第三十話『ハーピィ族の少年』
遠く遥かに見えるのは、白い冠を戴いて聳え立つ、青々とした山稜の連なり。天に輝く太陽はただただ眩く、高く澄み切って呆れるほど明るい空は、ただひたすら廣い。そんな高空の彼方を、竜の如く唸る強風が節操なく吹きすさんでいる。
そんないつも通りの朝。カイランは、今日が初陣だった。
白黒斑の翼に黒髪が凛々しい少年はまだ15になったばかりで、整った顔立ちにはまだいくらか幼さの余韻が残っている。だが周囲の大人達は、その顔が今日を境にぐっと大人らしくなることを知っていた。
ハーピィ族の二大勢力のひとつである『青の谷』の軍勢約八百人は、皆揃いの戦装束に身を包み、南方角の神である『あこりるよ』を称える詩を全身に書いて、神の加護と勇気を受け継いだ誇り高い戦士たちだった。
各々、この日のために翼には念入りに松油を塗りこんであり、手には手入れの行き届いた二股槍とケナガヤギの腸を撚った弦を張った強弓が握りしめられている。
カイランは帯の紐をきつく締めると、自分の武器をひとつひとつ丁寧に改めていった。鋭く尖った二股槍、腰に差した短刀、父が直々にこしらえてくれた強弓。
矢筒には、自分の抜け羽で作った矢が整えて入れてある。カイランはその中の1本を取り出し、しげしげと眺めた。カイランの抜け羽である白黒斑一色の矢筒の中で、その矢羽だけは綺麗な玉虫色をしていた。
「なあカイラン、その羽はビストクヤちゃんの羽だろ?」
カイランの後ろから、カイランより少し大人びた青年の声。カイランは目を羽に向けたまま応答する。
「そう。頼んで分けてもらった。この羽に賭けて、今日は勝つ」
「お前なら大丈夫さ。他の大人だって、お前のことだけは全然心配しちゃいない。才能の塊だって話だ。あそこでビビってる俺の弟なんか、心配でしょうがないけどさ」
大人びた青年はそう言って、自分の肩越しに後ろを指差した。
「アナメクが?」
カイランがそちらに目をやると、灰色の髪の少年が地面に座り込んでいるのが見える。俯いていたので顔は見えなかったが、肩が震えている。
「無理もない。あいつは結婚したばかりだからな。しかも、卵が産まれてる」
「ちょっと勇気づけてやっちゃくれんか? そろそろ出陣だというのに、震えが止まらなくて装束もまともに着られんのだ。帯は俺が締めたんだぜ?」
青年はそう言って、僅かに嘲りの色を含ませて笑った。
「わかった」
カイランはたくましい趾で大地を蹴り、一跳びで10レーン程の距離をまたいで、アナメクの横に着地した。アナメクは突然太陽を背にして現れた人影を見て仰天していた。
「アナメク! どうした、この程度のことで驚いて? 昨日は勇んでいたじゃないか。まるで、一夜で人が変わった様だな。いつもの勇敢さはどうしたんだよ。吊り布団に忘れて来たのか?」
カイランは明るく言った。カイランはアナメクより3才歳下だったが、前向きで親分肌のカイランと引っ込み事案で優しく付き合いの良いアナメクはお互いよく気性が合い、昔から仲が良かった。
アナメクは逆光になっているカイランの顔をしばらく見つめていたが、やがて視線を落とし、沈んだ表情になった。
「カイラン……。でも、手が震えて……とても弓を引ける気がしないんだ。僕は飛ぶのが遅いから、いっぺん外したら、直ぐに切り殺されちゃう」
「余計な心配をしてどうするんだ。俺だって戦に出るのはこれが初めてだし、手も震える。だが、一度出てしまえばすぐに止まるさ。……狩りと一緒だよ。最初は獲物を射るなんて出来ないと思っていても、やってみると案外容易いものだ。……それに、アナメクは本番に強い」
「そうかな……。ありがとう。カイラン……ね、矢を交換してくれない? カイランの矢があれば、僕も心強いんだけど」
カイランは矢筒から出来のいい矢を1本見繕って、アナメクに手渡した。アナメクも同様に、カイランに矢を渡す。
信頼のある戦士同士が交換した矢は、互いにとってなにより貴重なお守りになる。よって戦いの時も滅多なことでは使わず、戦いが終わると互いに返還する。それは遠い昔からある戦士の習わしだった。
アナメクの表情がいつもの落ち着きを取り戻すと、カイランはほっと息を吐いた。
(これで大丈夫だな)
二人がいる場所よりも少し高いところに張り出した崖の方で、賑やかな音楽が鳴りだした。原始的な太鼓と、撥で弦を弾くタイプのハープ、『バソップ』の音色。
戦士の士気を上げるための勇ましいメロディーに、カイランは思わず奮い立った。幼いときから聞いている曲だったが、丘の下で聞くのと初陣の直前に聞くのとでは、なぜか全く違った曲に聞こえる。
大人が「子どもにはわからん、あの曲の良さは」と口をそろえる訳がようやく分かったカイランだが、そんなことはどうでもよくなっていた。
身の底から起こる猛りが全身を震わせて仕方が無い。緊張なのか、武者震いなのか。それとも、何か背筋が凍るような出来事でも起こるのだろうか。
漠然と想像力を働かせていると、アナメクがゆっくり立ち上がり、賑やかしい方へと歩いて行った。表情に落ち着きが戻っている。ほっとしたカイランも余計なことを考えるのをやめて、負けじと歩きだした。
――――
カイランが所属するのは、【五長】の一人であり、勇猛さでは比肩するものがないといわれる戦士、キルティル=ハンの隊だった。
【一翼五長】と言われる戦士の体制は、一人でおよそ百名ほどのハーピィを指揮する五人の長【五長】と、それら全てを含んだ全軍を指揮する【一翼】からなる。
『青の谷』首長にして最強の戦士――――【一翼】ことキュザ=ハクリンが、カイランの父親だった。【一翼】、および【五長】の内3隊は、既に戦空に向けて飛び立っている。カイランが居るキルティル=ハンの隊は後発、戦空の戦況を見て適切に支援行動をとる、重要なポジションだ。
将来を期待されているカイランは今から戦の全体観を養う必要があると、このベテラン揃いの隊に入れられた――。
昨日そのような話を聞かされたが、カイランはこれを息子の命を危ぶんだ父親の手回しだと思っていた。それが今のカイランには、歯がゆくって仕方が無い。
先ほどから勇んで勇んで震えが止まらないというのに、父上の計らいでこんな後に飛び立たなければならないとは!
