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エコ魔導士  作者: 中村 尽
旅立ち編
3/67

第二話『魔法の家』

 入ってみると、そこは男が思ったとおりの狭い家だった。




 板の間敷きの床はそれなりに年季が入っているらしく、表面が擦り切れて踏み心地がやわらかい。


 入ってすぐ右にある靴箱には、藁で編んだ作業用の草履と、革でできた男物の短靴がきれいに整えて入れてあった。これが、さっき娘が今はいないと言っていた「師匠」という人物のものなのだろうか。



 男は部屋を見回す。備えてある家具は小さな丸テーブル一台と背もたれの無い椅子がふたつ、シングルベッド一台、本棚が一架、そして娘が立ってお茶の用意をしている、作り付けの竈と流し台、水壺ひとつきりだ。


 どう考えても一人か二人暮らし用の、質素な作りの家だった。おそらく部屋の奥にある扉の向こうには、トイレや風呂といった生活上必須の設備があるのだろう。



 男が立ち尽くしているのに気がついた娘が、男に声をかけた。

「あ、ちょっとそこに座って待ってて!」

 男は促されるまま椅子に腰かけると、今度は天井を見上げた。



 ……そこにぶら下がっていたのは、他のオーソドックスな家具のデザインからすると明らかに異質な、緑色の玉だった。窓から差し込む夕日を反射して赤く光っているその玉は、見たところ水晶か何かで出来ているらしいが、外見からでは用途が全く掴めない。曇りが入っているために、中身があるのかどうかも分からなかった。


 男は顔をしかめながらひとしきり緑の玉を見終わると、今度は振り返ってベッドサイドの壁に目をやった。そして、もう一度顔をしかめる。


 壁に、趣味の悪い紫色をしたタペストリーが掛かっている。

 男が顔をしかめたのは、ぶどう酒に紅をさして煮詰めた様な趣味の悪い紫色を見たからではない。


 そのタペストリーは普通の長方形や正方形ではなく、ぐにゃりと曲がった紡錘形をしていたのだ。しかも表面が布とは思えないほど潤った質感を持っており、そこにまたも気持ちの悪い赤紫の糸で神経質に縫い付けられた渦巻き模様に至っては、心なしかぬめり気すら帯びているように見えた。



挿絵(By みてみん)



(どういう素材でできているのだろう……)


 男が考えながらぼうっとそのタペストリーを見ていると、台所に立ってお茶を淹れている娘が話しかけてきた。


「ねえ、あなたは旅人? どうしてここに来たの? ここに人が入って来たのなんて初めてなんだよ!」


 娘はまだ興奮が冷めきっていない様子で、男に向かって鼻息荒く喋った。

「あー、おお、そうでしたか。この辺で野営しようと思って偶然通りがかったんだが――、でも、こんな家が建ってたから」

 男が追手から逃げていると言う事を隠しながら返答すると、娘が言った。


「野営? その辺の地っぺたで寝るってこと? そっか、旅ってベッドは持ち歩けないもんね。じゃ、泊まってってよ! そこのベッド使ってないから! あのね、昨日シーツ干したばっかりなの!」



 思いがけない娘の提案に、男は驚いた。

 ――この娘は、名前も知らない人間をいきなり家に泊めようというのか?


「助かるが……」


 そんなわけにはいかない。男がそう言いかけると、それを遮るように娘の腕が伸び、男の目の前に淹れたてのミント・ティーが置かれた。


「ね? これ飲んで。いい香りでしょ。ところで名前は? わたしはエコって名前だよ」

「ああ、そうだな。……俺はターク。ターク・グレーンという。それじゃあお言葉に甘えさせてもらおうかな」


 エコと名乗った娘は、男の名前を聞くと急に眉をひそめた。


「え? ターク? タークグレーン? 名前はどっちなの?」


 真面目にこんなことを言うので、男――タークは、思わず笑ってしまった。


「いや、名前がターク、グレーンは名字だ。君には名字が無いのか?」

「わたしの名前にはそんな余計なものはついてないよ。師匠にもないし」

「師匠というのは? 今はいないと言っていたが」

「師匠は師匠だよー、そういう名前なの」

「いやいやいや、師匠は名前じゃない。その人にもちゃんと名前があって、多分名字もあるだろうさ。君にもあるんじゃないか? 知らないだけで」


 タークが質問するとエコは腕を組み、額に皺を寄せながら言った。


「そっかー、師匠にいろんな話を聞いたから、世界中のことを全部知っている気がしていたけど、そんなことは無いのかもね。わたし、生まれてからずっとここで暮らしてるもの」




