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エコ魔導士  作者: 中村 尽
唯一無二の四編
66/67

第五十八話『迷子』


 タークがいない。


 タークがいない。


 タークがいない……!?


 エコはベッドから跳び起きた。部屋の中を調べる。タークはいないが、荷物などはそのまま置いてあり、何かを持ち出した様子はない。

 胸中に不安という名の霧が立ち込め、いても立ってもいられなくなる。エコは部屋を出て病院中タークを探し回った。


 全ての部屋、トイレ、屋上、うららかな日の差す裏庭。聞き込みもしながら隅々まで調べたが、手がかりさえも見つけられない。 

(タークがどこかへ行ってしまった……?)

 エコがふとそう考えて、じくりと痛む胸に手をやる。すると頭の中に、過ぎし日の師匠との会話が蘇って来た。


『――じゃあエコ、私はちょっと出かけてくるから。……」

『はい師匠! 師匠、どこ行くの?」

『しばらく戻らないよ。長くなるかも知れないけど、忘れずに日記を書きなさい、エコ。帰ってきたら、それを読むから。わかったかね……』

『うん。わかったけど……。師匠、どこに行くの? すぐに帰ってくるんだよね?』

『行ってくるからね……くれぐれも、体を壊さないように……』


 この会話をしたきり、師匠とは一度も会っていない。まさか、タークも……。


(いや……タークが、あのタークがわたしになにも言わずにいなくなるはずなんてない!!)


 エコの膝ががくがくと震え出す。信頼する人に置いていかれた時の記憶が、脳内でとめどなくリフレインする。エコは必死にその可能性を否定しようとしたが、もう遅かった。


 不安の霧はエコの筋肉から力を奪い、エコの周りだけ重力が増したかのような錯覚を与える。

 たまらず、エコはその場に腰を落としてうずくまってしまう。



「あぁっ!!」

 エコは泣き出したい気持ちになりながら、膝に手を突いて無理やり立ち上がった。

 そして不安を振り切るように外へ駆け出す。視界はぼやけ、重心が狂い、そのために何度も何度も転びそうになりながらも、エコは懸命に駆けた。



 今では、エコにも昨日の夜の社長の気持ちが痛いほど理解できた。

 それを「らしくない」と切り捨てた自分自身を恥じながら、エコは社長と一緒にタークとコトホギを探そうと考えた。


 きっと、きっと社長は仕事を放り出してでもエコに協力してくれる……。昨日のことを謝って、一緒にタークとコトホギを探そう! そう考えて、エコは『カララニニア鉱掘業』の社屋を目指してひたすら走った。だが走っても走っても、胸騒ぎが収まらない。




『カララニニア鉱掘業』に着く。枯れた植物が放置された庭には、先日エコが魔法で燃やした建屋がまだ残っていた。

「こんにちは! ……」

 エコが入り口から声をかけたが、社員は誰もエコに気が付かない様子で、忙しく動き回っている。エコは建物の中に入った。中を見回す。


 散らかった机の端で、束になった書類が風にはためいている。半開きになった扉の蝶番が、キイキイと音を立てている。倒れたゴミ箱から、カビたパンの欠片がこぼれている。エコの動悸が激しくなった。


 乱れた呼吸を整えつつ、社内に入ってなんとか顔見知りの社員を捕まえると、闇雲にこう問いただした。


「ごめん、ごめんください! 社長いますか?」

「あ、エコさんじゃないですか! 実は私達も社長のこと探してるんです! エコさん、知りませんか?」


「えっ!!!?」


 瞬間、エコの頭が真っ白になる。社員はこう続けた。


「今朝からどこにもいらっしゃらないんですよ! 今日は大事な取引があるから、遅れないようにって全員に号令出しといて、あの人は……! ま、どーーせどっかで酔いつぶれてるに決まってるんです。また浴びるほどお酒飲んでね……。コトホギさんが居ないと、たちまちこの有様ですよ」


 社員はぷくっと頬を膨らまして怒った。まるで昨日のエコのように、緊迫感のない表情だ。

 エコは口早にこう言った。


「あの、わたし昨日の夜社長に会ったの。でも、とてもこれからお酒を飲むようには見えなかったよ。コトホギを探し回って、大分疲れてるみたいだった」


「はっはっは! 社長はそれぐらいで沈む漢じゃないですよぉ。あの人ったら、どんな状況でもお酒だけは飲めるんですから。……で、ごめんなさい、いいですか? 急ぎで片付けなきゃいけない仕事があるんで、これから出かけるんです。社長見かけたら、我々にも知らせてもらえると助かります!」



 社員は笑い飛ばし、エコにろくな挨拶もせず出ていってしまった。エコは焦る。


「どうしよう……! ああ、きっと社長もタークも、『神隠し』にあってしまったんだ……!」


 このタイミングであの二人が消えた。もはや、『神隠し』以外に考えられなかった。


 ……だとしたら、『神隠し』の原因を突き止めなくてはならない。だが、どうやって?

