第五十五話『停止』
トレログ郊外、【内市】に向かう馬車の中。砂まみれになったマコトリが椅子に座っていた。その傍らにゴーレム魔導士ギギル・シュターンが腰掛け、手にしたホコリ取りでマコトリの頭や服についた砂を甲斐甲斐しく撫ぜ取っている。
「おおお、こんなに汚れて。かわいそうに……。風呂が湧いているから、帰ったらすぐに入るんだぞ」
「………………」
マコトリは一切の返事をしない。その整った顔貌は、無機質に乾いていた。
今から一時間ほど前。頂上を目前にして、突如としてマコトリの体に起きた異変……。その原因は、ギギル・シュターンにあった。
馬車で“山”の麓まで乗り付けたギギルが、その場で強力な帰還命令を使ったのだ。
マスター権限を発動した命令は、ギギル所有のラブ・ゴーレムであるマコトリに対して有無を言わせぬ強制力を持つ。
人間と比べて強い力を持つラブ・ゴーレムは、もし暴れ出せば人間には手が付けられない危険な存在だ。よってあらゆるゴーレムは、非常時の暴走を抑えるための緊急停止手段として、強制力を持つ命令には抵抗できないよう作られている。
ただし、命令を出すには最長でも1キロレーンの範囲内でなくてはならない。ギギルがわざわざ駆けつけたのはそのためだった。
マコトリも必死に抵抗したが、『ゴーレム送還魔法』の持つ強制力はそんなに生易しいものではない。そもそもゴーレムが自分の意志で抵抗できるような魔法なら、ブレーキとしては無意味になってしまう。
今マコトリの思考世界は、強風吹きすさぶ冬の海のように、荒れ狂っていた。最後に見たターク達の姿が、脳裏に焼き付いて繰り返し思い出される。
タークは極度の疲労と重度の脱水状態で、意識が朦朧としていた。その体でエコを背負い、登頂補助器具のない難所を目前にしていたのだ。あの状況でマコトリがいなくなっては、エコとタークが無事に登りきれるはずがない。
あの二人は死ぬ気だった。“山”と心中する覚悟を決めていた。だからこそ“山”の頂上を目指すと言った時、マコトリは必死で止めたのだ。そういう決断をした人間が、静止に耳を貸すはずがないと知りながらも……。
どんな事情があったにせよ、絶体絶命の状態にあったエコ達二人を置いてきてしまったことをマコトリは悔やんだ。ギギルに命令されて絶壁を飛び降りた後、間に合わないことは百も承知ですぐにもう一度“山”に登ろうとしたマコトリだったが、再びギギルの唱えた命令で完全に自由意志を奪われ、馬車に載せられてしまったのだ。目が覚めたのはつい先程――、街道沿いにある、【外市】の住宅街に入ってからのことだった。
マコトリは諦めていた。命令が切れて自由意志が戻った今、ギギルに対して怒ることは簡単だったが、そんなことでマコトリを自由にしてくれるギギルではない。
そこまで考えてから、マコトリは再びタークとエコのことを思い出していた。ゴーレムの記憶は薄れない。脳裏にはっきりと浮かび上がる二人の姿、途切れた登頂補助器具とえぐれた斜面、タークの力のない表情、遠ざかる“山”の頂上が、次々と映写されてマコトリを苛む。それを数度繰り返してしまってから、マコトリは後悔と懺悔に満ちた思考世界から逃れるべく、感情と記憶のつながりを自らの意志で絶ち切った。
マコトリが、あらゆるものに関心を失ったような、虚ろな目を窓に流す。車輪が回転するとともに、後方に流れていく【トレログ外市】の町並みがあった。
頭から血を流して転がっている人がいる。屋根に大穴が空き、崩れかけている家がある。割れた石畳の、黒ずんだ破片がそこここに散らばっている。そしてほぼ全ての家々で、石膏で出来た窓枠や透かし細工を施した壁がばらばらに壊れていた。
雹など降った試しのないトレログ建築史において、空から重さ数キロデュモにも及ぶ氷塊が降り注ぐなどという事態はまったく想定されていない。
それゆえ内部から石灰岩を彫刻して作るトレログの伝統的建築は衝撃に耐えきれずに破壊され、辺りに壁や天井だった白い石片がばらばらになって散らかっていた。
それでも外壁を保てている家はまだ被害の少ないほうで、中には自重を支えきれなくなって崩壊した建物もある。また、その下敷きになって亡くなった人々もいるようだった。