 それからしばらく、二人はとりとめのない話題で盛り上がった。エコはずっと人と話していなかったので話したいことが沢山あるようだったし、タークとてしばらく人気のある場所を避けながら旅をしていたので、人と話すのは久しぶりだった。


 タークが当初抱いた印象程エコはおしゃべりでは無いらしかった。さっきはどうも、久しぶりに出会った人間を引き止めたくてわざとああいった喋り方をしていたらしい。


 エコと言葉を交わしている内に、タークは不思議な感覚を味わった。


 エコと会ってまだわずかな時間しか経っていないというのに、いつの間にか家族のような親しみを持って接している自分に気が付いたのだ。

 このエコという少女は、思った事を隠さず、飾らず、ありのままぶつけてくる。それでいて、話す言葉には邪気が全く無かった。そんな相手を前にして自然とタークもエコに対する警戒心が消え、夢中になって色んな事を話していた。



「ところで」

 エコが淹れてくれた二杯目のハーブティーを飲みつつ、タークは先程からの疑問を口に出した。


「この緑色の玉は何なんだ? あっちの変なタペストリーも……。ここには不思議なものが色々あるな」


「ん、これ? これは蛍玉ほたるだまだよ。あっちのは時節計。ずいぶん前に師匠が作ったの。……これ、知らない? 珍しいの?」

「へえー……。どういうものなんだ? 飾りか?」


「うーんと、うん、じゃあ暗くなってきたし、点けようか」


 そう言って、エコがおもむろに蛍玉を指さした。すると蛍玉が少し震えて、次第に緑色の燐光を発し始めた。中に何か入っているらしい。


「……?」


 しかしタークには、何が起こったのか良く分からない。――指さしただけで何かが変わるのか?


「時節計はね、季節に沿って模様が変わるの。色は天気が悪くなると赤くなるの。師匠は土砂降りの雨の日の赤が好きだってよく言ってた。わたしは晴れてる時の青色が一番かな」

「天気に合わせて色が変わる……? なんだ? どういう仕掛けで……」


 タークが訝しむ。


 ――なんだか様子がおかしいぞ? もしや……。



「仕組みはわたしにも分かんないな~。師匠が一人で作ったから。ああそうだ、そろそろ夕飯作るね」

 そう言うとエコは席を立ち、竈へ向かった。そして、「燃えろ!」と気合いを込めて声を出す。すると竈にくべてあった薪が、いきなり煌々と燃えだした。



 これでタークの疑問が晴れた。エコは魔導士だったのだ! と言う事はつまり、師匠というのはエコの魔法の師匠のことなのだろう。これで蛍玉と時節計の謎も解けた。道理で変なデザインだと思った。……魔導士には、変人が多いと聞く。


「魔法は師匠に教わったのか?」

 タークが聞くと、エコはナイフで野菜を切りながら答える。


「うん。師匠はすごい魔導士なんだよ。聞いたことない?」

「……知らないな。ここの本、読んでもいいか?」


 本名も分からないのに、タークに師匠が誰だか分かるはずがない。だが、エコはそういう事がよく分からないようだった。


「いいよー、ご飯出来るまでまだかかるからゆっくりしてて」


 エコに許可をとると、タークは席を立って本棚の前にしゃがんだ。


 本棚には、雑然と本が入っている。整理の行き届いた部屋の中で、まるでここだけが無法地帯のようだ。大型の本、小型の本、厚い背表紙の豪華な本、薄いソフトカバーの本が、整理せずバラバラに入れてある。表紙が折れてしまっている本すらあるようだ。外はずいぶん暗くなっていたが、蛍玉のお蔭で背表紙の文字が読みとれた。






