第二十三話『せめぎあい』
「ミモザー! ねえ、昨日の土知らない?」
エコはそう大声で叫びながら、食堂で遅い朝食を摂っているミモザに走り寄った。
「おはようー。……昨日の土がどうかしたの~? 私はあれ以降、目にしてもいないけど?」
「昨日あれを言われた通りに、タークの枕元に置いといたの。わたしが寝る時にはあったのに、今見たら無くなってた!」
興奮したエコは、早口でまくし立てた。
「えぇえ~? 全然無いの?」
「うーん、いや、ちょっと周りに散らかっててっ、でもほっとんど全部無くなってるの! わたしが寝てる間に誰かが持ってったんだとしか思えないよ……、いやでも、あんなものを持って行く人が居るとも思えないんだけど」
エコは混乱していた。ゼイゼリリ程の人に貰ったのだからなにかエコ達には計り知れない価値があったのかもしれないが、それにしても、土を盗む者などいるのだろうか。
朝食を終えてからミモザが部屋に様子を見に行くと、確かに昨日の包み紙の上には、例の土が少し散らばっているだけで大半はいずこかに消えていた。
誰かが部屋の外に持ち去ったのかと、二人は這い回って廊下を調べたが、一粒の砂すらこぼれてはいない。二人が廊下で話し合う。
「やっぱり誰かが持ち去ったんじゃないと思うなあ……。第一、あんな土を私たちが持ち帰って来た事、知ってる人はまだほとんどいないでしょ」
「それなんだよね、だとするとタークが昨日の夜に起きて、土をどうにかしたのかな? ……いや、それも変か。一人じゃあろくに動けないんだし……」
「……まあいいんじゃない? 土だし」
ミモザが軽く結論し、エコもそれに同意した。どういうものなのかはゼイゼリリに聞かなければ分からないが、あんなものでタークの病が治るでも無いだろうし、今は薬の開発の方が二人にとっては重大な課題だ。
「そうだ、昨日言ってたお金の当てってなんなの? エコちゃん」
ミモザが思い立ち、エコに尋ねた。エコはあ、そうだった、と昨日した約束を思い出す。
「じゃあ庭に出よう」
エコがそう言うと、二人は連れだって宿の庭に出た。
「わたしの得意な魔法なんだけど……」エコはそう言って『グロウ』を唱える。
庭に生えている草が急速に伸び、エコの背よりも高くなった、と思った瞬間枯れ、辺りに種をこぼしながら朽ちていった。
唐突に枯れ落ちた植物をその緑の瞳の中に捉えたまま、ミモザは暫く茫然と突っ立っていた。
予想外の反応をされたエコは困って、不安そうにミモザの顔色を窺う。
「えっとー、これで薬草も育てられるし、価値の高い薬草をたくさん作って売ればお金にもなるかと思ってるんだけど……。ダメかなあ」
ミモザはすぐには答えず、倒れるようにその植物の根元にひざまづいた。着地の衝撃でずれたメガネをしっかりとかけなおし、枯れた植物を懸命に調べる。ついさっきまで若い株だったはずのそれは完全に枯れて、こぼれ種も普通のものと変わりなく出来上がっている。
「なな、な、なにこの魔法?? どんな植物も育つの? これ……」
「へ、変? 師匠に教わった魔法なんだけどな」
ミモザは地面にひざを突いたままわなわなと震え出し、目を見開いて振り返った。
「これ、なんて名前だって? 『グロウ』? 聞いたことないよこんな凄い魔法……。そりゃあ、お金なんていくらでも稼げるよ。エコちゃん、息切れは大丈夫なの?」
「え? うん。多分マナはあまり使わない魔法だと思うよ。日常的に使うし」
「すごい! すっごいよエコちゃん! じゃあ、もう大丈夫だね!! 薬草はこれで作れるし、これならお金にも困んないよ!」
ミモザはすっかり舞い上がって立ち上がり、エコの肩を諸手で力強く叩いた。
エコは呆気にとられていた。ミモザにこんな簡単な手段ではダメだと言われるかも、と想像していたのに……。
エコとミモザは話し合って、知り合いの薬屋に薬草を卸すことになった。
エコが『グロウ』で育てた珍しい薬草の数々に薬屋の主人は感心して、市場価格よりも安くでいいというエコ達の提案を断り、ちゃんとした値段で買い取ってくれた。
