第三十八話『白をぬりかえた緑と、白をぬりつぶした赤』
誰もが警戒はしていたはずだった。
急に気温が上がった急斜面の上で雪面に振動を与えるとどうなるか、理解はしていたはずだった。
ただ、あまりにも想像と違う出来事が起こりすぎていたために、誰もが冷静さを失って、思いのままに魔法を使ってしまった。
そう考えると、雪崩が起きるのは、ただ時間とタイミングだけの問題だったのかもしれない。
エコ達の足元に亀の甲羅状のクラックが入った。クラックはあっという間に大きくなり、固体だったはずの雪面が、突然流体になった。その場にいた全員がバランスを崩し、為す術なく、泥沼と化した雪の中に呑まれていく。行政魔導士、二人の魔導士、角の生えた、“トア”と呼ばれた男――、そして、エコとターク。
(…………これは………………まずい!!)
重くゆったりとした動きで斜面を流れ始めた雪に腰まで飲み込まれたタークは、体の平衡を失う。危険を感じるのと同時にエコの体を力づくで掴み寄せ、抱きとめた。
「うわっ! あっ、クラン・ブルージュ!!」
「アジジカントぉぉぉぉおおおぉ!!! ……ああああぁ~~――――」
二人の魔導士が、飲み込まれていくお互いの姿を認めながら、絶望に満ちた声で名を呼び合う。拘束されたままの二人は、流れに逆らって泳ぐことも出来ない。なすすべなく流されてゆく二人の声が一気に遠ざかり、すぐに聞こえなくなった。
「流されるものかーーーーっ!! 『ウィンドアンカー』ーーーー!!!!!!」
「クソぉぉ!! 『石柱壁』……ぎゃあっっ!!」
巻き込まれた二人の行政魔導士たちは、必死に魔法を使って雪崩からの脱出を試みた。魔法で作った重い風の錨はそのものごと雪流に流され、地面に巨岩を突き立てて雪崩を止めようとしたらしい行政魔導士は、その岩に押しつぶされて死んだ。
「ターク!」
「しがみついてろっ…………!!!」
タークとタークに抱かれたエコは、荒れ狂う雪の奔流に全身を飲み込まれていった。
――
ありとあらゆる感覚が、白く塗りつぶされる。
エコはタークの胸に包まれるように抱かれたまま、重くて白い、脅迫的な威圧感に恐怖していた。
雪は層によって、硬さも細かさもまるで違う。溶け固まって岩盤のようになった層もあれば、つい昨日の吹雪のように、結晶が小さく、軽い雪の層もある。
運の悪いことにエコとタークが巻き込まれたのは、岩のように固まった雪塊がひしめく、重く湿った層だった。
エコはタークの体ごと分厚い雪の層に挟まれ、全く身動きが取れない。全身にすさまじい圧がかかる。胸を潰されて呼吸が出来なくなり、視界から一切の光が消えた。
(死ぬ!!!)
エコは、切迫した精神状態の中、はっきりと死を感じた。それは昨夜出会った忍び寄ってくるような死とは違い、死という存在そのものが、自分を握りつぶそうとしている……という感覚。
(…………死にたくない!!)
自分一人の力ではどうしても抗えない巨大な力に翻弄されながら、エコは無意識のうちにそう考えていた。
……ふと、疑問が起こる。
(死にたくない……。なんで死にたくないんだろう。生きてても死んでても、あんまり違いはない。わたしは昔から、そう考えていたはずなのに。これは一体、どこから来る感情なんだろう――――?)
考える時間は残り少ない。しかし、どうしても思考しなければいけない――エコはそんな気がして、ためらうこと無く自らを思索の海へと沈めていった。
(わたしは、死にたくない。死に、たく、ない――――。じゃあ、なんで死にたくないのかな? じぶんのため? 誰かのため? ――――多分……そうじゃない。きっと死にたくないという思いは、考える事よりもっともっと前にある、わたしの中の絶対のルールのようなもの。死にたくない。死にたくない…………わたしは、生きていたいんだ)
エコを包み込むタークの体が、何か硬いものにぶつかって流れの中を跳ね上がる。エコの顔に、生暖かい感触が触れた。――――タークの血だ。
(――――ターク! このままじゃタークも死んでしまう!!)