そんなカイランの心中を見透かしていたかのように、カイランの隣に立っていたベテランの戦士ハッドラッカが声をかけてくる。
「カイラン。誤解しているらしいが、お前の親父はな、お前を前線へ投入する事を望んでいたぞ」
「なんですって!? ハッドラッカ殿。それは本当の事でしょうか?」
カイランが、長身のハッドラッカの顔を見上げる。
「ああ。だがそういう贔屓は出来ない事になっている。前線に出たいのは誰でも同じだ。だから今度の陣組は、いつも通りくじ引きで決められた」
「くじ引き……!!??」
カイランは驚いた。戦の陣組といえば、戦いの勝敗を決める重要な戦略的段階のはず。それをくじ引きで決めていたとは、到底信じがたい事だった。
「知らんかったろ? いや、考えて組むよりむしろその方がいいんだよ。なにしろ戦士の本能でくじを引くのだからな。間違いがあればそれは引いた戦士の心がけがまずいのだ。お前は素晴らしい奴だ。キルティル=ハンの隊に初回で入ってしまうのだから」
「はい。【五長】のキルティル=ハンといえば、男は皆憧れます」
カイランは強く頷いて言う。
そこへ、鋭く風を切る石笛の音がした。出立の合図だ。前に立っていた戦士たちが順に崖に向かって駆け出し、切り立った崖から次々と飛び降りていく。
と思うや、逞しい翼を広げ、登り風を掴んで一気に上空へと飛び上がる。カイランは突然静かになった自分の心を不思議に思いながらも、その後に続いて崖を飛び降り、風に身を預けた。戦空へは、5000レーンも飛べば着く。そこではもう、戦いが始まっているはずだった。
――――
――戦闘状態になったハーピィの塊は「ハーピィ玉」と呼ばれ、近隣住民から恐れられている。なぜそんな名が付いたのかと言うと、縦横無尽に入り乱れて飛ぶハーピィたちを地上から見ると、まるで黒い玉の様に見えるからだ。
低空では高度200レーン、高いときだと7000レーンもの上空で行われるハーピィ同士の戦闘は、戦況に応じて非常に不規則かつ無制限に戦域が広がるという性質をもつ。
逃げる将を追えば1時間に20キロレーン以上戦域が移動することもあり、その間に放たれる分当たり数千発もの流れ矢が、地上の広い範囲に降り注ぐことになる。
もちろん大抵は人の住まない僻地に落ちるのだが、「ハーピィ玉」が見える範囲内には、いつでも槍や矢といった凶器、あるいは死体が降ってくる危険性があった。
空を飛ぶハーピィは人間に比べれば体重が軽い。とはいえ、落下した死体が直撃すれば家の屋根には大穴が空くし、人にぶつかれば当然命はない。よってハーピィ同士が戦争している時、地上の人々は戦々恐々としていなければならなかった。
そんな「ハーピィ玉」の中にカイランが加わったのは、飛び立ってから数分も経たない内だった。
キルティル=ハンの指示により左翼の隊の援護に加わったカイランは、翼を畳んでの直滑降から鋭い爪の一撃で一人、さらに近くに居た別の一人を電光石火の早射ちで射落とすと、その隙に背後から放たれた矢をとっさに翼を閉じて躱し、頭から落下した状態で射った矢を見事その戦士の翼に命中させて、態勢を崩したところを持っていた二股槍で突き殺した。
初陣にしては鮮やかすぎるその手並みに、周囲の仲間達が目を見張る。
そんなことは全く気にかけないカイランは更に敵陣に切り込み、四人のハーピィを順に討って行った。
カイランが最後の一人を突き殺したとき思いのほか深く刺さってしまった槍をどう抜こうかと動きを止めて四苦八苦していると、気配も無く天から降って来た戦士に、突然槍を蹴落とされた。カイランがゾッとして体を強張らせる。
「カイラン! そんなに深く刺さった槍はもう使えん! 戦地で槍は、こぉーーうぅーー使えぇぇぇー!!」
その戦士は威勢よく叫ぶと、激しく翼を打って近くの敵の三人組ハーピィに突進していき、手にした槍をたった二度きり振るっただけで、その体躯を寸断して見せる。あっという間の出来事だった。
槍を蹴落とされた当のカイランはそれが誰かも認識出来ないまま、その光景を眺めていた。だがその戦士が振り返り、ゆっくりとこちらに近づいてくると、やっとそれが誰だか分かる。
「カイランよ、分かったか! へっぴり腰よのう!」
「……父上!?」
まさか戦空に着いて10分もしない内に父に会うとは! カイランの父キュザ=ハクリンは猛禽類を思わせる翼を打ちながら、戦空にいるとは思えないほど豪快に笑っていた。
「本来戦空で気を抜くなと怒る所だが、今回は全く話が違ってな。連中、弱すぎるわ! 既に大勢は決したぞ! はははっは!!!! 弱すぎるわぁーー!!!! 聞こえてるのか!? お前達に言っているんだぁーー!!」
青の谷最強の戦士、【一翼】たるキュザ=ハクリンが高らかに叫ぶと、大将首に気付いた周囲の敵が一斉にキュザに向かって矢を放ってきた。その瞬間放たれた矢の数は、ゆうに100本以上。更にその数秒後には、油断の無い2射目の矢が、波のようにキュザに打ち寄せていた。
キュザはすばやくカイランの手を掴むと、一気に落下体制に入った。翼を畳んでの急速落下は、ハーピィの緊急回避の方法だ。シンプルだが、落下する者に対して致命傷を与えることは非常に難しい。
キュザの場合は更に、地に向かって強く翼を打つ『逆さ打ち』という技を加えて、落下速度を増していた。
周囲のハーピィたちは、当然その行動を予測している。
全力の急速落下は、時に弓矢の射出速度にすら勝る。よってキュザと同じく『逆さ打ち』で追撃した三十人ほどの戦士たちが、手に槍を持ち替え、落下中のキュザに襲い掛かってきた。カイランも微力ながら応戦しようと腰の短刀に手をかけたが、すさまじい風圧に耐えられず、まともに目を開けていることすら出来なかった。
適当な高度まで落ちたところでキュザは翼を一気に広げ、急激なブレーキをかけた。突然の加速、次いで空気の壁に激突したに等しい急減速を食らったカイランは、危うく意識が飛びかけた。二人が止まる瞬間を狙って槍を突いて来た手練れらしき戦士三人を、キュザの長槍が目にもとまらぬ速さで叩き落とす。
カイランが意識の糸を必死で手繰ってぼんやりとした視界を精一杯凝らすと、いつの間にか、落下していくハーピィの数は更に二人増え、全部で五人になっていた。その時にはカイランの手からキュザの手の感触は無くなっており、すぐ後ろから戦士の断末魔が重なって聞こえた。断末魔の聞こえた方を振り向くと、六人目と七人目の身体が腰で離れて二つずつになっていた。
――続いてキュザの落下にほどほどでついてきて上空に待機していた約二十人程の戦士が、一斉に弓を構えて雨のように矢を降らせて来た。
下からは、キュザの減速についてこられなかった若い戦士十数人が、懸命に翼を打って駆け登ってくる。
「持ってろ」
キュザはカイランに槍を投げ渡すと、背負っていた強弓を取り、上空めがけて5本の矢を放った。槍を受け取ったカイランは目を凝らしてその姿を見ていたが、それでも手が僅かにぶれたようにしか見えないほどの早業だった。
(……なんだこれは! さっきから……)
キュザの矢を受けて脇を落下していく敵の戦士を見て、カイランは絶句していた。
「鬼だ」と人から聞いてはいたが、これほど強いとは想像もしていなかった。矢の雨を身体を捌いてやり過ごした父は、そのまま遥か上方にいる射手たちを、片端から射落として行く。胸を貫かれて捨て鉢になった戦士が、そのまま父に向けて特攻を仕掛ける。父はその戦士をあしらうと逞しい趾で勢いよく蹴落とし、下から迫る戦士への攻撃へと転化していた。
キュザは上方に残った戦士数人が遅れてやって来た味方の急襲を受けて壊滅するのを見て取ると、下から登ってくる戦士に次々と射かけた。キュザの射撃の腕は凄まじく、矢を射る度にばらばらと戦士達が落ちてゆく。キュザは最後に残った一人に組み付いて、背の矢筒と槍を奪った。同時に翼と首を切り落として絶命させる。
キュザは奪った矢筒を自らの背中に巻きつけると、翼ひと打ちであっという間に70レーン程の高さを昇り、カイランの横に並んだ。
「終わったな。カイラン、トレアラングルを見なかったか? やつめ、姿を見せようとせんのよ」
「見ておりません」
トレアラングル=プレットシー。現在戦っているハーピィ族『赤の谷』の首長の名だ。父とは好敵手らしいが、カイランは見たことがない。預かっていた槍を返しながら、カイランは尋ねた。
「今回の戦いはどういう状況ですか?」
「楽勝だよ。やつら実に弱いな。手応えが全くない。この分だとこちらの損害は100にも届かんかもしれぬ。どうも、いつもいる敵の精鋭たちが出陣しておらんようだ」
「……なにか裏があるのでは? 陽動であるとか……。こういった隙を生じさせて本陣、『青の谷』を襲うというのは悪い策ではないかと思いますが」
「……なにーーぃぃい!??」
キュザの表情が変わった。それを見てカイランは、自分の読みに確信を持つ。
――陽動作戦。こういう違和感のある戦では、裏でそういう作戦が展開されることが珍しくない。だとすれば、一刻も早く谷へ戻らなくては!
