第4話 心の扉を開ける鍵(5)
[]は日本語、「」はハル語、『』はダイレクトコンタクト語という設定です
イベリスは手早くリフレッシュメントでシャワーを使うと、食事をとる為に厚生棟へと向かった。時間的に随分遅くなったからか、厚生棟のランチルームには、まばらにしか人がいなかった。イベリスが座る場所を探していると、ブラキカムがいることに気づいた。
「隣、いいですか?」
「もちろん」
ブラキカムの薄い褐色の瞳が悪戯っ子のように輝いて微笑んだ。
「ドクターは随分遅い食事なんですね」
座りながらイベリスは話しかける。
「いつもこんなもんだぜ。おまえこそどうしたんだ? 随分疲れているようだが、俺の診察を受けたいなら、一時間後にしてくれよ。しばらく戻らないからな」
「ただの疲労ですよ。診察は無用です。クレーターの中の氷を切り出す作業をやってたんです」
「おおラッキーボーイだったか。お疲れさん。で? 地球は見られたか?」
「見れるわけないでしょ、永久影の中の作業なんですよ? 今度ドクターもやってみるといい。零下二百度の中で汗だくになるなんて、なかなかできない経験ですからね」
「残念ながら、俺は患者を見るので手一杯だ」
ブラキカムは全然残念じゃなさそうにニヤニヤしながら言った。
「……カナメさんはいつ戻ってくるんですか? 再生……されたんですよね?」
「カナメ・グラブラ? さあな、分からん。マダム・ムラサキに任せてある。復帰は無理かもしれない。何故だ?」
「となると、今後も技術的なことはニシキギがやることになるんでしょうね」
イベリスはがっかりしたように溜息をついた。
「ニシキギは気に入らんらしいな」
ブラキカムはニヤニヤしながらイベリスを見つめる。
「あの人が指揮をとり始めると、途端に嫌な雰囲気が漂うんです。協力する体制が崩れて、他人を出し抜こうとか、自分だけ上手くやろうとか、逆の場合だと自分は何をしてもダメだから、もうどうでもいいやとか……調和が乱れます」
「カナメがそんなに上手く人をまとめあげてたか? あいつはどちらかと言うと人間嫌いでスタンドプレーが好きだったと思うが……」
「それでも、カナメさんは誰の言うことにも分け隔てなく耳を傾けました。事に当たっても正確に見極める人でした。カナメさんが上手くできないというか……興味のない所は、周りがカバーしようって協力する体制も自然にできてました。ハルにいたころは、それでうまくいってたんです」
何よりも、イベリスがカナメに肩入れをしてしまうのは、森の民を「力」としてではなく、「人」として脱出させようと尽力してくれたことが、その理由かもしれなかった。ソーマの白い種にして持ち出すのではなく、森の民を、ファームの民と一緒に、エリアEで暮らせるようにしたいのだとカナメは言った。
結局、それは叶わなかったけれども……。
「カナメにとって都合の良いことと、君にとって都合が良いことが、たまたま一緒だっただけかもしれないよ?」
ブラキカムは意味ありげに言う。
「そうでしょうか……」
――僕にとって都合のいいこと、カナメさんにとって都合のいいこと……
イベリスは考えながら、皿の中身をたいらげていく。
「……ニシキギだって、そんなに悪いやつじゃないさ。ちょっとあくが強いくらいのものだ。そう嫌わないでやってくれ」
しばらくして、ブラキカムは少し寂しげな様子でそう言った。
「ドクターはニシキギと仲が良いんですね。もしかして、僕が地球人の女の子を助けて欲しがってたことをニシキギに話しましたか?」
ブラキカムがニシキギの肩をもつことを想定していなかったイベリスは、少しむっとして訊いた。
「あー、話したかもしれないなー。なんか言ってたか?」
「逃がしたのは僕じゃないかって疑ってました」
イベリスはむっとした顔で言う。
「君じゃないの?」
ブラキカムはおどけて目を丸くした。
「違いますよっ!」
イベリスは怒って立ち上がると、トレーをダストシュートに放り込んで立ち去った。ブラキカムは面白そうにイベリスを見送ると肩を竦めた。
* * *
瑞樹は、カナメのテントから逃げ出した後、管理棟へと向かった。管理棟でムラサキとコンタクトをとろうと考えたからだ。カナメという人物について聞いておきたいことがあったし、緑の人たちが自分の何に怒っているのかも知りたかった。
ところが、管理棟の前に見知らぬ男が立っていた。キャメル色の柔らかそうな髪に人懐っこそうな深紫色の瞳。その人は管理棟の前に立って、瑞樹を認めると優しげに微笑んだ。
『瑞樹だね』
その人の声は、ムラサキの時のように完璧に理解できた。アレオーレの幽かな言葉とも違う、カナメのあの機械を使うよりももっと鮮明に頭の中で響く。
[あの……あなたは?]