そんな悲惨な光景を目に写しても、マコトリの目元には何の感情も生まれない。
今マコトリの頭の中には、凄惨な外の光景も、ギギルの度を過ぎたおせっかいも、タークとエコを心配することも、何もかも存在しなかった。
過酷な現実から逃避したマコトリの思考は、遠い過去の忘れ得ぬ幸福な日々……、すなわち、イルメヤン・シュターンとの思い出に没頭していた。
――――
ふう、ふう、ふう、ふう、ふう…………
タークの呼吸が、狭い世界の中にこだましていた。
――全身が痛い。雹が降り出してから、どれくらいの時が経っただろうか。今もなお、一粒一粒が人間の目玉程もある大きな雹が、全身至るところに間断なく叩きつけられている。
もはやエコには体のどこが痛く、どこが痛くないのかも分からないほどだ。布をかぶっているおかげで肌に直接氷塊がぶつかることは無かったが、それでもはるか上空から降ってくる氷の塊は、エコの体を砕かんとばかりに、総力を上げて特攻を仕掛けてくるのだった。
……ターク……。
きつい斜面に爪を立てるようにしてしがみついているタークは、傷跡おびただしいその両手から赤い血を流しながら、懸命に耐えていた。
ただでさえ力尽きそうなタークが、いつまでこのまま崖にしがみついていられるのかは、分からない。タークはエコを死なせないためにそうしている。そう考えると、エコの心は痛んだ。なんとしても、この状況を打開しなくてはならない。
雹の降る“山”は、うるさいが静かだ。
エコは動かせる範囲で頭を動かし、見える範囲の景色を見回してみた。強い太陽光で熱せられた“山”の岩肌にぶつかった雹が昇華して雲となり、もくもくと上空に帰ってゆく。雲間から一瞬だけ射し込んだ太陽の光が、黄金の色を雹の幕に反射させつつ、エコの目に飛び込んできた。エコが思わず、眩しさで目を閉じる。
(不思議だなぁ)とエコは思った。(命とは、この雹のようなものなのかも知れない)とも思った。どうせこれ以上やることも無いので、雹の打ち付けるまま体の感覚をほっておいて、エコは思考に深く没頭する。
エコ達生命体が形を持つ固体であるとすれば、きっと死はそれが分散した気体のようなものだ。
固体である肉体は“器”であり、その“器”に気体あるいは液体にあたる命の本質部分、“精神”とか“魂”、“意識”と呼ばれるなにかが保存されている。そして肉体が滅んでしまえば、その内容物である命はほころんで自由となり、ここではないどこかへ飛んでいってしまう。
エコは『ハロン湖』で死に瀕したタークの介護をしてからというもの、『命』というものの本質を考え続けていた。雪山で出会ったおじさんや、雪崩で死んでいった魔導士たち。無残に殺された死体の山……、トアをかばった仲間達。彼らも皆、肉体に強烈な打撃を受けて死んでいった。もちろんエコとタークも、ここから落ちれば確実にそうなるのだろう。それはわずか数秒後の出来事かもしれない。
人々は死を恐れ、なにかにしがみついて生きる。いまエコを背負っている、タークのように……。
エコだって、自分の死が怖くないわけではない。だが同時に、『死ぬことそのものが怖いのではない』という感覚を持っている。
死に直面するとどうしても体がすくんでしまう。死を避けなければという思いに頭を支配されてしまう。生きねばならないと、懸命にもがいてしまう。エコはその理由を考えた。
死ぬことが怖いのは、何故だろうか? 生きようともがくのは、何故だろうか? 生きることに辛さや痛み、負担や、我慢しなければならない幾多の出来事が伴うことくらい、誰だって分かっているというのに……。
(きっとそれは……生きなくてはならないから。皆なにかの理由があって、ただ死ぬわけにはいかないからだ。わたしもタークもきっとそう。こんな所で死ぬわけにいかないから生きる。目的に向かって生きることが、わたし達が死ぬわけにはいかない理由。だからタークは……)
タークの指が震えていた。いよいよ岩壁にしがみつくタークの肉体に、本当の限界が訪れようとしていた。岩にかかっていたタークの人差し指が、滑るように岩壁を離れる。