そう思い、「谷へ!」と叫びかけたカイランは、父の方を振り向いて仰天させられた。父のいかつい相貌がぐしゃぐしゃに崩れ、なぜか両目に涙すら貯めていたのだ。しかも、どうやら嬉し泣きらしい。
「お前もやるようになったなー!! 父は嬉しいぞ。とても初陣とは思えぬよ」
キュザは本気で泣きながら、上空、しかも戦場にも関わらず、カイランの身体をきつく抱きしめて来た。
「さっきだってそうだろ!! お前多分無意識でやってるんだろうが、俺を狙った矢の中にはお前を射殺す『含み』を持たせた矢が数十発はあった。お前ってやつは俺の動きを凝視しながら、そいつを全部躱しやがるんだもんな!!! 俺だって矢が3発当たって、26発掠めたぞ」
そう言われて父の身体を見てみれば、確かに背中と肩に矢が3本刺さっている。かすり傷はおびただしく、抱きしめられたカイランの身体も、キュザの血で少し濡れた。
「しかし父上!! 陽動だとすると谷へ急がなければ――」
「お前の言ったその作戦はもうキュイハッチュが読んでるよ。最後発のアイツの隊は、出たと見せて谷へ戻った。大丈夫だってよ。さっき伝令が来たしな」
それを聞いて、カイランは自らの思い上がりを恥じた。腕が立つのも勿論だが、参謀キュイハッチュ――――【五長】の筆頭ともなれば、頭のキレも素晴らしいに決まっている。
「ならばこの戦いをすぐに終わらせましょう! 私も、一人でも多くの者が痛まぬように援軍に参じます!」
「うむ。それでこそ我が息子よ。俺はちょっと行ってトレアラングルと決着をつけてくる。気をつけろよ」
父と子は、そう言って別れた。……それが父との最後の会話になると知っていれば、カイランは父を父上と他人行儀に呼びはしなかっただろう。それが唯一、悔やまれた。
――
「戦況はどうだ!? アナメク!」
「カイラン! 無事でよかったよ!」
父との別れから数時間後。救援の要りそうな空域を選んで転戦を繰り返したカイランは、その全てで初陣とは思えない戦果を上げながら、最後にはアナメクと再会した。もう戦況は完全にこちらのもので、相手陣にも隠し切れない動揺が見られるようになっていた。
恐らく、夜が来て停戦になるまでに決着がついてしまうだろう。鳥目のハーピィは夜間飛ぶことができないので、夜に戦闘が行われることはない。現在の時間はまだ昼と言ってよく、地平線に日が入るまでにはまだかなりの時間があった。
「カイラン、怪我はない?」
アナメクが心配そうに言う。既に周辺に敵影は無く、この空域で攻撃を受ける心配はしなくてもよさそうだった。
「かすり傷ひとつないとも。アナメクこそ平気か? 血が付いてるじゃないか」
「これは僕の血じゃないよ。さっき槍を使ったからだ」
「そうか。勇ましかったんだな」
言いながら二人は、戦いの音がする方を見た。4000レーン程向こうで、数十人のハーピィたちが激しく交戦している。しかしどうやら戦力は一方的らしく、敵方のハーピィが次々と落ちてゆくのが見えた。
「かなり勝ってるみたいだね……。危ない場面も無いみたいだし。油断はしたくないけれど」
「父上も楽勝だと言っていたな」
「そうなんだ……」
二人が滑空しながら話していると、少し遠くの戦闘空域に黒い雨が降った。それを浴びた味方のハーピィが何人か落ちていくのが見える。
「あそこ、どうしたんだ! 辺りに敵はいないのに」
アナメクが声を上げる。カイランがすばやく周囲を警戒したが、敵の影は全く見えなかった。
「一体どこから……」
二人はしばらく警戒を解かなかったが、それから先、黒い雨が降ってくることはなかった。
――
「キュザ! どこからか矢が飛んでくる。こちらも大分やられた。トレアラングルの奴だ!」
「厄介だな……。上か?」
丁度同じ頃、最前線での殲滅戦を終えた【五長】キルティル=ハンと【一翼】キュザ=ハクリンが話していた。敵の首長トレアラングル=プレットシーは未だ戦空に姿を現さず、キュザは焦れていた。
「あんのアマ~~!! 小癪な! ぶつかれば俺に敵わないと見てやがるのか!?」
「この戦力差ではこちらの方がプレッシャーが与えられると思ったのだろう。……どうする」
「どうせ上空からの射撃だろ!? だったら太陽までだって昇ってって倒す! それしかあるまい?」
キュザが上空を見つめ、猛々しく吼える。しかし、キルティルは首を横に振っていた。
「見目の効く奴にいくら天上を見張らせても、影も形もないんだ。こんな事あるのか? 雲もろくにない天気だっていうのに」
「太陽を背負ってんじゃねえのか。それ以外考えられんだろ?」
「いや……。しかし違和感がある。さっき連絡をやったら、ああいう矢の攻撃が戦空全域で散発的に起こってるらしい」
キルティルは考え込む。せっかちなキュザは次第に我慢ができなくなり、太陽の方を睨みつけていた。
「……地上だな」
キルティルが呟く。その声音には、確かな自信が伺える。
「地上だと?」
キュザが眉を寄せて言うと、キルティルが頷いた。
「トレアラングルはよく分からん妖しの術を使うからな。見目に引っかからないとなるとそれしか考えられんぞ」
「じゃあ捜索隊をやって調べさせるか……。キルティル、頼んでいいか? とにかく俺は、この空域を制圧する」
「分かった。じゃあまた後でな」
――
カイランとアナメクは、そのままトレアラングルの捜索部隊に入ることになった。体勢を立て直すため一度本陣に引いてから、部隊編成が整うまでの小休止を許される。
敵の首長トレアラングル=プレットシーとは、いかなる人物だろうか。カイランはこれまでの戦の経緯から、なんとなく卑怯で臆病な人物像を描いていた。
「それは大間違いだ」
突然後ろから声をかけられ、カイランは驚いて振り返った。声の主は、先ほどと同じ戦士ハッドラッカだ。
「ハッドラッカ殿! あなたも捜索隊ですか?」
「ああ。いい加減にしねえと夜になっちまうからな。もしも夜射かけられたら、もうどうしようもねえ。火を使われりゃ負けるかもしれん」
戦士ハッドラッカが今の状況を明快に説明すると、話はトレアラングルの人物像に移った。
「戦士トレアラングルは、むしろキュザを越えるほどの戦バカだ。キュザとは何度も何度もやり合って、そのたびに両方とも時間切れになるまでボコボコにやり合ってるほどのな。キュザの古傷はみんなアイツにつけられたようなもんだ」
「そうなのですか……」
カイランはふと父の尻を思い出した。キュザの尻は通常の割れ目に対して直角に交わる裂け傷が走り、4つに割れている。戦傷だと言っていたが、あれもトレアラングルにつけられたのだろうか。
「だからこんなこすっからい戦術はやらない奴だが……。側近に知恵者がついたかな。それも相当優秀な……」
ハッドラッカは少し考え込んで、考え込みながらトレアラングルの話題を続けた。
「トレアラングルがどれくらいの戦バカなのかというとな、アイツは幼児と言っていい頃から戦空へと出てきていたんだ。7歳位からかな」
「そんなに早く――?」
アナメクが驚きの声を上げる。