 他にはあまり知り合いも居ないし、この町にタークや社長ほど頼れる人などいるはずも……



 エコの胸中に不安の霧が再び現れ、エコの重力を強めようとしてくる。


 不安の霧の正体は、不幸の幽霊だ。このままタークがいなくなるかもしれない、自分は見捨てられたのかもしれない。そんなものはあくまで可能性に過ぎないのに、不安に思考を囚われると、身動きが取れなくなる。

 あらゆる行動に可能性はついて回る。走れば転ぶかもしれない。使えば無くすかもしれない。


 行動すれば、良いことも悪いことも起こる可能性がある。だから不幸の幽霊を怖れていては、行動が起こせない。


「あーもー! とにかく、知ってる人全員当たろう! それからだ、それしかない……」


 不安の霧を払うように、エコは叫んだ。


 タークや社長やコトホギの身に、危険が迫っているのかもしれない。『神隠し』の実態が掴めないのならば、掴もうと行動しなければならない。タークがエコの元に戻らないのは、きっと何かの事情があるはずだ。それならば、自分が助けに行かなくてどうする?

 ……そう考えた時、エコは不安の霧を振り払い、勇気を持つことに成功した。



 ――腹は決まった。いつまでも子どものままではいられない。一人でも、いざとなれば目をいっぱいに見開き、辛くても歯を食いしばって、やるときには、やるしかないのだ。



――――



 建物の中に、ドアについたノッカーの音が響く。

 ギザヴェー・タカモゥはその時、大好物のドーナッツを食べていた。


「はあい? おきゃくさん?」

 ドアノブを握り、外にいる誰かに呼びかける。

「こんにちは!」

 そこにあったのは、魔導士エコの顔だった。

「ああ、エコえこちゃんかあ。よくてくれたね」


 エコがまず尋ねたのは、ギザヴェーが運営する『フスコプサロ幼老院』だった。近かったのと、場所を知っている所が他にほとんどなかったという理由からだ。

 もちろんタークについて聞きたいエコだったが、話を急ぎすぎず、礼儀正しく挨拶と社交辞令を交わしてから本題に入った。


「まあ、はいりなよぉ。一緒いっしょドーナッツどーなっつでもべよう」

「お構いなく! わたし、聞きたいことがあって来たんです」

「へえ、一体何いったいなにぃ? ……もしかして!!!」

「え?」


 ギザヴェーが突然大きな声を出したので、エコは驚いてしまう。


フリズンバイナふりずんばいなさんのことかな? 大丈夫だいじょうぶ彼女かのじょ昨晩さくばんしこたまおさけんでぱらってたから、昨日怒きのうおこったことなんか今頃いまごろぜ~んぶわすれてるよお! あははははは」


 ギザヴェーから繰り出された素っ頓狂な答えに気を抜かれつつ、エコは改めて尋ねた。


「実は、タークが――」

「ターク? はあ、誰だいそれ」


 エコの背後から不意に現れたのは、噂をすればフリズンバイナだった。顔色が凄まじく悪い。エコがあたふたしながら返す。


「え、あの、昨日会場にいた……会ったでしょ?」

「あ゛~~、無理、記憶ぅ、飛んでるから……」


 フリズンバイナが、目玉をごろごろさせながら答えた。

 ギザヴェーの言ったとおりらしい。フリズンバイナはいかにも気分がすぐれないと言った様子で、エコのわきを通ってギザヴェーに挨拶した。


「ギザヴェー、邪魔するよ。じゃーね、エコ」

「はいはい。お目当めあての魔導書まどうしょ二階にかい書斎しょさいね。くれぐれも書斎しょさいで、おなか中戻なかもどさないでね?」

「ああ、まだ酒が残ってるからねえ。顔洗ってからにするわ……。井戸借りるよギザヴェー」


 フリズンバイナはそう返事すると、振り返って庭にある井戸で顔を洗い、ふらついた足取りで引き返して来て、そのまま階段を登って二階へと上がった。フリズンバイナの姿が見えなくなってから、

「ぷぷ……。ぱらうとさしものフリズンバイナふりずんばいなさんもああだ。おさけこわいね~、あーたのしいたのしい。で、なんのはなしだっけ?」

「えー……」


 どうも話が思うように運ばない……。ギザヴェーのペースに翻弄されつつ、エコはようやく、したい質問をすることができた。




「うわ、タークたーくさんが『神隠かみかくし』に……!? 大変たいへんじゃないの! ごめん! ぼく、つまらないはなしばっかりして! えーっと、ごめんぼく原因げんいん全然ぜんぜんわからないや。ウチうち施設しせつではだれも『神隠かみかくし』にあってないんだ」


「そうか……いや、いいんです。とにかくアテがなくて、手がかりを集めてるところなの」

「えーとえーとそうだな……ん~、ぼくってるかぎりだと、失踪事件しっそうじけん調しらべてる機関きかんがいくつかあるからおしえたげるよ。ごめん、地図描ちずかくからっててね」


 ギザヴェーがそう言って家の中に引き返した。エコはすることがないので、ふらっと井戸に足を運ぶ。


 直径70センチレーンほどの穴の周囲に転落防止のサクが設けられているその井戸は、木漏れ日が届かないほど深く掘られていた。湿気のある心地よい空気が、静寂の中から上がってくる。エコが小石を落とすと、数秒後に澄んだ水音が聞こえた。


