第三十四話『へんなおじさん』
修行を終え、ソリャから身分を証明する『マナ板』を受け取ったエコとタークは、次第に険しさを増す山道を登っていた。現在地の標高はおよそ海抜1300レーン、森林限界が間近に迫っている。
岩ばかりが目立つようになってきた狭い街道からはいよいよ人の影も消え、もとは氷河が走っていた谷の道は、より一層冷え込みが激しくなっていた。
(このままでは雪が降るかもしれない……)
タークは降雪を恐れた。雪が降ると旅の危険は一気に増す。寒さはもちろん、雪が積もれば雪崩や滑落といった危険は増し、足をとられて旅足は鈍り、食料の入手はより困難になる。
「植物が減ってきたね……」
エコが周りを見てつぶやく。
「あの辺から上は、もう何も生えてないな。雪が積もっていて見えないが」
タークはそう言って、遠くにある山の頂上を指差した。険しい山肌が、冷たい純白に輝いていた。
それは目が潰れそうなほど眩しく、エコが目をすぼめる。
「ここから、どれくらいで目的地なの?」
「この山は今日中に通過したい。反対側の標高の低い山に下りて尾根伝いに歩くと、別の街道があるんだ。そこに着けばあとは1日かからない。そんな距離だ」
「よし、じゃあ急ごう。天気が悪くなってきそうだし」
二人は曇りかけている空へ向かって、なおも歩いた。崖沿いの難所を越え、谷を迂回し、がけ崩れを起こした斜面を登る。大した距離進んでいないはずなのに、時間は着々と過ぎていった。
「……あっ?」
比較的緩やかな斜面に差し掛かったところで、エコがうめき声のようなものを聞いて立ち止まる。道の脇の少し落ち込んだ地面を見ると、そこに人が一人、うつぶせに倒れていた。
「ターク、あれ、人だ!」タークもそこを覗き込む。
「……生きている! どうする」
「どうするじゃないよ、助けよう!」
エコとタークが窪地に降りて行った。………………
――
「すんまねえなー、っはっはっは!! おじさん、助かっちまったよ!! 転んだはいいものの、腹が減って立てねえのなんのって!」
――それは、みすぼらしいとしか言いようの無い人物だった。縮れた毛が薄くまばらに生える荒野のような頭髪にしても、もはや服としての原型をとどめていない着物にしても、歯が抜けてぼろぼろになった口にしても、口で呼吸してもなお臭い体臭にしても、何ひとつとしてきちんとしたところがない。
そしてその愚劣さは外見だけでなく内面にも如実に現れ、おじさんは当然の様に二人についてきて、貴重な食料や水、果てはタークのタバコさえねだった。
タークはそんなおじさんに対して不快感を抱いたが、エコは普段通りだった。エコはおじさんが求めるまま食料を分け、水を飲ませ、タークからタバコを受け取って渡した。
「うごほっ、ごほ!! なんじゃこりゃあ、変わったもん吸ってるなあ!!」
「うん、タバコの葉も入ってるけど、いろんなハーブが詰めてあるんだよ」
エコが説明する。おじさんはまだ咽せている。
「黙って吸えよおっさん」
不機嫌なタークが、怒りをあらわにしておじさんを睨んだ。憎らしいことに、おじさんはタークを全く意に介さずに、エコにばかり話し掛ける。
「ハーブかい、すごく臭いね! ひでえもん吸ってるや!! がはははは!」おじさんが、癇に障る下品な笑い声を立てた。同時に吐き出される吐息を吸い、体臭を嗅ぎとって顔をしかめたエコが率直に聞く。
「おじさんも臭いよ、体拭いてる?」
タークも無言で頷く。だがおじさんは気にする様子も無く、そのまま話し続けた。
「雨が降れば体を洗うけどね、秋になってから寒くってろくにやってねーや! ところでこのままついてっても良いかい? また行き倒れてもいけねえしよ」
「うん、いいよ」
タークの背筋が凍る。生理的に受け付けない人物というのはいるが、これほど強烈に不快感を抱いたのは初めてだった。しかしそんなタークの心中をよそに、エコは快くその提案を受け入れてしまった。
「へー、じゃあおじさんはずっと旅をしてるの?」
「旅なんてご大層なもんじゃない、おじさんはふらふらしてるだけさ! 世間の奴等はそれじゃあだめじゃん仕事をしなさいな~~、なんて言いやがるがね、おじさんは断固たる意志をもって、そいつをはねのけているんだ」
「なんで?」エコが不思議そうに聞く。おじさんはよく聞いてくれたとばかり、声を張り上げて空に叫んだ。
「世の中、あるところには何でもあるもんだよ! おじさんはそれを分けてもらって食いつなぐことに決めてんだ!! 仕事をしろというが、おじさんにとっちゃ、これが仕事みてえなもんだよ。いいか、パン屋は人よりもパン作りが上手いから食べていける。大工は普通よりも大工仕事が上手いから食べていける。でだ………………おじさんは人よりもかわいそうで、哀れで、何も持っていないからこうして食べていけるんだ。があっはっは!」
