第五十二話『岩壁登攀』
時刻は深夜に近い早朝。
トレログの境界魔法陣が崩壊してからも“山”の歩行は止まることなく続き、“山”はすでに外市の領域を3000レーンほど侵し、人家にも被害を与え始めていた。このまま行けば、あくる日の昼過ぎには外市の人口密集地に入る。
悪化した状況を理解した【トレログ】の行政魔導士たちもようやく重い腰を上げたが、行政魔導士は境界魔法陣の補修作業に入る者が大多数で、“山”の討伐に参加する者はそう多くはなかった。
街の中は境界魔法陣が崩壊したことによる魔物の侵入対策や住民の避難活動、内市に起こり始めている住民の混乱など、問題が連鎖的に起こっている。
しかし、“中核”に対する有効策は未だ見つかっていなかった。
唯一希望を見いだせそうなのは、マコトリという特別なラブ・ゴーレムだ。コトホギが向かってくれているが、マコトリは監禁状態にあるために、連れ出せるかはわからないという。
連れ出せたところで、ラブ・ゴーレムが四体も投入されて傷一つつかない“中核”を、マコトリがなんとか出来るとは考えにくい。だが今は、どんなにか細い可能性でも、手繰ってみるしか方法がなかった。
「おい!! 誰かエコちゃんを見なかったか」
カララニニアの社長は、エコの姿を探していた。
「昨日の昼前に見たきり見てません」
疲れきった社員たちの反応は薄い。
ワーカー達は行政魔導士の指示の下、半数ほどが境界魔法陣の修復に使われており、そのお蔭で社に残った者にいつもより多くの仕事がのしかかっているのだ。
混乱の原因である“山”の討伐要請にはまるで応じなかったくせに、自分たちの仕事である境界魔法陣の修復作業、しかも材料運びの力仕事には有無を言わせずこちらの人員を引っ張っていく。行政魔導士というのは、そういう自分勝手な人間たちだ。
しかも行政魔導士たちがこの仕事に参加する動機は、単に『上からの命令』とか『境界魔法陣の補修作業という仕事が増えると自分たちが困るから』であって、使命感とか正義感とは無縁の、利己的な考えからだった。
義務や責任の範疇を越えた高い次元で働いている市民と、そういう志の低い動機で動く魔導士とが一緒に仕事をすれば、噛み合わないのは当然だ。しかも、行政魔導士のほうが立場が上と来ている。
「じゃあタークの野郎はどうだ。大抵一緒にいるだろう」
「タークも消えました。このクソ忙しい時に……見つけたらぶん殴っていいすか」
社員も少なからずいきり立っている。“山”には危険すぎて登れない。自分たちには何も出来ない状況……そのはけ口を探しているかのようだ。
「いいぞ。俺の次な。……エコちゃん、どこに行ったんだ……? こんな時だからこそ、魔導士に結束してもらわなきゃいけねえのによ。クソッ! 面白くねえ」
社長が壁に怒りをぶつけると、周囲の社員が縮み上がる。その時だった。
「社長!! エコちゃんとタークの野郎が――――!!」
険しい空気を破って駆け込んできたのは、カララニニアでも若い社員の一人だった。明らかに取り乱した様子で、社長を見つけて走り寄る。
「見つかったぁ!? どこにいる! すぐ呼んでこい! 二人共だ!!」
「無理です!! あの二人は――――!!」
――――
風の強い日だった。
「エコ、左足を少し右の出っ張りにかけろ。それから右手で、そのまま上にあるホールドを掴んで……」
「ターク、もうちょっとこっち? もうちょっと右?」
「右だ」
エコの腰には強い綱が巻きついており、タークの腰に結んだループに続いている。タークはエコのおよそ5レーンほど下の位置にぴったりついて、エコに動きの指示を出していた。
「少し急ごう。次の歩行まで、いくらもないぞ。それまでにあそこのポケット(窪み)まで行って、固定だ」
「うん、わかった……」
エコが切り立った崖を登っていた。角度はほとんど垂直に近い、“山”の、人で言えば大腿に当たる部分。高さはおよそ20レーンほど。
エコは腰に装着した綱以外はほとんど何も身につけておらず、タークがエコの分の食料や水、登頂器具、杖まで全てを背負っていた。
――二人が“山”に登ることを決めたのは、“山”が境界魔法陣を破る二時間ほど前のことだった。
「ターク、何度やっても“中核”が壊せない。遠くからの『フレイム・ロゼット』じゃあダメなんだ。威力も減るし、的中もしないの」
「……だからといって、あれに登ろうってのは無茶だよ。俺は何度も登ったが、普通のジャイアント・ゴーレムならまだしも、あれは……」
