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エコ魔導士  作者: 中村 尽
旅情編
24/67

第二十二話『ゲイス=ウェアをめぐって』

 翌朝いつもより遅く起きてきたエコは、宿の食堂でマコモ米のつぶし粥と貝で出汁をとったスープという内容の朝食を摂っていた。時間はもう昼だが、宿の主人がわざわざエコのために朝食をとっておいてくれたのだ。ネママを巡る昨日の騒動は、もう宿の人全てに知れ渡っていた。


 あんなことがあったばかりでエコにはあまり食欲がない。つぶし粥にスープをかけてゆっくり食べていると、心配そうな顔をした宿の主人がエコと差し向かいの椅子に腰かけた。

「エコちゃん、その包帯はどうしたんだい? ケガしたの?」

 エコは自分の左手に巻かれている包帯をちらっと見て答えた。

「うーんと、多分、そう」

「多分? ケガしたんだろう? 見せてごらんなさい」

 エコはなんと言っていいのか分からなかった。エコが意識を失ってからのことは叫び声のことも含めてミモザから聞いていたが、エコはその時の出来事を全く覚えていなかった。エコが覚えているのは、いつの間にか縛られて芋虫のようにもがいているネママを殺そうとした時の事だけだ。エコは言われたとおりに腕を差し出しながら、宿の主人に聞く。


「おじさん、自分の身体が勝手に暴れだしたことってない? 昨日、わたしそういう事があったみたいなの」

 宿の主人は少し考えたが、唸りながら「うーむ、ないかなあ」と言った。主人はそのまま包帯を解き、傷口に膏薬を塗って包帯を取り替えてくれた。

「それで怪我しちゃった。なんだったんだろうね」

「どうかね。生きてればいろんなことがあるさね」

 宿の主人の結論付けは強引だったが、エコはそんなもんか、と納得した。




 朝食が終わると、エコは部屋に戻ってタークの脇へ座った。タークが起きていたら身体を拭いてシーツの交換をしようと思っていたが、タークはまだ目を覚ましそうにない。

 このところ、タークの身体から異臭がするようになっていた。恐らく口や鼻の中が膿むか腐るかして、それが呼吸とともに外に出ているのだろう。部屋を締め切るとむっとした臭いが立ち込めるので、エコは換気のために窓を開けた。そのまま窓枠に座り、ぼんやり外を眺める。

 小高い山の上にある【ハロン湖】の空気は、引き締まるように冷たい。景色から緑は薄れ、鮮やかな紅葉が波のない湖に写っている。


(タークはこのまま死ぬのかな)

 いよいよエコも、現実を冷静に受け入れるしか無くなっていた。【ゲイス・ウェア】の恐ろしさについては、師匠に教わってよく知っている。同時に師匠が目の当たりにした実際の死亡例も、幾つか聞いていた。

 その際、魔法による治療を含めたあらゆる措置が全て無駄に終わった事を、師匠は楽しそうにエコに語ったものだ。タークが自殺しようとした時にはエコは何としてもタークを救うつもりだったが、今改めて考えると、なぜあそこまで自信をもって「治す」と言えたのか、自分でも不思議なぐらいだった。


(本当に呪いだったらよかったのに)

 エコが頭からタークの症状を呪いだと決めつけたのには、「【ゲイス・ウェア】なら助からない」という事実をエコ自身よく理解していたから、という情けない理由も混ざっていた。

『魔法の呪い』という可能性はエコにとって唯一の希望だった。もし呪いだというはっきりした確証があれば、エコは躊躇せずにネママを死に至らしめていただろう。あの時既に、エコの中には「これは呪いではないのではないか」という疑いの気持ちが芽生えていたのだ。


 立ち止まって冷静に考えれば、なんの恨みもない相手にこれほど強烈な呪いをかけることは出来ないということぐらい、エコにも分かり切っている。

 タークに対する恨みや嫉妬といった強い負の感情がネママにあればまだしも、ターク本人が覚えていないという時点で、その考えには無理がある。ましてその相手が、あまり人間と直接的な交流がない小人という人種ならなおさらだ。


