1話 悪夢の始まり
天気は晴れ。
見通しの良い、緩やかな下り坂。
後ろから、タッタッタっと聞きなれた音が近づいてくる。
「おっはよ!」
とんっと後ろから肩を叩いてきたのは、幼馴染の矢島結。
俺の通う学園の生徒で、学園三大美少女とみなから呼ばれている。
栗色の髪に前髪はピンで横にさらりと流すように止めていて、後ろ髪は肩より少し長いくらいの女の子。
肌は朝日を浴びてキラキラと輝く水水しい健康的な肌色。
それにパチリと開いた二重から見える大きな瞳。
背は俺の目元辺りか。
可愛いと言えば可愛いが、あまり後先考えず動くタイプ。
その事から、近所ではお転婆娘とも呼ばれている。
「ねえ、今日。本棚届くんでしょ? あたしも手伝うよ」
にっこにこな笑顔で、私は元気だよ的なアピール。
走ってきて早々、いつもこんな感じだ。
「ああ、頼むよ」
いつも同じ感じで接してくるので、美少女と言われてもあまりピンとこない。
「優、それより朝の挨拶は? まだあたし、優からおはようって聞いてないよっ」
またいつもの おはよう返しねだり。
「おはよ……」
俺の名前は高梨優。
私立南山下学園に通う高校2年生の17歳。
いつも適当にセットした髪形で、あまりファッションには興味が無い。
同い年の結とは家が近い事もあって、毎日一緒に登校している。
学園は今歩いている下り坂の先にあって、家からはそう遠くない。
下り坂な為、ここからでもその建物はよく見える。
敷地は広くて奇妙な作り。
校舎は鉄筋コンクリートとレンガを組み合わせて作られているのだが、縦長の横一線に建てられた建物が、間15Mほど開けて2棟並ぶ様に立っている。
校舎と校舎の間には、2階と4階に校舎を繋ぐ通路が設けられているのも特徴的だ。
さらに校舎間の地面の敷地には芝生がびっしりと敷き詰められ、その中央付近には、高さ30Mはあろうかという時計塔が青い空を貫くように建てられている。
初めて真下から見上げた時は、こっちに倒れてくるんじゃないかって心配した。
まあ……ちょっとビビリなんだ。
そのほかにも、学園の敷地内には立派な体育館や学園食堂。
またプール、それに薔薇園、テニスコートなどもあるのだが、どこも広くて初めて学園内に入った時は迷子になったほどだ。
「ねえ優。ネクタイは? 無くしちゃったの?」
俺の顔を下からのぞきこむように見る目線。
心配性な性格も結の特徴。
そんな心配しなくてもいいのだが。
「ズボンのホケットの中だよ。まだ学園まであるだろ?」
ポケットの中に手を突っ込んで、くしゃくしゃになったネクタイを取り出して見せた。
見せないと、ずっと言ってきそうだからな。
「あたしがしてあげよっか。かして!」
なにか張り切った目線を向けてくる。
こういうのは慣れっこだ。結に対してだけだが。
「いいよ、自分でやるから。俺のカバン持ってて」
言うと、左隣でムウっとした顔になりながら、俺のカバンをとってくれる。
黒い学生カバンを二つ持って、やはり不満そうな顔だ。
こんな顔も見慣れている。
俺は襟を立てて、取り出したネクタイを首に掛けた。
しゅるしゅるっと鳴る音。
手慣れた手つきで巻いていると、その手元に視線が。
この視線なんだよな…。
昔からなんだが、いつしか気にもならなくなってしまったんだが、苦手ではある。
なんかじとっていうか、にゅぅっていうか、効果音的な物があるならそんな目だ。
「……なに? 巻き方おかしいか?」
「え? あっ……ううん、なんでもない」
目線に、今気づいたように装うと、何気に遠い方角を向いてため息うぃついている。
まあ、小さい頃からだから気にはしていない。それが彼女の人を見る目なんだろう。
ほかの人を見る目を観察などした事はないが、そんな感じで見ているんだろう。
難しく考える事はない。そう思った方が楽だからそう思っている。
この下り坂を下った先に、俺達が通う学校がある。とは言っても、学校と呼ばれている訳ではなく、学園と呼ばれる学校だ。
その学園は私立ということもあって、制服にはネクタイ。という物が存在する。
サラリーマンが首元に巻くアレだ。
夏もクールビズ化はなく、ネクタイは学園指導のもと、必須のアイテムとなっている。
なので男子生徒は見た目、新米サラリーマンのように見えなくもない。