 ここトレログにおいて、井戸がある家は珍しかった。


 内市にはそこら中に清浄な小川が流れているので、たいていの家では川で汲んだ水をそのまま生活用水として使っている。そして生活排水や汚穢おわいが河川を冒さないように、川に流すときには『浄水魔法陣』を描いた排水管を通して排水される仕組みになっていた。


「井戸か。よくこんなもの、掘るよなあ……」


 エコがつぶやき、考えをもとに戻す。


 ――なぜ、タークや社長、コトホギは突然いなくなったのか。


 やはり、『神隠し』以外には考えられない。

 タークが特別な事情もなく突然いなくなるなど、考えられないことだ。タークはいつも自分を気にかけてくれているし、少しでもエコの元を離れるときは、絶対にその旨を伝える。時々土を食べるためにどこかへ行ってしまうことはあったが、それならすぐに戻ってくるはずだ。


 コトホギだって、周りの人になにも告げないで勝手に居なくなるような性格ではない。何度か一緒に食事をしたから分かるが、小さな約束でも呆れるほどきちんと守る女性だ。


 タークとコトホギの間に、大した共通点は見当たらない。また他にも沢山の被害者がいることを考えれば、おそらく『神隠し』の対象は無作為に選ばれているのだろう。


(土を食べに言ったタイミングで誰かに攫われたと考える事はできるけれど……。でもなあ)


 『神隠し』でないとすれば、例の『魔導士による誘拐』はどうだろうか? 疑う余地はあるが、そうだとしても犯行を行っている者の意図が分からないと、タークの置かれている状況も想像しようがない。



「どうしたの?」

 思考の外から突然声をかけられ、エコの意識が一瞬で現実に戻ってきた。急いで声の方を見る。見覚えのある顔。エコの顔が明るくなる。



挿絵(By みてみん)



「エコちゃん。久しぶりだね、いつ以来? あ、たしか森で会って以来だ」

「あっ、ハルナさん! ここに住んでるって、本当だったんだね」


 テンクラ・ハルナ。運が良かった。

 エコの知人の中で、もっとも信頼できる者の一人だ。

 そして、ここを尋ねた一番の理由でもある。ハルナにはどこか、ふつうの人とは違うような雰囲気がある。こういう時には、力強い味方になってくれるような気がしていた。


「あれ、タークさんは一緒じゃないんだね。怪我の調子はどう?」

「それなの。タークが急にいなくなっちゃった。多分、『神隠し』だと思う」

「ええ? タークさんが? ……『神隠し』かぁ。う~ん」

 ハルナが考え込む。さすが、ギザヴェーとは比べ物にならないくらい話が早い。ハルナは数秒考え込むと、すぐに考えをまとめて話しだした。


「私が知ってる範囲での話をするね。まず消えた人の行き先について。『深夜、霧の中を森に向かって人が歩いている』って目撃談が頻繁に出ているわ。例の噂になってる魔導士が誘拐してるって話は、街の行政魔導士の監査が入ってるらしい」


「そうなんだ」

 エコがうなずく。

「全部の結果が出てるわけじゃないけど、魔導士はシロでしょうね。もともと魔導士の人さらいなんて説にはムリがあるわ。たしかに、魔導士の中にはやりかねない人もいるけど……、都市に住んでいると、魔導士だってそう自由に振る舞えないものよ。いくら強権の魔導士とはいえ、都市で市民をいじめて上級導家や王家を敵に回したら一瞬で“お取り潰し”だからね。せっかく充実した生活を送ってるのに、そんなリスクは冒さないよ。実験なら、人体実験用の魔法生物ネメキアを使ったほうがいいしね」


「ネメキアか……」

 エコが【ハロン湖】の一件を思い出して、少し暗くなる。あの時はネメキアを使う、使わないで友達と大喧嘩したのに、やはり蓋を開けてみれば使うことが当たり前なのだ。


「話を戻すよ。『神隠し』については、行政魔導士とかその他の調査機関が動いてる。フィズンにも、『森殿』を調べさせてるわ」

「フィズン。どうして?」

「ええ。例の『ぼ~ん』て『音』があるでしょ? それが『森殿』の中からするもんだから、不気味だって色んな人が言うのよ。『神隠し』とも関係があるんじゃないかって……まあ、不安の種になってるってわけね」

 そこまで聞いた所で、エコが頭を抱えた。

「わからなくなってきた……」

 エコの様子を面白がるようにハルナは更にいくつかの補足情報を加え、笑いながらこう言った。


「私が聞いた話はこれで全部。私の考えでは、『森殿』が一番怪しいわね。夜中に森に入っていく人影を見た人は何人もいるのに、森の中で見つかった人を捕まえても、その理由がわからないのよ。これはもうあからさまに不自然。もしかすると、タークさんも森に入っていったのかもね。でも、目的が分からない。一体どういう事情なのかしら……」