「『フレイム・ロゼット』!!!!』
その瞬間、エコは頂上に向けて魔法を放った。雹によって体中に生傷を負ったエコの、『忌み落とし』によってさらに強くなった魔力が、炎の種を光の弾に変える。
光の弾は燐光をほとばしらせながら頂上付近の岩肌に突き刺さり、その強烈無比な熱によって岩を溶かしながら、“山”の肉体にずぶずぶと入り込んでいく。凄まじい熱気と蒸気、ジュウジュウと岩の融ける音が辺りに響き渡った。しかし火の玉は“山”の肉体を数レーンほど溶かし進んだところで熱量を使い果たし、勢いを失う。
「届かないか……。でもっ」
続いて、さらにもう一発。結果は同じだった。腕一本と肋骨の骨折による『忌み落とし』のかかったエコの魔法でも、“山”頂上の“中核”を守る堅牢な岩壁を貫く事はできない。
エコの魔法に反撃するかのように、“山”の体全体に細かな震えが走った。濡れた犬の身震いのような激しい揺さぶりによって、タークの手が完全に岩壁からはずれ、エコの体重によってタークの体が後ろに傾いてゆく。
その瞬間、エコの放った三発目の光の弾が、“山”頭部に突き刺さった。間髪入れず、さらにもう一発。四発目は、最初に放った光の弾が開けたトンネルの中に吸い込まれて行った。
(まだ足りない……この位置からではだめだ)
魔法の威力は様々な要素によって著しく増減するが、もっとも重要なのは『イメージ』だ。エコの頭には、“中核”の姿や位置が刻まれていない。姿を見たことがなければ、『破壊するイメージ』も作れはしない。それが曖昧なままでは、エコの魔法も十分に威力を発揮できなかった。
二人の体がゆっくりと“山”の体を離れ、エコは次第に遠のいていく頂上を見据えながら、重力に抗えない自分の無力さをひしひしと感じていた。
「ターク……」思わず、タークの名が口からこぼれる。諦めがエコの頭をよぎった…………、その瞬間。
タークの左脚が、“山”の身震いによって一瞬だけ角度を変えた岩壁を蹴り込んでいた。
「――ッ!!?」
突然、エコの体に強力な加速がかかる。浮遊感のあと、なにかに激突したかのような強烈な衝撃が来た。そして再び、内臓が浮かび上がるような浮遊感を味わう。
思わず閉じてしまった目を開くと、視界いっぱいに青空が広がっていた。
「目の前だ!!」
タークの叫び声。たった二歩の跳躍で十レーンもの距離を躍り上がったタークとエコは、“山”頂上を眼下に見下ろす空中に位置していた。
エコが揺れる視界の手綱を取り、ブレる焦点を合わせる。真っ暗な瞳孔が、こちらを見据えていた。
“山”頭部“中核”!!!
「『フレイム………………!!』」
エコは瞬時に今までで最も強い炎が黒い眼光を灼き潰すイメージを思い描く。突き出した手のひらの先に、強く激しい光がふるえながら集まってくる。同時に思い切り吸い込んだ息を、力強く吐き出す――――黒い瞳孔は、怯えているように見えた。
「『ロゼッッットッッ!!!!!』」
エコの手から光の種が奔り、一本の線と化した。光は、放たれた瞬間に目標に到達した。光の破裂が起こる。
頭部“中核”に着地した光の種は、鈍い光を放ちながら根本を焼き溶かしつつ、マグマを苗床にして発芽してゆく。みるみるうちに成長して八枚の葉を展開させると、すぐに中心部から蕾を備えた花芽がゆっくりと立ち上がってきた。成長に伴って著しく熱量と光量を増しながら成長する灼熱の植物が、いまにも花開こうとしている。
そして二人は、落下をはじめていた。タークの脚が生み出した上昇力を使い果たして放物線の頂点に達した二人は、同時に遥か下方の落下地点を悟る。
“山”の岩壁からは、直線距離で十レーンほど離れている。空気に体重をあずけるには、二人の体は重すぎる。
「ふうぅぅぅ…………」
タークが大きく息を吐く。肺にあった息を吐ききる。ゆっくりと、落下が始まった。
「しょうがないよ、ターク」
タークが謝るよりも前に、エコがそれを受け入れた。
――――
――――あれから数日後。
ヒキウスたちラブ・ゴーレムの腰部“中核”の採掘作業が終わると、“山”の動きは完全に停止し、巨体は沈黙した。