【学園】とつく辺りから想像できると思うのだが。
学園の制服は、男子は茜色のネクタイに白いシャツ。
ネクタイの下中央には、学園章のマークが刺繍で綺麗に縫われている。
ズボンは濃いグレーと黒のチェック柄パンツ。
そして他の学校とは違った風習がこの学園にはある。
女子。女子の制服にもネクタイが存在するのだ。
男子と同じように、白いシャツに茜色のネクタイ。
ただ、男子のネクタイよりも細くて、色も少しだけ薄い。
もちろん学園章も刺繍されている。
スカートは男子と色が微妙に違い、薄いグレーと濃いグレーのチェック柄フレアスカート。(ギャザースカート)
私立の学校だからなのか。でも、この辺りに住んでいる人の中では常識的な制服なのだ。
「最近ほんと、暑くなってきたな」
ネクタイを首元で締め終わると、窮屈になっている喉とネクタイの結び目に人差し指と中指を結び目に突っ込み、ぐぐっと下に引っ張って首元にこぶしが入るほどの空間を作る。
見た目だらしない様に見えるが、あまり首元を絞めるのが好きではない。
というより、この感じが気に入っている。
「うん。暑くなってきたよね」
結もそれが気に入っている様で、同じように首元に空間を作っている。
シャツも首から下2つまでボタンを外し、止めない様にしている。
それも同じく、結はボタンを外しているが……。
屈んだような姿勢を取られると、胸にどうしても目がいってしまう。
それは俺が健康な男子高校生だからだろう。
性的な意味ではない。けっして。
いや、性的な意味なのだが、幼い頃から慣れ親しんでいる為か、結に対してスケベな想像が湧いてこない。
俺自身がそれほどスケベではないのか、昔から傍にいるから身内のようになっているのか。
いわゆる、特別な刺激のような感情が湧いてこない。
「はいカバン。ってか軽すぎ! 教科書ちゃんと持って帰ってる?」
歩きながら一歩前に出て、俺のカバンを突き出すように返された。
また心配性か……。
何かを察知したらすぐに出てくる。
そんなに心配してて、体に悪いよ? 結さん。
結に持ってもらっていたカバンを受け取って、もう一つの結のカバンを見た。
何入ってんだよ……。
そう思ってしまうほど、結のカバンは膨れている。
「……お前みたいに毎日持って帰ってないよ。てか、何入ってんだよ」
「何入ってるっかって言うのって、女の子には失礼だよっ」
あっそう……。
両手を腰に当てて、怒ってもないのに怒った素振りを見せる。
そして俺が煙たい顔をするのもお見通しな表情だ。
何を考えているかまでは解らないが、大体解ってるって顔だ。
「まあ、俺は復習したい時だけ持って帰るからな。教科書」
「そんなで大丈夫なの? 成績落ちたりしないの?」
「……それ、本気で言ってる? 俺、今のところ、お前より成績上だけど?」
「うっ」
何も考えないで言うからショック受けちゃうんだよ、結さん。
雰囲気で話し合う関係。
ずっと昔から近くにいると、そんな関係になってくる。
「でも優、最近ちゃんと勉強してないでしょ」
「ん。まあな。けど、お前には負けないかな」
俺が言ったことに、クスっと笑顔で笑う結。
なんとなく何を考えてるかは解る。いい幼馴染を持ったな、結。今の笑い方は、心配しつつも呆れも入っている。
ちゃんと学期末が来る頃には、俺の方が成績が上だから安心しなさい。
とは言ったものの、結との成績争いとは関係なく、俺もうかうかしてはいられない。
この学園は美術と音楽が盛んで、特に学園の目玉の美術部は、これまで何人ものプロの絵描きを輩出している。
まあ、俺にとっては美術はまったくの圏外で興味もないのだが、家から一番近かったのがこの学園。
という、なんともありがちな理由で試験を受けてなんとか合格を勝ち取ったのだ。
が、入学後はあまり勉強せず、去年は真剣になった事も無かったので、1年生だった時の成績は下から数えたほうが早かった。
なので2年生になってからは、それなりに勉強している。
それでもこの学園では、平均点をなんとか守るほどの頭脳しかない。
決して、俺が頭が悪いからではない。
むしろ中学生の頃は、クラスで1、2を争うほどであった。
つまり、この辺りの高校と比べてみると偏差値、個人学力が共にとても高いのだ。
