第五十六話『行ってしまうもの』
ぼおおおおおぉぉ~~~ん……
ぼおおおぉぉぉおおぉぉ~~~~~~ん…………
――もう、限界だ。私には、もう、これ以上抑えられない。
もう我々はおかしいんだ。制御が効かなくなっているし、勝手に故郷に帰ってしまったやつも何人かいるらしい。だが、誰が彼らのことを責められるだろう? とにかくもう、計画は狂っている。近いうちに決行してしまうしかない。
事は計画通りには運ばなかった。しかしそれでも、いくらかの『お土産』を故郷に持って帰ることはできるだろう。
ああ、故郷が恋しい……。恋しくて、たまらない。あの暗い安堵の世界のことを思うと、胸が大蛇に締めつけられるが如く痛む。正直言って、この生物がもたらす懐郷病……『ホームシック』の凄まじさがこれほどとは思わなかった。文献で読んではいたものの、私自身はそこに行ったこともないのに、『帰りたい』という思いが高く募り続けている。それでいてこの思いの源泉がどこにあるのかすら、僕自身分からないのだ。
だが、僕には微塵の後悔もない。『トレログ』の市民たちにとっては迷惑だが、もう私には人間並みの罪悪感などない。ただこの気持に従おう、と思うだけだ。
……ああ……またあの声が聞こえる。耳の奥、頭の奥に響き渡る懐かしい音……。『キメリア・カルリ』の、旧い記憶……。
ぼおおおおおぉぉ~~~ん……
ぼおおおぉぉぉおおぉぉ~~~~~~ん…………
そして今日も、眠れぬ夜が更ける。
――――
「コトホギ、エコちゃん達の容態はどうだ?」
「あっ、社長」
【カララニニア鉱掘業】本社。コトホギは、久しぶりの出勤だった。
“山”退治の間はコトホギの仕事はあまりなかったし、“山”を退治してからは衰弱したエコとタークの看病につきっきりで、それどころではなかった。
「うん、だんだん良くなってきたよ。まだ怪我は治らないけど」
救助されてすぐは危険な状態だったエコ達だが、コトホギやラブ・ゴーレムたちの丁寧な看護の甲斐あって順調に回復し、一週間しないうちに起き上がれるようになった。だが骨折が完治するまでは、流石にまだ時間がかかる。本人たちは、怪我が治り次第【トレログ】を発ちたいようだ。
「そうか……いや~、よかったよなあ。あ、例のあれだけどな……、会長がどうしてもやるってよ。エコちゃんに伝えといてくれるか?」
「えぇ~……本気なの? ヒドいな、あの会長……」
コトホギが視線を右上にやり、ここにはいない会長の顔を思い浮かべる。
「まぁな。でも言い出したら聞かないヒトだからよ。下手したらエコちゃんがいなくてもやりかねねぇ」
社長が真剣な顔でそう言う。せっかちで有名な会長のことだ、決して冗談にはならなかった。
「……うん、分かった。また夕方に行くから、その時伝えるだけは伝えとくね」
「おう頼むわ」
社長はそう言い終えると、足早に建物を出ていった。【カララニニア鉱掘業】はエコ達の捜索で仕事をストップしていたせいで、社内中てんやわんやだ。だが、苦難の山を乗り越えた社員たちは、活気で溢れていた。
そんな社員たちの楽しそうに働く姿。窓から射し込む柔らかな光。風に揺れる庭の樹木。
(久しぶりのいい天気。だいぶ涼しくなったし)
コトホギがそう思うと同時に、風が部屋を吹き抜けた。コトホギの口元に、ふっ、と爽やかな笑みが走る。
そして早速仕事を始めようと片付いた机に座り直し、休み中に進んだ契約書類にひととおり目を通そうと目の前の紙束を目を落としたところで、あることに気がつく。
「そう言えば今日、カルハリさんとテテララくんの姿が見えないけど、どうしたんだろ?」
言いつつ、コトホギは部屋の中を見渡した。五人の事務員のうち、二人の姿がない。別の事務員がコトホギに告げた。
