうなんですか』
ムラサキは残念そうに俯いた。
『ハルの人は分かるんですか?』
瑞樹の問いにムラサキは首を振って、人間は不便ですねと呟いた。心なしかムラサキの姿が前よりも透けてきているような気がして瑞樹は目を擦る。
『一つ、訊いてもいいですか?』
ムラサキは瑞樹を見つめて微笑んだ。
『なんでしょう?』
瑞樹は首を傾げる。
『あなたはどうして私を助けようとしてくれたのですか? 私がアンドロイドだと知っていたのでしょう?』
『なんでって……あなたが苦しそうに見えたから。それにあなたは私を地球に帰してくれると言ってくれた人だから。条件付きでだけど……』
『私は苦しそうに見えましたか?』
ムラサキの言葉に瑞樹は頷いた。
『私はアンドロイドなんですよ』
ムラサキはくすりと小さく笑った。
『大人の人間から人間のように扱われるのはなれていないので……その、少し戸惑っているようです。小さい子は別ですけどね。小さい子は私のことを母のように姉のように慕ってくれます。アンドロイドと知るまではね。私はエデュケーション部門のアンドロイドとして利用されてきたし、人間たちを利用することになんのためらいもありませんでした……』
ムラサキはそう言うと目を細めて地球を見つめた。
『でした…ですか?』
『今は少しためらいを感じています。あの鋼鉄の体を離れたせいでしょうか』
ムラサキは小さく笑んだ。
『あなたは……私を人間として扱ってくれた。だから私も人間としてあなたに謝罪しておきます。これから、あなたを巻き込むであろう諸々のことについて……』
『どういうことですか? これからって……私、死んだんですよね?』
『……そろそろお別れのようです』
ムラサキはドキッとするくらい美しい顔で呟いた。
『お別れって……私はこれからどうしたらいいんですか?』
ムラサキはにっこり笑って、まっすぐ宇宙の虚空を指した。
『瑞樹、未来へ……未来へ行きなさい』
そう言った刹那、彼女は光の影だけになり、風に吹かれたようにかき消えた。
『未来へって……私はどうしたらいいんですか?』
一人残されて途方にくれる。
その時、ぐいっと引っ張られる強い力を感じて、瑞樹は地面に吸い込まれるのを感じた。
――地面に吸い込まれるってことは地獄行きってこと?
声にならない悲鳴を上げながら瑞樹もかき消えた。
* * *
死んでしまったらどうなるのだろう、これは誰もが考えて、誰もが等しく回答を得られない永遠の問題だ。もしも魂だけになって自由に行きたい所に行けることができるなら、地球上のたくさんの場所に行くことだろう。高地に出現する花畑や砂漠の月やグレイシャーブルーに輝く北極の氷を見に行く。それに飽きたら月や火星や木星や海王星まで足を伸ばしてみる。(足があればだけど……)だけど、そのうち、きっと地球が恋しくなって、再びあの大地に生まれ変わることを熱望するようになるだろう
第8話 月に死す 終了