 エコはただ、行き詰った状況のはけ口を求めていたに過ぎなかったのかもしれない。




 山すそから音を立てて沸き起こった秋の風が色づく木々をざわめかせながら吹き抜け、エコの緑色の髪の毛をなびかせる。その後に続いて湖面に立ったさざ波が、風の行き先をエコに教えてくれた。

 曇り空の割れ目から鈍く差し込む光の筋が、冷えて澄みきった空気をきらきらと輝かせている。相変わらず世界は綺麗で、鮮やかだった。


(タークは死にそうだっていうのに……)エコがまた胸を詰まらせて泣きそうになっていた時、風の中にエコを呼ぶ声が聞こえた気がした。

 エコが湖の方を見ると、小舟に乗った少年がこちらに向かって手を振り、大声でエコの名を叫んでいる。エコも大きく手を振り返した。

「いいなー、舟か……。気持ちよさそうだ」

 そう呟くと、寝ていたタークが突然、激しい咳をし始めた。「あっ、だいじょぶ? ターク」エコは窓枠から降りて、タークの隣に座った。




 着替え、シーツの交換、体中の清拭と床ずれを防ぐためのマッサージ、排泄物の始末。高熱と神経症状によって身体の自由が利かなくなったタークは、そうした最低限の動作すら他人の助けが無くては出来なくなっていた。

 最後にタークを新しい布団に寝かせ、服やシーツの洗い物を済ませると、エコはぐったりと疲れ、床にへたりこんだ。だが少し体を動かしただけで咳込んでしまうタークの疲労はエコ以上だ。干したてのシーツにぐったりと横たわり、眠りこんでいる。


 エコが聞き込みをしている時などには宿の女将さんが自ら申し出て代わってくれていたが、エコは出来る限り自分でタークの世話をしたいと思っていた。

 タークとて他人に体中の清拭や排泄物の始末をされるのは抵抗があるだろうし、エコも申し訳ない気持ちになる。とはいえ、エコよりも遥かに重たいタークの体を汗まみれになって持ち上げ、身体を拭き、更に全身を揉んで強張った筋肉をほぐす……という重労働は、決して体の大きくないエコにとって、畑仕事などとは比較にならないほどの疲労をもたらした。


 今、そんなエコ支えているのはこうした世話は生きているからこそ必要だという強い気持ち一つだった。

 タークが死んでしまっては、こんな世話すらもう二度と出来なくなる。そう思うとエコはこの身を削るような重労働も、命の尊さを思い知る大事な仕事だと感じていた。命あればこそ、血や汗や便や尿が出るのだ。



 エコが壁にもたれかかって体を休めていると、ミモザが部屋に入って来た。

「エコちゃーん、今いい?」

 エコは力なく笑って、ミモザを見た。

「えっへへへ……いいけど、疲れたからちょっと休ませて」

「そっか。じゃーさ、後でお昼食べながら話そー。下で待ってるから~」

 いつも通りののんびりとした口調でミモザが言い、そのまま階下へ降りて行った。エコは一息ついた後、食堂へ向かった。




 お昼の献立は、自家製のパンと、ふっくらした川魚の焼き物、蒸し鶏の温野菜サラダ、豆ときのこの汁もの。木の根っこで作った渋苦いお茶が付いている。エコはこのお茶がどうしても好きになれない。土地の者はよく飲むお茶だが、慣れるのに相当時間がかかるようだ。


 ミモザは食卓で本を読んでいた。ずいぶん集中していたらしく、エコが隣の椅子に座ってから、やっとエコが来たことに気付いた。

「あっ、来た来た。あのさー、ゼイゼリリさんのところはいつ行く~?」

「えっ、あぁ……」

 エコの頭の中はタークのことで一杯で、訪問の事はもうほとんど残っていなかった。トンナムやアグレッドに会ったのはつい昨日の事なのに、エコにはまるで1か月も前のことの様に思えた。

「……やっぱり行った方がいいよね……」

「うん。私も是非お会いしたいんだよね~。……嫌なの?」


 ミモザが少し心配そうな顔になる。 エコは俯いて口ごもった。

「そうじゃなくて……」エコは一旦そこで言葉を切ると、ミモザの顔を見ないまま「あのさ、ミモザは、タークが治ると思う?」と一息に言う。


 エコは内心 (まずい)と思いながら、おそるおそる顔を上げる。言ってはいけないと思いつつも、つい弱気な言葉が出てしまった。しかしエコを見るミモザの顔は、いつもの優しい笑顔のままだった。


