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苦手な方はご注意ください。

愛シテル

愛シテル ~3年目の1月

作者: 紙森けい

りく也33才 ユアン33才


「ああ、リック、二番に外来の患者」

 投薬指示をカルテに書き付けていたりく也に、ジェフリーから声がかかった。

「少し休憩させろよ」

 りく也はカルテをナースに渡して彼の隣に並んだ。

 昨日今日と相変わらずマクレインのE.R.は忙しい。レジデンシィ・プログラム一年目のリクヤ・ナカハラとジェフリー・ジョーンズの連続勤務時間は、前者二十五時間、後者二十時間になっていた。シフト上はとっくにオフなっている。しかしレジデントは医学生以上にこき使われるのがどこの診療科でもお約束になっていて、そのどこよりも忙しいE.R.所属――それもニューヨーク――の二人がシフト通りなどと言う事はありえず、ほぼ二十四時間、いつでもその姿を見ることが出来た。

「Dr.ナカハラが空くまで待つって言うんでね。もう五時間前から待ってるぞ」

 ニヤリとジェフリーが笑う。それを見てりく也は誰が来ているか悟った。

「ミーシャ、今、空いてるか?」

 受け付けでクランケ・ボードを見ている医学生ミハイル・ソコロフに、りく也は声をかける。彼が次の指示を待っているところだと答えると、自分の後について来るよう言った。

「君に診てもらいたがってんのに、学生を連れていくのか?」

「学生は実習の為に来てるんだろ?」

 ジェフリーは肩を竦めて、自分を呼ぶ方に別れて行った。




 ユアン・グリフィスは右手を差し出した。ミハイルがチラリと後ろに立つりく也を見る。りく也は顎でその手を診るように指示した。ミハイルは仕方なく、大きな彼の手を取った。

 医学生の手の中で患者の手は自ら傾いた。それから左手の人差し指で右手中指の、第一と第二関節の間を指す。うっすら赤みが側面に見えた。それも目を凝らさないと見逃しそうな、五ミリほどの『線』である。

 またもミハイルが振り返るので、 「Dr.ソコロフ」とりく也は更に診察を促した。

「えと、どうされましたか?」

 恐る恐るミハイルは患者の顔を見る。ユアン・グリフィスは目の前ではなく、その後ろのりく也に向かって答えた。

「雑誌の端で切ってしまって、少し痛むんだ」

(何が痛むだ、かすり傷じゃねぇか)

 出そうになる言葉をりく也はのど元で抑えた。しつこいくらいにミハイルが自分を見る。

 アメリカを代表する国際的ピアニストのユアン・グリフィスが、リクヤ・ナカハラがまだ医学生だった頃からご執心だと言う事は、E.R.のみならずマクレイン中が知っている。臨床ローテーションで各診療科を回るたび花束や菓子が贈りつけられ、医師試験に合格した時は大きなケーキが届けられた。医科卒業の時にはあたりまえのように家族席にその姿があって、請われて卒業生の為に演奏を披露したことは、語りかたりぐさになっている。

 ユアン・グリフィスが外来で来たなら、必ずDr.ナカハラに受け持たせる――と言う約束は、ローテーションで来る医学生までが了解していたが、りく也にとってはまったく迷惑な話である。

「診断は?」

 いくらミハイルが助けて欲しいオーラを出しても、りく也は受け流した。

「…右第三指指掌側面に軽度の裂傷です」

 裂傷と呼ぶにはあまりにも微細な切り傷である。りく也の位置からは指紋と判別不能だ。

「で、治療はどうする?」

「消毒してテープを」

「よく出来ました。しかしこの程度の傷で、貴重な病院の備品を使うまでもない」

「ひどいな、大事なピアニストの指だぞ」

 レジデントと医学生に会話に、『患者』が割って入った。

「そんな傷、舐めときゃ治る」

「じゃ、君が舐めてくれ」

 ユアンはりく也に向けて手を差し出した。まるで手の甲にキスをねだる貴婦人のように。医学生は他人のやり取りながら、赤面して俯いた。

 りく也は治療カートを引き寄せる。差し出されたユアンの手首をミハイルの肩越しに引っ掴むと、消毒綿を乱暴に傷口らしき所に押し付けて清浄し、包帯で指をグルグル巻きに固定した。