「あの二人、連絡なしに突然出勤しなくなっちゃったのよ。社長が家を尋ねたけど、居ないんだって」
「ええ!? それは変だね」
コトホギが訝しむ。コトホギもよく知っている二人だが、連絡なしに欠勤するような不まじめな従業員ではない。仕事帰りに家に寄ってみようか、とコトホギは思う。
「こんにちはー」
そこへ、思わぬ来客がやってきた。コトホギは応答しようと振り向いてぎょっとし、声を上げる。
「あっ!」
「コトホギ! お疲れ様~」
そこにあったのは、エコの晴れやかな笑顔。だが頭には何重にも包帯が巻かれ、骨折した腕は固められている。大怪我はまだまだ完治していないのだ。
「ちょちょちょっ、ダメだって! まだあんまり出歩いちゃだめだって、お医者さん言ってたでしょ!?」
「ええ~、だってさ~」
コトホギががなりたてると、エコが明らかに不平を抱いた声を出す。エコの後ろに顔色の悪いタークが立っていた。こちらはかなり無理を押して出てきたようで、あからさまに具合が悪そうだ。おおかた、エコが心配でついてこずには居られなかったのだろう。
「いつまでもずっと寝てるだけって退屈で退屈で……体に悪いよ、もうっ。わたし、社長に挨拶しようと思ってきたのに。いないの?」
エコがきょろきょろと周りを見回す。コトホギは顔の前で手を横に振って、“社長不在”の意を伝えた。
「んも~、ほんとに……。また怒られちゃうよ? おとといも叱られたばっかりでしょうが」
エコは先日も絶対安静を破って勝手に出歩き、医者にしこたま怒鳴られたばかりだった。その時はコトホギも一緒になって叱られ、謝ったのだ。だがエコは悪びれもせず、「大丈夫!」と答えた。なにが大丈夫なのかは、全くわからないが……。
「そうか、社長は居ないんだな。じゃあ帰るか? エコ」
タークがそれとなくエコを促す。歩くのもつらそうなタークだって、早く帰りたいに違いない。コトホギは強い仲間を見つけた思いがした。もうひと押しとばかりに、言葉を足す。
「エコちゃんも帰りな? タークさんだって心配してるじゃない。だってさあ、エコちゃんが出てきたらタークさんだってついてこなくちゃ心配じゃないの。安静って言われてるのは間違いないんだから……」
「……あ~、そっか。……う~ん、じゃあ帰ろっか?」
エコがタークに聞く。タークがうなずくとエコはしゅんとなって、「ごめんターク、じゃあ帰ろう。今日はもう出歩くの止めにするから、部屋で休んでよ」と言った。
「そうしよう。じゃあコトホギ、また顔出すわ」
手を上げてコトホギに挨拶した次の瞬間、タークが苦痛に顔を歪めて胸の辺りを抑えた。骨折した所に障ったらしい。
「ターク、痛いの!?」
エコが慌ててタークを心配する。
「くれぐれも安静にね……ふたりとも」
コトホギは心配しつつも、ある意味微笑ましい二人の姿を見て呆れた。
「じゃね、コトホギ」
エコが別れの挨拶をした瞬間、コトホギがはっと思い出す。
「あっ、そうだ! 伝えとかなきゃ。実はね、今度ゴーレム協会主催のパーティーがあるの」
「パーティ。なんの?」
エコに聞かれて、コトホギが一瞬口ごもった。眉を寝かせてタークに一瞬申し訳無さそうな目線を送り、答える。
「『エコちゃんの快復祝い』だって……。……まだ快復、してないのにぃ……」
「え、本当!? わざわざそんなことやってくれるの?」
エコが驚く。しかし今や、二人は街の英雄なのだ。“山”を攻略した功績は業界内に広く知れ渡り、エコとタークの名を知らないものはいないほどだった。
「……だからこそ、エコちゃんとタークさんがきっちり全快した後にやればいいのに。もう待ちきれないんだって。……でも、無理しなくてもいいからね。体調が悪かったら遠慮なく欠席して。私から伝えるから」
「行く行く! 楽しそう!」
「俺は……」