「そういやお前。雪比良にノート借りてなかった? うつし終ったら、後で見せてもらっていいか?」
「あ~ごめん。うつす前に返しちゃった。今ちょっと怒ってるんだよね、雪比良に」
返してしまったのか。なら仕方がない。
借りてたことを聞いて狙ってたんだが、そんな事もあるだろう。
そしてその今出て来た名前。雪比良。
学園の正門前で、いつものあいつが待ち構えている。
同じクラスでお調子者の雪比良学。
俺と結の登校にいつも目を光らせている。
生真面目な性格で、大雑把な俺とは違い、シャツのボタンはキチンと上まで止め、ネクタイもサラリーマンの様にキュっと綺麗に絞められている。
髪形にも拘りがある様で、よくは知らないがアシメっていうらしい。
すっと伸びる眉に大きく開いた二重瞼で、背は俺より少し低い位。
一見ハンサムで頭も良く、身なり手ぶりもいいやつなんだが……。
雪比良自身の変わった趣味のおかげで、女子からまったく相手にされず。それどころか、嫌っている者も少なくない。
本人曰く、学園三大美少女をスクープする!っと言っている新聞部の変態野郎だ。
まあ、悪いやつでは無いんだが……。
「矢島さん! 昨日先輩に告られちゃってましたね! で……どうだったの?」
学園の大きな門をバックに駆け寄って来たいつもの光景。
手には手帳とボールペンを握りしめ、目を輝かせている。
「あ~、いつもどおりだよ。断った」
「そっか~、あっ……え~と。これで2年になって4回目だけど、今の心境は?」
「そんなの知らないよっ」
これまたいつもの見慣れた情景だ……。この可笑しなやり取りを何度見ただろうか。
いくら新聞部の取材だからと言って、雪比良にも困ったものだ。
ほかに相手してくれるやつがいないのか?
「先にいくぞ」
「あっ、待って」
愛想つかして先に歩く俺を呼び止める結の声。
いつもの様に流れていく時間。
いつもの廊下。
いつもの教室。
そしていつもの2年1組。
淡々と授業が進んでゆく。
平和だ……。
まあ、平和が一番だな。
一日の全授業があっという間に終わって、放課後。
* * * * * * * *
「それじゃあたし先に帰るね。家帰って着替えたらさ。優の家行くから鍵かしといて」
「ああ、そうだな。先に俺んちで待ってて。たぶんお前が俺の家に着くくらいに届くと思うから」
クイっと近づく結にズボンのポケットから財布を取り出し、中を開けて鍵を取り出した。
それを出された両手の上に、ポンっとのせた。
すると鍵についているリングに指を通してクルクルとまわして、
「ここまでしてくれる子って他にいないよ! もうこの幸せ者♪」
いつもの顔で笑う結。
「ば~か。自分で言うなよ」
俺の返しの言葉を聞いた後、結は元気に走って帰っていった。
喜怒哀楽がはっきりしている。と言っても、怒った姿をほとんど見た事はないが。
その誰にでも元気な姿が、三大美少女と言われているのにも影響しているのだろうか。
それを見て、『可愛い……』とか『結婚するならあんな子が……』とか、そんな言葉をよく耳にする。
ガキの頃から一緒にいる俺としては、何で? と、首をかしげてしまう言葉ばかりだ。
別に結のことを悪く言っている訳ではない。むしろ微笑ましくもある。
幼馴染として、集ってくる悪い虫は掃ってやりたい。
そんな兄貴的な考えが根付いてしまっているからだろうか。
兄貴といっても、俺には兄妹すらいないからよく分からんのだが……。
「さてと……」
何故俺がまだ学園に残っているのかというと、いつもの場所へ行く為だ。
校舎の一番上。屋上がいつもの場所。
ここで毎日のようにある人物と会っている。
別に会って何かをしようとかではないんだけど……。
鉄製の重い扉がギィっと鳴る。
「おぅ、今日は早かったな」
俺の顔を、頭の後ろで腕を組んで寝そべりながら見上げて話す男子生徒。
こいつの名前は佐々木啓太。中学校からの親友で何でも話せるやつ。
服装は学園の制服をきっちり着こなし、髪形も見事にセットされている。
風に靡く短めのウルフカットは好青年の香りを漂わせ、成績は学年トップで男前。
背も俺より高くて、「キリっとした目元がかっこいい!」と、女子の心を鷲掴みにするが、本人はあまり興味が無いようだ。
それに、たまに少し翳を持っている様な感じを見せる事もある。