 ハルナがそう話を結ぶ。真剣な面持ちで聞いていたエコが、深々とお礼を言った。

 ハルナは突然真剣な顔になると、エコの両肩を掴んで視線を合わせ、こう伝えた。


「気をつけてね。タークさんがいくら心配でも、それでエコちゃんまで潰れちゃだめだよ。エコちゃんが無理をしたら、タークさんを助ける人がいなくなっちゃうんだからね」

「……うん。ありがとう、ハルナさん」

 エコが力強くうなずいて、そう言った。


「あれえ? エコえこちゃ~ん。どこへったの~?」

「あ」

 玄関の方から、エコを呼ぶギザヴェーの声が聞こえてきた。

「ごめんなさい、ちょっと行ってくるね」

「うん、エコちゃん、またね」

 ハルナに断ってから、エコはギザヴェーの元へ向かう。



「ああいたいた。そっちにいたのかぁ。はいこれ、用意よういできたよ。ごめん、おまたせー」

「ありがとう」


 ギザヴェーがまとめてくれたメモ書きを受け取り、エコはお辞儀した。ギザヴェーはそのまま、地図の説明に入る。


「まずココここ行政魔導局ぎょうせいまどうきょくね。魔導士まどうし監査かんさをやってるよ。つぎここ、ラブらぶゴーレムごーれむ宿屋やどや。なんでも、要請ようせいで『森殿しんでん』の調査ちょうさ委託いたくされてるとか。最後さいご魔法生物監査局まほうせいぶつかんさきょく。あんまり関係かんけいないかもしれないけど、魔法生物まほうせいぶつ侵入検査しんにゅうけんさ境界魔法陣きょうかいまほうじんやぶれた関係かんけいで、失踪事件しっそうじけん原因げんいん関係かんけいあるかもしれないから調しらべてるんだってさ」


「……なんかいっぱいあるね。どこからあたったらいいかな?」

「うーん、ともかく行政魔導局ぎょうせいまどうきょくかな~? 調査結果ちょうさけっか開示かいじされてるはずだよ~」


 ギザヴェーに見送られて、エコは歩き出した。歩きながら地図に目を落とし、先程の話をまとめようと、頭をひねる。


(市の行政魔導局? 監査? ラブ・ゴーレムってなんだっけ……。森殿の調査、イタクってなんだろう。あ~、で、なんちゃら監査局……。ああそうだ、魔法生物、って魔物の監査か。この間、トレログの境界魔法陣が“山”のせいで破れたから……)


「ああもうっ!! 面倒めんどくさい専門用語ばっかりでわけわかんないな。……まーいいや、こんなときには行動、行動」

 エコは再び自分を奮い立たせると、ギザヴェーの地図に従って、まず『市の行政魔導局』とやらに向かってみることにした。



――――


 トレログ市行政魔導局。



「オッケー、ここね」

 エコが内市中央の役所についた時には、ちょうどお昼時になっていた。行政魔導局の中からは、ランチのためと思われる職員たちがぞろぞろ出てくる。そしてエコのことを物珍しそうな目で眺めていた。

“山”を倒したエコの名前と姿はトレログ中に知れ渡っていたが、エコにその自覚はない。


 人目を浴びながら当てずっぽうに中に入り、案内板を辿って受付を見つけると、早速そこに座っているお姉ちゃんに声をかけた。


「すみません、魔導士の監査……をここでやっているって聞いたんですけど」


「はい。魔導士の監査状況ですか? 失礼ですが、お名前と身分の分かる書類等をお持ちでいらっしゃいますか」

 お姉ちゃんの返答。エコはこういう事務的な対応にはじめて出会ったので、面食らってしまう。


「え、あ。エコ……と言う名前です。よろしく」

 エコが挨拶して丁重に頭を下げると、お姉ちゃんは笑いもせずに答えた。


「こちらこそ、宜しくお願いします。大変申し訳ありませんが、身分、目的の明らかにならない方には監査状況などの公的な情報はお伝えできないんです」

「え……そうなんですか……。なんとかなりませんか?」


 エコがしぼむ。受付のお姉ちゃんはそんなエコの様子を見て、眉を寄せ、振り返って後ろを伺う。そうして上司が居ないのを確認してから、エコの方へ身を乗り出して、改めて小声で話しかけてくる。


「ゴメンネ。あなたが噂の、『“山”ごろしのエコ』ちゃんだってことは私だって知ってるけど。でも決まりなのよー。書類審査しなきゃ、受付けられないのよね」

 先程の事務的な口調とは真逆の、打ち解けた口調。どうやらこれがお姉ちゃん本来の喋り方らしい。

(“山”ごろし……? なんだそりゃあ)

 いつの間にかかっこ悪いあだ名が付いたな、などと思いながら、エコはダメもとでもう一回聞いてみようと思った。


「あ、あのう~……実はタークが、一緒に“山”を登ったタークが『神隠し』にあってしまって。自分で調べてみてるんですけど、どこかでこういう相談できるところないですか?」


