第七話『火の粉と魔導盾』
エコはあっけにとられていた。
爆発の瞬間、タークはエコの腕を掴み、追手と反対側の窓を破って外に出た。
それと同時に起こった強い衝撃波がエコとタークの体を吹き飛ばし、二人はそのまま空中を数十レーンも飛んで、エコは何も分からないままタークの腕に抱かれて、遠くの草むらに転がっていた。
「ターク、大丈夫? これなんなの? どうしたの?」
いまだエコを包み込むように抱いているタークに話しかけると、タークは急に半身を起こし、家の方を向いた。エコもつられてそちらを向く。そして、――エコの思考は凍りついた。
――――家が無くなっていた。
台所があった部分は跡形もなくなり、土台の残骸と傾いだ柱が辛うじて立っているだけで、壁は崩れて無残な残骸と化している。草地に散らばって燃えているのは、慣れ親しんだ家財道具。エコ達の周りにも何冊かの本や家具類の破片が爆風によって飛び散らかり、ぱちぱちと音を立てて燃えていた。
「爆発の魔法だ……! 追手に見つかった。エコ、逃げるぞ。魔導士もいる。立てるか? 走るんだ!」
早口でそう言ったタークはそのままエコの二の腕を持ち上げ、立ち上がらせようとした。だが、エコの体はその場に縛り付けてあるかのように動かなかった。
エコはタークが何かを言っていることは分かったが、何を言っているのかまでは分からなかった。エコの意識は今完全に、爆散した自分の家にある。
「エコ!」
タークがエコの肩を強く掴み、追手に聞こえないよう小さく絞った声でエコの名を呼びかけても、エコは家のあった場所を凝視したまま全く動こうとしない。まるでエコの周りだけ時間が止まっているかのようだった。長い数秒間の後、エコの震えが手のひら越しにタークに伝わってきた。
「……ぁ……」
「…………あぁ………………ぁ」
「…………ぁ……ぁぁあぁ……! あああぁぁあぁぁああぁああぁああぁああぁあぁああぁあああああ――っ!!!!!!!!!――――――――――――っ!!!!!!」
エコは、自分でも訳が分からないまま、絶叫していた。
悲しいのでも、驚いたのでも、怖いのでもない。ただ、自分でも抑えきれない巨大な何かが口をこじ開けて出てきたかのように、どうしようもなく叫んだ。
どうして家がなくなったのかなど、どうでもいい。
ただ、自分が生まれてから6年間、エコはこの家しか知らなかったのだ。
エコにとってこの家は、これまで生きてきた人生そのものだった。自分の過去の全ての歴史、生活、感情、記憶――――。
エコの活動の履歴が、この小さな家いっぱいに様々な形で凝縮されて詰まっていたのだ。欠けてしまっても使っていた皿の、かすれて薄くなった模様、擦り切れた床板の、浮き彫りになった木目の感触。すすのついた竈、ちびた箒の先……。
そしてエコにとってこの家は、エコと師匠とを繋ぐ、唯一の接点でもあった。それがこんなにも呆気なく無くなるなどと、エコは想像もしていなかった。
(エコは混乱しきっている。守らなくては……!)
タークは目を伏せて、注意深く周囲の様子を窺う。エコの絶叫を聞いた三人の追っ手が、三手に分かれてこちらに迫ってくるのが分かる。
「居やがる居やがる!!」左側からベッチョの声がする。
「タークの野郎は!!」正面に魔導士フィズンが居る。
「あっちの方から聞こえる」右側からは、鷲鼻のクイスがゆっくり近づいてくる。
(多勢に無勢だな。しかし、やるしかない。……エコには傷ひとつつけさせん!)