「もっと優しくしてくれてもいいだろう、リクヤ?」

 ムッとした目でユアンが抗議する。

「そんな傷くらいで、いちいちここに来てんじゃ無え。みんな暇じゃないんだぞ」

「だから大人しく待っていたじゃないか」

「おまえの占領してるこのベッドが、本当に必要な患者だっているんだ」

「さっきまで、ちゃんと外来で待っていた、五時間も! 席も他の人間に譲って立っていたさ。君がいつも言うように、文句も言わずに」

「だったら誰かにさっさと診てもらえよ」

「君は僕の主治医だろうっ!!」

「俺がいつ、おまえの主治医になったんだよっ?!」

 会話ヒートアップして行くのはいつものことだ。ナース達は慣れたもので、気にせず仕事をこなして行く。しかし今回が初めてのE.R.ローテーションであるミハイルは、この状況に初遭遇で、二人の間でオロオロするばかりだった。

「とにかくコンドミニアムに帰れ。執事がいるだろ、そいつに優しく舐めてもらえ」

「僕は君に舐めてもらいたいのっ!」

「おまえなっ…」

 声が大きくなったところで抑えた。どこにいるのか、思い出したのだ。部屋のあちこちで笑いが聞こえた。

 軽い咳払いを一つすると、ベッドのポケットに入ったカルテを取った。それに薬品名をもっともらしく記入すると、近くにいたナースに手渡す。彼女も笑っていたが、りく也と目が合うと唇を結んだ。

「アスコルビン酸、出しといてやる。それを薬局でもらって、さっさと帰れ」

「アスコルビン酸って?」

「ソコロフ君、説明して差し上げなさい」

 突然、話を振られたミハイルはすぐには言葉が出なかったが、不機嫌なレジデントが指導医の目に戻っているので、

「ビタミンCです。ビタミンCは皮膚や腱、骨や血管にある繊維成分の生成にかかわっています」

と、慌てて教科書通りの説明を吐き出した。その答えがあまり指導医の意に沿わないと察したらしく、しどろもどろに続けるが、

「つまり、そのう…、スキン・サイクルを促進させて、そのう…」

変にプレッシャーがかかり、上手く言葉が続かなかった。

「新しい皮がちゃっちゃっと出来るように、助ける効果があるってことだ。おまえのは皮が削れた程度、傷じゃない。わかったかっ」

りく也はミハイルに助け舟を出すと、ドアに向かった。

「君は本当に怒りっぽいな。どうしてそんな君が愛しいのか、自分で自分の心の広さに感心するよ」

 後ろでまだ何かユアンが叫んでいたが、彼のたわごとには無視を決め込むことにしているりく也は、「言ってろ」と吐き捨ててドアを押し開けた。




 午後十一時四十五分、その日最後と思われる担当患者のカルテをボックスに放り込み、りく也はドクター用の休憩室に戻った。

 オフは翌朝の六時で、それまでを入れると連続勤務は三十六時間になる。年間四万ドル弱の報酬では、ほとんどボランティアと言っていい仕事だ、レジデントは。ようやく慣れたとは言え、初志貫徹して精神科を取れば良かったと、時折思うりく也であった。

「お疲れ」

 同じく連続勤務時間更新確実のジェフリーが、ソファに寝そべったまま手を振った。りく也は冷蔵庫からミネラル・ウォーターを取り出し、向かいの席に座る。

 ジェフリーはノロノロと起き上がって、大きく伸びをした。

「ミーシャが驚いてたぜ。Dr.ナカハラの流暢なスラング」

 第二診療エリアでの経緯をミハイルが話したらしい。

「あいつにはあれで十分さ」

「相変わらず冷たいねぇ」

 リクヤ・ナカハラは医学生実習の頃から、明るく人当たりの良さで知られている。仕事関連で無理難題を押し付けられても嫌な顔をしないし、医学生の失敗にも怒鳴ったことはなかった。どんな患者に対しても変わらず親身で、容態が気になる場合には時間外も厭わない。