「うむ。いや、しかし流石に始めは戦士達も可哀想がって、トレアラングルに向けて弓は撃たなかった。しかし力の伸び目覚ましく、その後たった数戦後にはトレアラングルはいっぱしの戦士として戦うようになった。身長の数倍もの長さがある槍を器用に操り、こちらにとっても無視できない存在になった。その頃俺はまだガキで、そんな戦士がいる事は聞かされなかったけどな。なんせキュザすら戦空に出てない時分よ」
キュザが初陣に出たのは、カイランより早い12歳ごろだったという。キュザより早く戦空に体を舞わせた戦士は、青の谷には居ない。
「トレアラングルは槍でも強かったが弓の腕は無双の一言だ。しかしある時期から、戦で弓を持ち出さなくなった。まだトレアラングルは少女だったが、すでに周辺の谷でその存在は有名だった。すぐになぜ弓を使わなくなったのかと、様々な憶測が飛び交った。……なんでだと思う?」
ハッドラッカが口元に笑みを浮かべ、二人に問いかける。少し考えた後、アナメクが答えた。
「弓を携えると、どうしても飛びにくくなります。その為ではないですか?」
「否。トレアラングルはその程度の事が問題になる戦士ではない」
ハッドラッカは笑って答える。次はカイランが口を開いた。
「成長期に入って体が変わり始めると、射撃の感覚が変わる時期があります。腕の長さや、力の出し方の調節がしづらくなって弓の照準がぶれる。トレアラングルもそれに直面したのでは?」
「ふむ。近いが、違うな。いや、確かにそれもあったかもしれん。トレアラングルはなかなかの美女でな、戦士とは思えぬ戦の華だった。それが次第に女の体つきになって……。特に乳房の成長が早かったのよ。射撃の邪魔になるほどな……」
「……はあ。」
アナメクは拍子抜けしたように、情けない相槌を打つ。それはカイランとハッドラッカの微笑みを誘った。
「……だが、恐ろしいのはここからよ。トレアラングルは槍だけでも十分強かったが、やはり男の戦士の方が基本的な腕は上よ。しかも、弓が使えないと知られていればそれに付け込む戦い方をされる。そうなるとさしものトレアラングルも、思うように戦場で活躍できなくなっていた。……そんなある日、トレアラングルの赤の谷と、当時隆盛を誇っていた黒山の戦士が激しい戦をした時のことよ。汚い罠にはまって親しい戦友を一気に失ったトレアラングルは炎のように怒り狂い、その場で自らの双乳を切り落とすと、敵から弓と矢筒を奪い取って瞬く間に100を超える戦士を撃ち落としたそうだ。そこからトレアラングル=プレットシーの名が一気に広まった。それまでのような笑い交じりの噂話ではなく、真に尊敬すべき戦士として」
ハッドラッカが話し終えると、それを見計らったかのようなタイミングで石笛の音が鳴り渡った。トレアラングルの伝説がカイランたちの胸に驚きと恐怖を残したまま、二人は再び出陣の時を迎えた。
――
その後の捜索隊の捜索によって、トレアラングルの敷いた陣はいともあっさりと見つかった。
そこは森の中の少し開けたマナ・スポットらしき空き地で、弓を持った数十の戦士が巨大な魔法陣の上に立ち、戦空に向かって射撃を繰り返していた。百人余りいる捜索隊がそのまま陣の殲滅に入ると、陣はたやすく崩壊した。しかしそこにトレアラングルの姿は無かった。
「どういうことだ? トレアラングルはここにもいない」移動中、カイランがアナメクに聞く。
「ひとつだけじゃないんじゃないかな? 魔法陣があるってことは、もう術者いらずだ。それなら幾つかに分けておいた方が、狙いがバラけていい」
「なるほど。頭がいいな」
確かにその通り、似たような陣が地表のあちこちにあった。しかし視力の高いハーピィ族にかかれば、それらを見つけるのにそう時間はかからなかった。結局夕方を回る前に6つの陣を潰し、それで射撃が完全に止んだという報告が来たので、捜索隊はそのまま解散することになった。結局トレアラングルは見つからなかったが、これ以上時間をかけるのは望ましくない。その決定が下ったときには既に日が傾き、山陰に半分以上隠れた太陽は、直視できるほどに輝きを失っていた。
伝令の伝えてきたところによると、戦には勝利したらしい。キュザらの活躍で敵の将を討ち取り、「赤の谷」のハーピィたちは散り散りになって敗走した。捜索隊は勝利の報に沸き、帰途に着く戦士たちは今夜の酒宴の話で盛り上がった。
間延びした戦列で、カイランとアナメクが最後尾を並んで飛ぶ。二人とももうくたくたに疲れていて、翼を出来るだけ動かさないようにしていた。辺りはだいぶ薄暗くなって来ている。すっかり暗くなってしまうまで、そう時はかからないだろう。
「結局何だったんだ? 相手の狙いは。ただ徒に戦力を分散させて、遣ってしまっただけじゃないか」
釈然としない様子のカイランがこぼす。アナメクは少し目を伏せた。
「……僕はいいと思うけどな、戦いは楽な方が。危ない目には合いたくないもの、キュララが心配するよ」
キュララとは、アナメクの妻である。カイランとも仲が良く、昔は三人で兄弟のように遊んだものだ。その名を聞いて、険しかったカイランの表情がほころんだ。
「…………そうか、そうかもな。……そうだよな、俺は少し舞い上がっていたのかもしれない。初めての戦で、自分の武を確かめられたから――。まずいよな」
カイランが、目を伏せて自嘲気味に言う。
「でも、僕はカイランの活躍が嬉しいよ。さっき空で会ってから、カイランの動きを見て僕、やっぱりカイランは違うって思ったもの。ねえ、何人倒した?」
「数えてない、殺した数なんか」
カイランはこれまで行った全ての戦闘で、並外れた武功を立てつづけていた。先ほども敵の部隊長を雷のような一撃で討ち取り、戦士ハッドラッカをして「かつてのキュザの様だ」と言わしめる程の戦いぶりだった。
「カイランは昔からすごかったけど、さっきの戦いなんかは全くもう……見てて戦士としての質が違うんだな、と思ったよ僕」
それを聞いたカイランは僅かに顔をしかめ、軽く翼を上げると、一度だけ羽ばたいた。体が風に乗り、ふわりと浮かび上がる。
「アナメク……。俺は少し怖いんだ、戦いになると体が勝手に動くんだ。なんだか別人が俺に憑りついたかのように、……敵の矢もどこに来るか分かる……。感覚を掴んだ」
アナメクも羽ばたいて、カイランと高度を合わせようとした。だが、意外と上手く行かない。やがて諦めて翼を止め、ぽそっと呟く。
「才能なのかな……」
並行に飛んで話しながら、切り立った崖の脇に差し掛かる。二人は勝報に浮かれて間延びした戦列の最後尾にいた。捜索隊は、既に大多数が崖を迂回して谷に下りている。本陣まではあと少しだ。そんな状況が産んだのは、致命的な油断だった。
風の中に微かに混ざる異様な気配を察知して、カイランは突然振り返った。
「どうかした?」
驚いたアナメクが尋ねる。しかし、その声はカイランの耳には届かない。
言葉にならない悪寒を感じて、カイランはとっさに身を躱した。するとカイランの頭があった空間を、殺意の塊が高速で通り過ぎていった。カイランの背筋に電撃が走る。全身が熱くなった。
――――矢!!