・『理想の家に住もう! 建築用魔法陣ビルドグリッドまほうじんの描き方・使い方』

・『モモと世界と』

・『図説・魔法体系Ⅱ 二曜六芒星陣にようろくぼうせいじん① 六属性』

・『マナ読本』

・『魔導草本学特論まどうそうほんがくとくろんⅠ』

・『ガーデニングをしよう』

・『初心者のための刺繍ししゅうガイド』

・『生活用魔法入門』

・『魔法と血脈』

・『じつきょの輪郭 ~み落としという邪法~』





 多彩な趣味の本に交じって、高そうな魔導書が無造作に突っ込んである。師匠というのはよほどそういう事に構わない性格らしい。

 タークは以前から旅の道中で見かける魔法や魔導士に興味を抱いていたため、魔導書を読んでみたいと常々思っていた。

 しかし、魔導書は一般人の間にはほとんど流通せず、また値段も極めて高い。だからほとんど諦めていたのが、それなのに、こんなところで読むチャンスに恵まれるとは……。


 タークは期待に胸を膨らませながら「マナ読本」という薄い本を手に取り、最初のページをめくった。表紙には手を横に出して大きく胸を張り、深呼吸する人のシルエットが白いインクで描いてある。



挿絵(By みてみん)




――――――――――――――――――――――――――――――――――



はじめに

 マナとは、緑なす大地に満ち吹き渡る風によって運ばれる、霊妙なる魔導の源である。

 魔導士にとって、マナとは重要極まりない存在、まさに生命そのものだ。マナが無ければ魔法は使えない。マナ無くして、一人の魔導士もなりたたない。



 マナについて学ぶことの重要性は、このところいささか軽んじられているように思える。何故か?


「今ごろマナの事を考える必要など、無いのではないか……? それよりも詠唱法や新たな魔法陣の習得、様々な魔法生物の特性など、勉強するべきことが山のようにある」かくいう私も、かつてそう思っていた時期があった。



 だが今そのようなことを問われたとすれば、「それは大きな間違いだ」と、私は自信を持って答えるであろう。


 魔導士にとり、マナの性質を知ることにはふたつの大きな意義がある。


1.マナの働きと役割を知ることで、強力な魔法を使うためにはどういった修練を積めばいいかが、おのずと理解される。


2.マナの生成と動態について学ぶことで、魔法を使う時にマナの流れをイメージできる様になり、魔法の威力と精度が増す。

 

 1.については、呼吸法の習得などがこれにあたる。現在、魔導士の修行は各血脈伝統の呼吸法を習得することによって大部分が占められている。

 そして、その是非については常に議論が行われてきた。しかし、本書の1章を読むことで、呼吸法の習得が魔導士の修行上どれだけ重要かが明確に理解されるであろう。



 2.については感覚的なものなので、いささか文字での説明がしづらい。しかし偉大なる先人たちが口を揃えて「マナの流れを読め」と言うからには、なにがしかの真理が潜んでいると言ってもよかろう。



 理解するまでは確かに時間が掛かる。しかしながら一度マナ動態を理解すると、世界が変わったかのように周囲及び体内でのマナの流れが明確にイメージされ、その時々のマナ量に相応しい魔法を使い分けられるようになる。

 これによって魔法の威力と精度は安定して、自己効力感セルフ・エフィカシーが強化され、それに従って更に魔法の威力と精度が――――



――――――――――――――――――――――――――――――――――




 タークはそこまで読むとページを手繰り、適当な場所で止めた。そしてまた読み始める。内容が分からなくなったら分かりそうなところまで飛ばすというのが、ターク流の本の読み方だった。




――――――――――――――――――――――――――――――――――



 ――マナは目に見えないが、確かに空気に存在し、呼吸とともに吸い込まれる。そして血に溜まり、魔法を使う度に減る。


 よって魔導士は、すべからく独自の呼吸法を習得している。また、マナは植物によって産生されているということが、つい昨今偉大なる研究者ギトー・ニジルによって突き止められた。