タークは覚悟を決め、追手の方を向いて立ち上がった。優しく、しかしはっきりとした口調で、エコに呼びかける。
「聞け。あいつらはエコにまで危害を加えない。俺さえやれればいいんだから。やつらは俺に任せ、エコは逃げろ。分かるか?」
エコは固まったまま、反応がない。タークは根気よく呼びかける。
「なあ、逃げろ。走れ。お願いだから聞いてくれ。いいか? 逃げ――」
「違う!!」
否定。
まるで大気を切り裂くような、第二の叫び。そのあまりの鋭さに、すぐ隣に居たタークどころか、追手たちすらも一瞬竦む。
「……わたしは、あいつらを許せない。逃げるなんて出来ない!! ――――タークは右の奴を止めて。あとの二人は、わたしが倒してやる……!」
タークは、エコに何を言われたのかすぐには理解できなかった。訳が分からず、体が固まる。
その間に、エコは行動を開始した。
エコは鋭く駈け出すと、向かって左側、オークの陰から現れた追っ手の一人、ベッチョめがけて突進した。
丁度、ベッチョはオークの根をまたぐのに気をとられて下を向いているところだった。
風を切って飛ぶ矢のように素早く接近したエコは、両腕を眼前に突き出して手のひらに直径30センチレーンほどの水の玉を作り、射出した。
「なあっ、――――ぶほッ!!」
ベッチョの鳩尾に、エコの放った水の玉が勢いよく叩きつけられる。いきなり鈍器でぶん殴られたような衝撃を腹部に受けたベッチョは、たまらず根の上に蹲る。
すると今度はオークの根がタコの足のようにうねり出し、倒れたベッチョに巻き付き、強く締め上げる。
エコが得意とする『グロウ』という魔法は、植物を急速に成長させるばかりか、その成長の仕方もある程度操ることが出来る。
エコはほんの数秒でベッチョを無力化してしまうと、少し先にいるはずのもう一人――――家を爆破した魔導士フィズン――――の方に意識を向けた。
あっという間に仲間が一人拘束されるのを目撃したフィズンは、驚きと緊張で身体を固くした。煙でよく見えないが、あちらにも魔導士がいる!
【王立魔法学院】の落ちこぼれ魔導士であるフィズンは、魔導の基礎は学院で修めたものの、魔導士と戦った経験がほとんど無い。そのため予想だにしなかった魔導士の存在を知ったとたん、思わず体を強張らせてしまった。
よって、フィズンにはオークの陰から飛んできた1発目の水弾は回避できない。
「うわッ――がはっ!」フィズンの身体に水弾がぶつかり、フィズンはもんどりうって倒れた。足元に水が飛び散る。
「いかん、落ち着くぞ、落ち着け!」
フィズンはそう自分に言い聞かせると、素早く膝立ちになって水弾の来た方を向き、呪文を唱える。
間髪入れずオークの陰から2発目の水弾が襲い掛かってきたが、それはフィズンの前方で激しい音を立てて弾け飛んだ。
「なんだ!?」オークの陰にいたエコは思わず声を上げ、更にもう1発水弾を放つ。
「そこか、はぁっ……はっ、はっ……。……ワンパターンだぞ!」
息を弾ませながらフィズンが言い、水弾はまたも同じ場所で飛び散った。フィズンは杖を構え、エコに向かって更に呪文を唱え始める。
エコが好奇心から身を乗り出し、フィズンの前方にじっと目を凝らすと、六芒星の紋章が描かれた厚い板状のガラスのようなものが、水を滴らせてフィズンの前方に浮いているのが見えた。
「あれが師匠の言ってた魔導盾? 『ウォーターシュート』じゃ効かない? ッあぎゃあ!!」
フィズンの杖から走った稲妻がエコに直撃し、エコの全身に著しい痺れが走る。そのすぐ後に続く焼けるような痛みに耐えかね、エコは思わず悲痛な叫び声を上げた。
「エコ!」
エコに言われた通り右側にいたクイスと対峙していたタークは、悲鳴を聞いて思わずエコの方を向いたが、そんな隙をクイスが見逃すはずはなかった。
「きゃえッ!」
クイスの鋭い回し蹴りが、タークの腹をしっかりと捉えた。
「おぶう、グぼっっ」
くぐもった音を立てて、粥状になったタークの胃の中身――さっき食べたばかりの食事――が口から一気に吐き出された。辺りに吐瀉物が跳ね散り、クイスの靴先にもかかる。
クイスはそれを一瞥して舌打ちすると、嘲るように言った。
「きっったねえ奴だなぁーー……。性根も汚物なら、碌なメシも食ってないんじゃないのかァーー?」
語尾を嫌らしく伸ばしながら、クイスが罵る。
「なあ……ん……だってェ…………!?」
その言葉を聞いたタークの額にたちまち幾条もの激情の畝が走り、水色の瞳が怒気を孕んで燃え上がる。
食事を愛するタークにとって、それは絶対に許せない暴言だった。
「うッ!……」
射抜くような視線で睨みつけられたクイスは、本能的に怯え、たじろいだ。
――
エコの形勢は、どんどん悪くなっていた。
エコは魔導盾を作れない。エコの水の魔法『ウォーターシュート』ではフィズンの盾を破ることはできず、逆にフィズンの稲妻の魔法はエコの体を正確に捉えてくる。
ただ射程はそう長くはないらしく、15レーンほど離れると攻撃は止む。エコは直撃を避けるため、慎重に距離をとることしか出来なかった。
あと2、3発稲妻を食らったら、意識が飛んでしまいそうだ。フィズンが杖と魔導盾を構えながらゆっくり歩いてくる。エコは必死に考えていた。
(このままじゃ負ける……。なにか突破口になる魔法を使わないと――。そのためには何とか、部屋にある杖を持ってこなきゃ。杖を取りにいく時間さえあれば――――でも、どうやってその隙を作ろう? …………そうだ!)