『僕はトウキ。ムラサキからの伝言があるんだ』
[ムラサキさんからの?]
瑞樹は期待に胸を膨らませる。もしかしたら、勘違いだったから家に帰しますとかじゃないだろうか。どう考えても、この森で自分が解決できることなどありはしないだろうと感じ始めていたからだ。
『ここでは不都合だから、中へ入ろうか』
トウキはそう言うと管理棟の中に入って行った。
トウキの後ろをついて歩きながら、瑞樹はある違和感を感じていた。ムラサキの時にも感じていたことだが、それはムラサキ独自の個性なんだと思っていた。だけどこの人にも何か共通した雰囲気を感じていた。それは……存在の希薄さのようなもの。
表情の乏しさとか匂いのなさとか体温の低さとか(実際に触った訳ではないが……)が、他の人たち、ミントやコブやカナメなどとは違う気がするのだ。
『どう? ムラサキからの課題はクリアできそうかい?』
管理棟の一室で、トウキは訊いた。
[さっぱりダメです。どうしても問題がわかりません。何が問題かさえ分からないんだから、当然解決策もない訳で……なにかヒントのようなものはもらえないんでしょうか?]
トウキはキラキラ光る瞳で悪戯っぽく瑞樹を見つめていたが、やがて苦笑した。
『全く? 全く何も感じない?』
[何かを感じろって言われてたんでしたっけ? 私、何が問題かは何も感じませんよ、でも……」
『でも、何?』
[ここの植物のことなんですけど…もしここが本当に地球ではなくて、これから地球に行こうとか考えているんなら、ここの植物は太陽光を当てない方がいいと思いますよ]
『それはどうして?』
[なんだかうまく言えないんだけど、枯れるような気がする。ここは暖かい気候な割には光度が弱いですよね。私が住んでいた日本という国は温帯に属していて、中くらいな気候、つまり暑すぎず寒すぎずの国だけど、ここよりはずっと光線が強いですよ、たぶん。だから、太陽光線はここの植物にはきついんじゃないかなって、それくらいかな、感じたのは……]
『君がそう言うのならそうなんだろうね』
トウキは微笑みながらそう言う。
[信じるの?]
すんなり受け入れられたことに逆にびっくりする。なんでそんなことが分かるのかとか、調べたのかとかつっこまれると思っていた。
『嘘なの?』
瑞樹は首を横に振る。嘘をついたつもりはなかった。そう感じたのは本当だったから。
「あの……ムラサキさんはなんて?」
この人はムラサキの言葉を伝えに来たのではなかったか、ふと思い出した瑞樹は訊いてみる。何故か、さっきから心の中がざわざわして居たたまれなかった。何かが頭の中で勝手に動き回っている感じ、落ち着かない。
『何か必要なものはありませんか、とのことだよ』
トウキが微笑みを湛えたまま言った。
「それだけ?」
瑞樹は呆然とする。
『それだけだよ』
瑞樹の心の中で失望がじわじわと絶望に変わっていく。
「……必要なのはヒント、問題、解答よ! 私を家に帰して。お願い帰してください」
瑞樹は泣き出した。何故か自分をうまく抑えることができなくて心が暴走する。いつもなら、こんな場面で、会ったばかりの人の前で泣くような自分ではなかったのに、まるでひびが入ってしまったグラスのように涙が止まらなかった。嗚咽さえ止めることができない。
『扉は開いた。後は君次第だ』
謎の言葉と微笑みを残してトウキは部屋を出て行った。
彼が出て行ったと同時に瑞樹は号泣した。どうしてなのかは分からない。何かが心の中から溢れ出して止まらなかった。
* * *
人の記憶は曖昧なものだ。今自分が見ている景色だって、隣で見ている人の景色とは違うかもしれない。色とか空気とか音とか……人は自分に関係する情報を選り分けて、自分に必要な情報だけを見ている。自分だけの自分本位な記憶を完璧なまでに人に伝えられたとしたら、その人は私の心に潜む善意や好意や悪意までをも見てしまうことにならないだろうか。そう思うといたたまれなくなる。
(第4話 心の扉を開く鍵 終了)