エコの心が叫ぶ。タークは自分にとって、大切な人だ。自分を守ってくれる人だ。エコの手を引いて、旅路へといざなってくれた人だ。
エコはタークの血の温もりを感じながら、急にあの、魔物に身を晒して死んでいった名前も知らないおじさんのことを思い出した。
加速した死のイメージが次々と連鎖し、【ゲイス・ウェア】で死にかけたタークと実験材料に使ったイポパカたち、【ヒカズラ平原の人食い魔獣】とそれに群がる魔物たち、『人間もどき』駆除業者達の埋葬、今まで食べてきた数多の命達へと、エコは瞬間的に思いを馳せる。
そして自身のさらに深く――忘れてしまった記憶が眠っている底の部分へと進んでいった。
生命の危機を感じ取ったエコの思考速度が、果てしなく加速していく。
エコは必死に加速し続ける思考の手綱をとり、思い出せる記憶全てを思い出し、整理し、ひとつずつ選別していった。そして最後に残った思い出………………無意識の井戸の底、細かな澱となって沈殿している記憶の残滓を、そっとすくいあげた。
生きるもの。
生きていること。
生命は、精一杯生きて、最後には必ず死ぬ。そして、死んだものからまた生まれてくる――――。生、死、生、また死。その繰り返し。
――更新。更新。更新。
生はたちまち死となり、その死の上にまた生が来る……そうして出来るもの――――――そうだあれは…………産まれて初めて見た光景………………。
エコの中の世界に、やわらかな幻の光が広がる。思い出した。全ての始まりは……
一面の緑。
雪崩の中を跳ね上げられ、タークの身体が雪崩の上層に浮き上がる。エコの視界に、光が射し込んできた。
「『グロウ』!!!!!」
――
はじめ峰近くの斜面から起こった大規模な雪崩は、そのまま斜面を高速で滑り落ち、なだらかな坂道を伝って更に大量の雪を巻き込んだあと、切り立った崖に差し掛かかろうとしていた。
山肌を滑り落ちる過程でより勢いを増した雪の奔流はもはやとどまることを知らず、切り立った崖際に向かって下って行く。崖まで、なんの障害もなかった。
その中に含まれた生命たちにとって、崖から落ちるということは――――命が終わることを意味していた。
雪崩が音もなく坂を流れ下り、ついに崩落まであと十数レーンの地点に達した時――――、雪崩からなんの前触れもなく、緑の木々が伸び上がった。
――それは、時間にしてわずか数秒の出来事だった。
厚い雪崩を貫くようにして芽生えた幼木たちは、雪を割って伸ばした細腕に強い夏の日差しを受ける。
緑色の噴火が起こった。
木々は、通常の何万倍もの速度で育っていく。純白の雪面を苗床に逞しい根を張りめぐらし、強固な幹で雪崩を断ち切り、さらなる日照を求めて我先にと天空へ枝葉を広げる。
そのあまりの速度に幹は軋み、ぶつかり合う枝がバキバキと音を立てて折れていった。
しかしそんなことはまるで気にせず、熾烈な背くらべをしながら伸び上がっていく樹木の一群が、瞬く間に樹高10レーンを超え、雪原に小さな森を現出させた。
それは大規模な雪崩から見ればごく一部で起きたに過ぎない出来事だった。しかし生まれたばかりの森は、その部分の雪崩の勢いを急速に失わせた。
雪塊の崩落が太く固い幹によって押し止められ、そこをくぐり抜けた細かな雪の流れも、根の張った地面から生じる摩擦によって一気にその速度を落とし、最後の雪が片栗粉のように舞って止まる。
それ以外の大崩落は元々の勢いを保ったまま、崖際を崩れ落ちていく。
白い煙の中、落差30レーンの崖を、雪の層が、氷の塊が、行政魔導士の岩が――――落ちる。
雪山に轟音が響き渡り、衝撃で宙へ飛び上がった雪の粒が雲のようになって、深い渓谷に立ち込めた。
――轟音の残響が静まると、出来たばかりの森に、ひとときの静寂が訪れる。
