第5話 良心の呵責(1)
「」はハル語、[]は日本語になっています。
以前、母が、室内で植物をたくさん育てていたことがあった。
少し肉厚のその植物は、室内の寂光の下で良く繁った。初夏の頃、母が掃除をする為にその植物たちを日の良く当たるベランダに出しているのを見かけた時、瑞樹は驚いた。その植物たちの呻く声が聞こえたからだ。
『アツイ、イタイよう』
植物達は太陽の光から逃げ出したがっていた。
[ママ、その植物、部屋に入れた方がいいよ。太陽の光が嫌いなんだって]
堪らず、瑞樹は母に言った。
[何言ってるの? 植物は太陽の光が大好きなのよ。こーごーせいって言うのを学校で習わなかったの?]
母は、瑞樹の言葉を笑い飛ばした。
瑞樹も光合成のことは理科で習っていたので、そんなもんかなと渋々納得した。その植物達は、夕方になるころには室内に戻されていたが、次の日、そのほとんどの葉を枯らした。太陽の光が強すぎたのだ。それから一、二カ月ほど瑞樹は憂鬱な気持ちで過ごさなければならなかった。
その植物を置いてあったのはリビングで、火傷で苦しんでいるその植物の呻き声を否応なくずっと聞かなければならなかったから。聞こえていたのに、分かっていたのに、何もしなかった、消極的な加害者になってしまっている自分。その後ろめたい気持ちのことを良心の呵責と言うのだと瑞樹が知るのはもう少し後のことだ。それくらいの齢の頃の話。
瑞樹は「良心の呵責」と「藁をもつかむ思い」を天秤に乗せて悩んでいた。ムラサキの、トウキの、緑の人たちの心が知りたい。ここの人たちの考えが、瑞樹にはさっぱり分からない。カナメだって瑞樹の情報は搾取するくせに、自分たちのことは何一つ教えてくれない。
――さっぱり分からない。謎だらけだ。ここの人たちの気持ちを知りたい。
瑞樹の頭の中は、それで一杯になっていた。
カナメのあの器械を使えば、みんなの考えていることが手に取るように分かるに違いない。そうすれば、自分で探さなければならないという問題も、もしかしたらその解答までも全部わかるかもしれないじゃないか。
地球に帰る、ここが地球じゃないかどうかなんて本当は分からないけど、兎に角、家に帰りたかった。
カナメがあの器械を簡単に貸してくれるだろうか。出自の惑星も見せてくれなかったほどなのだから、答えは限りなく否だと思われる。貸してくれと言って断られれば、その後の管理は厳重になるだろう。テントの中に無造作に置かれていたのを思い出す。
――ほんのちょっとだけ、持ち出して、使った後にすぐに返せば……
ここまで考えると良心の呵責を覚えて息が詰まりそうになった。
――これって泥棒だよね。でも、早く両親の元に帰りたいし……
瑞樹はノロノロと歩きながら、それでも確実に、カナメのテントがあった辺りへと近づいて行った。
管理棟を出て、森に入った瞬間に感じたことだけど、何かが昨日と違う気がする。木や草の気配がいつもより鮮明だ。それに、気のせいかもしれないが、カナメがどの辺にいるのかが瑞樹には漠然とだが分かった。
まるでそこら中に生えている木や草が教えてくれているみたいだ。カナメはこっちだよと。不思議な違和感を覚えながら、瑞樹は予感通りの場所でカナメを見つけだした。
しばらくカナメの様子を観察する。カナメは定住しているのではないらしく、前にいた場所よりももう少し湖よりの場所にテントを張っていた。
カナメの行動はこうだ。
光が落ちるまでは木陰で座ってぼーっとしていて、光が落ちると森の中をウロウロとうろつき回る。
一体この人は何をしてるのか、瑞樹にはさっぱり分からない。
森の中をうろつき回っている時はテントごと移動してしまうので、ぼーっと座っている明るいうちに目を盗んでテントに入り込むしかなさそうだった。
カナメが座っている後ろからそっと近寄る。鼓動が速く大きくなってくる。カナメはテントの入口を背にして座っていた。カナメの座っている場所からテントまでの距離は五メートル程。注意を反らせられれば忍び込むことは可能かもしれない。
瑞樹は木切れをカナメの左前方に投げてみた。ガサガサッと音がする。カナメは微動だにしない。今度は右の方に投げてみる。変化はない。
――寝ているんだろうか。
瑞樹は首をひねる。仕方なく瑞樹はそろそろとテントに近づいて中に入った。カナメが動く気配はない。
テントの中を見回す。前に見たのと同じように器械は打ち捨てられていた。二台拾い上げて、急いでテントの外へ出た。
「地球では他人の物を勝手に持ち出して良いことになってるの?」
目の前にカナメが立っていた。瑞樹は凍りつく。
「ハルではね、それは泥棒と言うんだよ」
鋭い緋色の瞳に射抜かれたように瑞樹は息もできない。何を言っているのか分からなかったけど、怒っていて、瑞樹の行為を責めているということだけは分かった。
「なんとか言えよ」
カナメの手が瑞樹の手首を掴んだ。
[ごめんなさい]
消え入るような声でやっと謝罪を口にする。瑞樹はガタガタと震えていた。
「何言ってるかわからない。来いよ」
テントの中に引っ張り込まれる。カナメは怒りの収まらない様子で瑞樹が持ち出そうとした器具を瑞樹に取り付ける。
[いやだ、怖い!]