 昔からマナ深い森に住む魔導士が多いのは、このことを経験的に知っていたからだ。事実、植物がマナを産むのは、魔導士の間では昔から常識として語られている。


また、同氏は水にマナが溜まるという事実も同時に証明した。今後は、マナの豊富な水を飲用することでマナのリチャージ(再生成)が行えるようになるかもしれない。



2章「体内マナ総量の研究」


「マナをどのくらい体内に溜めておけるか」という命題については、魔導士始まって以来絶えることなく議論されてきた。マナを大量に保持出来ればその分強力な魔法を使用できるし、マナ切れを起こすことも無くなるからだ。最近のケリレン・テディッツ(エレア・クレイ王立魔法学院)らのマナ動態研究によると――



――――――――――――――――――――――――――――――――――




 段々内容が複雑になってきて、魔導士でないタークにはさっぱり訳が分からない。タークはまたページを手繰り始めたが、そうしている内に本が終わってしまった。


 タークは諦めて『マナ読本』を本棚に戻すと、今度は『図説・魔法体系Ⅱ 二曜六芒星陣① 六属性』というやたらタイトルの長くて分厚い本を引き出して、自分の膝の上に置いた。同時に埃が舞い上がる。


 埃をはたきながら適当に本を開くと、本文の脇に、細かい字でびっしりとなにかが書き込まれていた。

 どうやらそれはエコの師匠が書いた走り書きで、内容を補足するというよりは、著者と紙上で議論しているかのようだった(以下、カッコ内はその書き込み)。



――――――――――――――――――――――――――――――――――



第4章「二曜六芒星陣の発祥と進化」 執筆担当:ゲトル・ボーガニー


  さて、二曜六芒星陣はセリアッカ・テムストイが発見したとされているが (古すぎる。現在ではアルドアの開発したものとされる。そもそもセリアッカはこの陣より生まれが後)、これを発展させたのはアロリー・レムステインという魔導士である。


 アロリーは後に第50代のイルピア市長になっているが、これは二曜六芒星陣の発展に対する業績を認められた為である (ロットロンゴン討伐の功績の方が大きい。当時はロットロンゴンを討伐できる魔導士が少なかった) 。


 二曜六芒星陣の代表的な姿を次ページに記す。これは私の直筆である (コイツの魔法陣は特性がおかしい。ただ画陣術が上手いってだけで理論を全く理解してない。属性の配置も全く考えられていないし発動用のトリガーを描いていないから発動が出来ない。なぜこんな奴の本がこんなに売れるんだ?) 。



――このように火・水・風・土・雷・氷の六属性と光・闇の二つの曜が存在しており、描き方によっては組み合わせることもできるのが、この陣の特徴である。二曜六芒星陣は、自然災害を魔法に応用しようとした陣 (根拠がない。コイツは思い込みだけで書いている) である。


 従って使用を極めれば嵐や洪水を及ぼすこと任意である (ほぼ嘘だ。魔法陣にそんな機能はない。災害を起こせる魔導士は、魔法陣など使わなくても起こせる。二曜六芒星魔法陣は主に魔導具を作る時に使う陣、一般属性が網羅されているので便利。魔法発動にわざわざ陣を描く奴は無能) 。



――――――――――――――――――――――――――――――――――



 タークは舞い上がる埃による目のかゆみに耐えつつ、なんとか1ページほど読んだ。が、非常に読みにくい仰々しい文章と師匠の精緻せいちを極めた書き込みのせいで、すっかり頭が痛くなってしまった。

 膝から本を下ろし本棚に戻すと、一度ため息をついてテーブルの方に戻る。


 すると台所に立っているエコが笑って、「その本はわたしも読んだことないの。分かりにくくて。でも図はきれいだから見てて楽しいよ」と言った。

「確かにそうだな」


 タークが頷く。師匠も「画陣術は上手い」と褒めていたその本の絵は、色とりどりのインクで執拗な程細かく描かれている。それでいて全体の形は美しく整っており、絵心のないタークにも熟練を感じさせるほどだった。


 またも手持無沙汰になってしまったタークはふと刃物類の手入れをしておこうと思い立ち、エコの脇を借りて手持ちの刃物を研ぎ始めた。するとエコが、「ちょうどいいや、これも研いでくれる?」とナイフを差し出してきた。竈ではシチューがいい匂いを出して煮えている。「パンを焼いたらごはんだよ」。




挿絵(By みてみん)