エコ達はちょっとした額になったそのお金を持って薬草の種を買いに種屋に行き、繁華街の行商人達から世界各地の生薬と必要な道具を買い集めた。
ガーリック、レッドオニオン、サフラン、クミン、リラカウロ、カンピ、ショウキョウ、八角、バジル、セージ、タラゴン、ベラドンナ、陶器製の薬研、乳鉢、抽出用ガラス容器、アルコールランプ、プラチナ製のるつぼ。
そうして半日程かけて薬作りの準備を整えると、エコ達はいよいよ【ゲイス・ウェア】治療薬の開発に取り組むことになった。ミモザがエコに、薬作りの方法について簡単にレクチャーする。
「基本的には材料を天秤で計って、薬研で擂り潰して、それを煎じて飲ませるんだけど……。問題は材料の種類と量なの。【ゲイス・ウェア】については分からないことが多いから、まずは……、実験用の魔法生物を使って、少しでも効果のある生薬とか薬草を探していくことから始めた方がいいと思う。強いだけの薬は、副作用で却って毒になっちゃうかもしれないから」
「実験用の魔法生物……」
「うん。それ用の魔法陣はもうあそこ! に描いてあるからー、言ってくれれば必要なだけ作るよ。『イポパカ』っていう、小さいネズミ。魔法生物だから成長が早くて、薬の効果もすぐ分かるの」
ミモザが指差した先の床に、大小2つの魔法陣が描いてあった。エコはそれを確認した後、顔をミモザの方へ戻す。
「もしかして、その魔法生物にさ……【ゲイス・ウェア】を飲ませるわけ?」
エコが想像して、少し青くなった。
「うーん。まあ冷静に考えれば結構酷いことだけど、これしなきゃ仕方がないんだよねえ……。いつまでたっても効果が分からないって事になるから。……とにかく、後は実践でやっていこうか。薬の配合表作っといたから、まずはこれに沿って薬を混ぜ合わせて実験してみよう」
エコはミモザに言われる通りに様々な草を計り、擂り潰し、煎じたり炙ったり脂肪と混ぜたりして、薬を作っていった。薬作りは思いのほか手間のかかる作業となり、1日があっと言う間に過ぎていく。細かい仕事が多いのでエコはタークの世話とはまた違う種類の疲れを感じたが、これがタークを救うための着実な一歩だ、という手応えを感じることが出来たので、苦にはならなかった。
そんな日々が何日か続いた後、エコはまたミモザを呼んだ。
「ミモザ―! ねえ、ちょっと来てくれない?」
呼ばれたミモザがエコの部屋に入ってくる。タークは眠っていた。
「どうしたのー?」
「これっ、これ、今日のタークの便なんだけどさ……。」
エコはそう言って、ミモザに布おむつに乗った黒褐色の物体を見せた。ミモザもエコも、診察と世話の課程でタークの便は見慣れている。
「どれどれ……。あれっ? なんか、普段より量が多くない?」
エコが便を指差し、口の端をわずかに持ち上げながら言う。
「これ、よく見るとさあ……。あの、ゼイゼリリさんに貰った土っぽいと思わない……?」
エコに神妙な口ぶりで言われ、ミモザは目を見張った。
「う……う、う……、た、確かにそう言われれば……。――うあっ! ほんとにそうだこれ! ちょうど量もそれぐらいじゃん!!」
ミモザは木の匙を取り出して、便を掻き分けた。やはり普段の便に、相当量の土が混ざっている。…………
「食べたのかいっ!」ミモザが思わず大声を出した。
「ミモザ、『しー』、よ、『しー』」
エコがタークを気にして、口の前に人差指を立てる。
エコとミモザがタークの便を診察していることを、ターク本人は知らないのだ。タークが気にするかと思って、検便の作業はいつもタークが寝ている間に部屋の隅でこっそりとやっている。
「あっ、ごめんごめんごめん。いやー、それにしても。なんで食べたんだろう」
「ずっと吐き気があって何も食べられなかったのにねえ……。喜んでいいの? これ」
「さあー……」
ミモザは冷や汗を垂らした。
その日も、後の時間はほとんど創薬に費やした。そして夜が更け、次の朝のこと。タークがむくりと半身起き上がり、朝食を食べ終えて看病しに来たエコを驚かせた。
