3話 日記帳
何か自分の性別だけではなく、結の性格も少し変わった様な気がする。
だが、結に対する不信感はいつの間にか無くなっていた。
俺の手をしっかり握って前を歩く結が、今はとても頼もしく見える。
学園の制服を着たままの結に連れられ、駅近くの集合店舗施設まで来た。
すると何やら視線を感じて、なんとなく辺りを見渡してみた。
町ゆく人の視線が、結に集中している。
やっぱり……。
この光景は、前にも見た事がある。
学園へ入学する以前の中学時代の記憶。
学園をズル休みしている生徒に向けられている視線と全く同じ視線だ。
それはそう、俺が通う学園はこの辺りでは有名な進学校。
平日午前中に外を歩いている事自体おかしい。
特徴的な制服も相まって、注目度はかなり高い。
しかも今は買い物中。
不良少女なんて思われてたりしてないか?
「まずいんじゃないか?」
結の腕をそっと引いて耳元で囁いた。
「平気平気♪」
俺の心配をよそに、結は全然ブレていない。
いつもの結だ。
「こっち、ここ入ってみよ」
着いたのは女性下着を多く展示している店舗。
中に入ると、頼んでもないのに下着は結が選んで持ってきてくれる。
「どう? これなんかいいんじゃない?」
「……分かんないから結選んで」
解らないものは解らない。
だいたい、女性下着事態、母親が家を出て行ってからは家に置いてあるはずもない。
ブラジャーはあんな感じで……、パンツはくしゃっとしたイメージ。それが関の山だ。
そんなやり取りを何度か繰り返して下着が決まると、
「優、試着室で待ってて。服とか持ってくるから!」
「えっ? ちょっと!」
……なんかすごく張り切ってる。
カーテンの中で待つ俺に、結はスカートや上着など色々探して持って来てくれる。
まるで着せ替え人形の様に何度も服を着替えるが、男だった時には笑ってしまうほどの可愛い服を着て鏡を見るたび、頬が熱くなるのを感じた。
鏡に映る女の自分が信じられないほど可愛かったからである。
「優。ちょっと可愛すぎない? びっくりだよ」
結も可愛い服を着ている俺を見て、まるで自分の様に褒めてくれる。
「あぁ……あ、ありがと……」
三大美少女と言われている結にさらりと言われて、体は強張りさらに緊張する。
変な感じだ……これが女の子の感情なのだろうか。
男だった時には感じた事のない感情だ。
ん……男だった?
この女の子の体を受け入れてしまいそうな自分に、少しの恐怖と嫌悪感を感じた。
その後、色々と買った店舗から出て少し休憩。
モールの中心にある大きな振り子時計を見ると時刻は昼前、午前11時。
集合店舗施設を出てコンビニに寄り、歩いて家の前まで来ると結が何かを思いついた様に「あ!」っと空を見上げ、こちらに向きなおった。
「ちょっと家の中で待ってて」
「ん?」
すると持っていた紙袋を俺に預けて続けて、
「すぐ戻るから。家の中でまってて!」
そのまま上り坂を上へと走ってゆく。
一人にされる不安。
家に入らないで結を見ていると、急ぐように自分の家の中へと入っていった。
結の両親は共働きで昼間は家にいないらしい。
家の中で待てと言われた事を思い出し、財布の中から鍵を出して言われた通り玄関の扉を開ける。
ビーチサンダルを掃い落す様に脱いで廊下に足をつけると、照明が消された廊下はまるでお化け屋敷の様に感じる。
突然女にされた不安。
さっきまでいた結がいない不安。
一人で住んでいた当たり前の空間が今、何よりも怖く感じる。
足早でリビングへ入って、買ったばかりの服が入った両手の紙袋を床に落とす様に置いた。
テーブル横の椅子に腰かけ、今手放したばかりの紙袋を見て思った。
何してんだ俺……。
自分が何故女の服を買っていたのかも分からないでいた。
心を空にして鏡の前に立つ。
目の前には結の服を着た知らない女の子が難しい顔をして立っている。
誰だよお前……。
現実を再確認して、また椅子に座った。
しばらくすると、ガチャっと玄関から扉が開く音。
「ただいま!」
自分の今の心境とは正反対の明るい声。
「あっ、優ちゃんと脱いだサンダル直さないと。靴は買ったし、あまり履く事ないでしょ?」
玄関から聞こえるお叱り。
何も考えないで返答する。
「いいよそのままで。後でするから」
「いい訳ないよっ、もう……」
呆れた声が返ってくる。
結は無造作に脱ぎ捨てられたサンダルを拾って靴駄箱の中にしまってくれているようだ。
靴を脱いで中に入ると、結はテーブルにダラーっと全身をあずけるようにして椅子に座っている俺に気付いた。目が合う。
「……疲れてるの?」
「別に……何でもない」
テーブルに伏せたまま、結の顔を見ずに答える。
するとトンっとテーブルに響く振動。
何気なく顔を上げてみると、結が家から持ってきたのか、新しい紙袋。
「なにこれ……」
「中見て」
のそっと状態を上げ、手を伸ばして中を確認すると、見慣れたチェック柄が目に入る。
あれ? これって……。
「着てみて」
「え……もしかして」
「いいから着てみて!」
紙袋の中には、学園の女子の制服が入っていた。
「これ……もしかして行けってこと?」
「転校生で入ればいいんじゃない?」と明るい声で言う結に対して、俺の表情は変わらず。
何考えてんだ?
