第二十五話『湖上のおもいで』
エコはフィズンを連れて街道を戻り、再び【ハロン湖】へ戻った。フィズンはおびえながら、「なあ、オレをどうするんだよ?」としつこくエコに聞いてきた。
「役所に行くよ。草原焼き、謝りに行くのっ」
そう聞いてフィズンの顔色が変わった。
「謝り……、謝りに行くだとお……」
「いやなのは分かるけど、悪いことしたら謝るのは当たり前でしょ! いたずらじゃ済まないんだよ、あんなことして」
フィズンはごねにごねたが、もはやエコに逆らえる立場ではない。湖畔を歩くこと十数分、ついに役所に着いた。
役所の中は、心なしかいつもより慌ただしい。エコが近くの職員に話しかけた。エコはここにも聞き込みに来ていたので、当然全員と顔見知りだ。
「ああ、エコちゃん。今ちょっと忙しいんだよ。さっき南の草原で火事があって、それは鎮火したからよかったけど、被害状況の調査と住民への説明でてんやわんやって有様さ。いやあ、こんな平和なところで『てんやわんや』なんて言葉を使うとは思わなかった。困った困った、はっはっは」
「ほら、フィズン」
余り困っていなさそうな職員に向かって、エコはフィズンの背中を突き出した。フィズンは冷や汗をかいて情けなく震えている。
「? どうしたんだい、こんにちは、初めまして。エコちゃんの友達?」
職員はのんびりとした口ぶりでフィズンに挨拶した。フィズンは口をもごもごと動かすだけで、なにも喋ることができない。
「ほら、謝んなさいってば」
エコがフィズンを杖で小突いて急かす。職員はぽかんとした顔をしている。
「だめだ、言えねえよ、畜生」
フィズンが心底情けない顔になって、エコに泣き言を言った。
「畜生じゃないでしょ。わかったよ、しょうがないなー。――あのね、今言ってた草原の火事は、この人がやったの。フィズンっていうんだけど。迷惑かけてごめんなさいって謝りに来たんだよ。ほら言え!」
「……ごめんなさい」
フィズンが震えながら頭を下げる。周りで働いていたほかの職員たちも、二人に注目していた。
「……、あれは君がやったのかい? 出頭してきたんだね。ちょっと待ってて」
職員はそのまま、役所の長の元へ行った。エコは、フィズンの背中を押して後を追った。
「ああ……。そうか。うん、うん。じゃあ君は特に理由もなく草原を焼き、【ハロン湖】の森を破壊しかけたってことになる。……法で裁くと死刑だな」
厳しい目でフィズンを睨む役所の長は、極めて事務的な口調でそう断じた。この人物とエコとはずいぶん前から顔なじみで、ゼイゼリリと顔を繋いでくれたのも、この役所の長だった。
恐怖で顔を上げられないフィズンは、『死刑』という言葉を聞いた途端、雷に撃たれたように震え上がった。見かねて、エコが助け舟を出す。
「なんとかならないですか? 悪気があってやったことじゃなくって、思い付きで後先考えずにやっただけで……。決して町を焼こうとしてやったわけじゃあないんですよ」
「うーむ。ともあれ、行いは完全に法に背いている。こんな風の強い日に、町の風上であんな大火を起こしたらどうなるか、魔導士でもあれば分からない方がおかしい」
長の言い分はつくづく尤もだった。フィズンの震えの収まってきた肩を見るに、彼もようやく事の重大性を自覚したらしい。そうなってくると、流石にエコはフィズンが気の毒だと思うようになった。
「そこを何とか……。本人も反省してます。ここに連れてくるまでにも怖くてブルブル震えてたの。きっと、知ってたらあんなことしなかったと思います。ね? フィズン」
フィズンは力無く頷いた。エコが真剣な表情で長の目を見つめる。しばらくの沈黙。
「…………ん。まあ死刑というのは、確かに。被害も無いことだし、こうやって自ら首を出してきたわけだからな」
「いや」フィズンが長の発言を遮る。エコが驚いてフィズンを見た。