反吐が出そうな意見だった。タークは終始俯き、心の中でおじさんを罵倒していた。おじさんの声、姿、喋り方の癖やイントネーション、ものを話すときの腕をぶんぶん振り回す大げさな仕草。そのすべてが不快だった。もしもエコがいなかったら、タークはおじさんを殴っていたかもしれない。いや、今でさえそうしたいほど、タークの気持ちは差し迫っていた。
歩くうちに夜が来て、山の中腹の開けた草地でキャンプすることになった。エコが薪を集めて三人分の食事を作り、タークが材料を集めてテントを張る。おじさんは大げさなことを喋るばかりで、働こうとはしなかった。そのくせ、食事になると人一倍食べる。タークの苛つきは頂点に達していたが、相変わらず平然としているエコに免じて、なんとかキレずにとどまることが出来ていた。
食事が終わってからも、おじさんはタークにせびったタバコを惜しげもなく吸い、酔っぱらったように上機嫌になって、大声でしゃべり続ける。
「エコちゃんとタークは頑張ってるんだな! えらいな! にしてもエコちゃんは料理上手だねえ! タークも見習わなくっちゃいけねえ! しかしこのタバコは、慣れてくるとうめえもんだな! さっきはちっともうまくなかったけどよ、くせえばかりだったけど、なんかこう癖になるな! いい気持だ、がっははは! エコちゃんこれ売ったらいいよ、儲かるぜえー! おじさんはこう見えても商売上手だから、見習わなくっちゃいけねえ! お茶、もう一杯くれ。――さてと、明日にはおっちゃんの狩りの腕を見せてやるかな? おっちゃんうめえんだぞ、素手でなんでも獲れるんだからな! 魚だってウサギだって。……それで食いつないできたからな! わけえころは女に貢がせてればそれで済んだけどよ、老け込んでからはそっちはさっぱりでな! 若いころはそりゃあもてたもてた…………」
――こうして、不快な夜が更けていった。
――
タークが目を覚ますと、朝焼けが照らす冷え込んだ草地から、おじさんの姿が消えていた。――悪い予感がしたタークは、すぐに荷物を調べる。案の定、食料と水、タークのタバコ、ソリャに報酬としてもらった貴金属と、宝石の類が無くなっていた。
(あのクソ野郎、…………ぶっころしてやる」
怒りのあまり、思考だけだった物騒な言葉が口から漏れる。タークはそのまま後を追いかけようとしたが、ギリギリ踏みとどまって、まずエコを起こして相談することにした。
「エコ、起きろ。おっさんと荷物が消えたぞ」
「んん? んーー……。おはよ、ターク」エコはすぐに目覚めて、寝たままひとつ伸びをした。
「食料と水が半分、衣類、金を持っていかれた。あのおっさんが盗んだんだ」
タークが唾棄するかのように言う。
「えっ? おじさん居ないの? 大丈夫かなあ……。探しに行こうよ」
エコは焦りもせずに返事をすると、すぐに起き上がって身支度を簡単に済ませた。エコののんきな調子にいくらか怒りをほだされたタークは、その間にテントを畳み、出発の準備をする。重いものだけそこに置いて、まずは近くを探すことにした。
タークはおじさんがとっくに遠くまで逃げているであろうと思っていたので、――――そう離れていない草地でおじさんを見つけた時には、心底驚いた。同時に、辺りを覆い尽くす異様な雰囲気を察知し、身構える。
「――――――っ!!! おじさん! 大丈夫!!?」
エコが叫ぶ。おじさんは、体中血まみれで倒れていた。
「待て! 来るな、俺を助けるな!」
「なんで!?」
エコのその疑問は、当然のものだった。……その異常な状況からすれば。
付近はおじさんの血で赤く染まっている。出血の原因は考えるまでもなく、おじさんに群がる何匹もの犬に似た目のない魔物――――『オゾンゾ・プルーリー』が、おじさんを食べているからだった。
血の宴が催されている。
おじさんは生きながらにして腹を引き裂かれ、引きずり出した肝臓や小腸を、2匹の『オゾンゾ・プルーリ―』の血まみれの口が美味しそうに食べ漁っていた。
少し離れたところでは、ちぎれたおじさんの腕を2匹の魔物がじゃれて奪い合っていた。血の香りを嗅ぎつけて集まった『キシャンシア』というドブネズミのような生き物が、飛び散った血を舐め、肉片を貪る。
おじさんは顔中に脂汗を浮かべ、歯を食いしばって苦痛に耐えていた。見るとおじさんの血でできた池に、タークたちから盗んだ荷物が浸かっている。むっとする血生臭さに耐えられず、エコは袖で口と鼻を覆った。
なんとかおじさんを助けようと、杖を振りだす。
それを見たおじさんは、激しい形相でエコを睨みつけた。
「やめろ!! そういうことじゃあないんだ!! やめろ、おじさんを助けんでくれ……。おじさんはこれでいいんだ、……ほ、ほれ、財布を返すよ。ずいぶん金持ちなんだな……」
おじさんは無理やり微笑みを作って、言った。
エコが、おじさんの片方しかない腕から血まみれの財布を受け取る。