「不思議だなー、エコちゃん。私はね、治ると思ってるよ。でも、この間までは【ゲイス・ウェア】を治すなんて無理だって思ってた。でもさー、エコちゃんが治る治るってあんまり言うから、私もすっかりそう思うようになったんだよ」

「そうなの……?」

 エコは声を小さくして言う。ミモザは優しい微笑を浮かべて、エコを慰めるように穏やかな口調で話す。


「そう。あのねえ、エコちゃんみたいにパワーのある人が居ると、周りの人の考え方も変わるんだよー。大丈夫、タークさんは治るよ。これだけ町中の人に心配されている人が、治らないわけないでしょう? それにさ、考えてみてよ。もしタークさんを治したら、エコちゃんが私の考えを変えたみたいに、今度は世界中の人の考え方が変わるんだよ。『【ゲイス・ウェア】、治るんだー!』って」

「そっか……」

「うんっ」ミモザが強く頷く。


「そうだね、今まで治せなかったなんてこと、関係ないよね?」

 エコは笑って言い、ミモザもそれに笑顔で応えた。

「薬学の世界じゃ日常茶飯事だよ、昨日まで不治の病だったのがコロッと治るなんてこと」


「――よっし! ありがとう、元気出たよ! じゃあこれから、ゼイゼリリさんのところへ行こう!」

 エコは椅子から立ち上がって両手を上げ、先ほどまでの暗い気持ちを吹き飛ばすかのように大声で叫んだ。二人の会話に耳を澄ませていた周りの客が、ちょっと驚いている。

「スープ冷めたね~」

 全く驚いていないミモザが、エコの前にある器を見てのんびりと言った。

「平気、冷めてもおいしい!」

 エコはそう言うと、食べかけの料理に勢いよく箸をつけた。夢中で食べ終わり、最後に勢いよく渋苦いお茶を飲み下すと、酷い顔になって咳き込んだ。




――


 


 ゼイゼリリ・コッツェが滞在している建物は、【ハロン湖】の役所の敷地内にあった。エコは聞き込みの際に役所の長とも何度か話したが、その時聞いた話によるとゼイゼリリは何か公的な役目でここに滞在しているらしい。

 調査でゼイゼリリは留守にすることが多いと聞いていたが、エコ達が出向いたのは丁度昼食後の食休みの時間にあたり、ゼイゼリリもあてがわれた行政魔導士用の邸宅でゆっくりしていた。


「ほほほ、エコさんとミモザ・ミモレットさんだね。話は聞いているよ。お兄さんが【ゲイス・ウェア】で苦しんでいるそうだね」

 魔導士の正装でもある、護符を縫い込んだ長ローブを着込んだゼイゼリリは、自らエコ達を出迎えて、説明の手間をかけないように気を遣ってくれた。



挿絵(By みてみん)



「え……、知っているんですか? わたしたちのこと」

 エコが驚いて聞くと、ゼイゼリリは穏やかな相貌に笑い皺を刻みながら言った。

「もちろんだよ。今、君たちの事を知らない人なんか【ハロン湖】には居ないんじゃないのかな? 有名人だから」

「こ……光栄です」

 ミモザはいつになく身を固くしている。ゼイゼリリ・コッツェといえば、導家で最も誇り高いと言われるコッツェ家の当主だ。いわば魔導士の中でもトップクラスの権威ある人物であり、ミモザが通った【エレア・クレイ】の王立魔導学院でも、ゼイゼリリの業績について何回かの授業時間を使って教えている。


 そんな偉人を前にしているのだから、ミモザの緊張は魔導士としてごく当然のことであった。しかしこの時、そういった教育を一切受けてこなかったエコの目には、ゼイゼリリは普通の優しい老人として映った。