「いや、……死刑にしてくれ。オレはもうだめだ、こんなになってもオレは未だに、どうしたらここから逃げ出せるかなんてことばかり考えてる。…………なんの才覚にも恵まれなかったオレがこれ以上生きていても、今日みたいに世間に迷惑をかけるだけだ。死刑にしてくれ。今すぐに」
フィズンは悲しみのままに涙を流しながら、懇願した。エコ達が憐憫の目を向ける中、フィズンの独白は続く。
「昔から……、生まれついてオレはダメなんだ。命が根元から腐っているくせに、頭ん中では誰よりも自分が偉いと思ってやがる。どんなに真面目に生きようとしても、すぐブチ切れて生き目を潰してしまう……。やること為すこと尽くダメッ……。…………いままで、オレの行いが人に感謝されたことなんか、一度だって無いんだ!!」
人の心の真に迫るような、フィズンのありったけの劣等感の発露。フィズンは自分で言った負の言葉を自分の耳でもう一度聞き、そのせいでますます深い自己嫌悪の淵に陥ってしまう。長はフィズンの卑屈さを見かねて、先ほどより語調を優しくした。
「まあ、そういうな。慰めるわけではないが、人生そうそう悪いことばかりあるわけじゃない。死刑というのは、嘘さ。君のようなのは大抵、ちょっと脅さないと本音で喋らない」
それを聞いたフィズンは、顔を真っ赤にして怒鳴った。
「なんだとっ、テメエ、ふざけろっっ!!! テメエが死刑だと言ったんだ、責任もってオレを死刑にしろ、今すぐにだ!!!」
「うるさいなこのっ」
エコが喚き散らすフィズンの後頭部を杖で思いっきり殴りつけると、フィズンはあっさり気絶して重い音とともにぶっ倒れた。「よっと」エコはフィズンの体をまたぎ、役所の長の前に立った。
「悪いけど、この人ここで預かってくれないかな? 根は悪い人じゃない……のかもしれないんだ」
「ああ。……そうか。こんな風になってしまうと、人は自らの死を願うようになるものなんだな。私も軽率過ぎたよ。彼は預かろう。じきに頭も冷えるだろう。エコちゃん、頑張ってな」
役所の長は白髭をねじりながら言った。
「ありがとう。よろしく。――じゃあまたね、ゼイゼリリさんは?」
「このところは調査でおらんよ?」
「そっかあー、あれからずっと忙しいのね。聞きたいことがあったんだけど、まあ今度でいいや。じゃあ、フィズンをよろしくお願いします」
エコはそのまま真っ直ぐ宿に帰った。部屋ではタークが安らかに寝息を立てている。
タークの傷はすっかり塞がり、肉付きも良くなって吐き気も消えた。表面上は、見違えるように健康そうに見えた。
――――エコは、疲れていた。今日のことが無くとも、このところエコはろくに眠らず、ゆっくりと食事を摂ることすらしていない。アグレッドの言葉通りなら、タークはあと2週間もすれば肝機能を停止させて死に至るはずだ。それまでに、エコはどうしても薬を完成させなければならなかった。
エコは、タークの荷物から鞘に収まった小刀を取り出した。エコはミモザの部屋に入り、白い布を広げ、その上に座った。
「よーし、やるぞっ!」
エコはそう気合を込めて白刃を抜くと、結んであった髪を下ろした。
その夜、【ハロン湖】中が寝静まっても、エコの居るミモザの部屋にだけはいつまでも明かりが点いていた。
「ぎょっ、どうしたんだエコ、お前のその頭は」
「ぎょっ、て……」
翌朝、タークはエコを見て仰天した。エコはちょっと照れながら、「ミモザみたいにしたいと思って。似合うでしょ」と言った。
昨夜エコはタークの小刀を使って必要なだけの髪の毛を切り落とし、全体の長さを合わせて切り揃えていた。
結果エコの緑色の髪は耳の辺りまでの長さに収まり、頭がより丸っこく見えるようになった。いつものバンダナもしていないので、タークがエコに持っている印象とはだいぶ変わっていた。
「うん、まあ似合うな……。かわいいかわいい」
タークが心から適当にエコの髪型を褒めると、「ありがとう、いやー、そう言われると照れちゃうな」