静寂の中、雪崩で埋まった殿の木の1本が雪の重みに耐え切れなくなり、めきめきと音を立てて倒れた。
相も変わらず強烈な日差しが荒れた雪面に射しこみ、容赦なく雪を溶かしてゆく。昇華した雪が水蒸気となり、森はうす靄に包まれた。
あちこちで巻き起こっている強風が森を吹き抜けると、爽やかな葉ずれの音と共にうす靄が吹き飛び、雪の下から何者かが這い出してくるのが見えた。
タークの姿だ。
タークは雪から這い出すと、続いて雪に埋まったエコの腕を引き、その体を雪の中から引きずり出した。
「ハア!!! ハア!!! はあっ!! …………はっ!! はあ!!!」
「エコ! どうした!!」
全身雪まみれになったエコが、顔をしかめて喘ぐように呼吸している。タークが必死に叫ぶ。
エコは、魔法を使いすぎていた。
死に瀕して『グロウ』をこれまでにない速度と範囲で発動してしまったエコは、その対価として要求された莫大なマナを払いきれなかったのだ。
「はあ!!! ――うっぐ……ぜあっ!! はあ!! ハア!! が……はあっ!! うっ」
「エコ!!! …………死ぬな!!」
マナを使い過ぎた魔導士は、絶後の呼吸困難に襲われる。『マナのための呼吸』は生命を保つために必要なエネルギーを作り出す通常の呼吸とは全く別のものなので、足りなくなったマナを補給するまでは通常の呼吸ができなくなってしまう。
マナは前借りが出来る。術者の体に存在する分のマナ量を超えた魔法でも、マナを前借りして使うこと事態は可能だ。
その代わり、前借りしたマナを補給する間は通常の呼吸が全く出来なくなってしまい、その間に通常の呼吸が切れてしまうと、魔導士は窒息死する。……魔導士はこれを、嘲る意味で『魔導死』と呼ぶ。
「があっ……はっ……あ、…………………………………………は」
「エコ!!! しっかりしろ!!」
エコの呼吸が止まった。呼吸をするのに必要なエネルギーが底をついてしまった。タークの思考が絶望の色に染まった、――その時だった。
「どけ!! 私がやる!!」
突如現れた黒い影が座っていたタークを押しのけ、エコの体に覆いかぶさった。額に角の生えた男はエコに口づけてその鼻を摘み、顎を持ち上げて息を吹き込む。男は肺にある空気を吐ききると一旦エコから口を外して思い切り息を吸い込み、再びエコに息を吹き込んだ。
押しのけられたタークは、尻もちをついた体勢のまま、その男が誰だったか思い出そうとした。
頭が混乱して、訳がわからない。血のついた額の角を見てやっとそれが誰だったかを理解しても、エコを助ける理由までは分からなかった。
「げほあっ!!! はっ!! はっ!! はーーっ! はーーーー!!!」
額に角の生えた男が何度かそれを繰り返すと、エコが息を吹き返す。安心した表情になった額に角の生えた男は、タークと同じように尻もちを付き、呼吸を整えた。
「とりあえずはこれで大丈夫だと思っていい……、安心しろ」
その人物…………行政魔導士たちが“トア”と呼んでいた魔法生物は、タークにやましさのない笑顔を向けてそう言った。
「あ、ああ…………。お前は何なんだ? なぜエコを助けてくれる」
タークはあっけにとられ、礼すらも言えなかった。ただ、疑問だけが前に出る。
「私はこの子に、命を救われたらしいからな。雪崩を止めた木の魔法はこの子が使ったようだった。それであの呼吸困難だ。かわいそうに、もう少しで死んでしまうところだ……」
「さっきのは、何をしてたんだ? なにやらエコに空気を吹き込んだようだったが」
タークが再び“トア”に尋ねる。冷静に考えれば怪しむべき存在だったが、雰囲気は少なくとも悪人のものではない――タークは、そんな自分の感性を素直に信じることにした。