「でも、登らなきゃ壊せないよ! ……タークがいなくても、わたしは登ると思う。でも、やっぱりタークの力が必要なの。お願いだよ、わたし、崖登りやったことないし……」
「だから、止めてくれ。無理だ。危険すぎるって……」
最初はそうやって、タークは頑なにエコの願いを拒んだ。アタック第一作戦の時に何度も“山”に登ったタークは、“山”の危険性を重々承知している。
通常のジャイアント・ゴーレムでさえ何人も転落死しているし、“山”で熟練のワーカーが落ちる光景も間近で見た。そして今、歩行頻度の上がった“山”には、その熟練ワーカーたちでさえ危険すぎて登らないのだ……。
エコのような体力も握力もない者が、“山”に登ればどうなるか。結果は見え透いている。蠟燭にバケツで水を掛けたらどうなるか予想するようなものだ。
だがエコも譲らない。泣きそうな顔になりながら、かたくなに首を横に振った。
「だめだよ。このまま“山”が歩き続けたら、【トレログ市】全体が大変なことになる。わたし、分かってなかったけど……。境界魔法陣は二重構造だから外側が壊れてもまだ酷いことにはならないらしいけど、内市の方の境界魔法陣が壊れたら、街に人が住めなくなるかもしれないって……コトホギが言ってたの」
トレログの境界魔法陣は、外壁と内壁の二つで構成されている。昨日破壊された外壁は強固で効果範囲は広いが効果は弱く、対して内壁はもろく作り直しにくいが境界魔法陣の核となる強力な作用をいくつも持っている。
その機能の中枢を担っている構造物は、以前エコ達が歩いたモザイク模様の石畳。そしてその下にある平らに均した地盤、色とりどりのモザイクタイル、整然と建てられた真四角の建物……それら全体で形づくる町模様こそが、トレログの境界魔法陣の要となる部分……いわば、トレログの“中核”だった。
「“山”がもし【内市】の中を歩いたら、トレログの地盤が歪んで、地ならしからやり直さないといけなくなる。何年もの間、魔物に土地を侵され続けながらそんなことは出来っこないし、そこにまたジャイアント・ゴーレムが来てしまったら、そのまま街がなくなってしまうって……」
そう言いながらエコは震えていた。街が無くなる。コトホギや社長たちの帰るところが壊れる。
「……そんなこと」
その痛みを、辛さを、エコはよく知っていた。そしてそれを他人には味わわせたくないという想いが、エコの湿った胸を万力のようにじわじわと締め付ける。エコの眼尻に、透明の涙がゆっくりと滲み出てきた。
「ねえ、ターク。わたし、タークが来てくれなきゃ、とてもじゃないけど、ゆ、勇気が……」
言いながら、エコの歯の根が合わなくなって来ている。涙が、沢のように頬を流れ出す。こんなに弱気なエコを見るのは、タークも初めてだった。
タークが目を細め、震えるエコの両手をそっと右手で包み込んだ。
そしてその時、ふと思いつく。エコが危険ならば、エコを助け導くことが、今するべき自分の仕事なのかもしれない……と。
タークは、“山”に登ることができる。歩く頻度が増えて危険性が増しているとは言え、登るだけなら今の状態でも出来ないことはないと思う。
しかし、タークには“中核”を壊すことは絶対に出来ない。だがエコになら出来るかもしれない。あの馬鹿みたいな硬さの“中核”も、エコの威力のある魔法を立て続けに受ければきっと……。
この時、タークはひとつの確信を得た。タークは“山”に登頂するワーカーの一人として選抜されたものの、活躍らしい活躍は何も出来なかった。タークは結局、各社から集められた熟練ワーカー達の洗練された動きや考え方についていくことが出来ず、最終的になんの成果も上げることなく、ワーカーとしての仕事は終わってしまった。
先輩はなぜ自分を“山”の登頂に参加させたのだろうか……。タークはその疑問に解答を得られないまま、感情のどこかにしこりを残したまま、計り知れない無力感を味わったままで仕事が終わってしまったことに、やりきれない思いを抱いていた。
しかし、先輩の判断はやはり正しかった。タークが“山”に登っておくことには、重大な意味があったのだ。タークは、そう悟った。
魔導士・エコと二人三脚で“山”に登るという仕事は、ターク以外には絶対に出来ない。そしてエコもまた、タークと一緒でなくては“山”に登ろうなどとは考えていなかっただろう。
時として命知らずの行動を取るエコだが、エコとて死ぬのは人並みに怖い。
エコにはエコなりの確信があり、確信を得られるときにしかそういった行動はとらない。