「ううむ、ミモザさんも緊張などしなくていいのだよ。大切な話は、座ってするものだ。椅子にかけよう」

 ゼイゼリリがそう言って二人を椅子に促す。

 二人は豪奢な椅子にゆったりと掛けて、部屋を見回す。赤茶色で統一された壁紙と調度品が落ち着いた雰囲気を醸し出す室内には、据え付けの暖炉で薪に混ぜて焚かれている香り木の心地のいい香りが充満していた。

 天窓にはめられた色硝子いろがらすから降り注ぐ光は、部屋中にうっすらと6色の色味を加えている。魔導士が尊ぶ、虹を表す象徴的な色だ。中庭に面した窓からは、風にそよいで涼しく鳴る鈴のような音が幽かに聞こえる。


「音がする」

 エコが呟くと、ゼイゼリリが嬉しそうに答える。

「おお、気付くか。うるさかったかな?」

「すごくいい音……。ですね」

 目を閉じたエコが、率直に感想を述べる。

「そうかい。魔導士にはこういう感覚を磨く必要があるからね、ここの人に言って付けてもらったんだ。私は意地悪な人間だから、こうするんだよ」

 ゼイゼリリが微笑んで、椅子に深く腰掛けた。

「意地悪? そんな」

「ここに招き入れるだけで、良い魔導士かそうでないか判断できるようにしたんだよ。君なら、この香りと光にも気づいただろう」

「ああ、なんだか刺激的なのに甘いような不思議な匂いが……」

 エコが鼻を鳴らす。

「チャズナクローブの香りでしょうか」

 背中を伸ばして座っているミモザが言った。

「ほう、そこまで理解するか。これは半端者には気付けないんだ、そう言う仕組みになっている。かくして私は、質問によってはからずとも部屋に通すだけで、招き入れた魔導士が上等なのかそうでないかが分かるというわけさ」

 エコは感心して、ゆっくりと2回頷いた。

「へえ~……、確かにわたしの師匠も、感覚を磨くことが大切だとよく言ってました」

「うんむっ。そうさ、その通りだとも。五官を磨いてこその魔導士だ。……で、すまないね、本題から大分遠のいてしまったようだ。そろそろ、ターク君の話をしようじゃないか」

「……はい、タークは……」


 エコは辛そうに顔を歪めながらも、ゼイゼリリにタークの症状についての詳しい話をした。ゼイゼリリは顔色を変えることなく、満面に悲哀の表情を浮かべてエコの話に耳を傾けている。エコが言葉足らずになったところは、ミモザが補足してくれた。話が終わると、ゼイゼリリは目を瞑って少し沈黙した。


「……【ゲイス・ウェア】か。かの薬が発掘され、その作成法が明らかになってから、60年ほど経った。だというのに、我々魔導士はいまだその特効薬を発見できないのだ。あれを作った男は……。天才だった。100年に一度の魔導士、という話だ」

「【ゲイス・ウェア】を作った男……。ゲイス=ウェアですね」

 頷いて、ミモザが言った。エコは、二人が何を言っているのかよく分からなかった。


「どういうこと? 薬の【ゲイス・ウェア】を作った人の名前も、ゲイス=ウェアっていうの?」

「ああ、そうだよ。……そうだ。ちょっと待っていなさい」

 ゼイゼリリが豪奢な椅子から腰を上げ、扉を開けて部屋を出て行く。その間に、ミモザが簡単に説明した。


「薬の【ゲイス・ウェア】が流通するようになったのは60年ぐらい前なんだけど、初めに作られたのはもっともっと前のことなの。最初にそれを作ったのがゲイス=ウェアっていう魔導士で、その人は自分の創った薬に自分の名前を付けたのよ。流通が遅かったのは、作り方が難しかったから。……だから逆に、そんなに精製の難しい薬を大昔に作ったなんて事が信じられないぐらい」

「へえー、そんなこと師匠にも聞かなかったよ」

「そこまでのことが分かったのは割と最近だからね。ゲイス=ウェアが書いた本が発見されたらしくって――」


「その本が、これというわけだよ」

 また扉が開き、ゼイゼリリが一冊の本を持って部屋に入ってきた。そのくたびれて装丁の崩れかけた本をそっとエコとミモザの前のテーブルに置くと、また椅子に座った。

「え……!! これ、原本ですか!?」ミモザが信じられない、といった様子で言う。

「そうだ。写本にはない、魔法陣と創薬に関連するいくつかの記述、本人の端書きなどが載っている」


 魔導書は普通、写本によって増刷する。こういった古い魔導書には現代では使わない表現が使用されている場合や、禁呪とされている魔法や儀式についての記述がある事があるので、写本の過程で大なり小なり内容に編纂が加えられることになる。特に魔法陣に関しては、インクの成分の違いや描く順番などの微細な点にその力の根幹となる部分が集約されるので、写本の際に失われてしまうそういった重要な要素が原本の価値をますます高めていた。


