第1話 星降る夜
この物語を、私の愛する家族と、自力ではどうすることもできない人生をどうにかしようともがいている人に捧げます。 招夏
設計図を見ながらモノを作る。船の設計図なら船が、車の設計図なら車ができる。設計図があればどんなに大きな飛行機だって、大海に浮かぶ船だって、人がたくさん働くことができる巨大なビルだって、楽しく快適に暮らせる街だって作れる。
そして…何度聞いても信じられないことだけど、人懐こい目をした柴犬も、ホクホクのジャガイモも、香り高いけど鋭利な棘を持つバラも設計図を持っている。
だから…設計図さえあれば、私だって作ることができる。
……世界は、設計図で溢れている。
* * *
外に出た瞬間、キーンと冷えた夜気が瑞樹を包み込んだ。温暖化が叫ばれている昨今だけれど、冬はやはり寒い。しかも冴えわたった夜空に星がくっきりと見えるような日の夜中は、特に寒かった。放射冷却というやつだ。
ニットのマフラーと手袋はつけてきたものの、その夜の寒気は、ダッフルコートの僅かな隙間から皮膚にまでしのびこんで骨の髄まで震えあがらせた。こんなことなら買ったばかりのダウンを着てくれば良かったと、瑞樹は少し後悔する。
月明かりは無い。家の周りは閑静な住宅地になっているので明るいが、少し外れまで行くと田畑が広がっていて、闇が深くなる。闇の中で星座は生き生きと輝く。
「瑞樹? 一人なのか?」
隣の家から背の高い人影が現れた。
「ん。あれ? 正樹ちゃんも一人? 皐月ちゃんは?」
「皐月は全然起きねーよ、ぐっすりだ。だから早く寝とけって言ったのに」
正樹は苦笑した。
「瑞樹はよく一人で外に出してもらえたな。おばさん、付いて行くって言わなかったのか?」
二人は住宅地の明かりが途切れる辺りを目指して、ゆっくりと歩き始めた。
「うん、こっそり出てきたもん」
「おいおい、大丈夫なのかよ?」
正樹がたじろいだ気配が夜の闇に伝播する。
「大丈夫だよ、星見るくらい。なんでもないよ。みんな心配しすぎなんだよ」
瑞樹は肩を竦める。
「まだ私は、そんなに簡単に、死んだりしないし……」
瑞樹はひっそりと笑った。
「……」
正樹が、この闇夜に負けないくらい暗い顔をしたことを瑞樹は気配で察知する。
「……ごめん、冗談」
言ってすぐ、瑞樹は急に声のトーンを明るく変えた。
「皐月ちゃんは残念だったね。ほら、小さい頃、流れ星を見るって言い張って、随分頑張ってたことあったじゃん? 三人でずっと空を見上げてて。ママたちがいい加減にしなさいって」
瑞樹はクスクス笑った。
「そんなことあったな。首が痛くなって、皐月が下向いた途端に星が流れて……あいつ、大泣きしたんだっけ?」
正樹も笑う。
「あの頃は……楽しかったな」
――なんだか年寄りになっちゃったみたい、私まだ十六なのに……。
「その皐月がもう、中学生だ。俺も歳をとったわけだなぁ」
「歳とったって、正樹ちゃんまだ高校生じゃん。ねえ、私たちの会話って年寄りっぽいよ?」
「瑞樹が年寄りみたいに昔は良かったなんてゆーからだろ」
正樹は首から双眼鏡をぶら下げている。それがボタンに触れてカチャカチャ音がした。
「その双眼鏡で見れるの?」
「さあな。少しは役に立つかもしれないだろ?」
住宅地を抜けても、二人はまだ歩き続けていた。
もう少し先に行ったところに、川のほとりに沿って作られた小さな公園がある。普段、子供たちさえ見向きもしない程の小さな公園で、明かりもつけてもらっていないので星を見るのにはうってつけだ。
正樹は双眼鏡を、しし座が見える東の方角に向けた。真夜中の二時半、雲がなく月の出ていない暗闇は、しし座流星群を見るのには又とない絶好のチャンスなのだと天気予報のお姉さんは言っていた。
「正樹ちゃんがそんなに張り切って流星群を見に来るとは思ってなかったな。皐月ちゃんだけで来るかもしれないって思ってたし……」
瑞樹は意外そうに呟いた。
「俺はロマンチストなんだ」
正樹はうそぶいた。
「ふーん、知らなかったよ」
瑞樹はこっそり肩をすくめる。
正樹は一つ年上の幼馴染で、小さい頃から所謂、ガキ大将と呼ばれる人種だった。ガキ大将なんて、今の世の中では絶滅危惧種もしくは化石なのではないかと思うかもしれないが、しかし、彼はそうだった。