エコは赤面して頭を掻いた。
その後、エコはタークの体を拭いて、トイレに連れて行った。タークは、肩を貸せば移動できるほどに体力が回復していた。はた目から見ればもう大丈夫だと思ってしまうが、アグレッドによればこれこそ【ゲイス・ウェア】の妙と言われている現象なのだ。エコはその後、自分の髪の毛を精製して薬の開発に傾力したが、その後何日もの間、エコの思うような成果は得られなかった。
次々と創造される可哀そうな『イポパカ』達は、投与した【ゲイス・ウェア】に次々と殺されていく。エコの作った薬はわずかに症状を緩めて寿命を延ばす効果は有るが、生還を果たしたものは1匹たりとも居なかった。
しかし、そのおかげでエコは漸くマンドラゴラの性質を体得し始めていた。――マンドラゴラの薬効は一定ではなく、温度、湿度、光などの条件によって著しく変化するため、現れる効果が非常に読みにくい。
極端な話、作った薬をふたつの瓶に分けて、その内の片方を僅か数十秒間日光に当てるだけでも、両者の薬効に天と地の差が出るほどだ。だがエコはこの短期間でその特性をほぼ完璧に理解し、利用出来るまでになっていた。
――ヨズやラゾがあっという間に人間の言葉を覚えてしまったように、魔法生物として生まれたエコは普通のヒトとは比べ物にならないほど学習能力が高い。
ただ、肝心のエコには全くその自覚が無かった。よって、あっという間に成長する自分という存在を目の当たりにすることでフィズンやミモザがどれだけの劣等感を抱いているかと言う事など、エコに想像できるはずもなかった。
――――エコには、自信があった。
これまで最も長い間毒に耐えた『イポパカ』に使った薬を改良すれば、タークを救うことが出来る。
エコの自信を裏付けるように『イポパカ』の中に辛うじて生き残る個体が出現し出したのは、それからさらに1週間余りが過ぎた時だった。前人未踏の【ゲイス・ウェア治療薬】。エコは僅か数週間で、その作成法に辿り着こうとしていた。
奇しくもその時、タークの体に異変が起こり始めていた。タークを蝕む【ゲイス・ウェア】の毒は、遂にタークの肝臓に致命的な被害を与えるに至ったらしい。タークの体はまっ黄色になり、著しい疲労感と吐き気が現れた。――【ゲイス・ウェア】、末期症状。アグレッドから聞き出したのと同じ症状が、タークの体に起こり始めていた。
(――もう少しだ!! タークを助ける薬が、もう少しで出来る!!)
時間との勝負だった。エコは寝食を忘れて、ひたすら調合と実験を繰り返した。ミモザが薬草採取から帰ってきたのは、そんな時だ。
大荷物を抱えたままエコのいる自分の部屋に入ったミモザは、ドアノブを持ったまま一瞬たじろいだ。部屋中に張りつめた空気が漂っており、その中でエコが調剤に没頭している。
エコの髪型が変わっていることもあったが、何よりエコらしからぬ余裕のない表情を見てミモザは別人のような印象を受け、すぐに声をかける事が出来なかった。
だがエコはそんなミモザに全く気付くことなく、のめりこむように実験を続けている。ミモザは勇気を出してエコの後ろに立ち、その背中に声をかけた。
「エコちゃん、ただいま」
その声を聞いたエコが、弾かれたように振り返る。びっくりしたミモザの顔を認めたエコは、いくらか肩の力を抜いて低いトーンで呟く。
「…………ああ、ミモザか。お帰り」
「……エコちゃん、遅くなってごめんね。……タークさんには、会ったよ。エコちゃん、大丈夫?」
「ミモザごめん、部屋、散らかしちゃって。掃除とかしてないから……。いきなりで悪いけど、ちょっと手伝ってくれない? これとこれを、この配合で30ミリパクト作って欲しいんだ。あとあそこの薬品瓶洗って、乾かしといて」
自分を気遣う必要などないとでも言うかのように、エコはエコらしからぬそっけない返答をした。
「わかった……。ねえエコちゃん、」
「なに」