「あっ、ターク! どうしたの、珍しいじゃん! 起き上がってさ」
「なんか……調子がいいようだ……。腹が……」
タークが掠れた声でゆっくりと話す。エコは久しぶりにタークの具合が好転すると思い、喜んだ。とはいえ、タークの肌にはおびただしい数の裂け傷が走り、体液がじゅくじゅく沁み出している。例の肉が腐ったような異臭はますます酷くなり、体中から漂うようになっていた。
「腹がなに?」
「腹が減ったんだ……。何か食べるものは無いかな。例えば……」
(まさか土!?)エコは一瞬身構えた。
「お粥とか。しばらく何も食ってないから……」
エコはほっとして、「うん、うん!! すぐに作るよ、待っててね!」と、元気よく階下に降りていった。
粥を煮込む間だけタークを世話をしに戻って来て、頃合いを見てまた下に降り、手にお盆を持ってまた部屋に帰ってくる。「出来たよ!」タークの前にお盆が置かれた。
「このあたりの湿地で採れる、『マコモ米』っていうお米みたいなものの崩し粥。最初だからうんと薄いけど」
エコはそれをひとさじ掬うと、丹念に息を吹いて冷まし、タークの口へ持って行った。どうなるかと胸を高鳴らせていたが、タークは乾いて割れた唇を開いて、口に入った粥を飲み込む。
「食い方を忘れちまったな……ごほっ。ごほっ!」
「大丈夫? まだ食べる? 残していいからね、お腹が慣れてないんだから」
エコが心配そうに言った。タークは結局エコが持ってきた分を半分程平らげ、食べ疲れて眠った。
ターク、実に3週間ぶりの食事。エコは嬉しさで体がはちきれそうだった。目頭が熱くなる。
(やった、タークが物を食べた……!! ずっと何も食べられなかったのに! もしかしたら)
もしかしたら、このままタークは順調に良くなっていくのかもしれない。薬など無くても、このまま何事もなかったかのように……。エコは救われた思いがした。真っ暗な中で道に迷った時に町明かりを見つけた瞬間のようだった。
その日じゅう、エコは多幸感に包まれていた。
――――タークの意識が無くなったのは、その次の日の事だった。朝、いつものようにエコが呼びかけても返事が無い。
パニックになったエコを部屋に入って来たミモザが懸命になだめ、タークの容態を確認する。
身体をつねればそれに対する反応はあったが、意識が戻ることはなかった。
「なんで。昨日は調子が良さそうで、ご飯も食べたし寝息……寝息も立ててたのにっ……」
エコは目を腫らして泣いている。ミモザがそっとエコの肩を抱き、慰めた。
「エコちゃん、大丈夫、大丈夫だよ。まだ生きてるから。それ、ここ触ってごらん。心臓は強く打ってるでしょう? すぐ起きるよ。大丈夫」
「あう、ぁあ……今は動いてるけど……これ、止まっちゃ、止まっちゃわない? どうしたらいいの? どうしたら、ミモザ」
エコはとめどなく涙と鼻水を流しながら、顔を真っ赤にしてミモザの胸に身を寄せた。エコの体を優しく抱きすくめたミモザにも、どうしたらいいのかは分からなかった。
――――そんな中、タークの意識は以前見た赤い流れの中にあった。いや、よく見れば流れゆくものが赤いのではない。どこからかぼうっと差し込む光が赤みを帯びて、タークの周囲を赤く映し出しているのだ…………。そんな中、タークの体がぼんやりと存在している。
この間よりも、流れは幾分緩やかに思われた。そしてその理由は、ターク自身が水の中をゆっくりと流れているかららしい。
(この先には、何があるのだろうか……)
想像すると、タークは強い恐怖に襲われた。不思議なことにその恐怖はどこか懐かしい感情でもある気がする……。
しかし、タークにはその理由が分からなかった。
上下の感覚も無く方角の概念も無い空間の中を、怯えるタークがゆっくりと流れていく。
タークの周りの流れが次第に遅くなり、やがて、完全に止まった。それは、タークが流れの一部になった事を示していた。タークは嫌だったが、受け入れるしか無くなっていた。――――運命を。