瑞樹は反射的に器具を引き剥がしテントから逃げ出そうとした。
「こら、待てよ!」
足を掴まれて瑞樹は転倒した。しゅるりと幽かな音がして、手首と足首に蛇が巻きついたように、しなやかな素材の縄が掛けられて瑞樹は完全に拘束されてしまった。瑞樹は恐怖でめちゃくちゃにもがくが、そのしなやかな素材の縄は綻ぶ気配さえない。瑞樹は震え上がった。拘束された恐怖と盗みを働いたという良心の呵責とで息が詰まって声さえ出せない。本当に怖い時には声が出せないものだと聞いたことはあるけど、まさか自分がそんな状況に陥るとは思っていなかった。
『このグレイプニルという縄は強力な縄でね。あの巨大狼フェンリルを繋ぎ止めていたと言われる伝説の紐にあやかってつけられた名前だ。それくらい強力ってことさ。逃げようなんて考えないことだよ。もっとひどいことだってできるからね。君はこれが欲しかったんだろう? 使い方を教えてやるよ』
頭の中で冷たい声が響く。
紅い瞳がイメージで頭の中一杯に広がって、一定のリズムをもって瑞樹に囁いていた、すべての記憶を明け渡すようにと。
瑞樹は悲鳴を上げながら、深い記憶の中に沈んでいった。
* * *
誰かが泣いていた。
瑞樹は、薄暗い廊下の長椅子に座って泣いている一人の女性の前に立っていた。
[小母さん、どうして泣いてるの? 万里ちゃんはどこ?]
万里ちゃんのママだ。
――万里ちゃんは具合が悪いって、だからしばらく遊べないって、我慢しようねってママが言ったのは、昨日だったかな、もう一日前だったかな。
幼い瑞樹は考えを巡らす。
[瑞樹ちゃん、万里は……万里はね、遠い国に行ったの]
万里の母親の言葉に、まだあどけない様子の瑞樹は無邪気に首を傾げる。
[どこ? 瑞樹も行けるところ?]
目を見張って訊き返す。
遠い国……それは瑞樹に魅惑的に響いた。
[ダメよ、瑞樹ちゃんは行ってはいけない所よ]
小母さんは絞り出すような声で言った。
[手紙は書ける?]
瑞樹の母親がやってきて、瑞樹に、やめなさい、と叱った。
[阿部さん、気を落とさないようにね]
母親は痛ましそうに涙声でそう言った。
[瑞樹ちゃんは大丈夫よ。万里の分も生きて頂戴]
小母さんは泣き崩れた。瑞樹ははじかれたように顔を上げる。
[嘘。万里ちゃんはどこ? どこなの?]
病室の中を泣きながら探しまわる。同じような病気で同じような病状だった。少しだけ、ほんの少しだけの無理が万里の命を削ってしまった。幼い瑞樹には重すぎた友達の死。
瑞樹の生きてきた十六年の間の記憶はほとんどが闘病の記憶だ。次々襲ってくる病魔との闘い。不審に思った両親が遺伝子検査を受けてみようと言い出したのは瑞樹がいくつの時だっただろうか。
両親の悪い予感は的中して、遺伝子の僅かな違いで、腫瘍を抑えるはずのたんぱく質を作り出せないことが判明した。
そうじゃないかと疑っている時の不安と、そうだったと分かってからの不安は全く異なるものだ。母は泣いた。おそらく父も心の中で泣いていたと思う。
そう言う風に生まれてしまった娘を持つ親の気持ちは瑞樹にだって理解することはできない。そしてそんな風に生まれついてしまった瑞樹の気持ちは、恐らく両親にも完全に分かるはずはないのだった。
この設計図でしか自分は生まれなかったのだと、この設計図でなければ自分ではなかったのだと何度言い聞かせても納得できない自分がいた。
どうして私なのかと、どうして私はこうなのかと。抜いても、抜いても蔓延る雑草のように同じ疑問が生え出してくる。
悲しくてたまらなかった。
気づいたら、だだっ広い草原に一人だけでポツリと立っている。草達は風に揺らめいて瑞樹に問いかける[なんで私なんだろ?][なんで私はこうなんだろ?]暗転した。
一際大きな存在として正樹ちゃんが現われるのはいつからだっただろうか。一つ年上で、隣に住んでいるちょっとカッコいい面倒見のいいお兄ちゃん。可愛い妹がいて、瑞樹を入れて三人で良く遊んだ。
木登り、鬼ごっこ、川原で水切り、柿の実とり、どんぐり拾い、どれもこれも温かくて懐かしい。
[あきらめるな、瑞樹]
正樹ちゃんの口癖だ。あきらめなければ、最後の最後まで頑張れば何とかなると正樹ちゃんはいつも言っていた。本当に彼はそう信じているのだ。そしてそのとおりの結果をもぎ取れる人。正樹ちゃんはそう言う人だった。
流れ星を一緒に見ていて、流れ星が瑞樹に落ちてきた。瑞樹は全く分からない状況に放り込まれて、この分からない世界で、ヒントもなしに問題を探して答えを出すようにとムラサキに言われている。
瑞樹は途方にくれる。
[ごめん、正樹ちゃん。私、もう戻れないかもしれない]
力なく瑞樹が呟く。
[瑞樹、諦めるな、お前の悪い癖だ]
正樹が怖い顔をして怒っている。
[だって、さっぱり分からないよ。もう駄目だよ。もう……クタクタだもん]
心の底からそう思う。もう、ここで死んでしまうに違いない。
そして、あの疑問が心の中にグランドカバーのように広がってしまうので、瑞樹は諦めて呻く。
[なんで私はこうなんだろう]
深い……深い井戸の底から、円く切り取られた蒼穹を眺めている羽の折れた鳥になった気分だった。しかも病気の鳥だ。手当をしなければもう間もなく死ぬはずだ。事態は……最悪だった。