「あの……少しぐらい寝た方がいいよ。もう何日も寝てないんでしょ? 宿のおじさんも心配して――」
「いいからそれ洗ってよ……。こっちはもうすぐできるから」
「――わかった」
――タークが【ゲイス・ウェア】に冒されてから2か月。エコにはもう、精神的な余裕が一切無くなっていた。タークは再び寝たきりの生活に戻り、いつ重大な昏睡状態に陥るか分からない危険な状態だった。流石に手が足りないので、やむなくここ数日はタークの世話を女将さんに全て頼っている。
もはや一刻の猶予もない。
ミモザが旅の疲労で倒れるように寝てからも、エコは黙々と働き続けた。
そして、エコが眠らなくなってから5日目の朝日が、あいかわらず東から登ってきた。
その頃、エコの居る宿はタークの生を願う人々でごった返していた。エコの邪魔をしてはいけないと、ミモザの部屋がある2階部分にはタークの世話をする数人のボランティアしか出入りしなかったが、1階には町中の人が入れ替わり立ち代わり次々と訪れ、エコとタークの無事を祈っていた。
「皆さん、あまり声を立てないで下さいよ。エコちゃんは今、集中してんだから」
「お兄さんの容体はどうなの? まだ持ちそう?」
「これ、エコちゃんに食べてもらいたかったんだけど……。そう……、食べると眠くなるものねえ。大丈夫かしら」
「そんなに心配するなよ。エコちゃんなら、なんとかなるよ。あの子のバイタリティーはヤベェーぞ」
「ミモザさんも帰ってきたのだろ? あの人は薬のプロだ。うちの母を救ってくれた」
「ですよね、でも心配ですよね」
そんな騒ぎの中、突然2階から何か重い物が倒れる音がした。宿の主人とおかみさんが、いの一番に駆けだし、様子を見に行く。すると、ミモザの部屋で二人が疲れ切って倒れ、意識を失っていた。
宿の主人はエコを起こすべきかと慌てたが、後から来た周囲の人々の意見に従い、青い顔をして昏々と眠るエコとミモザを布団に寝かせ、休ませておくことにした。
――――タークが深い昏睡状態に陥ったのは、それからわずか3分後の出来事だった。
――
「わっ、ターク?」
「よお、エコ。ここが何処だか分かるか?」
エコとタークは、草地の上に立っていた。暖かい空気の中を、心地よい風が吹き抜ける。エコはその中に、名も知らない草花の懐かしい香りを嗅ぎ分けた。
「どこって、【ハロン湖】の岸辺でしょ」
エコは当たり前のことを聞かれたので、当り前に返した。
「そうだ。あそこにボートがある。約束したろ?」
タークは振り返って、いつの間にか係留してあった小舟を指差した。どこか見覚えのある舟だ。
「わー、やったあ! タークが漕ぐの?」
「一人じゃ無理だ。エコが左、俺が右」
「そうだね、協力しよ」
二人は小舟に乗り込むと櫂を手に取り、漕ぎ始めた。小舟は非常に軽く、少しの力で漕いだだけで、湖面を滑るように進んでいく。エコの頬を、軽やかに風が吹き抜ける。短く切ったばかりの髪がなびいて、エコは少しくすぐったい思いをした。
「気持ちいいなー。……ターク、何で泣いてんの?」
「俺が泣いてる? うわあ、本当だ……何故かな」
エコとタークは、湖の真ん中で漕ぐ手を止めた。二人を乗せた小舟の動きが段々と遅くなり、やがて止まる。櫂が水をかき分ける音が止むと、そこは静謐な空間となった。
「ターク、悲しいの? なんで悲しいの?」
「ああ……。エコと別れなければならないかもしれない。……でも、どうせいずれは……」
「ううん、そんなことないよターク。別れる事なんてないよ。それより見て! すっごい紅葉!」
エコは手を差し伸べ、タークに景色を見るよう促した。真っ赤な紅葉が、鏡のように澄みきった湖面に一見してどちらが映し身か分からないほど、くっきりと映りこんでいる。タークはそれを見て、思わず感嘆の声を上げた。
「夢みたいな景色だねえ」
「そうかな、夢だったら……、」