カイランは辺りを見回したが、暗くなった空のどこを見ても、射手の姿は発見できない。だが風の吹く音に混じって、微かに翼が風を切る音がした。そちらに集中して目を凝らすと、信じられないほど遠くに、やっと点のような影を見つけた。
「敵だあー!!」
アナメクが絶叫した。だが突然吹きはじめた強い風のせいで、崖の影に隠れたハーピィたちにはその声が届かない。
黒い影は翼を大きく羽ばたかせ、ひと打ち毎に急速に接近して来る。瞬く間に相対距離が縮まり、カイランにもその姿がはっきり見えるようになった。
――まず目を引くのが、ウェーブがかった桜色の長髪。筋肉質だが明らかに女性のものと分かる小麦色に日焼けした肌には、無数の戦傷が縦横無尽に走る。その中でも一際大きい胸の傷跡が、カイランの脳裏にある名前を浮かび上がらせた…………酋長トレアラングル。
「アナメク、逃げろ!! 隊と合流するぞ!!」
言うや否や、カイランとアナメクは後方へ向かって全力で羽ばたいた。
「逃げんな、ガキィーーーー!!!」
そんな二人の動きに呼応して、トレアラングルが叫ぶ。同時に背中の翼こぶ(翼の基部にある骨と筋肉の隆起)が大きく盛り上がり、翼を風に思い切り叩き付けた。羽ばたきが生んだ気流の渦によって、トレアラングルの体が高速で前に押し出される。それはまるで、見えない巨人に蹴り出されたかのような加速だった。
隼に狙われた雀は、どうあがいても逃げることが出来ない。それと同じように、二人もトレアラングルから逃れることは不可能だった。
カイランはすぐにその事実に気がつき、顔中に焦りを浮かべた。もしかすると、あの女は父上よりも早いかもしれない。だとすれば、とても逃亡は敵わぬ。せめて少しでも先に射掛けて、手傷を負わせるしかない!!
そう判断したカイランは、翼をくっと風に立てて高度をとった。身を捻ってすばやく後ろを向くと体にかけてあった弓を取り、腰の矢筒から矢を引き抜く。
「逃げは止めだ、迎え撃つ!!」
自分に言い聞かせるような叫びと同時に放った矢は、風に煽られて大きく逸れていった。
「いい度胸だ、この状況でやる気を出すかい! やはり放って置けないガキだね!!」
トレアラングルは少年の勇猛な判断を評価すると、翼を持ち上げる大背翼筋を小山のように盛り上げて、更に強く羽ばたいた。打ち出された体は更に加速し、トレアラングルの軌跡に小さな竜巻が起こった。
(また早くなった……!!?)
カイランは、5回のチャンスがあると見積もっていた。トレアラングルがこちらに接近するまでに、矢を番えて狙いをつけ、弓を引く機会がそれだけあるだろうと。しかし今の速度だと、急いで3回……。これから距離が短くなって行くとはいえ、まともに狙うには遠い間合いだ。これで3回は、少なすぎる!!
強く吹く追い風が精一杯カイランを勇気付けようとしていたが、カイランにはっきりと自信を持たせるには至らなかった。流石のカイランも、手のひらに冷汗がにじむ。本心では、逃げ出したいほど怖かった。
そんなカイランの横に、アナメクが飛び上がってきた。カイランは顔も向けずに話しかける。
「……お前だけでも逃げろよ。キュララが悲しむだろ」
「意気地のないこと言わないでよ。そんなわけにはいかない」
カイランが横を向くと、アナメクの覚悟した横顔が目に入った。昔から、アナメクは追い詰められると妙に強気になる時があった。こういう心境になったアナメクほど、心強い味方はいない。そんなアナメクを見て、カイランもいつもの落ち着きを取り戻すことが出来た。
「そうか。……分かってるのか?」
「うん。あれがトレアラングルだね」
アナメクの声は冷静そのものだった。カイランの唯一の心配は無用だったらしい。
「……じゃあ頼むよ。風向きは西に4だ。追い風が吹いている。あそこの風の層に乗せて放てば、届くから」
「カイランの矢の軌道、見てたよ。……ちょっと遠いな」
「よし……やるか」
「うん」
二人が同時に、矢を番えた。
「雰囲気が変わった……? 集中しているようだね」
その姿を見て、トレアラングルの顔から余裕の表情が消えた。こちらに向けて弓を構えるあの二人は、既に戦士として目覚めかかっている。――宿敵キュザの子カイラン。それは分かるが、もう一人は誰だ?
