[ⅩⅥ]そして混沌へ②
「危なっかしいやつめ。ほぅら、言わんこっちゃない。俺がいないと真っ逆さまだぞ」
「誇張はよせ。落っこちたところで、死にはすまいて」
リージュは指先で下方を示唆した。
怒濤の勢いで水が流れている。地下水脈かもしれない。
「いやいや、おまえにとって水は大敵だろ。拭き残しがあるとサビの原因になるからって風呂に入ったあと、入念にタオルわしゃわしゃをせがむのは、どこの誰だっけな」
「おぬしが女体に興味津々オーラを醸しているから、体を拭う名誉を与えたまで。水分を払うくらい、我一人でできるわい」
「おまえの目は節穴だな。俺は幼女の凹凸ないぺったんこボディに、断じてムラムラきませんよーだ」
「かわいくないの。バチが当たるぞ」
「当たるわけ……痛っ」
脚のつけ根に焼けるような疼痛が走った。エニシは断じて痔主ではない。首だけ回して背後を確認すると、子狼が臀部の辺りをかじっている。
「よせ。俺のケツはジューシーじゃないぞ」
エニシが手で追い払おうとするも、焼け石に水だった。狼は一層あごに力をこめ、牙を食いこませる。
しかも間が悪いことに、増援がきた。もう一匹が忍び寄り、リージュを支えていない側の二の腕に噛みつく。
「じゃれつくなよ。あとでたっぷり遊んでやるから」
エニシのウイットに富んだ制止など届くはずもなく、二匹の噛み噛みデュエットは、いっこうに収まらない。
「エニシ、手を離せ」
リージュがしおらしいことを言う。
「こんなことで音を上げるのかよ。女傑のおまえらしくもない」
「狼たちのエサになりたいなら、我は止めないが」
「なりたいわけあるか。でもおまえは水没したあと、どうするんだ」
「さあな。ひとまず上陸可能なめぼしい岸を探し、そのあとでおぬしと合流する」
「のんきなことを。岸があるかどうかすら、不透明な情勢だろ」
「だったらどうするというのだ。我を支え続ければ、ジリ貧だぞ。消耗して狼どもの餌食となるか。一か八か我とたもとを分かち、獣を撃退するか。結末はエニシが選べ」
リージュの分析は正しいだろう。絶体絶命と言わないまでも、打つ手はない。万事休すのまま根比べをすれば、勝算は等比級数的に低下する。
「俺はどっちも、選ばない!」
エニシの大音声に、狼たちはたじろいだらしい。噛む力が衰えた。
「我との別離が名残惜しいか。そこまでおぬしに溺愛されておるとは、思わなんだ」
「茶化すな。俺は好き嫌いで踏ん張っているわけじゃない。自分の身を守るためだ」
「矛盾よのう。おぬしは我に拘泥するたび、肉片を削り取られていくのだぞ」
「俺がおまえを救おうとするのは、俺のためだと言ったろう。リージュがいなくなったら、戦力大幅ダウンだ。たとえここを乗り切れても、ややもすれば進退窮まって四苦八苦する。身動き取れなくなってゲームオーバーだろう。おまえと一緒にいるほうが、俺の生存率が増すんだよ。だからこだわっている。何か文句あるか」
まくし立てるエニシに、リージュは面食らったようだ。ため息をつく。
「我を左右に揺らせ」
「なぜだ」
「間もなく判明する。おぬしは我の言う通りにすればよい」
「立場が逆じゃないか。俺が頭脳労働担当のはずだが」
「そんな役割分担した覚えはないな。我が合図したら手を離せ」
エニシは逡巡したものの、リージュの言葉に従うことにした。彼女を信じるほか、活路を見いだせなかったから。
「どうなっても知らないぞ」
「我には未来が見えている。愚鈍なおぬしと違ってな」
エセ予言者め。未来視なんてのが可能なら、落とし穴にはまるなよ。エニシは視線だけで不満の意を表明した。
「まったく、熱烈に愛されすぎるのも考えものだな。我の体がもたんわ」
何を邪推したのか、振り子運動するリージュがおどけた。
「いーや。おまえのほうが俺にベタぼれだろ」
「うぬぼれるのも、ほどほどにせい。男の嫉妬ほど、見苦しいものはないぞ」
なにをっ、とエニシが反発しかけたところでリージュが目配せする。
「今だ。腕を外せ」
胸のうちで「ええい、ままよ」と叫んだエニシは、腕をほどく。
「ほっ、ほっ、ほっ」