「そうだねえ……、確かなのは、ここじゃ無理ってことかなぁ。データを見せるにはトレログ市民証、とかがないとダメなんだけど。そういうの、持ってないでしょ?」

「……あ。わたし、トレログ名誉市民になったってこの前聞いたんですけど、それでも無理?」


「ワーオ。でも無理ね。書類を発行したりとか、手続きで今から何週間かかかるから……。うーん、『神隠し』かあ……。確かに市で調査してる案件だけど、実際現場でやってるのはラブ・ゴーレムたちだから……直接聞いてみたら一番早いよ。ふふふ、正直、ここに大した情報は無いのよね」


 身もふたもないことを言って、お姉ちゃんが笑う。

「ラブ・ゴーレムの人たちね。ありがとう。……ところで」

 エコが視線を上げ、お姉ちゃんの背後を見る。そこには……。

「ん~? なにかな?」

「……おじさんが後ろから見てるよ。さっきからずっと……」

「――――!!!」


 お姉ちゃんが恐れているらしきコワモテの上司が、二人の打ち解けた会話をずっと眺めていた。


――――



 次にエコが訪れたのは繁華街にあるゴーレム宿、『ゴーレムハレム』。トレログ内市の特徴である石畳の模様が、四角四面の飾り気のないものに変わっている。


 エコは少し戸惑っていた。ここは、かつて見た『ハロン湖』の売春宿場とは趣がだいぶ異なる。質実剛健、しっかりした無骨な作りの建物が一様に建ち並ぶ姿は、まるで効率化の進んだ工場地帯のようだ。


 派手な色の看板や、客引きの女性、歩く人々の浮かれつつもどこか後ろめたい表情……『ハロン湖』の売春宿場にはそういったある種特異な空気感があったが、ここにそんなものは微塵も感じられない。

 ただただ機能的な建物が慄然と並んでいるだけのその通りに『ゴーレムハレム』の標札を見つける時まで、エコは目的地にたどり着けたか不安だった。

 

「ここで合ってるよね。……ごめんくださーい」

 エコが入り口から声をかける。すぐに、若い娘の外見をしたラブ・ゴーレムが歩いてきた。見た感じは十代中ごろに見える少女。恐らく彼女もラブ・ゴーレムなのだろうが、つややかな三つ編みを上下に揺らしながら歩いてくる姿を見ただけでは、見分けがつかない。

「ようこそ、お客様。……いらっしゃいませ?」



挿絵(By みてみん)



 三つ編みの少女はエコを見てやや怪訝な顔をする。


 昨今、いくら性風俗に対する不信感が和らいだとはいえ、若者は人間同士で付き合う事を望むものだ。

 男であればラブ・ゴーレムにしとねの作法を習うために訪れることは珍しくないにしても、若い女性はほとんどここへ来ない。


「こんにちは。お聞きしたいことがあって来たんですが……」

「あっ、あなたもしかして!『“山”ごろしのエコ』さんじゃないですか? ちょ、ちょっと待っててください!」


 エコが尋ねると、少女はそう言って奥へ引っ込んだ。

(やだな、思ったより定着してるよ……変なあだ名)

 エコが不服に思いながらしばらく待っていると、やがて少女が別の女性を連れて戻ってきた。


「ほらほら、ヒキウス姐さん! 本当にエコさんでしょう?」

「わあっ、エコちゃん! ほんものだ!」


 やって来たのは、“山”で出会ったラブ・ゴーレム、ヒキウスだった。


「あっ、あなたは見覚えがある……“山”にいた人でしょ?」


 エコがそこまで言うと、ヒキウスは満面の笑みを浮かべて、


「久しぶり! 私、ヒキウス! 無事でよかったねえ~~、“山”の頭が崩れた時、とっても心配したんだよー!!」

 と言った。そのままエコに近づき、軽くハグする。


「今日、聞きたいことがあって来たんです。一緒に“山”を登った人が今朝から急に行方が分からなくなってしまったので、探してるんです」

「あ、あの男の人ね? ……ええ! それって、もしかして!『神隠し』にあったってこと??」


 ヒキウスも、ハルナ同様非常に話が早い。エコは、簡潔に経緯を説明した。


「うんうん。私たちはねー、日に何人かずつ、怪しい人を見つけてるよ」

「『森殿』でですか? そんなにいるの?」


 エコが首を傾げる。そんなにすぐ見つかるのなら、事件が解決していても良さそうなものだ。


「うんうん。真夜中にねぇ、まっっくらな中を森の奥に向かって歩いてく人たちがいんの。そういう人を保護してるけど、おかしなことに、みんな普通なの!」

「普通……?」

 エコが眉を寄せた。


「あのね、声をかけると普通に受け答えるし、話が終わればそのまま帰っていくんだわ。とっても怪しいけど普通の人を捕まえる訳にもいかないから、見逃すしかなくて。でも、結局そのあとまた居なくなってしまった人もいるし、困ってるんだよ。彼らがどこに行ったのかは、やっぱり分からない。――『森殿』に何があるのやら」


 ヒキウスはため息をついて、肩の高さまで上げた両手をぱたぱた振った。


 エコにも訳がわからなくなる。どうしても、タークや社長がそんな意味のわからない理由で消えるとは思えなかった。

「じゃ、じゃあ、タークや社長たちも、そうやって『森殿』に行っちゃったのかな……。人に強制されているわけでもないのに……?」

「さあねえ。とにかく行方不明になる人達が一人でも減るようにお客さんがいない日には、毎日見張りするつもりだよ。今日はこれから予約が入ってるけど、明日は行く。エコちゃんもついてくる?」