そのたびにそれがワザと出しているものでは無いと分かる。
何故?と言われても返答しようがない。分かる。なのだ。
親友として付き合っているからだろうか。
その実情は俺自身も分からない。
「今日、前から言ってた本棚が届くんだけど。見にこいよ」
「あぁ……前言ってたやつな。まあまた今度な」
寝そべっている親友の隣に陣取って、俺も青空を見上げるように寝転んだ。
啓太は親友で俺の家の場所も知っているんだが、誘ってもけして家に来る事は無い。
買い物したり、遊びに行く時などに誘ったらついてくるのだが……。
こと、俺の家にはまったく興味をしめさない。
それは中学校の時から続いている。
まあ……別に気にした事など無いが。
屋上でいつも二人で横になって、空を眺めてぼ~っとして。
たまにバカみたいな事を言い合って笑って。
そんな時間が大好きだ。
屋上は、穏やかな風が吹いていて、夏前だというのにそれほど暑くはない。
気を抜くと眠ってしまいそうだ。
「そろそろ帰るわ。結も待ってるし。本の入れ替えとか整理とか、結に手伝ってもらう約束してたから」
「あぁ、気を付けてな」
起き上がって視線を向けると、青空を見つめたまま寝そべって喋る啓太。いつもの事だ。
屋上の扉のノブを掴んで開くと、ぶわっと中から風。
ちょっと長く喋りすぎた。
早く帰らないと……。
学園を出て、家がある方へ早歩きする。
上り坂な為、登校時よりも下校時のほうが時間がかかる。
この辺りは住宅地で、車道を挟んだ歩道が長々と家まで続いている。
軽く息を吐きながら我が家に近づいてくると、2tトラックが家のブロック塀に並んで停まっているのが見えた。
「ちょっと重いですよ」
「平気ですっ」
遠目に、トラックの運転手と結が大きめの段ボール箱を荷台から降ろしているのが見えた。
少し足早に走る。
「おっ! 帰ってきた。あの人が、この家の人!」
俺の事を見つけましたっと言わんばかりに、運転手に話す結。
なんでそんな元気なの……。
あなた今のそれ、重くないの?
結構重そうに見えるんだけど……。
「ごめん。俺が持つよ」
「けっこー重いよ」
結に代わって荷物の片方を両手で支えると、言われたとおり結構重い。
こんなのを持って、笑顔で話すんだからすごい。
「お前、けっこー力あんのな」
「余計な事言わなくていいから! 早くあがって組み立てようよっ」
少し息が切れてる。やはり女の子には重かったようだ。
けど、俺が現れなかったら俺の部屋まで運んでいただろう。結はそういう性格だ。
「気を付けてね」
「うん。ちょっと、前から先導して」
荷物の角をぶつけないように、慎重に進む。
俺の家は小さいながらも二階建て庭付き一軒家だ。
一階は縦長12畳のリビングと3畳ほどの台所。
玄関から続く縦に長い廊下とその先に、トイレと一畳ほどの洗面台スペース。
洗面台の横には年期の入った洗濯機。
そしてその隣には、ちょっとだけ広い風呂場。
二階へは玄関前の階段から上へとあがる。
二階は1階と同じ様な廊下と6畳の部屋が2部屋あって、俺の部屋だけ玄関と道路側に面する無駄に広いベランダがある。
このベランダからは、坂に建てられていることもあって、下の平地が見下ろせる。
ちょっと王様気分になれる。
「あ、ここでいいです」
荷物を俺の部屋に運んで下した後、受け取りのハンコを押す。
今日、帰宅時間に届く事は知っていたので、ハンコは用意していた。
「ありがとうございました」
「どうも」
素っ気ない返事をして運転手は出て行った。
外でトラックのブルルゥゥンという、エンジンがかかる音が聞こえる。
無駄にアクセル踏むなよ。
結を見ると、ベランダの窓を開けて、運ぶ時に体についた埃をパンパンと払い落すとしている。
そしてそのまま部屋に戻って今ある黒本棚に手を伸ばした。
「あたし本棚整理するから、優は新しい本棚組み立てて」
何故本棚を買ったかというと———
「でもさ、優ってほんと白が好きだよね。この本棚以外全部白じゃん。女の子みたい」
そう。
俺の部屋にある家具類はこの黒くて古い本棚を除き、勉強机、タンス、ベッド、カーテンに至るまで全部白なのだ。
薄いピンク色の……いや、白いけど薄いピンク色のクーラーの室内機。
