第三十五話『雪中ビバーク』
雪が降った。
起こったありのままを書けば、たったそれだけのことだった。
しかし山越えをしようとしているエコとタークにとって、積雪は最悪の出来事だった。一瞬吹雪いただけで一度はすぐに止んだ雪だったが、それは冬将軍の斥候に過ぎなかった。
(あそこで引き返していれば、こんなことには……)
タークは後悔したが、全てはもう遅い。タークの足元では、凍えたエコが毛布に包まれて眠っている。
その吹雪の後ウソの様に天候は良くなり、「吹雪が空を洗ったようだ」とはエコの言葉だった。タークも良く今の状況を表している……、と、脳天気に同意したものだ。
だが降雪の第二陣は、ずしりと重く湿った雪を長期間にわたって降らせた。それは山道も、岩場も、おそらくあのおじさんの死体も、地表にあるもの全てを白銀で覆い尽くした。
エコは浅い呼吸を繰り返していた。体温は低く、体は冷たく、脈拍は遅い。閉ざされた雪洞の外では、いつ止むともしれない吹雪が吹き荒れていた。
エコの体は、先ほど濡れた時一気に体温を失い、その後タークがエコを抱えてこの場に落ち着くまで強風に晒されていたため、芯まで冷えきっていた。
呼びかければ反応はあるが、薄目を開けるぐらいしか行動はとらなくなっている。
あの悪夢のような出来事が起こったのは昼前のことだ。
積雪に足を取られつつ険しい山道をなんとか進んでいた時、エコが突然の強風に煽られてバランスを崩し、下の雪だまりに杖を落としてしまったのだ。
エコは慌て、雪だまりに降りて杖を拾いに行くと言い出した。
「まて、迂闊に拾いに行かないほうがいい。危ないぞ!」
「でもあれは……師匠の……!!」
タークは止めたが、エコは雪だまりに降りると言って聞かなかった。仕方なく、エコの体に命綱を結んで上でタークがそれを握り、エコが崖と言っていい斜面を下る。そのまま雪だまりに降り立って、無事に杖を拾うことが出来た。
エコが杖を無事に拾ったことを示し、引き上げてもらうよう上にいるタークに向かって両手を挙げたところで――氷に亀裂が入る、硬質な音がした。
「あっ!!!!」
両手を挙げた体勢のまま、エコの体が氷の裂け目に落下した。エコの足場の雪が崩れ、その下に現れた亀裂にエコが嵌まり、氷よりも冷たい水に沈む。
雪だまりの下は池だったのだ。それも岩場の窪みか何かに出来た、小さくても深い池だ。薄く張った氷の上に雪が積もり、その正体を巧妙に隠していたのだ。
「エコ!!!!!!!!」
タークは絶叫して死に物狂いでロープをたぐり、なんとかエコを池から引っ張りあげた。しかし時すでに遅く、エコは全身水に浸かってしまっていた。そして、吹雪は更に強くなっていた……。
(そんなにもこの杖が大事だったのか……)
タークは、エコが抱き抱えている杖に目を落とした。これは師匠がエコのために作ってくれた、大事な杖なのだ。家も焼けてしまったので、師匠の作ったものはこれぐらいしか残っていない。
「師匠……師匠……」
エコはうわ言で、何度も何度も師匠の名を呼んだ。タークは正直言って、エコの師匠への依存心を過小評価していた。
師匠は、エコにとって自分を作った創造主であり、親も同然。そう頭で理解をしていても、その意味を正確に捉えることはできていなかった。両親を嫌うタークにとって、それは無理のないことなのかもしれない。
タークはそうした事実に気づいてショックを受け、眠るエコの隣で、その理由を一晩中考え続けた。そして思い至ったのは、暗い感情――エコが一番頼りにしているのは自分に違いないという、傲慢な自分自身の心だった。
(結局、依存しているのは俺の方なんだろうな……)
――最期にそれに気づけてよかった。…………その時タークの体は、エコ以上に冷えきっていた。タークは何も着ていない。持っているありとあらゆる布は、全てエコの体に掛けられていた。
吹き荒れる強風の音を聞きながら、タークは何も考えずに膝を抱えて座っていた。次第に視界がぼやけてくる。手足の感覚はとうに消え失せ、顔面は凍りついていたが、死の淵に立つことに慣れたタークに、焦りはない。
エコが死ねば、タークにも生きている理由が無い。どちらか一方が生き残るとすれば、それはエコに他ならない。タークは思いつめた果てに、そういう結論に達していた。
それが結果的にエコを悲しませることになったとしても、エコは師匠に会うべきだ。その可能性を潰すことこそ、タークにとって最大のエコへの裏切りだった。
エコを師匠の元に帰す……。タークの思考は、それがエコにとってもっともいいという結論に達していた。
(きっとエコは死なない……)
そんな保証は誰にもできないが、タークはなぜだかそう信じこみ、祈りとともにゆっくりと目を閉じた。