リズミカルなかけ声とともに、リージュが壁を蹴りつつ上昇する。連続三角跳びだ。最初の足場確保及び、勢いづかせるためエニシに振り子運動させたらしい。
リージュがエニシの頭部を飛び越え、ムーンサルトを決める。宙返りからの狼二匹を急襲。死角をつかれた獣たちになすすべはなかった。リージュの鎌を一太刀ずつ浴び、二匹とも煙のごとくたち消える。
同時にエニシの体を蝕んでいた痛覚も解消した。
「えらくやられたのう。なんぞ、猿の尻みたいになっとるぞ」
エニシはブラッディ・ヒップを記憶にとどめたくなかったので、あえて目を背けた。
「ツバをつけておけば、治るかの」
「おまえまさか、丹念になめて消毒するつもりじゃ」
エニシが見返ると今まさに、リージュが彼の尻に向けて唾液を垂らそうとしている。
エニシは慌てて横に転がった。
「お兄ちゃん、妹の奔放ぶりにがっかりしたよ。唾液に含まれる菌で傷口が化膿したら、どうしてくれる」
「我は実体のない魂を食らう。よってツバといえど清浄だ。というかおぬし、臀部をペロペロして欲しかったのか? んふっ。こわっぱの分際で、ませておるの」
リージュが鬼の首を取ったように挑発してくるので、エニシは取り合わないことにした。これ以上墓穴を掘るのは君子のたしなみじゃない。
¬ ¬ ¬ ¬ ¬
外れ確定なので、一行は落とし穴のないルートへ進むことにした。くだんのトラップ以外、取り立てて仕掛けられたものはなく、散発的に敵が襲ってくるのも相変わらずだ。
加えて一本道。迷う要素もなかった。
エニシたちの連勝記録に待ったをかけるほどの実力者もおらず、開けた空間に差しかかる。かがり火では照らしきれない暗がりで奥行きも体積も曖昧模糊だが、優にテニスコートくらいの面積はあるに違いない。天然でできたものか掘削による人工物か、エニシには判別できなかった。
落とし穴を除いて窮地に陥ることはなく、慢心もあったのだろう。大空洞に入った途端、エニシとリージュは天井から落下してきた網に、まんまとからめ取られた。
「ようこそ、侵入者諸君。見渡す限りの岩場で、存分にもてなしもできないがね」
空洞の奥にいる人物が嘲り混じりに語りかけてくる。
盗賊の頭、なのだろう。左目に眼帯をはめ、浅黒い頬に古傷がある。筋肉はあるほうだけど、中年太りだった。
「手荒い歓迎だな。生真面目に付き合うつもりもないけど」
エニシは網を難なく取り払う。時間稼ぎにもなっていない。やつはいったい何がしたかったのか、不明だ。
「お嬢さんのほうは、オレらの趣向がお気に召したみたいだがな」
盗賊ボスの口ぶりが理解できず、エニシはリージュの様子をうかがった。すると彼女は依然として縄の中にいる。
「どうした、リージュ。まさか居心地いいなんて言わないよな。縛られたい願望があるなんて初耳だぞ」
「マニアックな性癖のおぬしと一緒にするな。我はノーマル美女だ」
「おまえの中で、俺はどんだけ変態仮面だよ。俺が真性だったら、おまえはとっくに慰み者になってるだろ」
「衆人環視でさらっと爆弾発言するところが、おぬしをアブノーマルたらしめる点だ」
なんと。リージュのやつ、俺をはめやがるとは。エニシは舌を巻いた。
「別段緊縛プレイを望んでおらんが、抜けられない。というか、なぜにおぬしは苦もなく脱出できたのか我には見当もつかんな」
リージュはもがいているものの、むしろワンピースに食いこむ縄の数が増えた気もする。セルフ亀甲縛りにするほどのドジっ娘だったのかと、エニシは首をひねった。
「はいはい。手を貸してやるよ。これで人命を限定搾取する件、帳消しだからな」
「艱難辛苦につけこみおって。火事場泥棒め」
それが救援を求める側のセリフですかね。エニシは微苦笑する。
「って、あれ? ちっとも外れないぞ」
リージュの肢体に絡まる網は、隙間なく密着していた。
さながらメロンちゃんだ。たわわなバストの比喩じゃなく、網模様になぞらえたわけだが。エニシがしばし現実逃避しても、リージュの衣服から縄の除去がおぼつかない。
「言いそびれたが、特殊素材でね。網には磁力を帯びた繊維をふんだんに仕込んである。紐状の磁石という寸法さ」
盗賊の首魁が口を挟んできた。