(カイランと一緒に居るということは優秀な戦士なのだろうが……。しかしどうでもいいことだね)
トレアラングルはもう一度羽ばたき、射撃に備えて翼を畳んだ。
二人の矢が放たれた。
カイランの1射目は左に外れ、アナメクの1射目は僅かに右に逸れた。トレアラングルと二人の間に、空気がぶつかって乱気流になっている層があるらしい。アナメクの2射目で、乱気流のおおよその流れが分かる。そうして放たれたカイランの2射目は、トレアラングルの翼を掠めた。羽がちぎれて少量散る。
「チッ!! なんちゅうことだ!」
トレアラングルが毒づく。もはやその罵りがカイラン達に届くほど、互いの距離は縮まっていた。
「次、当てるよ」
アナメクが矢筒からゆっくりと矢を引き出す。それは出陣前に交換した、カイランの羽で出来た矢だった。
「ああ」
カイランも、アナメクの羽の矢を取り出して番えた。二人は示し合わせたかのように同時に弓を引き絞り、最後の矢を放った。その狙いが寸分もらさず正確だということがトレアラングルにも分かるほど、美しい軌道だった。
放たれた2本の矢は並んで風に乗り、トレアラングルの筋肉質の体目掛けて真っ直ぐに飛んでいく。カイランの矢の方が、僅かに早い。矢は風と風がぶつかる乱気流の層を突き抜け、向かい風を切り裂きながら、風の中を疾走した。
……トレアラングルは翼を広げて急ブレーキをかけると同時に、口早に呪文を詠唱した。
詠唱が終わると、トレアラングルの前方の大気圧が急激に高まり、そのまま2本の矢を巻き込んで爆発する。弾けた気圧の爆風をもろに浴びた2本の矢は回転と勢いを失い、重力に引かれて遠い地表へと落ちていった。
「あっ」
「何っ!?」
二人の目に入ったのは、命中寸前の矢がいきなり勢いを失って落ちていく、驚愕の光景だった。急制動をかけたトレアラングルはもう一度羽ばたき、こちらに向かって再び加速をかけてくる。もう一度弓を引く時間は、残されていなかった。
「なんだって矢が止まったんだっ!??」
驚きで冷静さを失ったアナメクが、悲痛な声を上げた。カイランは弓を捨て、腰から短刀を引き抜いた。――無駄と分かっていても、接近戦を挑むしか残された道はない。そうして僅か数十レーンの距離にまで近づいたトレアラングルを睨みつけると、その背後に新たな飛影が見えた。
「トレアラングル!!!」聞き覚えのある叫び声が、カイランの耳に飛び込んできた。思わず意識がそちらを向く。それは、他でもない父の影だった。この絶体絶命の場においてもっとも頼れる人物。カイランは嬉しくなって、父の名を叫ぼうとした。
同時に、カイランの胸に激しい衝撃が走る。驚いて胸を見ると、先ほどまでトレアラングルの手に握られていたはずの槍が、カイランの胸腔を貫いていた。目を一瞬離した隙に、トレアラングルが槍を投擲したのだ。
カイランが咽ると、口から大量の鮮血が溢れ出してきた。ということは、槍が肺臓を貫通しているということだ。
(やけに呼吸がし辛いのはそういうことか)カイランは他人事のように思った。
「カっっ……!!」
アナメクはそこまで声を発したが、息が詰まって最後までカイランの名を叫ぶことが出来ない。表情が固まる。
「カイラン!!!!!!」
キュザの絶叫が大気を震わせ、怒りで赤くなった体から迸る殺意の束が、トレアラングルに向く。
「きたねキュザ!!」
槍を投げてしまったトレアラングルは、弓を体にかけると同時に腰から長剣を引き抜き、キュザを迎え撃つ体勢に入った。
「お゛あ゛あ゛あ あ あ あ ~~~」
キュザは絶叫と共に渾身の力で翼を打ち、大気を打ち振るわせた。怒りの塊となったキュザ=ハクリンは、その逞しい両腕で折らんばかりに槍を握り締めて、息子の仇を討つべくトレアラングルに突撃した。
「トレアラングルぅううぅーーーっ!!!」
羽ばたきひとつで一気に数百レーンの距離を飛び抜けたキュザは、その勢いのままトレアラングルの乳房のない体に向かって猛烈な突きを繰り出す。トレアラングルはそれを躱し、キュザの喉元を狙って剣を振った。キュザは咄嗟に体を引いて斬撃を躱したが、その隙にトレアラングルの返しの刃がキュザの槍を叩き斬った。
(父上が冷静さを……父上の力は……)
カイランが半透明になった意識で、うすぼんやりと思考する。父がああなっている理由は自分にあるのだと思うと、やりきれない気持ちになった。
それっきりカイランの霞んだ視界はより一層激しさを増す二人の攻防を捉え切れなくなってしまった。体から力が抜けていく。もう自力で飛ぶことが出来ないのでアナメクが体を支えてくれていたが、カイランには礼を言うだけの余裕もなかった。……しかしまだ数十秒は生きていられそうだ。
既に、残り少ない命を何に使うかは決まっていた。
カイランはアナメクの腕を軽く叩くと、力を緩めてくれたアナメクの体を蹴って、すぐ近くで交戦しているキュザとトレアラングルの元へと飛び立った。その動作は緩慢だったが、それ故に戦いに集中し切っているトレアラングルには気づかれなかったようだった。
「こんなにだらしないキュザは初めてだな!! 息子が死んだのがそんなにショックだったのかねえ!??」
「ぬ゛う゛おおおおおーー!!、言うなァー!!!!」
槍を折られたキュザは劣勢だった。致し方なく短剣を抜き、トレアラングルの猛攻を受けることができたはいいが、長剣と短剣では間合いが違いすぎて勝負にならない。トレアラングルはキュザの翼を狙って切りつけてくる。風切り羽の先端を失うと、空中での制動が微妙に狂う。そうして動きを崩されたところに、トレアラングルの舞い踊るような剣撃が少しずつ侵入して来た。
もともとの実力は拮抗している二人のこと、すぐに勝負がつくことは無かったが、それだけに獲物の差が大きく響いた。
火花散る剣撃は、甲高い金属音で終わりを告げた。キュザの短剣が、短い寿命を使い果たして折れてしまったのだ。
「死にな」
トレアラングルが嗤う。キュザが死を覚悟した時、カイランの体が漸くトレアラングルに到達した。その手に握られた短剣が、トレアラングルの背中に浅く突き刺さる。だがもはや握る力すら残っていないカイランの指は、少し短剣を刺しただけでするりと柄から抜けてしまっていた。冷たくなった体が、トレアラングルに体を押し付けるように、ゆっくりともたれかかる。
「はっ……?」
トレアラングルは全く予想しなかった攻撃を受けて動揺し、次いで、カイランの体重を引き受けてバランスを崩す。
「ぐあぉぉっ!!」
その隙目掛けて繰り出されたキュザの頭突きがトレアラングルの顔面にもろに入った。トレアラングルはたまりかねて失神し、体が制動を失って墜落した。
「カイラン!!」
キュザにはもう、落ちてゆくトレアラングルなど目に入らない。太い腕でとにかくカイランの体を支え、愛する息子の名を叫ぶ。しかしその時にはもう、カイランは絶命していた。キュザのまなじりに熱い涙がこみ上げて、食いしばった歯茎からは血が滲んでいた。