「さっきみたいにーーーー!!」
思い立つと、エコはフィズンに向かって両手をかざして次々に水弾を作り、やみくもに発射した。
「何発撃っても破れねえんだよ!!」
フィズンの言った通り水弾は尽く魔導盾に弾かれ、水飛沫となって雨のように辺りに降り注いだ。
それと同時に、エコがオークの後ろから家の焼け跡に向かって走り出す。
目指すのは、エコの部屋へと続く扉。みるみる距離が縮まり、エコはすでに稲妻の有効射程に入っていた。
「今ので目くらましのつもりだったのかよ!」
素早く杖を構えて稲妻を出そうとしたフィズンは、しかしふとためらった。今しがた防いだ水弾の飛沫を浴びて、体が濡れている。まさか、さっきの水弾は感電させようとする狙いがあったのか? 小賢しい!
「だったら氷だろうが!」
フィズンは短い詠唱で鋭く尖った氷を次々に作り、エコの走る先へ何発も放った。
「わあっ!」
エコは氷の鏃を体を落として避けようとしたが、いくつかは躱しきれず肩や腿に裂け傷を負った。
白い肌が裂け、傷口から鮮血が流れる。(……大した傷じゃない!)そして叫んだ。
「……伸びろっ!!」
エコの声が響くと、フィズンの足元から瞬く間にキュウリやトマトがにょきにょきと伸びてフィズンの手足や杖に巻き付き、猛烈な速度で成長するサツマイモやカボチャが地表を覆い尽くす。
「なんだっ!!? この魔法は!! ……このための水撒きか!?」
フィズンが驚き戸惑っている隙に、エコはまだ残っていた台所の奥の扉を開けて、自室へ向かっていた。
「ふんっっ!! おらァ、もう一回言ってみやがれええぇーーーっ!!」
怒号とともに繰り出される拳が、クイスの顔を強かに殴りつける。
既に何十発も殴られたクイスはすっかり戦意を失くし、今では「許して、やめて」と繰り返す事しか出来なかったが、それでもタークの怒りは治まらなかった。
崩れ落ちそうになるクイスの胸倉を片手で掴んで高く吊り上げ、腫れ上がった顔めがけて激しく怒鳴りつける。
「おい、誰が碌なメシ食ってねえって言ったんだ? 誰がッ!! ほら言えよ!!」
「ゆるしてください、やめてください」
「エコの作ったメシがろくなもんじゃねえって言ったんだろ!! 言ってみろ!!」
「ゆるしてください、ゆるしてください。殴らないでください」
「ふざけんなっっ!!」
タークはそのままもう片方の手で首を絞めて、クイスの意識を断った。そうしてやっと少し落ち着きを取り戻すと、エコの戦いの動静を知るべく、姿勢を低くして焼け跡の方に近づいて行った。
タークが物陰から覗くと、キュウリやトマトの蔓まみれになったフィズンが怒りに悶え、羅刹のような形相で聞くに堪えない罵倒の呪文を吐き散らかしていた。
「――糞ボケ女ぁあ~~!! そんなところにケツ巻いて隠れやがって、こんな小細工で俺が止まるとでも思ったのかガキッ!!! 馬鹿がクズがドジが間抜けがっっ!! すぐに爆破してやる、ちっぽけな家ごと粉々だっ!! そんなで隠れたつもりかバカめ! 家ごと吹き飛ばす!! ごあああっ! この、爆撃呪文『バンゴリゾ』を食らって、死ねっ!!!」
「ああっ……!!」
エコは家の中なのか!? タークがそう思う間もなく、先の爆撃を辛うじて逃れていた師匠の部屋やエコの部屋がある一画に、空気が吸い込まれて凝集していく。
タークは、まるで景色が歪むかのような錯覚を覚えた。それとほぼ同時に、凝縮した空気が一気に解き放たれ、生じた激しい爆炎とともに、家が轟音を上げて弾けた。
「おあっ―――――!!!」
爆心地からは離れていたものの、先ほどよりも大きな爆発に巻き込まれたタークは木端の如く跳ね飛ばされ、オークの幹に背中から激突した。
(エコォッ……!!)