「なんで助けちゃいけないの……?」
「なに、ははは…………こいつらに負けたからだよ。朝早くに起きて荷物を盗んで逃げようとしたところで、こいつらに出くわしてな。とんずらしようとしたんだが、あれが目に入っちまった……」
おじさんが震える指で指し示したところでは、ガリガリに痩せこけてみすぼらしい数匹の魔物の仔がおじさんの内臓を美味しそうに漁っていた。おじさんは虚空を見つめながら、絶望した声で言う。
「これには参った……。こいつらに、哀れと貧乏で負けてしまった!! その瞬間、おじさんはもう言い訳できなくなった。自分より豊かな者からものを盗むのは悪いことじゃないと思ってた……自分よりも持っているものから、ものを頂くのは当たり前だと思っていた……。が、そしたらこんなに哀れな連中には、食い物をやらなきゃいけなくなってしまうんだ……」
おじさんが悲壮な独白を続ける最中にも、おじさんの体からは幾脈もの血の大河が流れ続けていた。おじさんの顔からはすでに血色が失せ、肌は青く乾いている。
「おじさん、痛くないの……?」
エコの体が細かく震えている。
「痛いけどよ……、こうして昔の思い出に浸ってると悲しみが勝っちまうよ…………。辛気臭い人生だった」
おじさんの声は、細く、小さくなっている。話を横で聞いていたタークが、魔物に食われているおじさんをよそに、脇あいに落ちている盗まれた荷物を拾い上げて中身を確認し始めた。
「……兄ちゃん、干し肉があったからそれはこいつらにやったぜ。最初は数匹だったんだけど、集まってきちまった」
おじさんの言うとおり、『オゾンゾ・プルーリー』の数は増え続けていた。食べ物の少ない時期に思わぬごちそうにありつけるとあって、タークとエコには見向きもせず、おじさんの赤い肉にむさぼりつく。
タークは何も言わずに血塗れた荷物から湿っていないタバコを取り出すと、火打ち石を使って火をつけた。それを、おじさんの口にくわえさせる。
「最後の一服といけよ。痛みが紛れる」
おじさんが最期の笑顔を作った。
「ありがとうよ、あんちゃん、俺が嫌いだったろ? 俺もそうだ、あんちゃんが嫌いだよ」
自然な微笑みだった。
「エコに内緒で殴ろうと思ってたよ。お互い嫌いとは、気が合うじゃねえか」
タークも微笑んだ。
「おうよ……。そろそろ行ってくれよ、しゃべりづらくなってきたんだ……お前たち、こんな風に死んでいく俺を見習っちゃあいけねえ……うあ……うーーーーー。……」
タークは一度目を閉じると、踵を返してエコを連れてその場を離れようとした。エコは黙って寂しそうに、後ろを向いたまま歩いて行く。しかし、草地におじさんの姿が隠れそうになったところで、エコが急に立ち止まった。タークも振り返って、おじさんの方を見た。
「もうだめだ。死んでるよ……。行こう、エコ」
「うん」
一度はそう言ったエコだったが、タークの顔を見て、すぐに言い直す。
「……ターク、やっぱり見てていい? あの子達がおじさんを食べ尽くすまで見ていたいの。……生きているって、難しいね」
タークは無言でうなずいた。
それからしばらく時間が経ち、ついに二人の目の前で全てが終わった。
――
――え? なんであんなにおじさんに優しかったって? う~ん……似てたから、かな。
――似ていた? 誰に……
――師匠に似てたの。だらしないところとかね(笑う)。……世話焼いてあげなきゃ、師匠はダメだったんだよ。そういう感じだから、懐かしくって。
――そうか。
二人は、おじさんを最期まで見届けてから、ずっと無言だった。口火を切ったのがタークで、その質問は「なぜおじさんに優しかったのか?」だ。
静寂が支配する山裾の道に、二人の足音だけが鳴り渡っている。――タークは、自分がなぜあおおじさんに嫌悪感を抱いたのか、その答えに気がついて愕然とした。
「――父親に似ていたんだ……」
それは虚空に向けて発した小さなつぶやきだったが、聡いエコの耳はその音を捉えた。
「お父さんに?」
自分では声に出したと思っていなかったタークが少し驚く。だが、そのまま話し続ける。
「ああ。最低最悪の男だったよ。すべて自分の好きにならないと気がすまないくせに、自分じゃ何もしたがらない。そして、自分にとって都合が悪いとすぐに怒鳴って暴れるんだ。その時のあいつは、子供みたいだったよ。なんなら、さっきのおやじの方が人間が出来てる」
「……タークのお父さんなのにね」
「それも分からない。母も母で、どこの男とでも寝てたからな。……」
……それも、ラブ・ゴーレムよりも安値で。タークはそう続けようとしたが、エコに話す内容ではないと思い至って、口をつぐんだ。エコはエコで、「寝る」という隠語の意味が分からず、前後の話の辻褄を合わせようと、必死に頭を働かせていた。
そうして沈黙が戻ってくる。空は鈍い灰色に包まれ、冷え込みは厳しさを増していた。