エコは『タークと一緒なら“山”に登れる』という確信を持っていた。タークはエコから、その考えを汲み取った。
二人の“確信”が、一つに結びついた瞬間だった。
「わかったよ……準備を始めよう。今更、外壁の崩壊を止めることはできやしない。ならば、外壁が壊れ、衝撃が収まったあとすぐに登り始めることにしよう」
「ありがとう、ターク。二人でやれば……」
「二人でやればいくらでも働けるよな。楽勝だよ、エコ。任せておけ、いざとなったらエコを担いで頂上まで連れてくよ」
タークが軽口を飛ばすと、エコは思わず微笑んだ。
「それは無茶苦茶だよ」
エコの頬を伝う涙は、いつの間にか嬉し涙になっていた。
――――
「“山”に登ってるって……“山”に登ってるって……!? あぁ~っ、も~~~、タークのアホッ、エコちゃんの馬鹿! んなことしたら死ぬに決まってんだろ!」
馬車の中、社長が悲しそうに叫ぶ。エコとタークが“山”に登っていると聞いてすぐ、社長は報告した社員を引っ張って馬車に飛び乗り、“山”に向かって走らせていた。
「社長、どうします!? 着いたら二人を止めるんですか? あの二人は今、脚部の“中核”近くまで到達してるみたいですよ」
若い社員がそう伝えると、社長は驚愕の表情をその社員に向けた。
「なんだって? エコちゃんにそんな力が……」
「時間はかかってますが、タークは思ったより冷静みたいですよ。安全を取って、エコちゃんを保護しながらよく登ってます」
「……待てよ、脚部の“中核”ってことは……二人はいつから登り始めてるんだ?」
「それが、いつからかは分からなくって……。誰も登り始めを見てないんです。外壁が壊れる前には、誰も登ってなかったんですけど」
「今の時間でその高さだろ、まさか、夜……だとしたらもうかなり時間が経ってるんじゃねえか!? とにかく急げ、御者! 早駆け早駆け!」
社長が、馬車の前方に向かって大声で怒鳴る。御者は震え上がり、それでも馬に無用な鞭はくれずに、ただ「急いでますから」とだけ叫ぶ。
“山”まではまだ遠い。外壁を破って【外市】に入ったとは言っても、【外市】の中も広く、【内市】まで数十キロレーンの距離がある。
遠くに見える“山”の影が、また一歩踏み出すのが見えた。社長が馬車から身を乗り出して心配する。
「うあああぁぁぁああ、大丈夫かよ、落ちてねえだろうなぁ二人とも……」
「それより、社長。魔物対策の方はどうなってるんですか?」
「魔物? ああ、行政魔導士がなんとかすんだろう。議長がずっと動いてるみたいだが、俺らにはあまり出来ることはねえ。雇いの魔導士は全員、境界魔法陣の補修と魔物防除に走ってるよ。こっちで確保してた人員も、全員がな!!」
――――
破られた外壁。あたりには、外壁の残骸が山積している。
境界魔法陣の魔法的防御力は、魔法陣の物理構造が保たれている間のみ発生する。したがってある程度以上の欠損があると、境界魔法陣は『破れた』状態となり、有害な魔物の侵入を許すことになる。
だからといって、魔物、すなわち『野生の魔法生物』が突然街になだれ込んで来る訳ではない。しかし、食料の豊かな街の中に入りたがる生物は常に存在する。
ボートの底に穴が開けば、水が自然に流れ込む。街への魔物の侵入も、理屈は同じようなものだ。入る理屈が同じなら、その後の理屈も同様だ。水が溜まればボートは沈む。ボートが沈んでしまわないためには、入ってきた水をかき出し、その間に穴を塞げばいい。
瓦礫となった外壁を背景に、一人の男が話していた。百人程の聴衆達が、男の話に真剣に耳を傾ける。
「では、次に魔法生物の侵入機序を説明します。まず侵入するのは、これら小さな生物からです」
――――
野生化したイポパカ、『ニルフランケット』
小型の草食性昆虫、『パルパポキア』
鉄鋼や鉱物があると、至るところに発生する『陸海月』
建物に住み着き食い荒らす、『ギブジ・アント』
極めて旺盛な繁殖力で土地を痩せさせるウネ科植物『ギャルタルゲ』
――――
「こうした生物は小さく、数が多く、生活に被害を与えますが、致命的ではありません。問題は、これら小型の魔物が、捕食者である肉食大型魔法生物を呼び込んでしまうことです。街にもたらす被害の大きい魔法生物の代表的なものには、例えばこんな種類があります」
――――
『イル・プンタカヤリ』――――パルパポキアを主に捕食する肉食節足動物。尾にある針に強力な毒を持ち、自分より大きな生物にも躊躇いなく攻撃する。夜行性で、昼間は暗く湿った場所に潜む習性があるため、街が生息域になった場合はそうした場所に近寄れなくなる。