 従って、「古代魔導書の原本」の希少価値は計り知れず、原本の存在そのものがいまだに秘匿されている魔導書も少なくない。


「読んでいいんですか?」本に注いだ視線を動かさずに、エコがゼイゼリリに尋ねる。

「ああ。私にしてあげられることは、これぐらいしかないのでね。ただ、悪いがこの場で読んでくれ。……本当は、人に見せちゃダメなんだ。これがばれたら私は大変なことになるから、よろしく頼むよ」

 ゼイゼリリはそう言って、悪戯っぽく笑った。

 ミモザは尻ごんでとても手に取れなかったが、エコはあっさりとそれを取り上げ、ミモザにも見えるように膝の上に置いてページをめくった。ゼイゼリリは腕を組み直し、深く椅子に座った。


「読むと分かるが……。……いや……魔導士ゲイス=ウェアはもう400年も前の人だが、内容のあまりの凄まじさに、きっと驚くだろう」


 ゼイゼリリの言葉を聞いて、エコは胸いっぱいの期待をして本を開いた。

「ああ……、ん? あれっ!?」

 エコは一瞬、何を見たのか理解できなかった。



 エコの目に飛び込んできたのは変てこな黒い模様、あるいはインクのついたハエが這い回ったかのような、ぐにゃぐにゃの線の集合体だった。

「ん??」あまりに予想と違うものを見たので、横合いから覗き込んでいたミモザもついつい素っ頓狂な声を上げる。

 エコは本の上下を間違えたかと思ってひっくり返したが、誰かが補修したらしい表紙に書いてある文字の向きからすると、本の向きは間違っていないらしかった。

「……これ、古代文字とかですか?」

 本を横から覗きこんでいたミモザが、ゼイゼリリに聞く。

「うむ。それはね……はっはは、ただ字が下手なだけなんだよ! ふふはははっはは、驚いたろう」

 ゼイゼリリは組んでいた腕を開いてしてやったりとばかりに左右に広げ、心からおかしそうに笑った。


「うぉー……、これは相当……」

 確かに、よくよく見ればそれは文字だった。しかし、字を崩しすぎて原型を留めていないばかりか、字を間違った描き順で繋げて書いている部分、インクがスレて汚れてしまった部分、そもそも字なのかどうかすら疑わしい部分などがあり、更に、全文を通して話し言葉のような妙な文句で綴られている。他人に見せるつもりなど全く窺えないその文面からは、書いた者のいびつな人格が見え隠れしていた。

 それでもエコは精一杯読解しようとページを注視し続けた。が、ただでさえ読書の苦手なエコは、数分かけてやっと数行読んだところで、疲れ切って本を閉じてしまった。


「頭が痛い……」エコはミモザに本を渡し、頭を抱えて丸くなった。

「はっはっは、なあ、エコ君。すさまじい内容だろう。発見から実に10年経っているんだが、解読が終わって写本が作られるようになったのはここ3、4年のことなんだ。あまりに難解なものでね」

 

 貴重な本を読む機会を逃すまいと根気強く本に目を通しながら、ミモザが唸る。

「んー……、しかもこれ、何か良く分からない単語が出てきますねー……。『かやざる』って書いてあるみたいなんですけど、どういう意味なんだろ」

「それそれ、それなんだよ。どうも彼オリジナルの単語を作っていたらしく、やたらと多用している。解読チームの中には、それを『ゲイス語』と名付けて辞典を作った者もいる程だ」