この爆発に巻き込まれれば、生きてはいまい……。
なぜエコは家に入ったのか。なぜ逃げなかったのか。いや、違う。なぜ俺はこうなることが分かっていて、エコと一緒に住もうなどと思ったんだ……。
全て今更の事ながら、後悔せずにはいられない。きっと俺は寂しくて。寂しくて一緒に……きっと俺の寂しさがエコを殺したんだ……。
痛みと悲しみで纏まらない頭がそういう結論に辿り着くと、タークの意識に暗い緞帳が下りた。
「ぜひぃーーーっ、はひーーー、ひふーーーーっ、ひーーー、ばあーーーー、ふうーーーっ」
フィズンは、マナの消費に伴う激しい息切れに襲われていた。
『バンゴリゾ』はフィズンの魔法の中でマナ使用量が最も多い魔法だ。
従って、発動の後は使った分のマナを回復しなければならない。マナの回復、リチャージには大量の空気を必要とする。とにかく、今は十分に呼吸をするしかない。
フィズンは膝を折りその上に両手を載せて、懸命に、もがくような呼吸をしていた。その姿はまるで、陸上で溺れているかのように見える。
「がはーーーーっ、ふーーー、ふうーーーー、……ふうぅ~。はあーー」
20秒ほどそうしていただろうか。ようやく呼吸が落ち着いてきた。先ほどの爆発による煙も、風に巻かれて引いてきたようだ。
「ふうっ、ざまあみろ……。はぁ、魔導士は、吹き飛んだか……」フィズンはそう言いながら、ゆっくりと視線を上げた。
すると、足元に生い茂るサツマイモやカボチャの向う側、10レーンほど前方に――――、杖を高くかざした、エコの姿があった。
オーク製の長い杖の先端には、魔力を増幅する青い鉱石がはめ込まれて、ぼんやりと発光している。そしてその杖の先、エコの頭上に視線をやると――――
(なんだありゃ……。あのものすごい炎の塊……!! あれをオレにぶつけようってんじゃ)
「ないだろうなあっ!!!」フィズンはありったけのマナを使って魔導盾を作った。
「フレイム・ロゼットッッ!!!」
エコが吼え、同時に杖を力いっぱい振り下ろす。するとそれより少し遅れて、燃え盛る大火球がフィズン目がけて投げ出された。
(ダメだ、こんなもの食らったら死んじまうっ! あああっ、み、身動きが、とれねぇ……)
フィズンの手足には、依然として夏野菜の蔓が巻き付いている。フィズンにはもう、縦横無尽に絡みついた蔓を引きちぎって逃げる時間は残されていなかった。
(逃げられねえぇっ!!)
フィズンの全身から血の気が引いた。この距離でも、猛烈な熱気がフィズンのもとに押し寄せてくる。もはや魔導盾での防御に、命を賭けるしかない。
「うおおおおおあああああああぁぁぁーーー!!」
「だあああああぁあああぁああぁあぁぁ!!!」
渾身の一撃、決死の魔導盾。互いに命の懸かった最大の魔法に、叫ばずにはいられなかった。
フィズンが全魔力をつぎ込んだ渾身の魔導盾。そこに『フレイム・ロゼット』の火球が触れると、魔導盾は一瞬ももたずに、あっけなく蒸発した。
遮るものが何もなくなると、猛烈な熱波がフィズンの顔面に直撃し、鼻先やまつ毛を焦がす。
「うわああああああああ!! いぃやだぁあぁぁぁぁあああぁーーーー……!!!! ……………………死にたくねえ……っ」
死に瀕したフィズンの叫びが、エコの耳に届いた。