『エンバオギ』――――陸生の大型ヒトデ。陸海月の天敵。人は襲わないためエンバオギ自体に危険性はないが、偽足を使っての歩行は速度が遅く、そのため水分の多い粘膜には容易に他生物の寄生を許す。移動後に残す粘液は瞬く間に発酵して凄まじいアンモニア臭を放ち、移動後に残す栄養に富む排泄物には多種多様な衛生害虫がたかる。街が生息域になった場合には陸海月ともども完全な駆除が非常に困難で、衛生被害を受けた街には長期間人が住めなくなってしまう。臭み抜きした肉は美味。
『ギズモゥブ・タコリ』――――角と蹄を持つ大型肉食哺乳類。常に群れで行動し、人間を始めとして様々な生物を見境なく捕食する。屍肉も漁るが新鮮な肉をより好むグルメな一面があり、獲物が多くいる場合には積極的に狩りを繰り返す。
――――
「これらの特に危険な種が侵入してしまった街では、人間は生活できなくなります。そしてそれらの生物は街にある資源を食い尽くしてしまうまで移動しません。ですから、最初の防除が肝心なのです。――小型の魔物が侵入しなければ、大型の魔物もやっては来ない。一度堤防が切れてしまってからでは、対応は間に合いません。油断すれば魔物たちは津波のように押し寄せ、都市機能を一気に崩壊させてしまうでしょう。大型の魔物が侵入すれば境界魔法陣の補修どころではなくなります。これまでの事例では、ニルフランケットおよびパルパポキアを確認してから、わずか二ヶ月で滅びてしまった街もあります」
会場が静まり返る。話を聞いていた人々――外市に住む農民、ゴーレム鉱掘業の作業員、主婦、宿屋の主人――が息を呑む。……いままで考えもしなかった過酷な現実がすぐ目の前に迫ってきていることに、ようやく気がついたのだ。中には涙するものもいた。
『もしかすると、境界魔法陣が破れるかもしれない……』
トレログの住民たちとて、そういう話を耳にしてはいた。しかし、誰がそれを信じただろうか。ジャイアント・ゴーレムが現れるのは年に数度必ずあることだし、それはいつも外壁の遥か手前で全滅し、街に豊富な鉱物資源をもたらす、喜ばしい出来事だったのだ。
だがこうして破れた外壁を目にし、街市を進んでいく“山”の威容を目撃し、冷酷な現実と生活の破壊についての話を耳にして、彼らはついに目の前の事実を信じた。その証拠に、この場に集った百名を超す市民たちの目は強く見開かれ、閉じることがない。
語り終えた弁者の脇から、一人の老人が姿を表す。それは、かつて“山”対策会議で議長を勤めた男だった。悪化する状況は老体に連日の徹夜を強いていたが、老人は疲労の影を微塵も見せなかった。強い光の宿った目で一同を見回すと、ゆっくりと頭を下げた。
「ありがとうございました。では、皆さん。今、【魔法生物学研究所】所長のアルクンセラン・クレディンゴモンさんの話にあった通り、境界魔法陣が破壊され、魔物の暴威がこれからこの街を襲い始めます。被害を最小限に抑えるためには、みなさんのご協力がどうしても必要なのです。魔物に侵された土地は、街から失われることになるでしょう。境界魔法陣を縮小し、街全体がもう一回り小さくなることも考えられます。その中に、皆さんの家や土地が含まれてしまうかもしれません……」
アルクンセラン・クレディンゴモンが大きく頷く。
「街を滅ぼさない為には、我々や行政魔導士が防除に当たるだけではとても手が足りません。市民が、我々がみんなで協力して防除することが必要なのです。壊れた壁の見回り、守りの火を絶やさないこと、土壌の洗浄、魔物の徹底的な駆除、初期対応が全てと言っても言い過ぎることはありません。――なにか質問はありますかな」
議長が市民に視線を回つつ尋ねる。即座に幾つもの声が上がった。
「“山”は、あれはどうなるんですか」
議長は一瞬言葉に詰まる。“山”に関しては、対策しようがないほど打つ手がなくなっている。残された数手も、“山”の大きさ、耐久性を考えれば望み薄としか言いようがなかった。
しかし……、ここで住民たちに絶望を与えるような発言をしては、魔物対策への協力が得られなくなる恐れがある。どちらにせよ、魔物の防除はしなければならないのだ。
「大丈夫です」
議長は力強く言い切った。
「外市へ“山”の侵入を許してしまったことは、贖いきれない失態だとは承知しております。だがしかし、我々は必ずやあれを止めます。私たちが責任を持って、内壁には触れさせません。どうか信じていただきたい」
