第5話 良心の呵責(2)
「」はハル語、[]は日本語、『』はダイレクトコンタクト語です。
カナメは深い溜息をついた。
――僕が関わる女は皆追い詰められている。アイリスもディモルフォセカもこの子も……。ムラサキは瑞樹に何をさせようとしているのだろうか。
カナメは瑞樹の縛めをほどいた。瑞樹が記憶の底から浮上してきた気配がする。
『ムラサキの心の中をこれで探ろうと思ったの?』
カナメの問いに瑞樹は魂が抜けたように虚ろな瞳で頷いた。
『貸してあげてもいいけど、ムラサキとトウキには使っても無駄だよ』
カナメは気の毒そうに言った。
瑞樹はえっ? という様子でカナメを見上げる。
『ムラサキもトウキもアンドロイドだから、これをつけても何もわからないんだ。これ人間用だから』
瑞樹が目を見開いた。
『アンドロイド? 人間じゃないの?二人とも?』
カナメは頷いた。
瑞樹は急に力が抜けてしまったように項垂れた。
――私は……愚かだ。自分が苦しいからって盗みをしようとしたなんて……パパやママや正樹ちゃんに合わせる顔ないな。なんて馬鹿なんだろ……私。
同時に湧き上がる、取り返しのつかないことをしてしまったという思い。
――地球人はみんなこんな人間だと思われてしまったかもしれない……どうしよ。
情けない気持ちで、それでも懸命に謝罪の言葉を紡ぎだす。
『……ごめんなさい。地球でも人の物黙って持ち出したら泥棒って言われます。犯罪です。こんな愚かなのは……私だけです……ですから、どうか地球のこと、地球人のこと悪く思わないでもらえませんか?』
声が震える。泣き出したいのをぐっと堪えた。
『もういいよ、事情は分かったし、こっちに全く非がないとは言えないようだし……』
カナメは瑞樹の瞳を覗き込む。
『ねぇ、君っていつもこんな風に泣かないの? いつも我慢してる?』
カナメの問いに瑞樹ははっと顔を上げた。
――さっき見た夢の中の記憶を……この人は見たの? どこまで知られてるんだろうか。
昨日トウキの前でひび割れてしまった心が再びきしみ始める。瑞樹は必死で抑え込んだ。
『……泣いたら、泣いたらもう二度と立ち上がれないって気がするから。もう、二度と自分の力で立ち上がれないって……』
そうでなくても、臨界点をとうに過ぎているのは自分でも分かっていた。
傷のないエメラルドがないように、心に傷のない人なんてどこにもいない、そんな人は人間ではないと思う。だけど、多すぎる傷を受けてしまったら人はどうなるんだろうか。エメラルドのように砕けてしまうんだろうか。
瑞樹はそんなことをぼんやりと考えていた。
『泣けばいいんだよ、涙はその為にあるんだ』
瑞樹は小さく首を振った。崖っぷちで、飛び降りて自ら命を落とすか、敵に打ち取られるか二者択一を迫られた人のように。
『涙は心の中の悲しみを外に押し出す為にあるんだよ。心の中にため続けていたら辛いだろ?大丈夫、君はちゃんと立ち上がれる。だって、君は人だから。悲しみはいつか癒えるし、傷はいつか治るよ』
これはイブキの受け売りだ。
カナメは思い出す。ハルのアール・ダー村にイブキと初めて行った子供のころから、気が遠くなるくらいの時間が流れて、こんな所まで来てしまった。アイリスもディモルフォセカも救うことができないまま、イブキさえも失って、こんな所まで来てしまった。
大脳コンタクトの器械は人の心の中の本人さえ気づいていない感情を映し出す。カナメには瑞樹の堆積した悲しみが実際に目で見るようにわかった。それがもう崩れそうになっていることも。
瑞樹が泣くことをしなくなったのはいつからだったか。諦めて、押し殺して、気持ちを外に出さないようにして生きてきた。自分が泣けば周りも泣く、自分にできることは、自分のせいで周りが泣くことを最小限にすること、それだけだった。
特に知っている人の前では用心深過ぎる程心を押し殺して明るく振まった。いや、振るまえた。困るのは誰も知っている人がいない時だった。
一人で乗った電車の中で、お遣いに行く自転車で、何気なく一人で夕陽を見た瞬間に、発作的に襲ってくる悲しみに耐えるのが一番難しかった。自分一人では自分の気持ちを支えることができないくらい、心の中にわだかまった悲しみが重さを増していた。
――もう少し……あとほんの少しだけ……辛くない人生が欲しかったよ。
私の……こんな惨めでささやかな欲望をこの人は知ったんだ。だからこんなことを私に……。自分が情けなく惨めで、哀しかった。
――そう……か……私は可哀想だって思われることが怖かったんだ。
突然気づいて苦く笑う。
それでこんなに悲しみをため込んでしまったんだ。文句も言わずに重荷を背負ってるつもりでいたけど、私はただの見栄っ張りだっただけなのかもしれない。