 ヒキウスがそう言う。エコは暫く考えた。


「……でも、タークは昨日消えたんだから、明日行くんじゃもう遅いかも。どうしよう……」

「じゃあ、気が向いたらおいでよ。……見張りって本当にタイクツなんだよねぇ。来てくれたら私が助かるんだ。あははは! あ、そうだ~! 今夜『森殿』に行ってたお客さん来るけど、会ってみる?」

 エコが驚く。

「え、本当?」


「うん。時間教えとくから、えーっと、こんくらいの時間にまたここに来てくれるかな?」

 ヒキウスは笑顔で、さっと書いたメモをエコに手渡す。示された時間までには、まだかなりの時間があった。

「うん、わかった。ヒキウスさん、後でね」

「じゃね! 次からはヒキウスって呼んで!『“山ごろし”のエコちゃん』!」

 別れの挨拶をするエコに、ヒキウスが笑顔で呼びかける。

「お願いだから、わたしのことも呼び捨てにして……」


 立ち去ろうとしていたエコだったが、振り返ってそう言わずにはいられなかった。


――――


 エコが最後に訪れたのは、『魔法生物監査局』という施設だった。名前から魔法生物に関する施設だとはわかるが、何をする機関かは全くわからない。


 ――とにかく訪ねて、詳細はそれから。


 そう思って、エコは建物の中にいる人にとりあえず声をかけることにした。ひとりの暇そうなおじさんが捕まる。


 ――聞けば、『魔法生物監査局』というのは市街に生息している無害、あるいは有益な魔法生物の観察研究、および人間に危害をもたらす魔法生物の対処法を研究している研究所らしい。

 事務員や用務員などの雑用は一般市民が行うが、研究に携わっている人間は全員魔導士だそうだ。


「なるほど。魔法生物の観察をするお仕事ってことですか」

「そうそう。魔法生物のことは魔法が使える魔導士さまにしか分からないから、我々みたいな一般職はあくまでその補助をするだけで、特別な仕事はないけどね。掃除、研究で出たゴミ捨てとか、書類作成が主な仕事だよ」

「あの、わたし『神隠し』の調査をここの施設でもやっていると聞いたんですけど、魔法生物と『神隠し』にはなにか関係があるんですか?」

 エコが抱いていた疑問をぶつけた。ここまでの話では、『神隠し』と魔法生物の間にはつながりが無いように思える。だが、ギザヴェーは確かに「ここの施設でも調査をしている」と言ったのだ。

 おじさんは頭をひねる。

「うーん、おじさんにはよく分からんがねえ。魔導士さんに聞ければ早いんだけど、アポイントメントを取らないと会えないことになっているから……。君は有名人だから、もしかしたら会ってくれるかもしれないね? 聞いてみようか」

「ありがとう、おじさん」


 エコは手を振っておじさんを見送る。そして、もう一度先程のギザヴェーの話を思い出した。



境界魔法陣きょうかいまほうじんやぶれた関係かんけいで、失踪事件しっそうじけん原因げんいん関係かんけいあるかもしれないから調しらべてるんだってさ』




 ――境界魔法陣。

 街を護る、人間の祈願を具現化した巨大な護符アミュレット。それは、脆弱な人類がこの世界で行きていくために、どうしても必要なものだ。


 現在『トレログ』では、それが半分破れている。街として極めて不安定な状態……。にもかかわらず、『内市』にいるエコにはその事実の深刻さがほとんど伝わってこない。それが怖い。


 噂では『外市』の一部にはすでに魔物が侵入し、家屋や畑ごと焼却される地区も現れているらしい。もちろんそれは対症療法に過ぎず、根本的解決には至らない。一度入ってしまった魔物を完全に駆除することは出来ないので、時間とともに被害が広がり、再び別の地区が焼却される。

 事態の解決には境界魔法陣を元通り構築し直すしかないのだが、“山”による被害範囲が広すぎるせいで、それも完成の目処は立っていない……。


 エコが各所で耳にした話をまとめるとこうなる。全て事実だとすれば、状況は深刻そのものだ。だというのに、『内市』に住む人々はなんら変わらない生活を送っている。それが、怖い。


(どう考えたって、『外市』の人たちが『内市』の人に不満を持たないはずがない。このちぐはぐな関係は何……? トレログという街としては両方一緒、全体でひとつの、運命共同体のはずなのに)


 単純な面積で見れば、『外市』は『内市』の数十倍も広い。そして、そのほとんどが農地だ。

『内市』は食料の供給をほぼ完全に『外市』に依存しており、『内市』には高級食材である肉や乳などの畜産物を生産するための牧場が、幾つかあるに過ぎない。


『外市』の住人は、その状況がどうであれ重い納税の義務を負っている。そして、納税が出来なければ市を追放されるそうだ。


 だから、『外市』の市民は必死になって税を収めようとする。『トレログ市』の外に追い出されれば、凄惨な未来が待っているからだ。トレログ市民になりたいと思っている人間は、外の世界には掃いて捨てるほどいる。『外市』の農民を、トレログ市は惜しまない。