議長はそう言い終えると、腰を深く折って、深々と頭を垂れた。一種静謐な空気が漂いだし、質問者も思わず頭を下げる。――市民達は、それきり議長を信じることにした。
――――
「エコ、もう少しだが、焦るな。脚部“中核”に辿り着いたら、休憩して食事を摂ろう」
「うん、わかったよ、ターク。よいしょ……っと」
エコとタークは、その日の午前中にジャイアント・ゴーレムの高さのほぼ三分の一にあたる部分、脚部“中核”まで辿り着いた。
最後の崖を登ると、広い地面に足が着く。それと同時に岩石同士を激しくぶつけ合うような重い硬質な音が、断続的に耳に飛び込んできた。
ゆるい傾斜を持つ“山”中腹の地面。その中央部分に半径15レーンを超える大穴が口を開いており、付近には岩ほどもある瓦礫が無造作に散らかっている。採石場のような光景だ。
これが、ヒキウスたちラブ・ゴーレムが五日間にも渡るアタックをしている、脚部“中核”のありさまだった。
「すさまじい……。前来たときとは別世界だ」
タークがつぶやき、背中の荷を下ろしながら穴を覗き込んだ。穴の底――タークの視点の5レーンほど下で、四体のラブ・ゴーレムが一心不乱に“中核”を叩いている。もう道具は全て破損し、殴る以外仕方がないのだ。
だが、それでも“中核”にダメージが入っているようには見られなかった。タークの目に、“中核”の鮮烈な輝きが映る。これだけの攻撃でも、表面にかすり傷すらついていないということだ。
「なんていう核だよ……。エコ、あれを見ても破壊できそうか? 無理なら、降りたってかまわないんだぞ」
タークが言うと、エコが露骨に嫌な顔をした。
「なにも試さない内から――」
「そうじゃないよ。いつもの俺の諦め症じゃなくて、そういう選択肢もあるってことは忘れないで欲しいんだ。冷静に考えて、やってみて――それでもダメなら、怪我する前に引くことも考えておかないといけないと思わないか」
タークがそう言うと、誤解に気がついてエコは表情を繕い、素直に頷いた。
「うん、分かった。変な顔してごめんね。納得したよ」
「あれ、誰だ?」
クシガリがエコたちに気付き、手を休める。
「あっ、人間だ! 危ないよ~、おーーーい!!」
次いでヒキウスも手を止め、大声で叫んだ。後の二人も追って顔をそちらに向ける。エコとタークに四本の視線が集まった。
「おーーい!」
エコも手を振って返す。
「なんで登ってきたんですか~? これ、本当に硬いから、人間の力じゃ無理だよー!」
事情を聞きに、ヒキウスが穴を登っていく。そちらはヒキウスに任せることにして、残りの三人は“中核”の攻撃に戻った。
「あなた達は人間でしょ? あ、あたしヒキウス! よろしくねえお兄さん」
ヒキウスがタークと握手し、エコとも握手をした。名を名乗るだけの簡単な自己紹介のあと、目的を話す。
「わたしたち、“中核”を壊しに来たの。近距離から魔法を使わないとダメだと思って」
「えー!? あなた魔導士なの? とてもそーは見えないなー」
そう言ってヒキウスが無遠慮にエコの全身を見回す。エコを疑っている風には見えなかった。
「で、壊す“中核”っていうのは、……あ、ちょっと待って。そろそろ歩くから、あっちの窪みに行ったほうがいいよ!」
そろそろ、先の歩行から十五分が経つ頃だ。“山”の歩行の前には、体が軋む重たい音と微振動がする。その予兆の数分後に、歩行の激震が走るのだ。エコとタークは、ひとまず歩行に備えて体を固定することにした。
――――
マコトリの精神は凍っていた。
今の状態がどうなっているのか、自分でも分からない。時間がいつか、今が昼なのか夜なのか、この場所はどこなのか。自分は何者なのか……、そうしたことを、マコトリは見失っていた。
マコトリの思考が過去を彷徨い、その脳裏に『マスター』の姿が浮かぶ。
イルメヤン・シュターン。マコトリの初代マスターであると同時に、マコトリを作った男。マコトリが本心から『マスター』と呼ぶのは、この世でイルメヤンただ一人だ。天才の名をほしいままにした魔導士は、同時に生粋の職人でもあった。
早くに妻を亡くした彼は、亡くした女と入れ替える様にマコトリを作り、妻同様に愛した。マコトリも自分の存在をかけてそれに応え、尽くした。求め全てに応じ、マコトリもまたイルメヤンを求める、完璧な関係。
イルメヤン・シュターンは背が高かった。マコトリはその広い背中に寄り添うとき、この上ない安心感を味わった。