ここ数十年で一番大きな危機だったこの一件もこれで一応の結末を迎え、あとは残った諸問題……すなわち魔物防除と壊れた境界魔法陣の修復作業さえ収めてしまえば、街はすっかりもとの状態に戻るはずだった。
“山”によって受けた経済的な打撃も少なくはなかったが、今回街に押し寄せた大量のジャイアント・ゴーレムの体からは今までにない量の鉱物資源が見つかり、“山”に至っては量、質ともに見たこともないほどの宝石や貴金属を含んでいた。
あれほど街の脅威となっていたモノが、今では福の神扱いだ。
――――そして“山”という脅威を福音に変えた者には、最大級の賛辞が送られた。
まず、様々な角度から“山”の討伐に尽力したゴーレム協会。
ゴーレム協会には“山”の採掘権が与えられた。それから傘下の各社、例えば【カララニニア鉱掘業】【アバラトルルゴーレム】などに、その非常に実入りのいい仕事が分配され、それぞれが富を得ることになる。
続いて、腰部“中核”を掘り起こしたゴーレム宿【ゴーレム・ハレム】所属のラブ・ゴーレムたち。彼女達の所有者であるゴーレム魔導士には、トレログ市より名誉市民の称号とトレログ市庁舎前の記念石碑への刻名、報奨金が与えられた。
最後に、とてつもなく異例なことではあるが、魔導士エコとタークには【石の町 トレログ】の名誉市民権が与えられる事になった。
だが両名は未だ行方不明である。死体も見つかっておらず、目撃証言もない。
“山”頂上に咲いたエコの魔法、通称『光の花』を見たものは多かった。その直後に起こった“山”頭部の大崩落からしても、魔導士エコによって頭部“中核”が破壊されたことは、まず間違いない。
“山”が活動を停止してから何度もマーカー達による調査が行われたが、そこに二人の痕跡が見つかることはなかった。数日経っても発見されないと言うことは、残念なことにおそらく二人は“中核”を破壊したのち、下山に失敗して“山”から転落したのだろう。となれば、死体は頭部から崩れ落ちた大量の瓦礫に埋もれているに違いない。
それがこの事態に関わった者たちの、概ねの見解だった。
――――
「あっちからあそこまでは調べましたが、なんにも出てきません。でも向こうはまだです、でかい岩が多くって……」
“山”の崩落跡。大量の土砂を、何十人もの屈強な男性が手にしたスコップやつるはしでかき分けていた。探しているのは、他でもないエコとタークの姿だ。
「早く見つけてやらねえとな……。まあ、みんなも無理しなくていい。もうすぐ昼だからよ。もうちょいあっちまで探したら、休憩にしようや。皆にもそう伝えてくれ」
綿布で顔を拭いながら、カララニニア鉱掘業の社長が言った。
“山”が止まってからというもの、カララニニアの社員たちは総出でエコとタークの姿を探し続けていた。これほど長い時間が経っているのだ、もうだれも二人が生きているとは思っていない。しかし死んだと言ってしまうのも偲びなく、辿り着いたのが『見つける』という表現。
エコは優秀な魔導士だし、タークもなにかを秘めた男だ。事件の終息から日が浅ければ生きている可能性も十分に考えられたが、日が経つにつれて次第に諦めの気持ちが強くなる。
だが、たとえ死んでいるとしても、顔や姿が保たれた状態でいるうちに、探し出してやりたい。
社員全員がそう思っていた。少し和らいできたとは言え、この暑さだ。一週間もすれば、すぐに誰かも分からないほど腐乱が進んでしまうだろう。
――結局、エコとタークが見つかったのは、“山”の停止からさらに四日後の昼だった。二人は土砂の中にいた。そして、瀕死ではあるが確かに生きていた。発見された時の二人の状態は、異常だった。あの高さから落下し、さらに瓦礫の崩落にも巻き込まれたであろう二人が潰されなかったのは、ひとえに二人を包んでいた粘土の層によるものだった。
つるはしで無理やりこじ開けなければならないほど堅牢に二人を包んでいた粘土の壁は、よく調べると何本もの繊維が海綿状に集まって出来ているらしかったが、カララニニアの社員は衰弱しきった二人を救うことに一生懸命で、その壁がなんなのかまでに考えを及ばせることはなかった。