 しかしユアン・グリフィスに対しては少し違っていて、冷たいと言われても仕方が無いほど素気無いのだ。

「真面目に相手したら疲れるだけだ。なんなら変わってくれてもいいんだぞ、毎回、毎回、人に押し付けやがって」

「彼は君目当てに来てるんだから、それは無理ってもんさ」

 コーヒー・メーカーの傍に行って、ジェフリーは顔をしかめる。ポットは空でフィルターの中も乾いていた。「ちっ」と舌打ちして、ごみ箱にペーパーを捨てた。新しいペーパーを付けてコーヒーパウダーの缶を開けたところで、再度、舌打ちする。

「まったく、使ったら補給しとけっての」

 空っぽの缶の中を見せる。りく也は肩を竦めた。ジェフリーは仕方なく冷蔵庫を開け、りく也同様、ミネラル・ウォーターのペットボトルを取り出した。

「でも何だかんだ言って、リックも面倒見いいよな? たいてい口喧嘩してるけどさ」

「まあね、ストレス解消ってとこかな。あいつと言い合いすると、スッキリするんだ」

「報われないな、黄金のグリフィンも。花に食い物に、さんざん貢いでるって言うのに」

「人聞き悪いな。勝手に送って来るんだ。こっちは頼んでないぞ」

「ますます報われない。こんなにつれなくて、柔らかくもなく、抱き心地悪そうなのに、彼は君のどこに欲情するのかな?」

「知るもんか」

「つれなくするから余計に征服欲をそそるんだろ? 一度くらい相手してやったらどうだい?」

「他人事だと思って無責任なこと言うなよ、ジェフ。それに君に勝たしてやるつもりはないからな」

 りく也とユアンをネタに病院中が賭けをしていることは知っていた。つまり、りく也がユアンに落ちるかどうか。デート止まりとベッドイン、そしてユアンに全く望み無しの三点で、半年ごとに期限を切る。りく也のヘテロぶりにベッドインはいつの時も一番賭ける人間が少なかった。 ジェフリーは大穴狙いで、常にベッドインに一点賭けだ。

 ドアが開いて、ミハイルが入って来た。ジェフリーが「オフか?」と尋ねると、力なく頷いた。マクレインのローテーションでは、医学生の拘束時間は基本的に九時から十八時で、これに週二回の夜間研修を入れる。あくまでも『基本的』であって、E.R.では応用されるのがしばしばだった。つまり医学生であっても時間外はあたりまえ。レジデントよりはマシと言う程度だ。だからここでのローテーションは不評だった。

 ミハイルはさっきのジェフリー同様、コーヒー・メーカーに近寄り、そして落胆した。コーヒーはあきらめてロッカーに足を向け、それから思い出したような表情で、りく也に向き直った。

「前にリッチなキャンピングカーが停まっていましたよ」

「キャンピングカー?」

 と聞き返したりく也だったが、誰の所有車かはわかっていた。ジェフリーはニヤニヤ笑っている。その時、ドアがまた開いて、今度は看護師長のマーガレットが顔を覗かせた。

「ナカハラ先生、あのキャンピングカー、何とかしてよ。邪魔ったらないわ」

 彼女もよく知ったもので、りく也を名指しである。

 大きく息を吐いて、りく也は腰を上げた。




 車のボディを手のひらでバンバンと叩くと、側面のドアが自動的に開いた。ほどなく見知った男が現れ、ステップから降り立つ。すぐ脇の街灯がブロンドの髪と青い瞳を黄色く染めた。