イルメヤン・シュターンの腕は太く、締まっていた。マコトリはその腕に抱かれる夜、得も言われぬ充足を感じた。
イルメヤン・シュターンには、二人の子どもがいた。マコトリはイルメヤン同様、その二人の子を愛した。長兄ギギルは、大人しいが利発な子どもだった。長女コトホギは、引っ込み思案で優しい子だった。
「マコトリ、どうかギギルとコトホギを、お前の尽きぬ命で見守ってやってくれ……」
そう言ったイルメヤン・シュターンの瞳がマコトリを見つめる……。マコトリも、その瞳をまっすぐ見つめ返す。イルメヤンは微笑んでいた。マコトリも微笑んだ。イルメヤンの目が、唇が、マコトリの視界に迫って来た。そして、辺りが白い光に包まれ……
『マコトリッ!! マコトリッ!!』
「んあ……」
「マコトリ!」
「コトホギ……」
マコトリの重いまぶたが開き、コトホギがほっとして、表情を緩ませる。そして眼尻に浮かんだ涙を、右手の甲で拭った。
「コトホギ、どうしたの? なんで泣いてるの? ……またいじめられたの?」
マコトリは、未だに過去の中にいる……。そう気づいたコトホギは、マコトリの両肩を掴んで諭すように言った。
「マコトリ、ここはギギル兄さんの家。あなたは地下牢に閉じ込められているのよ」
「ギギルくんが……? ギギルくんのお家? ギギルくん、ギギル……コトホギ?」
マコトリの目に、光が宿る。緩んでいた口元が更に緩んで、頬へむかって引き上げられた。マコトリは笑っている。コトホギは顔をしかめる。
「うふふふ。コトホギ……、今、アタシは死の世界を見てきたよ。はは……呆れるほどあったかくて……」
「マコトリ、大丈夫だよね? 死なないよね」
「白い、世界だった……」
コトホギの問いにマコトリは応じず、虚空に視線を泳がせている。コトホギが再び、念を押すように尋ねた。
「マコトリ、大丈夫だよね?」
マコトリはコトホギと視線を合わせようとはしない。その代わり、両腕を上げてコトホギの胸に触れた。胸を押し込み、心臓の鼓動に触れる。するとマコトリの視線が、コトホギに戻ってきた。
「コトホギ……、アンタ、何か困ってるね? アタシになんでも話してごらん」
「……なんで分かるの?」
コトホギがぽかんとした顔になる。先程まで意識朦朧としていたマコトリが、コトホギの心中を悟っている道理はない。だが、マコトリははっきりと言った。
「そうね。コトホギ、アタシ、ここから出て行く必要がある。いいかな?」
「……い、いいよ。兄さんは、あとから私が説得するから。今、ヒキウスとクシガリとカムラルとウブスナが“山”の攻略にあたっているよ。多分、腰の辺りに……」
「ヒキウス達が? じゃあ行ってくるよ。ギギルの事、よろしくね。それじゃあ」
狭い部屋のドアを開け、マコトリが出ていく。コトホギは終始あっけにとられ、事情を説明することすらできなかった。だが、その必要は無いのかもしれない。わけがわからなかったが、コトホギにも次の仕事がある。コトホギは部屋を出て、ギギルの部屋に向かった。
――
時刻は昼頃。
エコとタークはラブ・ゴーレム達と別れてからも休みをはさみつつ“山”を登り続け、地上40レーン地点、“山”の胸腹部にまで辿り着いていた。もう少し上に上がれば、胸部“中核”が見えてくる。
胸部“中核”の周辺は傾斜がほぼ垂直で岩肌が尖っており、崖登りに慣れた上級者でも登るのは難しい壁面構造をしていた。もちろん、未経験者の小柄な女の子であるエコが、そんなものを登れるはずがない。ほとんど凹凸がない壁面を握力とバランスだけで登っていくことは、相当な訓練を積み、必要なバランス力と筋肉を付けなければ出来ることではない。
ここまでも、そしてここからも、エコが岩壁を登れるのは先駆者たちが登頂補助器具を残してくれたからにほかならない。
登頂補助器具というのは一見なんてことのないコの字状の杭、あるいは先の曲がった釘を程よく硬い岩壁に打ち込んだだけのものだが、歩行と歩行の間を縫って岩壁を登る者にとっては、何物にも代えがたい頼れる存在だ。その登頂補助器具が、まるでエコを導くかのように上へと続いている。
――これを打ち込む苦労、いかばかりか。
登頂補助器具を打ち込む者は、当然ながら登頂補助器具なしでここまで登る必要がある。また登頂補助器具一つとってもそう軽いものではなく、まとめて持てば子ども一人くらいの重量になる。いくら経験豊富なマーカー達とはいえ、ずっとここまで登頂補助器具を埋め込み続ける苦労は、エコには想像も出来なかった。