「マナを使いすぎた魔導士は、マナ補給の途中で呼吸が止まってしまうことがある。あのまま放置すれば窒息死するが、ああして息を吹き込んでやれば助かるようだ。……以前、仲間がああなったんだ」
「そうだったのか……じゃあ、エコは」
「まだわからない……。なにしろ、」
“トア”は上を見上げた。雪崩をせき止めた後も成長を続けている森は、もはや森林と言っていいほど鬱蒼と茂っていた。
「これだけの魔法……。途方も無い量のマナを要求されるはずだ。無論、昨夜の『ミッグ・フォイル』までとは言わないが……」
「やはり、この暑さは『ミッグ・フォイル』なのか?」
タークがもう一度尋ねる。その時はタークも死にかけて眠っていたので、何が起こったのかは知らないのだ。
「そうだ。夜だったからそうはっきりと虹は見えなかったが、『ミッグ・フォイル』で間違いない」
「『ミッグ・フォイル』……一体、どこの誰の……」
「そこまでは知らん。我々も、追われている身だ」
トアたち『人間もどき』は、常に行政魔導士に目をつけられ、命を狙われている……タークは、トアの境遇をかつてフィズン達に追われた自身の経験と重ねあわせた。
「なぜ逃げないんだ?」
トアはちょっとだけ驚いた顔をしたが、と言って動揺もせずに答えた。
「命の恩人を放って逃げ出しておいて、理想が叶うとも思えない。……仲間たちも、弔いたいしな……」
トアは立ち上がり、雪崩のあとの雪だまりを見た。エコ達の近くにいたトアの仲間たちの死体は、恐らくこの森の雪の下に埋まっている。それを掘り返して、弔おうというのだ。
タークも立ち上がって、トアと目線を交わした。それから背後を振り返る。
エコは未だに喘いでいたが、表情はいくらか緩んでいた。
――このまま少し安静にすれば大丈夫だろう――。
トアがそう請け負ってくれた。
――
「確かに我々は、食うに困って人の農地を荒らしたりすることがある。強盗するものもいる。だが、それはごく一部、しかも生死の境目にいる者たちだけのことだ……。人間の中にも、そうしたことをする者はいるだろう。ホントは、それとおんなじ事なんだ。しかし我々は、そうした悪事を全員が行うものだと一方的に決めつけられ、発見し次第殺してもいいということになっている……」
半分溶けかかった雪だまりを掘り返しつつ、トアが言う。トアの体はこの作業ですっかりびしょ濡れになり、未だ衰えぬ暑さも手伝って、不快そうに額の汗を拭った。
「そうだな……、人間も魔法生物も、変わらん。本音を言うと、俺もずっと『人間もどき』は悪い奴ら、迷惑な存在だって思ってたよ。言葉は通じないし、知能もないと」
タークが告白した。ラゾ達に出会うことがなければ、こうしてトアと腹を割って話そうとすらしなかったかもしれない。先入観は怖い。タークは身にしみてそう思った。
「そうか。――今は? なぜこうして、仲間の墓を作ってくれる?」
タークはトアの仲間を埋めた土の上に、墓標代わりの岩を置いた。
「変わらないと思うからさ。人間も、魔法生物も一緒だ。間違いもあるし、悪いこともする……。けど、根はいい奴らなんだよ。多分な」
「皆がそう思うようにならないかな」
深刻な顔でトアが言う。彼らにとっては死活問題だ。
「ならないとは言わない。……でも、時間がかかるな」
タークはそう答えた。
トアは遠い目になって、「時間……我々には時間がないんだよ……」と言った。
そこに、エコの声が聞こえてくる。
「ご飯だよーーー!!! タークとトア!」
タークとトアが死体を掘り出している間に、エコはすっかり呼吸を取り戻し、元通り回復していた。「マナのリチャージが早いんだな」と、トアはひとしきり感心した。トアの仲間がああなった時は、半日ほどの時間、ずっと喘鳴が起こったらしい。
その日の昼食は、タークが獲ったウサギの丸焼き、蒸留した雪解け水の野菜スープ、干しイナゴの煮戻し。