 その日の夕飯は竈で焼いた黒パンと、鳥肉と人参、たまねぎ、緑の葉菜の入った赤いシチュー。オーブンから出したばかりの黒パンからはまだ湯気が立っており、そこに塩辛い固形油のような調味料を塗って食べる(この調味料は脂と塩から作る、『ベーナ』というものによく似ている)。



 タークは数時間前から空腹を覚えていたので、食事が出されるとすぐに無言で1杯目を平らげた。


「沢山作ったからお代わり自由だよ」


 とエコが言った途端、タークはすぐさまお代わりをした。今度はさっきよりもゆっくりと咀嚼して、よく味わう。


「これは、美味い……。肉も柔らかくてうまいなー。どうやって作ったんだ?」


 タークが感激しながら、トマトシチューの感想を言う。食べているタークの事を真剣な面持ちでじーっと見ていたエコは、うれしそうに笑った。


「おいしい? よかった~! たまねぎと人参を炒めて、畑で取れた春トマトと、菜っ葉と、鴨肉を煮たの。そのまんまだよ」


 褒められたエコが声を高くして言った。タークは味に感心しながら改めてパンをかじる。


「実際、こんな美味いもの初めて食った……。いやあ美味い。このパンも美味い。なんというか、こう、独特の香りがするな」

「ほんとう? パンはね、パン種に使う酵母から手作りなの。いい香りでしょ? わたしも大好き」

「酵母からか、すごいな。このシチューはやたらコクがあるが……。ダシはなんだ?」

「出汁はね。水鳥の骨から煮出したのと、あと干しキノコね。トマトと相性がいいの」


 タークはさっき齧ったパンに『ベーナもどき』を塗ると、パンの熱で少し溶けるのを待ってから、それがしみ込んだパンを齧った。鼻腔をつつくような刺激のある香りがする。


「これも、慣れるとクセになるな」

「そうでしょ!」


 談笑しながら、タークは三杯のシチューと三個のパンを平らげた。すると、今度は強烈な眠気がタークを襲う。



「……ターク眠そうだね? その後ろにあるベッド使っていいから寝なよ」

 エコが、目が半開きになったタークを見て、微笑みながらベッドを指差す。


「ありがとう……」

タークは何とかそう言うとふらりと立ち上がり、そのままの格好でベッドに横たわって、すぐに寝入った。

 エコは食事の後片付けを早めに済ませてから、タークを起こさないように静かに部屋を出て自室に戻った。


 その日は、とても静かな夜だった。





――





 翌朝、眠っていたタークが僅かな物音を聞いて目を開いた。


 すると、タークのすぐ目の前にナメクジのような物体が現れる。タークは突然のことに驚いて身を引き、狭いベッドから飛び出すようにして板張りの床に落ちた。


 冷静になって見ると、それは昨日見た、しっとりと湿り気を帯びて青くきらめく“時節計”だった。



 ちょうど奥の扉を開けて部屋に入ってきたエコが少し笑いながら言う。

「おはよう! ターク、大丈夫? すっごい音したけど」

「おお……。大丈夫だ、大丈夫」

 時節計に驚いて落ちたとはとても言えず、タークは平静を装った。


「朝ごはん作るからちょっとまってて。顔洗いたかったらこの扉を出て右の突き当りにお風呂があるから。すこし冷めてるけどお湯入ってるから、入ってもいいよ」

「ああ……昨日はそのまま寝てしまって。悪かったな、じゃあ風呂を借りるよ」



 タークが風呂から上がって来ると、すでに朝食が出来ていた。


 畑の取れたて野菜の盛り合わせに昨日も出たベーナもどきで作ったらしいソースが掛かっている。それと黒パン、果物のジャム。タークはまたもやそのおいしさに感動しながら、味わって食べた。