 だが、『外市』が危機的状況に陥っているのなら、『内市』にもその影響が及ばないはずがない。それなのに、『内市』の人間は『外市』に対して本当に無神経なのだ。



(失踪事件の原因に関係がある……って、それこそ『外市』の人たちが『内市』の人たちに報復しようとして……って可能性も、あるんじゃないかなあ。でも、どっちにしても手段が分からなけりゃ……タークを見つけようが無い。やっぱり、『森殿』に行ってみるしか無いのかな)


 エコが思索に耽っていると、おじさんが戻ってきた。頭をかきながら、エコに告げる。

「いやあ、エコちゃん、ごめん。魔導士さま方はみんな外勤だって。局長のアルクンセランさまも、今日は予定があるから会えないって断られちゃった。明日のこの時間なら空いてるそうだけど、アポとっておこうか?」

 エコはうなずき、笑って言った。

「ありがとう、おじさん。うん、じゃあそれでお願いします。今日はこれで帰るから、また明日同じ様な時間に来ます。どうもありがとう!」


 そうお礼を言って踵を返し、エコは再び『ゴーレムハレム』へと向かった。建物の影から出ると、強烈な西日が霧のカーテンを通ってエコの目に入ってくる。エコは、思わず手で光を遮った。


 見れば、地平線に太陽が落ち始めている。『内市』に射す光は、鮮血のような朱色だった。



――――


「ヒキウス! ごめん、遅れた?」

「エコちゃん、大丈夫だった? 迎えに行けばよかったね! それじゃ行こっか。奥の部屋で待ってれば来るよ、もうそろそろ予約の時間だから。セーフセーフ」


 エコが『ゴーレムハレム』に戻ってきた時には、辺りはすっかり暗くなっていた。夕方頃から例の霧が次第に立ち込めだし、街の見通しは一気に悪くなる。危うく、エコも迷うところだった。


 ヒキウスの案内に従って、エコも建物の奥に入った。

 内部は清潔そのもので、ホコリひとつ落ちていない。鏡台や椅子が置かれた控え室を通り過ぎ、扉の並んだ通路に差し掛かる。

 木製の扉が並ぶ通路の奥の部屋は、どうやらお客さんとラブ・ゴーレムが一緒に過ごすための空間らしい。使っていない部屋は扉が開いていて中が窺えたが、ベッドひとつと最低限の家具が置いてある程度の、質素なものだった。しかし、珍しい特徴が一つだけある。出入り口がふたつあるのだ。

 ヒキウスに理由を聞くと、片方はラブ・ゴーレム、もう片方はお客さん用の扉だという。


「お客さん同士が、誰がどのラブ・ゴーレムと会ってるか分からないように扉を分けてるの。ラブ・ゴーレムによって得意なことが違うから、誰に会ってるか分かるとお客さんの性癖までバレかねないから」

「ああ、なるほど。でも、それで行くとわたしがここに居るのもダメなんじゃないの?」

 エコが素直に疑問を呈する。ヒキウスは一瞬考え込み、「エコちゃんなら大丈夫でしょ!」と明るく言った。


 すると、『お客さん側』の部屋の扉が開いた。二人がそちらに向き直る。


「アルクンセランさん、こんにちは~」

(アルクンセラン?)

 ヒキウスがニコニコと屈託なく笑いながら、その長身の男……アルクンセランに向かってひらひら片手を振る。アルクンセランは怪訝な顔をしていた。

「こんにちはヒキウス。……君は?」


「あのね、この子のお兄さんが『神隠し』にあったらしくて、手がかりを探してるんだって。アルクンセランさん、なにか知らないかと思って。紹介するね。こちら、エコちゃん。こちら、アルクンセラン=クレディンゴモンさん」


「アルクンセランさん……って、もしかして魔法生物監査局の……局長さんですか?」

 エコがまさか、と思いながら聞くと、アルクンセランが一瞬黙る。そして観念したように頷こうとした、その前に――


「そうだよ! アルクンセランさんは魔法生物監査局の局長さん。エラいんだよ~。ふつうはアポとらないとお話聞けないんだから。こっちのエコちゃんは、知ってると思うけど“山”を倒した英雄!」

 と、ヒキウスが言った。アルクンセランはなにかを諦めるように鼻息を一つ吐く。


「ヒキウス。事情は分からないが、分かった。……ある種、そういうところがヒキウスのいいところだからな。エコちゃん、さっきは済まなかったな。この約束があったので、明日にしてもらったんだが」

「いいえ、まさかこういうことになるとは思いませんでした。それで、聞きたいことは『神隠し』についてなんですけど」

 エコが一気に本題に入る。

「アルクンセランさんは、『森殿』に脚を運んでいたとヒキウスから聞きました。わたしは、『神隠し』と『森殿』になにか関係があると思っています。どうして『森殿』に行ったのかお聞きしてもいいですか?」