学校でもあれやこれや人の世話を焼いたり、色々な活動のとりまとめをしたりするのが大好きで、小中高と必ず一度は児童会長や生徒会長をやっていた。目の届く範囲の人たちの世話をし尽くすということに情熱を注いでいる彼は、ある意味でロマンチストなのかもしない。
――正樹ちゃんは、たぶん、これからも変わらないんだろうな。
人の性格って、早いうちに決まってしまうんだ実感できる人だ。小さい頃、ううん、もしかしたら持って生まれてくるのかも。そう、お母さんのお腹の中で精子と卵子が出会ったその瞬間に決ってしまうものなのかもしれない。だとしたら……私って一体、どんな人間なんだろう。何のために生まれてきたんだろう。
「……なあ、瑞樹、俺、来年大学受かったら、イギリスに留学しようと思うんだけど……」
「えー?正樹ちゃんが行くって言ってたのアメリカじゃなかったけ?」
正樹が父親の会社を手伝うために経営学を外国で学びたがっていたのを瑞樹は知っていた。正樹の性格からするとアメリカの方が合っているように見えるし、確か本人もそう言っていたはずだ。
「アメリカにも行くさ。そのうちな」
正樹はのんびりした調子で言ってから、瑞樹の目を覗き込んだ。
「……でもイギリスだったらおまえも行けるんじゃないかと思うんだ」
正樹は目を逸らして薄く笑う。
「もちろん、それだけじゃないぜ、これからはヨーロッパが出てくる。ユーロが最近強いのは、あんまりニュースとか見ないお前だって知ってるだろ?どこの国に行っても俺にとっては勉強だしな」
「ニュースくらい見るよ。失礼なっ!」
さらに憎まれ口を叩こうとして、言葉に詰まり、瑞樹は下を向いて唇を噛んだ。
――まただ。また正樹ちゃんの悪い癖が始まった。
「私は行かないよ。イギリスなんか行けるわけないじゃん。正樹ちゃん、人の世話ばかり焼いてたら自分のこと何もできないよ。まーた、正樹ちゃんの悪い癖が始まった」
「なんで行けないんだ? ガーデニングの勉強したがってたじゃんか。ガーデニングと言えばイギリスだーってお前言ってただろ。もうあの夢はあきらめたんか? お前飽きっぽすぎるぞ、いつだって、なんだって途中で放り出して、逃げ出して……」
「そういうわけじゃないよ!」
くどくどと続きそうな正樹ちゃんの言葉を遮る言葉だけは勢い良く出てきたが、その後が続かない。
「もし、俺のことを心配しているんだったら、現地でお前の面倒みるくらい、俺の勉強の邪魔にはならないぞ。何を心配しているんだか知らないがな、お前は人の心配をする前に自分のことをまず考えろ、いつもそう言っているだろ」
正樹ちゃんは真っ直ぐな目で私を見た。
――苦手なんだよね。正樹ちゃんは一度言い出したら聞かないし、押しがメチャクチャ強い。いい加減な言い訳では断りきれない。
瑞樹は心の中で溜息をつく。
――いつかは知れることだ、しかし、このタイミングで話すつもりがなかった。心の準備が……できていない。
「……正樹ちゃん、私、行けない。でも……代わりに……」
瑞樹はごくりと唾を飲み込んだ。
「もっと遠いところに行かなきゃならないみたいなんだ」
――駄目だ。言葉が震える。私は自分が可哀想でしかたないんだ。弱い人間だから。
でも、自分のなけなしのプライドにかけて、泣き崩れるような醜態だけは晒したくなかった。
「……瑞樹は死なない。大丈夫だ。失くすのは左腕だけだろ。お前は大丈夫だ」
正樹ちゃんの声は少し震えていて、でも深く響くその声は、まるで自分に言い聞かせているみたいに聞こえた。
――暗闇で良かった。私の顔はどうしようもなく歪んでいるにちがいない。
号泣する一歩手前で必死に踏みとどまる。そして心の片隅で冷静に理解する。
――そうか、正樹ちゃんは知ってたんだ。知っててあんなこと……言って……
「ごめん、俺、聞いちまったんだ。お前んとこの小母さんと小父さんが話してるの。二人とも泣いてた。瑞樹、希望を持ってくれ。そして生き抜いてくれ。その為なら、俺、どんな協力だってするし……」
正樹ちゃんの声はひどく震えていた。
来月、瑞樹は左の腕を失う。もう決まっていることだ。小さい頃から病弱だった瑞樹は色々なものを失ってきた。腫瘍が出来やすい体質なのだそうで、皮膚、腸、甲状腺……トカゲが自らの命を守るために尻尾を切って逃げるように、瑞樹はあらゆるものを切って死から逃げてきた。
「利き腕じゃないけど、腕失くしたら、もうガーデニングは無理だよ。どうやってスコップ持つの? 結構力使うんだよー」