「久しぶりだよ、昨日もだけど、二人分作るの」


 食器を片付けながらエコが嬉しそうに言う。



「師匠がいなくなったのはいつごろから?」



 タークが聞くと、エコは寂しそうにうつむいて、「去年の秋」と言った。


「なんで居なくなったんだ?」




「わからないけど、師匠は興味の対象が変わると別人みたいになるの。多分、わたしの研究に飽きちゃったんじゃないかな………………」




 タークは当初、朝食を食べたら出発しようと思っていた。



 しかし悲しそうにそう呟いたエコの顔が目に焼き付いて、せめてもの恩返しにと薪割りや畑仕事を手伝っている内、すっかり出発のタイミングを逃してしまった。


 煙突から出る煙を見て、タークは「昼飯を作ってくれているようだから、食べて行かなきゃ悪いよな」と自分に言い聞かせ、結局昼食後に出発する事にした。


「それにしても…………昼飯はなにかな……?」


 タークはふと考え、漂ってくる香りから様々な夢を花開かせた。口腔に、じわりと涎が溢れる。タークは自分でも気付かない間に、すっかりエコに餌付けされていた…………。




 タークが待ち待った昼食は、畑の野菜で作ったサラダと、魚に塩を振って油で炒め、しょうがと一緒に軽く煮た料理と、米とにんにくとたまねぎと干し肉で作ったピラフだった。



「米なんて、貴重品じゃないか」

「いいの、もう古くなってたしさ。一人でピラフ作っても食べきれないから! ちょうどよかったよ」


 タークはこれで食べ納めかと思うと涙が出そうだったが、感謝しつつ食べた。どれもこれも、タークが今まで食べたことの無いほどおいしい。


 エコが「なんておいしそうに食べるの」と言いたそうな目でタークを見つめていたが、タークは食べるのに夢中で、全く気付いていなかった。




 やがて食事が終わる段になると、エコが決意したように真っ直ぐタークを見て言った。


「ねえターク、あなたここで暮らす気はない? わたし、もう一人で住むの嫌になっちゃった」


 タークは揺れた。平安なクレーター、美味い食事、何冊もの魔導書。魅力的な要素はいくつもあるし、エコのことも好きだった。さらに、「かわいそうだから助けになりたい」という同情の気持ちもタークの中に生まれ始めている。

 



「お願いだから住んでよ。ああ……、でも、そうね。旅をしてるって事は何処か行くところがあって、家もあるのか……。わたしはそれを考えるのを忘れてたよ」



「いや……」


 タークに帰れる所はない。そして行く所もない。



 ただ、追手から逃げて来ただけ。

 ……そうだ、追手の事を話さなければ。この純朴な少女に隠し事をしているのは、もう辛い。


 タークは、思い切って口を開いた。



「目的地はないし、帰る家もないが……、実は、故郷で女の恨みを買って、俺を殺そうという人間が追ってきているんだ。もしここで奴らに見つかると、君にも迷惑をかける。恩を仇で返すようなことを、したくないんだ」



 タークは一息に言うと、恐る恐るエコの顔を見た。エコは目を大きく開けて、びっくりした顔をしている。



――そりゃそうだ、命を狙われている男とわざわざ一緒に住もうと思う者など居るはずがない。夢の様な時間も、これで終わりだ。



 タークが観念して、自嘲気味に笑おうとした…………その瞬間、エコの顔は満面の笑みに変わっていた。



「なに? そんなことで遠慮していたの? ここにそんな奴が来てもわたしが追い払ってあげるからへーきよへーき! じゃあそいつらさえ問題じゃなかったらここに住むのね?」


 タークは戸惑い、つい「ああ……」と了解の符号を洩らす。エコはそれを聞くと椅子から立ち上がってタークの両手をとり、上下に激しく振った。



「やった! これで一人暮らしなんかしなくって済むんだ! ありがとうターク! じゃあ食後のお茶にしよ! わたし、さっきお菓子焼いたんだよ!!」



 エコが口早に言うと、タークの目の前にハーブティーと桑の実が入ったビスコッティが出てきた。



 ――――すでに、エコはタークがここに住むと決め切っていたらしい。タークはあっけに取られていたが、それ以上に嬉しかったので何も言わなかった。そのあと、二人で桑の実のビスコッティを食べながら、これからの生活についていろんな話をした。





 こうしてエコとタークは、クレーターに建つ小さな魔法の家でしばらくの間一緒に暮らすことになった。



 二人がこの家で生活した時間は三か月ほどだったが、二人にとってその先一生忘れられないほど、幸せで充実した日々だった。


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