タークはそこで一旦言葉を切った。涙はいまだに流れ続けているが、タークは気にする様子もなく、そのまま笑った。
「夢だったら残酷だな。こんなにきれいで心地よいのに、目が覚めたらどうなるか分からないんだ。目が覚めてみると、俺は死にかけで、エコは――」
「わたしはなに?」
エコの頭上に疑問符が浮かぶ。タークは深く息を吸ってから、エコを見て優しい声で言った。
「エコはきっと元気だ。どこに居ても元気に違いない。ずっと元気でいてくれよ」
訳の分からない事を言うので、エコはきょとんとした顔になった。
その時、エコはタークの向う側に、懐かしい人の影を認めた。どうしてそうなったのかは分からないが、気付いた時にはその人の影がエコの前に立っていた。
「――師匠」
エコが人影の名を呼ぶ。師匠はエコの記憶通りの声で喋った。
「エコ。諦めるなよ。最後まで諦めなければ、何だってやり遂げられないことは無いんだ」
エコの意識が遠くなった。
――
エコが目を覚ました。
見覚えのある天井。
察するに、今、自分は自室に布団を敷いて寝ているらしい。部屋は薄暗く、夜か朝かは判然としない。エコはどうして自分が寝ていたのかを必死に思い出そうとしたが、どうしても思い出せなかった。エコが覚えているのは、なんとか試作品が完成し、『イポパカ』を使っての試験を始めた所までだ。
エコは靄のかかった頭で、ふとタークの事を思い出した。
(タークはまだ生きているだろうか……)
そう思ってから、すぐ隣にタークが寝ていることに気付く。耳を澄ませると、幽かだがタークの呼吸の音が聞こえた。
「ターク」
エコが呼ぶと、昏睡状態に陥っていたはずのタークがゆっくりと目を開いた。心なしか白く濁ったその瞳は真正面を向いたままで、本当にただ目を開けただけ、という感じだった。エコは少し不安になる。
「エコか………………。今、何時だ………………?」
ゆっくりと息を吐き出すようにして、タークが言った。だがそれは、人が喋ったというより『吹き抜ける風が偶然人の声に聞こえた』と表現した方が的確に思えるような、人智を超えた声音だった。
タークの死が近いと言う事が、エコにははっきりと分かった。タークの右手を探して、強く握る。タークも握り返してきたが、その力は、とても弱々しかった。
「わかんない。ターク、…………あとどれくらい生きられる?」
「…………そうだな……2日かな……」
「『かな』じゃ困るんだよ……。ちゃんと教えてよ」
まだタークであるその人は、目を閉じての長い沈黙の後、さっきより少しだけ人間味を帯びた声で言った。
「2日と…………、半日」
「わかった。約束だからね、ターク。ちゃんとそれまで生きててよ……間に合わせてみせる」
エコは起き上がって、部屋を出て行った。ミモザの部屋に入ると、髪の毛を乱していい加減に帽子を被った白衣姿のミモザが、エコが来るのを待っていた。
「準備、出来てるよ……」
「ありがとう。……ターク、あと2日半だって」
「なにが?」
「命」
「……そう。じゃあ、やんなきゃね」
「……絶対間に合わせる」
そう言ったエコのやつれて血色の悪くなった顔の中で、オレンジ色の瞳だけがギラリと光る。ミモザはそんなエコの横顔を見て、一抹の不安を覚えた。
(…………エコちゃんが作ってる薬は、一体何なんだろう……。もう私にはさっぱり理解が及ばない。私が居ない間にエコちゃんがしてた研究は謎だらけだ。私が採取に行く前からエコちゃんの考えにはついていけなくなりかけてたけど、帰って来てから私は、エコちゃんの指示に従うしか出来ることが無くなっている……。でも事実)
ミモザはぼうっと考えながら、倒れる前にエコの薬の投与試験を行った『イポパカ』が入っているケージの蓋を開けた。すると中では致死量の『ゲイス・ウェア』を与えたはずの『イポパカ』が、元気よく走り回っている。ミモザはわが目を疑った。
(事実、この薬は『ゲイス・ウェア』を治している…………!!!)