少し笑って見せる。いかにも作り物めいてる、自分でそう思いながら。
「……それに今度のは悪性らしいんだ。家庭の医学で見たもん」
――もうこれで終わりだろう。私は逃げられない。
一度悲しみに膨れ上がった感情が徐々に収束すると、ひどい疲労感が体中に広がってくる。
「……瑞樹の夢なんだろ。イギリスでガーデニングの勉強するの。あきらめるなよ。最後まであきらめるな」
正樹ちゃんは顔を片手で押さえたまま小さく呟いた。
正樹ちゃんの口癖だ、『あきらめるな』。瑞樹は今までこの言葉でどれほど励まされて、前進してこれたことだろう。瑞樹は幼い頃ひどい泣き虫だった。近所の悪餓鬼にいじめられては泣き、ころんでは泣き、芋虫がスカートにくっついても泣いた。そんな瑞樹が、なんとか人前で泣かずに前進できるようになったのは、正樹の励ましと、幼い頃まだ健在だった祖父の存在だった。
祖父はいわゆる祖父馬鹿で、何の事でも瑞樹のことを手放しで褒めちぎってくれた。泣き虫であることさえ、
「よう、そんなに涙がホロホロでるのぉ、すごいのぉ。立派な目じゃのぉ」と褒めてくれた。
祖父は盆栽と菊を育てるのが趣味だったので、瑞樹も植物を育てるのが大好きになった。子供にしては渋い趣味になってしまった娘に、母はちょっと、否、かなり、がっかりしていたようだ。盆栽に没頭している娘にしょっちゅう溜息をついていたから。
唯一、母好みのまま維持されているものと言えば、それは腰まで届く少し栗色がかった長い髪だけだったかもしれない。
「みごとな髪ねぇ。昔は黒髪がいいって言われていたらしいけど、このきれいな栗色の髪なら誰も文句なんて言わなかったと思うわ。一体誰に似たのかしらねぇ」
母は瑞樹の髪を梳かすのが大好きだ。だから私は髪をなるべく切らなかった、たとえショートにしてみたくなったとしても……。瑞樹が母の為にしてあげられることなどその程度のことだったのだ。瑞樹は母の心中を察しながらも、祖父と泥だらけになって土いじりをし、菊の手入れをしたり盆栽の枝を整えたりすることに没頭した。
植物は分かりやすい。水を欲しがっているのか、根詰まりしているのか、肥料が足りないのか、虫で困っているのか、不思議と瑞樹には言葉で会話をしているように分かった。サツキ展では賞をもらったし、菊を栽培しては市の文化祭に出展したこともある。
「いい歳の娘が盆栽だの菊だのって……」
母はいつもそう言って溜め息をついた。別に薔薇とか百合が嫌いなわけではなかった。特に菊が好きなわけでもなかった。ただ祖父の喜ぶ顔が好きだった。
「瑞樹や、お前は天才じゃのう。みてみぃ。この花つきの見事なこと」
九州弁混じりの祖父の言葉はまろく、温かい。
なんの取り柄もなく、病気がちで、心配ばかりかけていた瑞樹にしてみれば、祖父の手放しの賞賛は何物にも換えがたい宝物だったのだ。その祖父が亡くなってもう五年になる。
「瑞樹、祖父ちゃんが生きてたら、なんて言ってくれたかなぁ。ごめん、祖父ちゃんほど頼りにならなくて。でも、お前は絶対生きなきゃだめだ。ここまで頑張ったんだし。希望を持ってれば、絶対生きられるって、だから……頼むから生きててくれよ」
「……ありがと、正樹ちゃん」
「馬鹿!ありがとうなんて言うな」
正樹は本気で怒っているみたいだ。
その時、突然、音もなく、月のない夜空に星が飛び散った。それは数え切れない程で、季節外れの花火みたいに見えた。
「流星雨だな」
正樹が呆然とした声で言った。
「すごいねぇ。こんなの、私、初めて見たよ」
この瞬間、瑞樹は諸々の悲しみから一瞬で解放された気がした。そう、ほんの一瞬だけだ。
次の瞬間、瑞樹は眩い光に包まれていた。
――流星の一つが落ちてきたんだと思った。そこまでしか、私は覚えてない。
眩い光に目を閉じた正樹が次に見たものは、地面の上にふわりと落ちた瑞樹のマフラーだった。
「瑞樹? 瑞樹! どこだ? 瑞樹っー!」
正樹の呼びかけに返答するものはなかった。
* * *
ほうき星が通った後には、たくさんの塵が残されるのだそうだ。その塵は地球の大気とぶつかって流星群になる。たまたま地球の軌道にぶつかって流れ星になって消える塵、ぶつからずに永久に宇宙空間を漂う塵、どっちが幸せなんだろう。私は時々考える。流星になって燃え尽きる方がつらいのか、永久に塵として漂う方がつらいのか。