そんな事出来る訳がない。
「ふざけてんの?」
「え? ふざける訳ないじゃん。本気だけど?」
あっけらかんな表情で言う結。
だがその表情は、幼馴染の俺には作っている様にも思えた。
「転校生って……申請とかどうやるんだよ」
「あたしが親の代わりになって電話してあげる」
「そんなんで大丈夫か?」
テーブルに肘をついて結の表情を窺いながら言うと、結はにっこり笑って俺の顔を見つめながら言った。
「ま~なんとかなるんじゃない?」
お気楽なのか?
それとも……。
幼馴染だけど分からない事もある。
結の心の中を覗いてみたい……と本気で思う。
だがこれまでの結と同じ様な発言。
もしお気楽モードなら、それはそれで凄い才能なのかもしれない……。
つまりはカリスマ的な?
いや、違うな。
ただ、深く考えていないだけなのか……。
そんな事を考えていると、結はテーブルの反対側の椅子に座り、こちらを見ながら、
「書類とかあれば、優が書けばいいじゃん。優のお母さん、いま日本にいないんだし」
日本にいないんだし……か。
まあ、嘘ではない。
嘘というより真実だ。
だが、それとこれとは話が違う。
「それはそうなんだけど……」
「大丈夫! ちゃんとそこも考えてるから♪」
ちゃんと考えてる?
それこそ嘘だろ……。
思っているが、結独特の明るい性格。
その性格に徐々に不安な気持ちは薄れていき、結のペースに巻き込まれてゆく。
「でも同じ名前で行く訳にはいかないだろ。名前変えなきゃ」
「名字だけ変えればいいんじゃない? 優は優のままで」
ここまできたら、頼もしいっていうより無鉄砲だな……。
「今が高梨優だから……山梨優とか?」
「適当につけてんじゃねえよ」
「じゃあ山口優……広島優。岡山優?」
「都道府県全部言うつもりかぁ? 全部却下」
「じゃあ……桐嶋……桐嶋優! これいいよね!」
「……どっから出てきたんだよ。ん~まあ、変じゃないし、それでいいよ」
はあ……と溜息が漏れる。
何してんだ俺……。
「ってかもう、転校生で話進んでねえか?」
「じゃあ今日から高梨優改め、桐嶋優ね!」
俺の話、全然聞いてねぇな……。
椅子に座って、テーブルに手をつきながら笑顔で話す結。
その笑顔はどこから見ても本物だった。
優の為にも学園へ登校してほしい。
そんな気持ちが伝わってくる笑顔。
「桐嶋優。桐嶋優。うん♪ 桐嶋優って良い名前だよね♪」
名前を覚える為か、桐嶋優を連呼する結。
そんな結を見ていると、微かに澱んでいた不信感も薄れてゆく。
「もういいよ。それより飯食べよ」
「あ~、命名されたんだから、もっと喜んでもいいんじゃない?」
「……食べないなら、先に食べるぞ」
「あっ、食べる!」
集合店舗施設の帰りにコンビニで買った弁当を紙袋から出し、レンジでチンして二人で食べる。
結が買ったのは小さなそぼろ弁当。俺は唐揚げ弁当。
「あっ、優、唐揚げ1個ちょうだい」
「ん……取っていいよ」
「ありがと」と唐揚げを取って、ぱくっと口に入れて、「ごめん優 もう1個……」
「……いいよ」
「ありがと!」と、もう一つ取って口に入れて、「ねえ優……」
「お前……食べたいんなら買えばよかったんじゃねえの……」
「うっ、あはは……なんか見栄張っちゃって……」
ちっさい弁当買って、何が見栄だよ……。
女の子アピールか……まあ、いいけど。
「あと2個あるから1個取っていいよ」
「えっ、いいの?」
「食べないんなら食べるぞ」
「ありがと♪」
また、はぁ……とでる溜息。
先に弁当を食べ終わった結は、集合店舗施設の紙袋を漁って買ったばかりの下着のタグや値札をハサミで切っていった。
テーブルの上に、下着や服が積まれてゆく。
何してんだか俺は。
男が女になっちゃったんだぞ?