「エコちゃん!!」
ミモザが感激してエコの名を叫んだ時には、既にエコが隣に立って、ケージの中を鋭く見つめていた。
「出来た……! 出来てた!! ミモザッ!」
二人は思わず抱き合って喜んだ。エコはその『イポパカ』をケージから取り上げると、標識してある識別番号を確かめた。――確かに、エコが『ゲイス・ウェア』を皮下注射した個体だ。
「これで後は、この子の体内状況を調べてタークに使えるかを判断すればいいんだよね!? ミモザ!」
エコが喜びの余り声を大きくして、すぐ隣のミモザに言う。だがミモザの返答は、そんなエコに冷水をぶっかけるようなショックを与えた。
「ううん、こういう場合の最終試験には、『人間もどき』を使うのよエコちゃん。『イポパカ創造陣』の隣に描いてあるでしょ? あの魔法陣で」
ミモザがそう言って、部屋の隅に描いてある2つ並んだ魔法陣の内、大きい方を指差す。小さい方が
『イポパカ創造陣』だ。
エコは、ミモザが何を言っているのか分からなかった。少しの間思考が完全にストップして、顔から表情が消える。ようやく出せたか細い声は、消え入りそうなほど小さかった。
「――――なんてこと言ってんの?」
「だからさ、『イポパカ』じゃあ副作用が分からないでしょ。ヒト最終試験をしなきゃなんだよ、エコちゃん。大丈夫、あの魔法陣で作るのは実験用の特別代謝が速いヤツだから、2日あれば十分経過観察が出来るよ! さあ、やろうエコちゃん!」
ミモザが当り前のように、元気よく答える。次の瞬間、エコの頭を炎が焼き尽くした。エコはミモザを睨みつけ、烈火の如く怒鳴りつける。
「ダメに決まってるでしょ、そんなの!! 人体実験なんかしなくてもこの『イポパカ』の経過観察をすれば済むのに、何でわざわざ……」
「――――それじゃあ済まないよ! タークさんにそんな状態の薬を使って、とんでもない副作用が出たら困るでしょ!! この前だってタークさんは死にかけたんだから!! ましてこんな色々な薬が混じったようないいかげんな薬は使えないよ!」
――ミモザは、ヒト最終試験の事を教えてあげた事でエコに感謝、あるいは尊敬の気持ちを抱かれるとばかり思っていた。
そんな甘い予想を完全に裏切る心無いエコの言葉を聞いて、ミモザは遂に、懸命に抑えていた暗い気持ち――エコに抱いていた劣等感、疑心、不満――をエコに向けて噴出させてしまった。そして、叫んだ時にはもう既に……全てが手遅れになっていた。
――――そこから先は、二人の怒鳴り合いだった。二人は感情の爆発に身をゆだね、ただ口汚く罵りあった。
時間的にはもう夜中なので、あれ程居た人々もとっくに帰っていた。だが下の階で寝ていた宿の主人夫婦や他の部屋の宿泊客が二人の怒鳴り声を聞いて飛び起き、駆け付ける。数人がかりで二人を懸命になだめ、やっとのことで諍いは終わった。
………………だが結局、最後までエコとミモザの意見が交わることは無かった。エコにもミモザにも、それぞれ譲れない理由があるのだ。二人は気持ちの収まりがつかないまま、貴重なはずの時間を、ただ暴れまわる思考の渦を収めることに使わなければならなかった。
タークが死ぬまで、あと二日。