それに白と灰色のシマウマ柄のカーペット以外すべて白で統一されている。
まあ、女の子の部屋と言われても仕方ないが。
でも気に入っている。
「じゃあ、そっち任せていいか?」
打ち合わせなく始めた結を見て、言われたとおり、さっそく新しい本棚の組み立てにはいる。
包まれている段ボールはかなり綺麗に包装されていて気分が良い。
高鳴る気持ちを抑えながら、1枚1枚白い木の板を剥がすように取る。
間にはクッションの為か、薄い緩衝材が綺麗に挟まれている。
いい仕事するね♪
「これはここで……で、こっちはここか……」
簡単至極。新しい本棚の組み立ては簡単で、すぐに出来上がった。
最近の物は素人でも組み立てやすくなっているものだ。
真っ白な本棚と元ある本棚を見比べてみると、大きさは元ある本棚の3分の1ほどの大きさで部屋に丁度いい。
下半分は開き戸になっていて、本以外の物も入れられる。
「組みあがったよ」
「お~っ、早いね。さすが男子!」
結は黒本棚から出した図鑑を選別してビニール紐で括っている。
要らない本を片付ける予定は今日なかったのだが、図鑑系の本は捨てると結に言っていたので、作業はスムーズだ。
その半分以上が一度も見ていない分厚い紙切れ。つまりガラクタだ。
まあ、図鑑をガラクタに分類できるかどうかは、個人個人違うだろう。
作業が進むと、結が床に幾つも重ねられた図鑑を見て言った。
「ねえ、これってお母さんのでしょ? ほんとに捨てちゃっていいの?」
その表情は少し寂しそうだが……。
まあいらねぇし。
「ああいいよ。2年も帰ってきてないし」
俺の母親は昆虫やら魚やらの結構偉い学者らしくて、家を海外で借りてそこで暮らしている。
生活費は毎月決まった金額が俺の銀行口座に振り込まれる。
学者ってのは結構儲かるみたいだ。
その為、俺はあまり母親に親しみを持ったことがない。
そのうえ、父親の顔は一度も見た事がない。
俺が生まれる前に出て行ったきりだ。
もう会う事も無いのだろう。
つまり、俺はこの一軒家に一人で暮らしているのだ。
一人暮らしはもう慣れたし、開放感と優越感も感じる事ができる。
最高な2年間だ。
そしてそれはこれからも続くのだろう。
「よっと」
組み立てた本棚を端によせて、俺も本の整理に取り掛かる。
「何これ」
すると結が、指が入らないほどきつく入った図鑑の隙間から一冊の古いノートを見つけた。
かなり年期の入った古いノートだ。
「こうかん……にっき?」
表紙には、なんとか読めるような字で『こうかんにっき』と、ひらがなで書かれている。
汚いというよりヨレヨレな文字。
交換日記?
記憶にないが……。
「ねえ、これって優が小さかった時のじゃない?」
結は一旦作業をとめて『こうかんにっき』と書かれたノートをペラペラと捲りだした。
少し気になって俺も作業をとめ、覗いてみると、子供用の日記帳の様で、上に絵を描くスペースがあり、下には文字を書くスペース。
行間を隔てる薄い線が印刷されている。
「あれ? これちょっとしか書かれてないよ? ゆうちゃん? ゆいちゃん? あっ、これってあたしと優の交換日記じゃない?」
笑顔で振り向き、まるで同意してほしい言い方。
女子って、そんな言い方するよな……。
ここはちょっと、意地悪じゃないけどスカしておくか。
「うん? 俺、お前とこんな事してたか?」
「ん? ん~覚えてない。って言うか交換日記? なんてしてたっけ」
「してないと思うけどな。これ。どう見ても幼稚園児が書いてるだろ」
「幼稚園? 幼稚園か~、じゃあ分かんないね」
言った後、結は立ち上がって見つけたノートを勉強机の上に置いた。
「捨てちゃっていいよ」
スカしはしたが、俺もそのノートに何の記憶もない。
使わなそうな物は捨てる。がいいだろう。
かさばってくるしな。
「え~、こういうのは取っといたほうがいいよ。それにほとんど何も書かれてないし、なんでも使えるでしょ。メモ帳とか」
俺の顔にやる気が無かったのか、諫める様に言った後、また淡々と作業を続ける結。
でもこの時、何故か胸騒ぎがした。
今しがた発見したこの日記帳に、恐怖と違和感を感じたのだ。
「まあ……それなら使えるかもな……」
結への返事に小声で答えた後、俺は気を紛らわすかの様に図鑑を束ねた紐をきつく縛った。