「!!!!!! なんだこれは!!!!! …………!!!!!! なんだ!!! これは!!!!」
「うるせーな」
トアが感動して泣き、まるで一口一口を噛みしめるように、しかしすさまじい速度で食べる。味に対するオーバー過ぎるリアクションに、疲れた様子のタークどころか、エコまでもが驚いていた。
「この!!! 黄金色の液体!!!!」
「干したキノコと、野菜でとったスープ」
「そうか!!! この美味しいことと言ったら!! ――塩加減もちょうどいい!! そしてこの……」
「干しイナゴ」
「そう!!! イナゴを干すと、ここまで味わい深くなるものか!!! しかしただの煮込みではない、この――」
「ナツメ。これもドライの」
「なるほど!!! この甘味とこの塩辛い調味料!!」
「“みそぺー”ね」
「うますぎる……。こんなことがあっていいのか?」
感動で震えながらトアが言う。
「足りなかったらまだ作るよ。助けてもらったお礼!」
エコが満面の笑みで返した。
「おお……。おおぉ……。ではもう一杯。ありがとう」
「どういたしまして!」
トアはその後嵐のような勢いで料理を平らげ、7杯目のスープを飲み干して、やっと食べ終えた。
そうして一息つくと、トアはターク達に向き直って胸に手を当てる。
「……改めて自己紹介させてくれ。私の名はトア。『人間もどき』と呼ばれるもの達を救いたいと思って、いろいろ動いている者だ」
エコも真面目な表情になって、トアの目をまっすぐに見た。生気をたたえ、らんらんと輝く瞳。
「わたし達も、同じ気持ちなんだ。トアはどうしたらいいと思う?」
「ふむ。魔法生物の抱える最大の問題は、ほぼ全員が人間不信になってしまっていること。生まれてすぐに、あるいは少し経ってから生みの親に捨てられた我らは、まず最初に、自分の存在意義を失うんだ」
「えっ! …………、ああ……」
エコは驚いてしまった。まさに、自分が抱いている気持ちだ。もしかしたら師匠に捨てられたのではないか……。エコはそう思う度、人知れず自信を失っていた。タークにも言ったことのない気持ちだったが、それはエコの中に根強い不安として残っている。
「身に覚えがあるか? 誰もが、そんな気持ちを持っている。お前だけではない、エコ。……そうして人間不信になってしまうと、これはなかなか拭い去り難い感情と言わねばならない。こうした気持ちのせいで、今度は個体間の接触が減る。グループ化することすらためらいがちになり、また、一度グループ化するとなかなか他者をそこに迎えようとはしなくなる。警戒心が必要以上に強くなり、常に苛立つようになる」
「なるほど」
タークは、初めてヨズ達に会った時のことを思い出していた。エコがヨズに触れようとしただけで、ヨズの兄はエコを敵と判断して体当たりを仕掛けてきたのだ。
「言語を習得しないのも問題だ。学習能力が高いからグループ内での符号を作るのはそう難しくないことだが、それはあくまでグループ間の符号であって、言語ではない。当然他のグループとは意思疎通出来ないし、交渉もできない。すると、争いになってしまうんだ。広い意味では仲間同士なのに、グループ同士で出会うことを避けてしまう。ここにも、最初に抱いた人間不信感が強く影響する」
「そうだね……。トアはどうやって覚えたの?」
「私か? 私は生まれてから、しばらく町に潜んでいたんだ。その間に覚えたのさ。人同士が会話するのに興味を抱いたもので」
「えーっ、独学!?」
エコが驚く。タークも驚愕して聞く。
「そんな……とっかかりも何もないじゃないか! 聞くだけで、話し相手がいたわけでは……」
「ないな。私は耳で聞いて覚えるタイプなのだ」
トアがなんでもないことのように言う。