カイランの胸に開いた穴からは、ただただ赤い血が流れていく。命を失った体はまるで水の入った袋のようにキュザの腕に収まり、動かない唇は乾燥している。その頃、辺りはすっかり闇に包まれていた。
「カイラン……」
キュザは涙を流しながら、白くなった息子の顔を見る。全身にどうしようもない疲労感と虚脱が満ち渡った。そこへ、アナメクがふらりと飛んできた。
「…………キュザ様……。カイランを守ることが出来ませんでした……」
「いや……。お前はカイランの友達のアナメクか。よくぞ共に戦ってくれた。それだけでいい。それだけで十分だ……」
涙をぬぐったキュザが、アナメクに優しく声をかける。その瞬間、風が方向を変えた。
「トレアラングルだけは許さん。聞けアナメク!…………カイランはこのまま鳥葬にする!! 荼毘には付さん、カイランは鳥達に命を与え、また羽ばたいてこの世に戻ってくる!!」
キュザはそう言い切ると、カイランの胸から槍を引き抜き、その肉体を風に乗せて送り出した。少し硬直し始めたカイランの体は、まるで紙飛行機のように風の流れに乗って飛んでいき、音も無く闇の中に消えていった。
「アナメク、戦いになればお前は邪魔になる。今すぐここを去れ」
「わ、分かりました。戻って援軍を……」
「要らん。呼べば許さぬ。差し向かいで決着をつけてやる。黙って行け! 去れ!」
キュザが怒鳴った。「は、はい!」アナメクは追い散らされる子ひばりのように飛び去った。その数秒後、先ほど起こった風の唸りがより一層大きくなり、キュザの周りを取り巻いた。
「トレアラングル!!! 風起こしの術と弓術を組み合わせてもなあ、小細工が真の戦士に通用するかよ!!! もはや武器など使わず、この腕と趾で相手をしよう!!」
キュザは闇に向かって吼えた。返答はない。キュザの予想では、トレアラングルは矢を放ってくるはずだった。風を操るトレアラングルは、中、長距離の射撃戦において右に出るものはいない。わざと大声で叫んだのも、矢の来た方向からトレアラングルの位置を推定し、接近戦に持ち込むためだ。
しかし、トレアラングルはいつまで経っても矢を放ってこなかった。ただやたらに風を起こし、風向きを変え続けているだけだ。
「どうしたぁコラァ!!! 逃げたんじゃあないだろうな!? 今日こそ決着をつけてくれようぞ!!」
しばしの沈黙。風の吹き荒れる音だけが、キュザを取り巻いていた。猛風は、キュザの真正面から吹きつけている。
いよいよおかしい。まさか本当に逃げたのか? 術で起こしているのではなく、これは普通の風に過ぎないのか?
キュザが本気で疑い始めたころ、すぐ前方から羽音が聞こえた。
(近い!)キュザが身構えると、すぐ目の前にトレアラングルが姿を現した。同時に繰り出された拳を、キュザの手が受け止める。
「なぜだ!? なぜわざわざカイランを殺した! こんな場所にお前が来てまで!!」
キュザはもう一方の手を開いて槍を手放し、それから拳骨を作って、トレアラングルの顔面に殴りかかった。トレアラングルは、その拳を真正面から受け止める。そうして二人は、手を繋ぎ合う格好になった。
「あんたの息子は目立ちすぎたんだよ!」
「ぬ゛おおおおっ!!」
両腕がふさがったキュザは槌のような頭でトレアラングルに頭突こうとしたが、トレアラングルは咄嗟に両の腕を捻りこんでそれを阻み、同時に股間目掛けて趾を蹴り上げた。
キュザは両手をトレアラングルと繋げたまま翼を打ち、トレアラングルの直上に体を逆立ちさせてその攻撃を躱す。
「子を持たぬお前には分からんだろうが! この悲しみ、怒り、激しい鼓動!!」
トレアラングルがキュザを見上げる。そして、トレアラングルも翼を打ち下ろした。
「ぐぬぅぅぅぅぅーーう!!」
二人は手を繋げたまま、互いに激しく羽ばたいた。風の渦、空気の流れ、肉体の空気抵抗。二人の体は縺れ合い、暗闇の中をめちゃくちゃな挙動で飛び回った。
「そうさ! 誰が子などもうけるものか、親心なんか知るものかよ!! 子を産んでなんの得がある、現に……」
そう言ってトレアラングルは思い切り羽ばたき、その遠心力によって繋いでいた手を引き剥がした。
「お前は息子に死なれたせいで、頭中を悲しみに支配されているじゃないか!!」
トレアラングルは縦にぐるりと回転すると駝鳥のような趾を勢いよく前方に振り出し、キュザの顎を強かに蹴り付けた。
「ごっ! があっ!!」
キュザは顎を砕かれながらも翼を叩いてトレアラングルに突っ込み、古傷の入った胸に強烈な頭突きを食らわせた。
「げふっ!!……んごぁっ!!!」
トレアラングルの体は大きく跳ね飛ばされ、いつの間にか後方に位置していた岩壁に叩き付けられた。
「やるねぇ……。さすがキュザはそうでなくっちゃ」
切れた唇から滴る血を舌先で拭い取ったトレアラングルは、口角を上げて笑顔になった。再び殴りかかろうと迫ってくるキュザを見据え、短く呪文を唱える。そして岩壁を蹴り出すと、巻き起こった風がトレアラングルの体を押し出した。
ぶつかる瞬間殴り出されたキュザの豪腕を、トレアラングルの手が逸らす。そのまま身を変えてキュザの頭上に舞い上がったトレアラングルは、趾でおもむろにキュザの翼を掴んだ。
「なにっ!!」
「これで決着がつくってもんだろ!!?」
翼を掴まれたキュザは、トレアラングルを振りほどこうとして懸命に翼を振り回した。が、トレアラングルの趾はどうしても振り切れない。やがて手も翼にかかってしまえば、もはやキュザには抵抗のしようが無かった。
「巴ェェ落としィィィ!!」
「なァァアんだとォォォォ?!!」
トレアラングルは逆立ちした状態で翼を広げ、キュザの翼を抱きこんだまま、上下逆さに強く打った。
二人の体が、地表に向かって高速で落ちていく。――『巴落とし』という技は、ハーピィが相打ち目的で使う自爆攻撃だ。相手の翼を掴んで自由を奪い、二人一緒に地面に激突する。死に際の戦士が最後に行う、決死の大技だった。
しかしトレアラングルやキュザともなれば、地表にぶつかる寸前に相手を叩き付けて、自分だけ生き残ることが可能だった。問題は、ここから地面までの距離だ。
「くぉっ!」
まだ高度はずいぶんあるはずだったが、先ほど縺れ合ってめちゃくちゃに飛んだせいで、地表までの距離がどの程度か分からない。キュザはどのタイミングでトレアラングルが翼を離すか考えていた。
理想としては、高度60レーンほどで離すのが一番いい。そこからならほぼ確実にブレーキングが間に合うし、翼を離すと同時に何らかの打撃を加えれば、相手はほとんど助からない。翼をどれだけ広げたところで、停止するのに必要な距離は大して変わらないのだ――。翼こぶは鍛えられても、翼そのものは鍛えようが無い。
冷え切った風を切り裂いて、落ちてゆく感覚だけに意識を研ぎ澄ます。…………。地表と空中とでは、大気圧に微妙な違いがある。更に、吹く風の速度、温度……。もっと言えば、香りも違う。幼い頃から、キュザとトレアラングルは大空を飛び続けてきた。さえずる鳥とともに。吹き渡る風とともに。沸き起こる雲とともに。