こんなことは有り得ないことぐらい、俺にだって分かる。
世間でいう、怪奇現象そのものだ。
いや、怪奇現象とは違うか……。
それより、怪奇現象よりも怖い事が今から起こりそうな気がする。
ちょっと下半身がムズムズするのだ。
いわゆる生理現象。
俺は弁当を食べ終わると、結を警戒しながら一言。
「あの……トイレ行きたいんだけど……」
「トイレ? 行ってくればいいじゃん」
結と二人の時に、恐れていた事が起こってしまったっと思っていたが……。
トイレと言っても普通に返された。
考えすぎだったのか? 俺が変なのか……。
結の返事を聞いて、あまり気にする事なくトイレに入る。
俺的には別に女の子の体だからといって興奮している訳ではない。
昨日。結が帰った後、トイレはすでに経験済みである。
変態! とか痴漢! とか言われないか、心配していたのだが……。
シャーっと流れる便器の水。
用を足した後、
内側からトイレのドアを開けると真っ赤な顔をした結がトイレの前に握ったこぶしをピーンと下におろして立っていた。
「ん?」
何かあったのか分からない顔で見ると、
「さ、さっきのはどういう意味……?」
「え?」
「この変態!」
「えええ!」
聞かなければ良かったのか……。
変に聞いたから怒ったのか……わからん。
リビングへ戻ると、機嫌の悪そうな声のまま話し始める。
「それでいつ着替えてくれるの? せっかく持ってきたんだから」
「き、着替えるよ。コーヒー入れるから、その間に」
むぅっとする顔。
ああ……早く着替えたほうがいいな。
蛇口をひねってヤカンに水を入れ、コンロに火をつけて、台所の食器入れから白い洋食器を2個取ってインスタントの瓶に手を伸ばす。
丁寧に蓋を回して外す。
スプーンで粉を入れてお湯を注ぐ。
「あっ、優。あたしコーヒー甘くないと飲めないの」
……早く言えよ。
ん。そういや、結がコーヒー飲んでるところって見たことが無いな。
もう一度砂糖が入った容器を手に取り、スプーンでもう一杯砂糖を入れた。
テーブルに2つの洋食器を置くと、変わりに制服が入っている紙袋と下着類を手に取り。
「着替えてくるから。ちょっとまってて」
「うん♪」
機嫌が直ってる……まあ深く考えないでおこう。
リビングから出て廊下を歩き、洗面台の前で着替える。
ブラウスを脱いで胸に巻いていたラップを剥がし、ブラを胸に当て手を後ろに回すが、後ろのホックが上手くかからない。
買った時に結にどう付けるか指導してもらったのを思い出しながら、なんとかホックを掛けることに成功。
穿いていたチノパンを脱いでパンティーを穿き、紙袋からスカートを取り出して穿いてみる。
次に上着を取って、腕を通してシャツのボタンを留めてゆく。
首元から下2つは留めない。
最後にネクタイを取って首にかけ、しゅるっと巻いて絞めた。
お約束の首元に指を突っ込んで下にぐっと引いて空間を作る。
洗面台の鏡を見ると、学園の服を着た女の子。
ん……慣れるまで……か。
洗面所から出てリビングにいる結に声をかける。
「着てみたけど……どうかな」
「おっ! すごい似合ってるじゃん!」
似合ってるか……なんか複雑な気分。
「こっち来て。全身見てみて」
「ああ……」
リビングの大鏡の前で、制服を着た自分を確かめてみる。
……似合ってる……な。
確認した後、椅子に座って珈琲を一口。
初めて穿くスカートに何故か親近感が湧く。
だがそれと同時に、擦れ合う太ももの感じが気持ち悪い。
「なあ結」