「岩のでっぱりがある! 迂回ルートを行こう」
「分かった、はっ、はっ、はぁ」
タークが叫ぶ。エコの進む先が、突き出た岩盤によって反り返っているのを発見したのだ。
ねずみ返しのようになった崖は、たとえ登頂補助器具があっても避けたほうが無難だ。垂直の崖ならば脚を下の登頂補助器具にかければ体重が支えられるが、ぶら下がる格好になるとそうは行かない。体重が腕にかかって保持力の維持は難しくなり、危険性はうんと増す。
幸いマーカー達の仕事は確実で、そういった危険箇所には迂回ルートが作られていた。更に岩壁に耐水絵の具で塗られた標識によって、“山”歩行時に避難場所として使える待避所の位置、および距離が示されている。
こうした道標があったからこそ、二人がここまで登ってこられたのだ。
「はぁ、はぁ、はっ……はぁ」
エコの手が次の登頂補助器具を掴み、脚を踏み込んで体を持ち上げる。登頂補助器具と登頂補助器具の間隔は成人男性の身長に合わせてあるので、エコにとっては少し広すぎる。横合いから吹き付ける風も、体力を奪う大きな要因だった。
登れないことはないが、重荷を背負うタークよりも、エコの疲労の色が濃かった。これ以上時間がかけられないと、タークは思った。その時だった。
「エコ、大丈夫か。次のポケットまであと20レーン。歩行まではまだ時間が――、なにっ!!?」
エコを気遣うタークの声音が、尻で途切れて跳ね上がる。“山”の体が軋む、重たい音がしたのだ。タークの頭に電撃が走った。
(――早い!!)
おかしい。先程の歩行から、まだ10分と経ってはいない!!
電気が駆け巡るタークの頭に、様々な憶測が次々と浮かんでは高速で否定されていった。しかしその中に、一つだけ否定しきれない仮説が――――
『“山”は、数歩まとめて歩くことがある』
いや、そんな馬鹿な……! まとめて歩く時は、ほとんど隙間を空けずに歩くはずだ! まとめて歩くタイミングが、十分単位でずれるなどと……!
「エコ、“山”が歩くぞ! 備えろ!」
「分かった! ターク、どっちに行けばいい!? ……左、ホールドの無いほう!? それとも上!?」
エコが左を向く。ポケットの位置はここから左下に10レーンほど……。だがそちら向かう登頂保護具は無い。上にもポケットがあるようだが、そちらは距離が分からないし見えない。おそらく、20レーン程の距離がある。
(どっちに行くべきか……? 悩む時間が、無い)
タークは辺りを見回しながら、自分の頭の中の温度が、一気に下がっていくのを感じた…………。
――
「“山”の体が軋んだ!! 歩くのか!?」
壮年の熟練マーカーがいち早く異変に気づき、大声を出す。
「まさか、早い! 先の歩行から8分しか経っていないぞ!?」
別の場所では、時計を構えた鉱掘業幹部の老人が驚愕していた。
「エコちゃん達の位置はどこだ!」
群衆の中に社長の姿もある。手には双眼鏡が握られている。
“山”を囲むようにして、多くの人々が集まっていた。
エコとタークが“山”に登る事が知れてから、その勇姿を見ようと集結したのだ。
集団のあちこちで、激しい動揺の声が上がる。
悪意あるタイミングで起こる、不測の事態。幾つかの偶然が重なってしまう不運。確かに、こうしたことは起こりうる。危険の伴う仕事には、つきものと言ってもいいかもしれない。だからこそ、彼らには身にしみて分かっている。一つ二つの偶然が重なることで、人の命が容易に失われるということを……。
「判断を間違えると死ぬぞ……」
どこからか、そんな重い一言が洩れた。そうしている間にも、“山”の体が軋む音がだんだん大きくなってきた。いつ次の一歩が踏み出されてもおかしくない。
「社長、エコちゃんとタークはどうしてるんですか!? ポケットに入れそうですか!?」
「いや、ちょっと待て。タークの奴……動いてねえ。へへははは」
社長が怪しく笑いだした。
「ええっ!? まさか!」
社員が肉眼でタークの方を見る。タークとエコは動かず、その場で止まっている。距離があるせいで、タークの細かい動きまでは見ることが出来ないが、影は動かない。先程の位置で留まったままだ。
「まてまてまてまて、時間がないぞ!? どーすんだよ!」
「あっ…………!」
“山”の脚が動き始めた。先程の歩行から10分23秒――。“山”が歩行の挙動に入る。
時を同じくして、大きな音とともにまるで空気の壁のような強風が吹き付けてきた。風は一気に地表を駆け抜け、後に砂塵を巻き上げて、集団の視界を奪ってゆく。