暗がりの中にエコが一人佇んでいる。左手でタークの右手を握り、右手には濃い緑色の煎じ薬が入った小瓶を持っている。ミモザが仮眠を取りに部屋に戻ってからもエコはタークの側を離れようとはせず、思いつめた表情のままに、僅かに呼吸を続けるタークを見つめていた。
エコの持つ薬……、それは、エコが独自に調合した試作品のひとつだった。
だが、まだ実験動物での試験を行っておらず、効果は分からない。意識のないタークには薬を飲ませることが出来ないので、これを使うには皮下注射しか手段はない。
タークの横たわる体には異変が起きている。意識を失ってから、例の異臭がますます強くなり、今では体中から腐った肉のような強烈な臭いが発している。傷にはコバエがたかり、一生懸命に卵を産んでいた。
エコは悟った。――これが、死臭というものなのだと。
(タークが死んでいこうとしている……)
エコは悲しかった。涙はとっくに枯れていた。タークは深く眠っていた。辺りは変に静まり返っていた。
――――エコはタークの手を離して、部屋を出て行った。
タークは赤い流れの中で、ずっと考えていた。暖かくて心地よいこの空間は、考え事をするのにうってつけだ。
まず、自分のこれまでの人生について考えた。良いことばかりでもなければ、悪い事ばかりあった訳でもない。
次に思い出したのは、今まで出会った人々のことだ。特にはっきりと覚えているものは、シェマとミシエータの姿だった。次に出てきたのが、兄弟たちの顔だ。父と母の顔は思い出そうとも思わなかった。
……まだ、自分には思い出す人が居るはずだ……、そう、エコだ。エコはどんな顔をしていただろうか……。たしか、鼻は低い。目は大きくてオレンジ色、それで、髪の毛は……緑。
――――おかしい。
いくらエコを表現する言葉を思い出しても、エコの顔だけははっきり思い出すことが出来ない。
タークは焦った。エコに対する自分の関心はその程度だったのか。いつも一緒に居たはずなのに、顔を思い出すことさえ出来ないのか?
タークはその理由を考え、そして気付く。
そうだ……。俺は、俺はエコとまだ、3か月間しか一緒に生きていない!! 駄目だ、このまま行っては駄目だ。エコにまた会わなければ。エコは近くて遠いところに居る気がする。俺は今、どこにいる? 目だ、目を………………
(目を開けば……)
その瞬間、タークの身体に電撃が走った。
エコの打った薬――マンドラゴラを使った強心剤は、止まりかけたタークの心臓を無理やり動かし、へたり切った血管に血液の激流を送り込んだ。
突然、急激に血圧が上昇したタークの肉体は、声にならない悲鳴を上げた。
エコの薬は、強すぎた。未熟で不用意なエコは、皮下注射によって現れる薬効の強さを、完全に甘く見ていた。
「あ、ああ、あ……!!」
タークの体が激しく暴れまわるのを目の当たりにして、エコはおののいた。
高すぎる血圧に耐えられなくなった細かな血管が破れて体のあちこちに真っ赤なアザか出来、突如として早くなった血流がタークの身体中を走り回る傷口を次々と開かせて、溢れだした鮮血が白いシーツを瞬く間に赤く染め上げた。
「ぐぶっ、うぶっ! ごへっ、ごほっ、ごほッ!!!」
「ターク!」
エコが呼びかけると、タークはかっと目を開いてエコの顔を見た。
「エ、エコッ、から、体がおかしい」
血と汗とで汚れた顔からタークの血走った眼が覗く。その形相は、この世のものとは思えないほどの苦痛に歪んでいた。
「薬……薬が強すぎたみたいなの!! ごめん、耐えて! お願いだから!」
エコはのたうち回るタークの身体に抱き着いて、泣きながら頼んだ。エコの服にタークの血が染み込む。
タークは涙を一筋流しながら、「ああ、こんな顔だったか……」と呟き、そのまま目を閉じた。
「ターク、ねえ、死なないでよッ!! ぜんぶまだこれからなんだからっ!!」
血まみれになりながらエコは叫んだ。心からの叫びだった。