「ここに車を停めるな。緊急車両の邪魔になる」

 180センチのりく也を越す長身のユアンが、目の前に立った。

「車が来たらその辺を一回りするつもりだったよ。食事は済んだのかい? 差し入れを持って来たから、乗りたまえよ」

 彼の言葉が合図のように、車の中で物音がした。コンソメ・スープの匂いが漂ってくる。ケータリング・サービスでも連れて来ているのだろう。

「勤務中だ。とにかくこのでかい車を早くどけろ」

「君と会うのは半年ぶりだけれど、相変わらずつれないね。僕は会いたくてたまらなかったのに」

 手がりく也の頬に伸びる。それをやんわりと掃った。

「ドイツのチェリストはどうしたんだ? ヨーロッパで一緒だったんだろう?」

「彼とは別れたよ。お互い、ツアー中だけの割り切った関係だったから。少しは気にしてくれていた?」

 りく也はあきれたようにユアンを見る。彼は笑顔を作った。男でも女でもたちまち虜にする笑顔だ。今まで効果がなかったのはりく也とその兄の中原さく也ぐらいだろう。

 会うたびに口げんかになるし、素気無く接するにも関わらず、ユアンは不屈だった。ジェフリーが言ったように、つれなくするので意地になっているのかも知れない。それに、遂に叶わなかった恋の幻影を、りく也の中に見ているとも考えられる。その「叶わなかった恋の幻影」は双子の兄・さく也だった。双子とは言っても二卵性で、それぞれ両親に似たため背格好・面差しは似ていない。育った環境が違うため性格も違うのだが。

「いい加減に学習しろ」

「これが僕の愛の表現だもの。とにかく、少し食べたらどうだい? 君のことだから、どうせジャンク・フードしか食べていないだろう?」

 誘おうとするドアの中にコックの制服を来た男とギャルソンの格好をした男が見え、りく也と目が合うと笑顔を作って会釈した。身なりや所作を見るに金持ち御用達のケータリング・サービスだとわかる。料理もサーブも三ツ星並みだろう。ユアンは愛の為に金を惜しまない。それだけの財力もあるのだが嫌味がないのは、育ちが良く使い方が自然でスマートだからだ。

 ユアンは再度、りく也を促した。

「俺一人、食べるわけにはいかないから、良ければみんなで食いたい」

 彼が想像した通り、連続勤務記録更新中のりく也はろくに食事を取っていなかった。それは昨日今日勤務しているスタッフも同様である。

「いいとも。運ばせるよ」

 ユアンは嬉しそうに言った。りく也が彼の好意に応えることは極めて稀だった。その気が変わらないうちにと、中の男達に料理を運ぶように指示した。

「おまえも一緒に食ってったらどうだ?」

「いいのかい?」

「忙しくなったら、帰れよ」

 歩き出すりく也の隣に彼は並んだ。長い腕が肩に回ってくるのを感じたりく也は、少し歩速を上げた。すかさずユアンも速めて横に並ぶ。それの繰り返し、二人は競歩並みの早歩きで搬入口に向っていた。

 りく也はいつの間にか笑っている自分に気づく。肩を並べて歩き、その上に笑顔でE.R.に戻ろうものなら、格好の話題になるだろう。だからキュッと唇を結んだ。先に帰り着こうと、りく也はダッシュをかけた。

 入り口で帰途に就くミハイルと会った。

「ミーシャ、君も食べて行けば? ごちそうが後ろから来るぞ」

 ワゴンに鍋を乗せて追って来るのを指差し誘った。「帰りの電車が無くなる」と残念そうに断る疲れた医学生に、「帰りは彼が送ってくれるさ」と続けた。

 微かな風に乗って美味そうな匂いが漂ってくる。遠慮がちにミハイルはユアンを見た。彼も一日、食事出来なかった口なので、りく也の誘いは魅力的に違いない。ただユアン・グリフィスの車で送ってもらうと言う事が、躊躇させるのだろう。

「遠慮しないで。僕の愛しい人の頼みだもの、喜んで送らせてもら…」

 ユアンの言葉の途中で、その頬にりく也の右ストレートが軽く当たる。まったく、臆面もなくよくも歯が浮きそうな言葉が出るものだ――りく也がねめつけると、ユアンは痛くも無い頬を擦って見せた。

「と言ってる。だから、おいで」

 彼の表情など構わずに、りく也は医学生を伴って中に入ろうとする。ユアンはため息をついて首を振り、そして言った。

「僕の恋人は照れ屋で困る」

 りく也が再度、ストレートを繰り出したのは言うまでもない。




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