可哀想だとは言わず、頑張れとも言わず、悲しみにけりを付けたら、また立ち上がれと、立ち上がることができると言ってくれたこの人に、同じ種類の、尽きることのない悲しみを見た気がした。
コトリとどこかのネジが抜け落ちた音を聞いた。重さに耐えられなくなった橋のように突然瑞樹は崩れ落ちた。
『辛いよう……どうして……こんなに……辛いのかな?』
小さな子供みたいに声をあげて泣いた。
『そうだね』
カナメは静かに相槌を打った、何度も、何度でも。瑞樹は泣いて、泣いて、泣き疲れて、不覚にも眠ってしまった。
堰を切ったように泣いている瑞樹を可哀想に思う反面、カナメは不思議な気持ちに戸惑っていた。自身の心の中の堆積した悲しみまでが同調して洗い流されていくような気がしたからだ。心の中にわだかまった悲しみを流し出したかったのは本当は自分だったのかもしれないとふと気づく。
大地に着地した時のような安定感を感じる。泣き疲れて無防備に眠ってしまった瑞樹の髪をカナメはやさしく何度も撫でた。
「ここを出て行く時期が来たようだ。こんなのばっかりだな僕は……」
カナメは苦笑いして小さく呟いた。
* * *
『で、君はどうしたいの?』
光が落ちた暗闇の中でカナメの声がする。
『どうしたいって……もちろん地球に帰りたいですよ。本当にここが地球じゃないって言うのなら。家族が心配してると思うし……』
あんまりひどく泣いたので瞼が腫れぼったい。鼻の奥がつんと痛くて涙の匂いがして、頭も痛い。調子悪い。悲しみが消えたというよりも脳味噌が涙に混ざって消え去ってしまったような気がして、瑞樹はがっくりと項垂れる。昨日トウキに泣かされた時よりも数十倍ひどい気分だった。
それに昨日はなんで泣けたのか分からなかったけど、今日のは理由が最悪だ。惨めな自分に気づいた為だから。しかし、号泣した上、眠り込むという醜態を晒した以上、自分の何をこの人が知ってようが、もうどうでもいいやといった投げやりと言うか、開き直ったと言うか、そういう安定した気分にはなっていた。
『僕はここを出るよ』
『ここ?』
『エリアE』
『ああ、ようやくぼーっとするのに飽きたんですね。随分ここに居たんですか?』
『ぼーっとしてた訳じゃない。瞑想していたんだよ』
カナメはムッとして言い返す。
瑞樹はこめかみをグリグリと揉みほぐしながら、そうですかと興味なさそうに答えた。
『それで、少し外の様子がわかったら君が地球に帰れるように力を貸してあげようかと思ってるんだけど……』
『ほんと?』
興味なさそうに話していた瑞樹の態度が一変する。
『私、本当に帰れるんですか?』
『僕はここで随分長い間、瞑想していたんで、君がどういう立場にいるのかさっぱりわからない。自分の立場もよく分かってない。だから外で君の状況と僕の状況とを把握してから、何ができるか考えてあげるよ。多少時間がかかるかもしれないから、君はここの管理棟でコブの仕事でも手伝いながら待っていてくれないか? どうせならハルの言葉も覚えてくれると話が早くなってありがたいんだけど』
『……それは、つまり、ムラサキさんの問題を解かなくても地球に帰してもらえると、そういうことですか?』
じんわりと幸福感が込み上げてくる。
『そう言うこと』
カナメは瑞樹の復活に小さく笑んだ。
『待ちます。待ってます。言葉も覚えます!』
瑞樹は踊りださんばかりだった。
『じゃ、そう言うことで。ここを畳むよ。それから、これ……』
カナメは小型大脳コンタクトの器械を自分の頭から外すと瑞樹に渡した。
「貸してあげるよ」
瑞樹を指さす。
[これ貸してくれるんですか?]
瑞樹は器械を指してから自分をさす。カナメは頷いた。
「これが必要なのはとりあえずは君のようだからね」
『瑞樹、これ必要』
アレオーレが訳してくれる。
[私にはこの子も必要みたい]
瑞樹は溜息をつく。アレオーレは嬉しそうに飛び回った。
『アレオーレ、瑞樹、必要』『瑞樹、アレオーレ、必要』
繰り返しながらクルクル飛び回る。
カナメは少しだけ笑って、手元の僅かな光を頼りに管理棟へと歩き出した。瑞樹も慌ててその後を追った。
* * *
東南アジアにハナカマキリという昆虫がいる。蘭の花に住んでいて、その花に擬態し蜜を吸いにくる虫を捕まえて生きている。白い体で手足がほんのりピンク色で、住んでいる蘭の花にとても良く似ていて美しい。美しいと思うと同時にあまりの危うさに心細くなる。この虫はこの植物が絶滅してしまったらどうなるんだろうか。私は……一人の人、一つのこと、一つの希望に依存してしまうことが心底恐ろしい。結果、いくつもの退路を心の中に準備してしまう。私は途轍もなく臆病で往生際が悪い人間なのだろう。いっそハナカマキリのような潔い生き方ができたら、それは存外幸せなのかもしれない。
(第5話 良心の呵責 終了)