景色が砂で白む。白い視界の中で、大きな地響きと轟音が聞こえてきた。“山”の脚が、大地に食い込んだようだ。さらにそれにかぶさるように何かが崩れるような音が連続的に聞こえてくる。“山”の足元にあった地形、崖か何かが瓦礫となって崩れていく音だ。
重い沈黙。沈み込むような沈黙。それがエコとタークに捧げられた黙祷になるのか、はたまた大歓声の前触れなのか――、この砂の濃霧が晴れてくれるまで、分からない。
男たちはただ息を潜めて、風が再び砂を運んでくれる時を待つしかなかった。
――――
“山”全体に激震が走る。
脚部“中核”地点にいるラブ・ゴーレム達は、激震の間も“中核”への攻撃を止めない。彼女らにとっては、大したことでは無いからだ。仮に斜面を落ちたとしても、ほとんど怪我などしないだろう。
「ヒキウスッ、歩く間隔がすごく短いよっ!さっきの二人は何だったの? 降りていったの?」
「いや、あの二人は登っていったんだ! 嘘でしょ、落ちたんじゃない!?」
「ええっ!? このもっと上に? 死んじゃうじゃん!」
「……!! 大丈夫かしら」
その四人にも、動揺の波が走っていた。みな“中核”を殴る手を止め、穴の中から出ていく。
「どこにいるの? 見える?」
“山”の壁面を四つの視線がなぞった。
「いたっ!!」
ヒキウスが大声を上げ、残りの四人がそちらを見る。
「どこっ!?」
クシガリの鋭い叫び声。
「あの、崖の縁ギリギリのところだよ! ……ぶら下がってるの!!?」
「あっ! あれか~!」
カムラルもそれを見つけた。
「おおっ! すごい! 生きてるのか? 怪我は?」
「動いてる、動いてる~! 生きてる!」
ラブ・ゴーレムたちが喜んで、叫ぶ。
すこし遅れて、地上から大歓声が上がってきた。
エコとタークは生きている!!
――
「エコ、大丈夫か?」
「ターク! 大丈夫!?」
“山”の歩行の後、エコとタークはまず互いの位置を確認し合った。エコは激震に耐え、元の位置に留まっていた。対して、タークは壁面にぶら下がっている。二本の綱を登頂補助器具に繋ぎ、いざという時の保険にしておいたのだった。
タークは手持ちの紐や金具、鎖のような固定器具をあるだけ使って、登頂補助器具にエコの体を固定していた。その姿は、まるで壁面に縫い止められているかのようだ。
しかし全身をそうして固定しているせいで、エコは身動きが取れなくなっている。魔法を使ってぶら下がるタークの体を壁面に戻そうにも、杖もなく両手も離せないこの状況では不可能だ。
タークはエコに殆どの固定器具を使った後、残った二本のロープで命綱を結び、全力で壁にしがみついた。だが歩行時の振動とその後の揺れに耐えることはできず、最終的には命綱に頼る結果となったのだ。
だが、幸いタークは大した怪我をすることなく生還していた。
強風に煽られ、タークの体が振り子の様に揺れる。タークはブランコの要領で揺れを増やし、絶妙のタイミングで壁に取り付くと、結んだ命綱を使ってエコの元に戻った。タークは荷物を捨てなかったので、杖も無事だ。二人はそれから、態勢を整え直すべく上部のポケットに向かうことにする。見たところ上部にあるポケットは深く、入れば転落の危険性はほぼなさそうだ。
「すげえ……」
それら動作の一部始終を双眼鏡で見ていた社長が、関心のあまりため息をこぼす。
まさかタークから、壁面金具固定の発想が出るとは。そして、瞬時に道具を使えるよう荷造りをしてある準備の良さ。壁を登った者にしか分からないだろうが、今の対応は神業と言ってよかった。とても今回初めてゴーレム狩りを経験した者とは思えない技術だ。
「おい、タークってのは経験者なのか? クライミングを何処かで学んだことがある?」
社長の隣にいた男は、『アバラトルルゴーレム』の社長だ。社長と同期の彼は、共に過酷な現場でクライミング技術の研鑽を積みあった仲だった。
「やはりそう思うか~? いや、未経験だって話で入ってきて、実際に動きを見たら素人だったんだよ。今だって、上りの技術を見ればまだまだだと思うな。しかし今の判断と固定技術はすごかった。感動したな」
「技術系の、器用なタイプなのかな。……契約終わったらウチの会社に勧誘してもいいかよ」
「ダメだ、バカ野郎。何言ってんだ阿呆」
「ちっ」
冗談を言い合って、二人は笑った。エコとタークは、これで“山”の全高の半分程度まで登ったことになる。
しかし二人と“山”との戦いは、まだ始まったばかりだった。