エコが即答する。タークは口ごもる。タークの参加は、どう考えても無理そうだった。
――――
数日後。トレログの街に、しずかな闇が横たわっていた。
セミの喧騒はなりを潜め、とち狂った気候が本来の季節を思い出したように、徐々に気温が下がり始めている。冬を夏に変えた『リリコ・ラポイエット・フォイル』の力が、ようやく失われつつあるのだ。静謐はやがて、風に吹き飛ばされて闇に消えた。
はじめ砂嵐を伴って吹き始めた風が、山の向こうから雨を運んでくる。
トレログ市全域に、冷たい雨が降り始めた。地表が冷えたことによって生じた気流が高気圧と低気圧を激突させ、トレログ市の上空に雨雲を作り出したのだ。
『トレログ内市』には、不穏な霧が立ち込めていた。それは街を覆うと同時に、人々の心の中にまで現れ、もやをかけた。……突然、理由も言わず、痕跡も残さずにふと人がいなくなる……、長雨と同じ時期から起こり始めたその怪事件は『神隠し』と呼ばれ、街に不安と混乱をもたらした。
調べても原因はわからず、犯人はおろか被害者の死体すら現れない。人々は街に立ち込める暗い霧から見えない影の腕が伸びて大切な人を奪っていくのを、ただ怯えて見ていることしか出来なかった。
嘘か真か、「魔導士が実験のために人をさらっている」という噂がまことしやかに囁かれるようになると、市民は霧を恐れて外を出歩かなくなった。しかしそれでも、突然人が消えていく事件が終わることはなかった。
……街をざわつかせるそんな暗いうわさ話も、冷たく硬い石造りの家の幾多のドアの向こうに閉じこもるこの二人の耳には入らない。
「マコトリ……。目を覚ましておくれ……」
ゴーレム魔導士・ギギル・シュターンが、ソファの隣に腰掛けている等身大の人形に向かって、優しく語りかけた。ギギルの厚ぼったいまぶたは陶酔したように半開きになり、まっすぐその人形――すなわち、マコトリを見つめていた。
「…………………………。……………………」
マコトリはなにも答えない。絶望の現実世界から逃れるべく、マコトリの精神は過去へ旅立っていた。マコトリの目は開かれてはいるが、何も見てはいない。今、マコトリは遠い過去の美しい記憶の中に浸っているのだ。
ギギルが見て触れているのは、魂の抜けたマコトリの抜け殻であり、ギギルの偶像だ。そしてそれこそが――、ギギルの求めている理想の女性像、そのものだった。
「マコトリ。美しいマコトリ……、おお、君はぼくをここに置いて去ってしまうのか――? この絶望と苦痛に満ちた暗黒世界に。人と人との繋がりを強要される、満ち満ちた空虚な世界に――」
ギギルのつぶやきが、うつろな空間に広がっては消える。はじめから届けたい人間などいない、ギギルの無意味な独白。
ギギルの手がマコトリの紫色の髪を滑り、ロウのように白い頬をなぜて、ドレスを着たマコトリの肢体へゆっくりと降ろされていく。
「マコトリ、君もこの世界が嫌なのだね? だから、ぼくを置いて出ていってしまうのだろう? より自由な世界へ……。ならばぼくも、いっそこのぼくも、君の逝こうとするドアの向こうへと連れて行っておくれ。ぼくも君の望む世界で、君の一つになりたいと願っているんだ」
マコトリのシルエットをなぞるようにギギルの手が滑り、腕の輪郭を芋虫のように這って、両腕にかけられたいくつもの手錠にたどり着した。
マコトリの胴に両腕を回し、それを一つずつ外しにかかる。一つ目の錠に鍵を差し入れ、外す。ギギルの呼吸が、忙しなさを増した。
「さ、君にかけられた軛を外そう。君が貞淑になるまでという約束を守らなくてはね」
マコトリの体にかけられた手錠と足錠はギギルがかけたもので、ゴーレムの拘束用に作られた特別なしろものだった。
