第6話 漸進(1)
瑞樹はミントに付きっきりでハル語習得に励んでいた。ハル語を習いたいと言った時のミントの喜びようったらなかった。瑞樹と話がしたいと思っていたけれど、言葉が分からなくて困っていたのだとミントは言った。
カナメの機械を使ってミントと初めて会話した時のことだ。
勇気を出して一歩踏み出してみれば、案外こんなものなのかもしれない。ミントと会話をしていると、他の緑の人たちも興味津々で集まってきた。緑の人たちはファームの民と呼ばれる人たちで、バイオラングであるこの森を守っていること、すべて計画に基づいて植物を管理しているので、勝手に植えたり抜いたりされると、とても困るのだということも分かった。
だから果実を勝手に食べても怒らないのに、勝手に種を植えたり草を抜いたりしたら怒っていたのだ。
なんでと思ったことも、聞いてみればなんだと思うことが案外多いものだ。ルールさえ分かれば、何をして良いのか、悪いのかが分かる。間もなく瑞樹はファームの民とうまくやっていけるようになった。
「瑞樹、ハル語の上達が早いね」
ミントが目を丸くして言った。
「そ?」
自分でもびっくりしていた。確かに学校でも英語はさほど苦手ではなかった。が、ハル語は格別に、かつてしゃべっていたかのように口にさらりと馴染んだ。
「コブがしゃべっているのよりも良く聞き取れるよ」
「私はコブがしゃべっているのが全く聞きとれないよ」
瑞樹はちょっと落ち込む。
コブがしゃべる言葉は早くて、こんがらがって聞こえて、さっぱり瑞樹には聞き取れない。アレオーレがいないと、百回くらい聞き返すことになって、そのうちコブの機嫌が悪くなる。アレオーレはオールマイティだ。どんな言葉も聞き取ってしまう。ただ、アレオーレの言葉を聞き取れる人は滅多にいない。私とカナメだけだ。
「問題ないよ。みんな適当に聞いて合わせてるだけだし」
ミントは悪びれもせず言ってのけた。
「それって、ちょっと、コブに失恋かなって思うんだけど……」
瑞樹はコブが気の毒になる。
「それを言うなら、コブに失礼、でしょ?」
ミントはころころと笑った。ミントは本当に気立ての良い子で、瑞樹の面倒も嫌がらずに良く見てくれる。とても忍耐強い人だ。
「ねぇ、ハルにはファームの民と普通の人と二種類の人種がいるの?」
「うーん、人種って言うかどうかわからないんだけど、もう一種類特殊な人たちがいるわ」
「特殊な人たち?」
「うん、特殊な力を持っている人たち。森の民って呼ばれてるの」
「……森の民、特殊な力?」
「その人達は植物を操る力を持っているの。その力を使うことで、光合成がたくさんできるようにしたり、繁殖力を高めたり、暑さに耐えられるようにしたりできるのよ。そして、その人達は惑星ハルに残った僅かな森とエリアEを守っていたの」
「その人達はどこにいるの? ここにもいるの?」
「ううん、今はいない。私も良く知らないんだけど、エリアEの植物たちが順調に育成しなくなって酸素供給量が減ってくると突然やってくるの。でも、変なのよね」
ミントは考え込みながら呟いた。
「変って、何が?」
「やって来る日は私達、管理棟の外に出してもらえないの」
「ふーん」
「ねぇ、今から言うことはコブとかに話さないでね。いい?」
ミントは急に声のトーンを落とした。ほぼヒソヒソ声だ。
「うん……」
瑞樹も声をひそめる。
「私の友達が偶然その森の民を見たことがあるらしいの。その人は正気じゃなかったって言ってた。何かに憑かれたみたいに目だけぎらぎらさせて、森の中を狂ったみたいに歩き回ってたんだって」
「……」
瑞樹は眉間に皺を寄せる。
「で、次の日にはエリアEの森が元気になっていたのよ」
「森の民って……なんだか、怖いね」
瑞樹が深刻な顔で言った。
「コブに言っちゃだめだからね」
ミントは釘を刺した。