「うん? どうしたの?」
「なんかさ、スカート穿くと、足が寂しいっていうか寒いっていうか……」
「ああ、うちの学園ってスカートがほかの学校より短い気がするもんね」
ん~、そういう事を言ってる訳じゃないんだが……。
「いや、スカート全体の話をしてるんだが」
「スカート? ああ、じゃあストッキングとか履いてみれば?」
「いや……あれなんかトイレとか行くときじゃまっぽそうだし」
「変態……」
「なんでだよ」
すると少し考えた素振りをみせた後、結は集合店舗施設で買った自分の紙袋を漁りながら言った。
「じゃあニーハイ履けば?」
「ニーハイ? 何それ。中国?」
「言うと思った。これだよ」
紙袋から出されたのは、透明のビニール袋に入った靴下の様な物。
何足も入っているかの様に、とても分厚い。
「開けてみて」
「ああ……」
ビニール袋の粘着部分を剥がして中の物を取り出してみると。
一足の靴下?
両手で広げると、信じられないほど長い。
「なんだこれ……」
「履いてみればわかるよ」
言われるがまま椅子に腰かけた状態で足先を通してゆく。
両足を通し終わって立ち上がってみると、股の部分はスースーするが悪くはない。
立ち上がって鏡で確認すると、スカートの裾下に少し太ももが見える程度。
「どう? 気に入った?」
「ああ、まあ全然マシ」
「良かった。あたしに感謝してよね」
言った後、洋食器に口をつけながら続けて、
「それとさっき、学園には連絡しておいたから。来週には行けるよ」
と、笑顔。
「ええ! いつ連絡したんだ⁉」
「さっき優が着替えに行ってる時にね」
「マジか……」
俺の意思とは関係なく、話は転校生で進んでいるようだ。
だが、このままずっと何もしない訳にもいかない。
「それと学生服はちゃんと貰えるから。貰ったらあたしの返してね」
「うん? そういや転校生なのに、いきなり学生服で行くのって変じゃないか?」
「大丈夫♪ あたしのお母さんと桐嶋優のお母さんは知り合いだからって言って、あたしの制服貸してあげる事になってるから」
「お前……意外とあざといな」
「桐嶋優のお母さんって、空想の人だからね♪ あっ! あたしがほんとになってあげよっか♪」
「いい……」
* * * * * * *
「じゃあまた明日ね。家から絶対出ちゃダメだよ」
「分かったよ」
玄関で結を見送る。
時計の針は午後4時前。
だいたいいつも学園から帰るくらいの時間だ。
結に髪形などの指導を受け、なんとなくではあるが、外に出てもおかしくないくらいにはなった。
もう一度、珈琲を入れて2階へと上がる。
部屋に入ると、まだ片付けが終わっていない部屋の中で一際目にうつるものが……。
勉強机の上の『こうかんにっき』と書かれたノート。
洋食器を机に置いて、代わりにノートを手に取りパラパラと捲ってみる。
「うん?」
昨日は見落としていたのか……?
日記帳の中に信じられない事が書いてあった。
『ゆうはおんなのこになりました』という文字と、その上には白いワンピースを着た女の子の様な絵が描いてあったのだ。
幼児が書いたように絵は下手で、字も綺麗じゃない。
その描写も相まって、
クレヨンらしきもので書かれていたそれに、悪寒と恐怖が背中と頭の中を支配してゆく。
「なんだこれ……何がどうなってる……」
恐怖で体が震える。汗が止まらない。
結への不信感がよみがえってくる。
その日は風呂にも入らず結から借りた制服のまま、
何も考える事なくベッドでガタガタと震えながら眠りについた。