マコトリを強制的に連れ帰ったのが一週間ほど前。家に帰り着くやすぐにマコトリと口論になったギギルは、怒りのあまりこの拘束具を使ってしまった。手錠と足錠には魔法陣が描かれ、ゴーレムの肉体的自由を奪う力がある。
言うまでもなく、これを使われたゴーレムには多大なストレスがかかる。また肉体の自由を奪われたゴーレムは巨大な過去が存在する思考世界に没頭してしまうため、感覚が遠のき、死期が急速に早まる危険性があった。
かなりのストレスが掛かっているマコトリに対してこの拘束具を使うことがどれほど危険であるか、ゴーレム魔導士であるギギルに分かっていないはずがない。
しかし、しかし、しかし。行き詰まったギギルには、これしか考えつかなかったのだ。マコトリを従わせるためには、道具や魔法によって拘束するより他に方法がない。これはやむを得ない措置だ。マコトリの管理者として、制御不能なままで彼女を放置するわけにはいかない……そう自分を説得して、心を鬼にしてそれを使ったのだ。そして彼は気づいた。
――こうして手錠と足錠をかけた姿こそ、自分の望んでいるマコトリ像に近いという事実に。
たどり着いては行けない領域に踏み込んでしまった。そんな自分の警報は、無視した。
「美しいマコトリ……」
手に入れた。
「…………」
ギギルの発言に対して反抗も否定もせず、ただ黙って聞いていてくれる存在……。
「ああ……、好きだよ……」
憧れの存在を。
「…………」
自分という存在を、無視、無反応という形で、無抵抗に受け入れてくれる器……。
「愛して、いるんだ……」
そうだ……。
「………………、…………。……」
……それこそが自分の求めているものだったと、ギギルは遂に気づいたのだ。
マコトリの精神ははるか過去に飛び行き、行き過ぎてもう戻ってこない。
そんなこと、ギギルは百も承知だった。しかし今の彼には、事実をも妄想で塗り替えてしまえる力があった。
興奮で喜び震えるギギルの指がマコトリのスカートの曲線をなぞり、一つ目の足錠を外しにかかる。もうすぐだ。
彼はこのあと、精神の抜け殻――人形となったマコトリを好きなようにしてから、自ら喉を断って死ぬつもりだった。
自分から溢れ出るその鮮血がマコトリの両の胸や顔面に降りかかる光景を思い浮かべると、彼はそれだけで到達してしまいそうな気分になる。
満ち足りた体の、細かい震えが止まらない。呼吸は加速し続け、心臓の鼓動が死んでしまうほど早くなっていた。心臓は一定の数打つと、止まってしまうという。なんということだ、指が震えて錠が外せない! 次が最後の一つだというのに。ああ、ああ……!! これさえ開けば……!
「はあ、はあ、はぁ」
――これが、彼の人生における絶頂期だった。
「はあ。はあ。はあ。はあ。はあ、はあ、はあ、はあは、はあ、はあ、はあ、はあ、は、は、はっ、はっ、はっ、はっ、ぁ――――っ!!」
そしてギギルの視界を、天上から降り注ぐ幾億もの光が覆った。ギギルはゆっくりとそれに包まれてゆく。次第に手足の感覚がなくなり、上下の感覚もなくなり……、なにか固いものが落ちるような音がして、世界から光が無くなった。
――ギギルが床に倒れても、マコトリはピクリとも反応しない。ギギルが作った魔法の照明装置が消え、部屋は暗闇に包まれた。そのまま、少しだけ時間が経つ。着せ替え人形のマコトリと、過呼吸で失神したギギル。二人だけの部屋に、雨の滴る音だけが聞こえていた。
やがて、音もなくドアが開いた。
入ってきた人影がひたひたと石の床を歩き、マコトリの傍らにしゃがむ。そしてギギルの手から滑り落ちた鍵を手にとると、マコトリの最後の錠を外した。
「……ごめんね。」
人影はそうつぶやくと、半分に折った紙片をその場に落とし、来たときと同じように音もなく去っていった。
雨音が激しくなる。暗闇の中、マコトリの目がきょろりと動いた。