「じゃあ、今ここにいるのは皆ファームの民なんだね?」
意味もなくヒソヒソ声になる。
「そうよ。あなた以外はね。あなた……本当に地球って惑星から来たの?」
ミントはまだ疑っているのだ。
「うん、そうだけど……あんまり何度も猫を押されると自信が無くなってくるな」
「猫じゃなくて念でしょ? でも、あきれた、そんなものなの? 私は何度聞かれてもハルから来たって自信持って言えるよ」
ミントが胸を張る。
「ミントもいきなり地球に連れていかれて、そこで何度も何度も念押しされたら、あら私はハルから聞いたのかしらって思うようになるって」
瑞樹がぐったりとしながら言った。
「聞いたのかしらじゃなくて、来たのかしらでしょ?」
ミントもいささかぐったりして訂正した。
「ファームの民って本当に液体しか口にしないんだね。最初は信じられなかったけど」
「肌で光合成をするから食事で摂る必要がないのよ。水分とミネラルは必要だけどね。だからファームの民の服はシースルーになってるの。便利でしょ?」
「ふーん、でもパンに食べられてみたいなーなんて思わないの?」
「パンに食べられてどうするのよ。パンを食べてみたいでしょ?」
訂正してミントは笑い転げた。
「小さいころにね、モルオーブンから食べ物を出して食べたことがあるわ。あれ、見学者用だから、ファームの民は使っちゃいけないんだけど、一般の人がおいしそうに食べているのを見て興味がわいちゃってね。友達と一緒にとりだしたの」
「食べてみたの?」
乗り出して訊く瑞樹に、ミントは頷いた。
「ひどかったわ。二口ほど食べたところで吐いちゃったの。友達はもっとひどくて、一週間下痢が止まらなかったって言ってたわ。親には怒られるしね」
「ふぇー」
不思議な話に瑞樹は溜息をつく。
ハルという惑星は地球に似ているのだとミントは言った。カナメから貸してもらった小型大脳コンタクトは活躍していて、ミントは地球を見たがったし、瑞樹はハルを見たがった。ミントの記憶の中のハルは外側からみる分には地球のような惑星だったけど、ミントの生活圏としてのハルはエリアEという限られた空間のみの記憶しかなかった。
地球が太陽の周りを回っているように、ハルは恒星ジタンの周りを回っていた。もし太陽が寿命を迎えれば、地球もまた失われる。それは遠い未来のことだけど、確実に起こることだ。そしてハルにはその大変な事態が起こってしまった。
「地下都市を作ってかろうじて生き延びていたのよ」とミントは悲しげに言った。
「だから、実際の生活はファームの民の場合だと地下都市のエリアEだけの記憶になっちゃうの。青いハルは昔のハルよ。見たことはないわ。これは学校で教えられた記憶なの」
ミントが生まれるずっとずっと前の青い水を湛えたハル。すでに赤茶けて干からびた惑星になっていたんだと頭では分かっているんだけど、あの美しかったハルを思う時、ミント達は憧れとも思慕ともつかない切ない気持になるのだと彼女は目を潤ませて言った。瑞樹の記憶の中の地球を見ながらそう言った。
ジタンがダメになる寸前でハルの人々はハルを脱出した。エクソダスだ。瑞樹は未だに信じきれてないのだけど、今いるここも、他のエリアもすべて宇宙船の中にあるのだという。今この宇宙船はどこかに着陸しているらしくて、その星の重力になっているので体が軽いのらしい、また飛び立てばハルの重力になって体が重くなるとミントは笑って言った。
聞いていると、よその惑星のことながら、途方に暮れる。地球人は月でさえほんの数歩しかその足跡を残していないというのに、もしここで地球がダメになってしまったらどうなるんだろうか。地球は環境悪化が叫ばれているけれど、地球人はまだどこかで何とかなると思ってる。実際、まだなんとかできるだろうと瑞樹も信じてる……しようとさえすればだけど。
ハルの人たちの目に、私たち、地球人は一体どんな風に映るだろうか。