「アルクンセランさんはさぁ、この間の夜、『森殿』の中にいたじゃない。アレってなにしてたの?」

 ヒキウスとエコから同時に質問が飛んでくる。アルクンセランは落ち着いた様子で答えた。


「『神隠し』と『森殿』の関係ね……。うむ。……私が夜『森殿』にいたのは調査のためだよ」


 それから一呼吸おいて、話を継ぐ。


「私は、とある生物の研究をしているんだ。『森殿』の奥には、巨大な洞窟があってね。そこから、最近音がするだろう? ……あれは、私が研究している魔法生物の記述に、そっくりなんだ」

「あの音ですか」

 エコがうなずく。例の、あの重たい音のことだ。ハルナは風の音だと言っていたが……。


「知ってるんだね……あの洞窟は地下水脈と繋がっていて、周囲の高山から湧いた水が溜まり、巨大な地下湖を形成しているらしい。恐らく、そこに……あの『声』の主がいる」

「声の主……正体は分かっているんですか」

「はっきりとはしない。だが少なくとも私は――『シンギュラ・ザッパ』。文献にそういう記述のある魔法生物が、あそこに生息していると推測している」

「シンギュラ・ザッパ……」

 エコが繰り返す。ヒキウスも黙って、話に集中していた。

 アルクンセランは一呼吸置いて、二人の顔を見据えた。


「『シンギュラ・ザッパ』というのは、『ミッグ・フォイル』によって生まれた魔法生物だ。よって、この世にたった一体しかいない。その生態は謎に包まれているが……、産まれてから推定で300年経過していると考えられている」


 アルクンセランが、だんだん饒舌になる。身を乗り出さんばかりにして、二人を交互に見ながら語りつづける。


「文献によると、『シンギュラ・ザッパ』とは、ある魔法生物創造学を専門に研究していた高名な老魔導士が生涯夢想し、ついに産むことの叶わなかった魔法生物――『永遠のサンショウウオ』に近い存在だと言う。また『シンギュラ・ザッパ』とは、その老魔導士の名でもある。つまり、大魔導士『シンギュラ・ザッパ=フォイル』。それが生涯夢見た理想の生き物を『ミッグ・フォイル』によって作り出した人物」


 唖然としたエコからは言葉が出ない。『ミッグ・フォイル』……気候を激変させるほどの持った究極の魔法。その莫大な魔力が、たった一つの生命を産むことだけに向けられたとすれば……。


「虹が出ている記録があるから『シンギュラ・ザッパ=フォイル』がミッグ・フォイルを引き起こしたのは間違いない。ただし、そのミッグ・フォイルがどんな現象を起こしたのかは不明だ。『シンギュラ・ザッパ』という生命体を見た人はまだいないが、『シンギュラ・ザッパ=フォイル』の生前の活動から見ても、その『ミッグ・フォイル』は新生物を生み出したとみて間違いない。そして、私はその存在が、この『トレログ』の地下に居ると予想しているんだ」


 興奮したアルクンセランだが、静かにそう言うと、我に返ったかのように冷静になった。


「……じゃ、アルクンセランさんは『神隠し』については無関係で、ご存知ないんですね?」


「ああ。『神隠し』についてはなにも知らない。私が『森殿』に行くのは調査のために過ぎない。個人的、興味だよ。役に立てず申し訳ないね」



 結局エコはそれ以上何も聞かず、ヒキウスとアルクンセランに礼を言って『ゴーレム・ハレム』を出た。一日中街を歩き回り、膨大な情報を聞き込んで、体も頭も疲れ切っていた。その上最後にあんな途方もない話をされて、エコの思考は限界を超えてしまった。


 整理しきれない情報に頭を悩ましながら、エコはフラフラと霧の立ち込める闇の中を歩いていた。すると、例の音がまた聞こえてくる。エコは『森殿』に足を向けた。


「ターク……。どこへ行ったの? なんでわたしに何も言わないで居なくなっちゃうの? 今まで一度もこんな事なかったのに、どうして……」


 エコは独りつぶやきながら、にじみ出る涙を服の袖で拭った。独りになり心細くなると、どうしても心が不安に囚われてしまう。

 やがて、『森殿』の縁にたどり着いた。深い森の中には一点の光もなく、更に町中よりも一層濃い霧が立ち込めていて、一切視界が効かない。

 ぼおおおおおぉぉぉぉおお~~~ん…………。


 エコが決意した。

「……残ったのはここしかない。やっぱり、ここなんだ」


 これ以上街を調べても、成果が上がると思えない。怪しいと何度も候補に上がりながら、最後に残った可能性――『森殿』。

 ここにタークがいるという、はっきりした根拠があるわけではない。だが、それは他の場所もそうだ。深淵の森はすべてを飲み込むほど暗く、エコがどんなに目を凝らしてもその全貌を見せない。

 ハルナ、ヒキウス、アルクンセラン。思えば今日訪ねた人全てが、「『森殿』になにかがある」と言っていた。エコもそう思う。この中に、何かがある……。


 ぼおおぉぉぉおお~~ん…………。



「……きっと、この中にタークがいる……きっと……」

 

 エコは、漆黒の闇の中に足を踏み入れた。



 濃霧のトレログの夜空に、おぼろげな月輪が浮かんでいた。

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