キュザは無意識の内に、昔初めてトレアラングルと戦った時のことを思い出して――――――しまった。
――――
巨大な穴が、砂地の地面にふたつ空いていた。その衝撃がどれだけ激しかったかは、舞い落ちる木の葉が物語っている。ふたつの穴は大きさに差があった。大きい穴、小さい穴。それはとりもなおさず、落下物による衝撃力の差を表していた。
そのうちひとつ、一回り小さい方の穴から、逞しい腕がゆっくりと生えてきた。あちこちに切り傷と擦り傷を拵えた手のひらが、穴の縁を必死で掴もうとしている。
「ぐふ……」
くぐもった声は、女性のものだった。トレアラングルはゆっくり起き上がると、入念に自分の体の状態を調べた。大腿骨は骨折。主翼骨、開放骨折。右手首が砕けて出血し、更に腹部に木片が3本刺さって、激しく出血していた。
「この程度の怪我で済んだか……あのキュザを倒すのに」
トレアラングルは、そのまま何事も無かったかのように立ち上がった。落着の衝撃で体中が悲鳴を上げていたが、今のトレアラングルにとってそんなことはどうでも良かった。
なんとしても確認しておきたいことがある。トレアラングルはもうひとつの穴へと歩み寄った。
暗い穴を見下ろすと、穴底にはふたつに千切れたキュザの体が、大の字に横たわっていた。運の悪いことに、地面のすぐ下に岩が埋まっていたらしい。飛び散った臓物から、ひどい血の匂いがする。匂いに引かれて魔物が集まって来ていたが、トレアラングルのひと睨みで退散した。
「――キュザ。強かったよ」
トレアラングルがぽつりと呟く。長い間戦い続けてきた宿敵への、賛辞のつもりだった。
「トレアラングルか。相変わらず豪の女よ」
穴底から、しぶとい男の声がした。その姿からは想像もつかないほど、確かな声だった。
「まだ生きてたのかい? しぶといね」
「お前こそ怪我をしているだろう。匂いで分かるぞ、目はもう見えないが」
キュザはそういうと、自分の鼻を左右にひくひくと動かして見せた。
「ははは……!! 傑作だね。犬かい、あんたは!」
「家族にも見せたことの無いかくし芸だ。死出の旅路の置き土産はこんなものしかないが、帰ったら皆に話して自慢してくれ」
「これ以上わらかすな……!! あははは……! あんたのお仲間に居所がばれちゃうよ」
トレアラングルが少女のように笑う。明け透けで明るい笑顔だった。
「さて、俺もそろそろ死ぬかな。……どうしてカイランを殺した? こうして俺が実際に腹を割ってるんだ、お前も腹を割って話せ」
「参謀に迎えた女の指令さ。あの子は将来キュザをも越える大戦士になるって。それに、あの子を殺せばキュザも殺せるって。もしあんただけを殺してたら、あの子はそのまま首長になって、『青の谷』はますます強くなってしまう。それを避けるにはこのタイミングしかないんだってさ」
「カイランがあんなに強い子だとはな……。さすが俺の息子と自惚れることも出来ようが……。俺だけが知っているんだ。あれは、………………女房の血の方が…………濃い……。……あばよ」
キュザは最期に深く息を吸うと、ゆっくりと大きく吐いた。その際に腹部からはみ出した気嚢(ふいごのような呼吸器官)から、ほら貝のような音がした。
トレアラングルはキュザの死体を見つめたまま折れた翼を無理やり開いて、詠唱し、湧き上がる風に乗って闇の中へと飛び立った。大怪我をしているせいで、風の勢いは先ほどより何倍も強くなっていた。そのあまりの風圧に周囲の木々が悲鳴を上げ、枝葉が折れ散る。
そうして発生した大量の木屑木の葉がキュザに覆いかぶさり、戦士の体をあっという間に埋葬した。
――
明け方。アナメクは丘の上にある本陣の一番高いところでキュザの帰還を待っていたが、いつの間にか眠ってしまっていた。そこへ登って来た一人の男の羽音が、アナメクの目を覚まさせる。
「だれ?」
「アナメク。わしよぉ」
その男、すなわち【五長】の筆頭である参謀キュイハッチュ=ヴェロニカは、白く縮れた長髪を風になびかせて、アナメクの風上に立った。
「いいんですか? 見られますよ。秘密の関係が」
「キュザ亡き今、親子と堂々と言ってもいいだろう」
キュイハッチュはぐんにゃりと頬を持ち上げ、豪胆な笑顔を作った。
「キュザ様はまだ生きております。……きっと」
「さもありなん。しかしトレアラングルとぶつけたのだ。まともに帰ってくることは、流石にないな」
「さりとて……。……ところで、なんの用ですか。親友を亡くして、僕、落ち込んでるんです。嫌いなあなたと、こうして一緒に居たくないんですよ」
「カイランのことを言っているのだな……。可哀そうではあるが、同情は出来んな」
「なぜですか、父さん」
アナメクが、初めてキュイハッチュに顔を向ける。
「お前は都合の良いときだけわしを父と呼ぶのぉ。少しは自分で、何でか考えてみイ」
キュイハッチュがからかうように言うと、アナメクはキュイハッチュから目を背けた。
「わかりません。だから聞いてんです」
「答えは和光同塵という言葉だ。曲なれば全ったし、とも言う。……早い話が、才能の輝かしすぎよ。能ある鷹は爪を隠すというてな、キュザといいカイランといい、それを怠りすぎたんだよ。あんなに目立っちゃ、殺されてしまうのは当たり前だろう? そこへ来ると、わしやお前こそが天才と呼ばれるに相応しい人物なのだ。傍目から見ると、お前は輝かぬ石ころに見える。そうして他人を欺き、内包する才能の宝石を隠しとおせておるために、才能を使い減らしさせられんで生きておるんだ」
「でも僕は……、あの二人のカリスマ性に惹かれて来ました」
「長生きできんよ、そういう奴は、確実に……。トレアラングルとて、そう間の空かんうちに死のう。わし等が天上を手中に納めるのは、それからのことよ」
キュイハッチュはそのまま下へ飛び降り、自分の巣へ戻っていった。アナメクは沈んだ顔に涙を貯めて、泣き顔になって呟いた。
「父さんの言うことは嘘だらけだ。父さんはろくに才能も無いくせに、【五長】の筆頭なんかになっているじゃないか……。自分を誇張してるんだ、キュザ様ほどでない我が身を省みずに。それに気づかず、嫉妬心と猜疑心で凝り固まっている。……カイラン……」
アナメクは膝を抱いて、顔を埋めた。翼がゆっくりと閉じ、体を包み込んでゆく。
「カイランならあんな爺の計画にも、負けずに打ち勝ってくれると思ったのにさ……。なんで死んじゃうかな……。僕はもう嫌だよ」
ハーピィ族の少年はまるで地平線からあふれ出した太陽の光を避けるかのように翼を閉め切り、そのまま動かなくなった。
……遠く遥かに見えるのは、光る輪郭を背負って聳え立つ、赤々とした山稜の連なり。太陽は地平線に光の線を引いてただただ眩く、遠くまで澄み渡って呆れるほど廣い空は、ただひたすら赤い。そんな高空の彼方を、虎の様に猛る強風が節操なく吹きすさんでいる。
そんないつも通りの朝。アナメクは一人、泣いていた。