「話を戻すと、我々の問題点な。次に大きいのは、寿命の問題かな。大抵の魔法生物は寿命が短い。特に短いので2年半や4年、長くても20年てところだ。私は今2歳。あとどれくらい生きられるかは、自分でも分からない。しかし、肉体と頭脳の成長が止まった感はある」
「2歳……、2歳!?」
エコがまた驚く。
「……外見じゃわからんな」
タークがトアの姿をまじまじと見る。外見で言えば、トアは十代後半から、下手をするとタークと同じ二十代中盤ぐらいに見える。
「わたし……、6歳だよ? トアより上なんだよ」
「ふーん。我々に年齢など大した意味は無いよ。創造された時点でこうだったんだから。場合によっては、一生その姿のままかもしれない。……エコがそうかは知らないが」
「ふーん、わたしもう育たないのかな……そうだ、ひとつ聞いていい?」
「ああ」
「『ヨズ』って名前、聞いたこと無い?」
トアはちょっと頭をひねった。
「聞かないな」
「トアに良く似てるの。魔法生物で……。もっとずっとちっちゃいけどね、まだ子どもだから。その子も、頭におんなじような角が生えててさ。兄弟……とか?」
「ほお……。仲間うちにも、角が生えている者は一人もいないのにな……。しかし大半は魔導士の気まぐれで生まれてくる我々だ、たいていはひと個体ひとパターンだが」
「魔法陣で同じものを作るのは大変って聞いたよ。人間ほどサイズが大きいと特に…………。やっぱ違うのかな~? トアは覚えてないの、トアを作った人のこと…………」
エコがそう言いつつ、トアの目を見る。
しかしトアの視線はエコの背後に注がれ、ある一点を固く見つめていた。トアの視線の先から不穏な空気を感じて、エコが素早く振り返る。同時に、雪崩の中でも離さなかった杖を掴み寄せた。
静かな数秒ののち、エコは雪壁の深い影の中に動くものを捉えた。同時に三人の思考が固まる……。なんだ、あれは?
なんとなく、それが生物であることはわかった。
小さな熊くらいの大きさの物体がふよふよと宙に浮き、人が歩くくらいのスピードでこちらに近づいてくる。
それは遠くでも聞こえるほど荒い呼吸をしながら、細長い胴体に腕のような突起を1本だけ下げて、その先に棒のようなものを握っていた。
三人が見つめる中、それはやっと暗い影から抜け出し、強い日差しを全身に浴びる。――そして、三人にやっとその正体が分かった。
「クラン……。クラン……」
「アジジカント……。アジジカント……」
血を流しながら浮いているそれは、…………深い絶望に満ちた存在だった。少女が、男を肩車している。
両腕のない男は、両足も無くしていた。潰されてしまった胸、裂けて腸がはみ出した腹部。それらの場所から、出血が著しい。
体を伝って流れ続ける血液が、男を持ち上げている少女の体を濡らし続けている。
両足のない少女は、更に左腕を失っていた。残った右腕で折れた杖を掴んでいるが、抑える指が三本しか無い。親指、中指、薬指。人差し指と小指は根本から千切れている。
魔法の力で浮かびながらエコたちに近づいてくる二人が、かすれた声で話す。
「クラン・ブルージュの感触がある……」
「アジジカント兄ちゃんの血が流れている……」
「俺たちは」
「私たちは」
「「まだ生きている」」
エコたちは固まり、じっと様子を伺っていた。……敵意と殺意とが、一面に立ち込めている。
だが、三人は動けなかった。混乱する頭が、まるで金縛りにあったように思考を止めている。あまりに異様な物体を目の当たりにし、わけが分からなくなっていた。
エコ達三人は、その存在を理解しようと懸命に頭を働かせた。しかし理解しようとすればするほど、混乱してわけがわからなくなる。
どうして二人は生きているのか? どうして少女が男を肩車しているのか? どうして体が宙に浮かんでいるのか……?
沸き続ける疑問、またその解答への好奇心から、エコたちは危険を感じながらも、その存在を注視し続けてしまった。
「こうなったのは」
「誰のせいだろう? 兄ちゃん」
「帰って風呂にはいろう……」
「そして一緒にベッドに入って」
「「ねむるんだ」」
「そう言ってたのに……」
ねばねばした殺意が、エコたちをゆっくりと包み込む。二人は真っ黒な眼で、こちらをぼんやりと眺めている。それは、僅かな光も宿らない、死んだ瞳だった。
エコはやっとのことで立ち上がり、その存在に向けて魔法を使おうと思った。トアも我に返って腰の剣に手をかけ、ためらいがちに引き抜く。遅れてタークも、懐に手を突っ込んだ。
雪原に戦いの風が吹く。
「「お前らのせいで!!!!!」」
異様な二人から、異様な力が放出された。魔力そのものの放射――とでも言えばいいだろうか。ぬめりを帯びた生ぬるい風のようなものが、不可解な力でもってトアとタークとエコの体をふっ飛ばした。
「ぐ!」
「わあ!!」
「むううっ!」
5レーンほど弾き飛ばされた三人は、その一撃で全てを悟った――――。絶望的な力の差を。
三人はそのまま地を転げるように走り、先ほど出来た森の中に隠れる。
クラン・ブルージュとアジジカントの二人は、今まさに、生命を失いかけている。
それはすなわち、命を危ぶめる程の『忌み落とし』によって魔力を限界まで高めているということをも意味していた。
その結果クランとアジジカントの二人の魔力は、
――――かつてエコを負かしたソリャ・ネーゼすら超越していた……!!
「つかれた……」
「目がかすむ」
「しんどいよ、兄ちゃん」
「耐えろ、クラン・ブルージュ……せめて、奴らを道連れに……」
「兄ちゃん……重いよ」
ぼやきながら、二人が同時に詠唱を始める。クラン・ブルージュの体が、アジジカントの重みで少し後ろに傾いだ。
「 『 フラン フレット 』 」
「 『 ヒエロゥ フェッロ 』 」
――――その文句を最期に、二人が同時に事切れた。浮力を失った血まみれの肉体がふたつ、足元にできた血だまりに落ち、びちゃっ、という汚い音がした。
そうして放たれた魔法は、圧倒的な威力だった。
アジジカントから起こった熱線はあまりにも強烈な熱を放ち、触れてもいないはずの雪を掻き溶かしながら森に向かった。
鬱蒼と茂る木々は熱線に触れる前からしおれ果て、触れたそばから炭化してゆく。森が一気に燃え上がった。
熱線は全く減衰しないまま森を貫通して背後の岩壁に命中し、すさまじい光を発してそこに深さ20レーンもの巨大な溶鉱炉を作り上げ、ようやく収まった。とろけた岩盤が支える力を失ってまるごと崩れ落ち、大量の蒸気を吐き出すマグマの海と化す。
クランが放った氷の刃は、刃渡り2レーン、幅は40センチレーンほどもある巨大なものだった。
全部で267本発射されたそれは、すさまじい速度で木々を貫き、粉砕した。
氷の通り抜けた後は何も残らず、森にぽっかりと丸い空間が出来る。引き裂かれた幹を更に後発の氷刃が砕き、それが何度も繰り返されて、森はあっという間に木くずの山になる。
森を粉砕した氷刃は、後ろのマグマの海に突っ込んで蒸発していくものもあれば、遠く空の果てまで飛んで見えなくなるものもあった。
――――もしもその魔法の弾道ががわずかに上を向いていなかったら、エコたち三人は肉体が蒸発するか全身を氷の刃で貫かれて、跡形もなく消滅していた事だろう。
呆然とする三人の上に、無数の木くずが降ってくる。周囲の景色が炎上する木くずの煙に覆われ、しばらく何も見えなかった
全ては一瞬の出来事だったが、エコ達の心臓はしばらく高鳴りを止めそうにない。
今、ほんの少しの偶然が起こら無ければ、エコたちは間違いなく死んでいた…………なんてことのない、八つ当たり紛いの、まるで遺言のような魔法を食らわされて――――。
その現実を受け入れるまでに、三人には少しの時間が必要だった。