「これって、日記なんですか? 読んでるとどうもそういう感じが……」

「良く分かったね。そう、基本的にはそれは日記だ。こういった魔導書が日記形式で書かれることは珍しくない。だがこの『ゲイス=ウェアの書』は完全にただの日記で、【ゲイス・ウェア】の制作過程にしてもただ本人が主観的に書いているだけだ。……私も写本は読んだんだが、実を言うとその原本をきちんと読んだことは無くってね……。読む気になれんのだ、どうしてもそんなものは……」

 ゼイゼリリは顔をしかめながら首を振った。思い出すだけで頭痛がするとでも言いたげだ。エコにもその気持ちは良く分かった。ミモザは殴り書きのような文章にめげずに目を通していたが、途中で我に返ってゼイゼリリに尋ねた。

「そういえばゼイゼリリさん、お時間は大丈夫ですか? 貴重な休み時間を潰してしまって……」

「ん? なんだそんなことは気にしなくってもいいよ。私は自由業みたいなものだからね。仕事といえば調査ぐらいだが、それは時間のある時にやればいいのだ」

「調査って、なんの調査ですか?」エコが聞く。

「これも内緒だが、私は今境界魔法陣のデザインをしているのだ。その為の下調べだよ」


 ミモザは驚いて体を起こした。エコはぽかんとしていたが、一呼吸遅れてから、意味が分かった。

「じゃあ、【ハロン湖】がちゃんとした町になるんですか……!!」

 驚きを隠さずにミモザが声を上げると、ゼイゼリリが口の前に人差し指を立てて、「内緒」ともう一度言った。


――――――――――――――

・境界魔法陣

 人口が増えて食料を狭い土地で大量に生産するようになると、その地には餓えた魔物達が集まってしまい、やがて人が住めなくなる。そのため人々は、生産や物流の効率が悪くなり、社会の発展が妨げられてしまう事を分かっていながら、ある程度分散して生活することを余儀なくされていた。

 そんな状況の打開策として作られたのが、『境界魔法陣』という、極めて強力な魔力をもつ魔導士にしか作れない特殊な魔法陣である。

 一定以上の面積、人口を誇る町においては、行政魔導士の配置だけで魔物に対する十分な防護をすることは不可能であるため、土地全体を巨大な境界魔法陣で覆い、魔物の侵入を防ぐという方法をとる。ただし、陣の一部が破損しただけで全体の防護力が著しく減衰してしまうため、境界魔方陣はその保守・点検にかかる労力に見合うだけの大きな利潤のある土地でしか描かれない。

 境界魔法陣は魔物を防ぐ力とともに、土地を豊かにする機能、浄水機能、日差しを和らげる機能などが加えられる場合もあり、街の発展の強力な原動力となる。

 なお、境界魔法陣のデザイナーがその町の長となるのが習わしである。

――――――――――――――


「【ハロン湖】にも人が増えて来たし、貿易の拠点として大きく発展してきたからな。今ぐらいの状態ならいいが、これ以上人口が増え、農地を広げるとなると、いよいよ魔物の被害が増えてくるだろう。現に一昨日も、『人間もどき』の群れがとある農家を襲い、怪我人も出た」

「そうですか……」

 エコはヨズ達の事を思い出した。もう何週間も会っていないが、彼らはクイスとともに、元気にやっているのだろうか。ほんの数日間だけの買い出しのつもりが、タークのことがあってずいぶん長い事帰れていない。

「やはり『人間もどき』の被害が最も大きいな。性質たちの悪いのだと集団で武装していて、一般人にはとても太刀打ちできないのだ。行政魔導士をやって駆除しているのだが、時として行政魔導士にすら死者が出る。まことに厄介な存在だよ……」

 ゼイゼリリがどっしりと椅子に体重を預け、大きなため息を一つついた。三人の間に、重たい空気が流れる。そこへ、硬いノックの音が響いた。

「おおっとすまん、別の客かもしれん。少し待っててくれたまえ」

 ゼイゼリリがそう言って部屋を出て行く。ゼイゼリリの足音が遠のいてから、ミモザがエコに言う。

「……ずいぶん長いことお邪魔しちゃったね。ご迷惑だったのかな」

「そうだね。そろそろお暇しよっか」


 しばらくして、ゼイゼリリの足音が戻ってきた。部屋の扉が開くと同時に、ゼイゼリリが悪そうに二人に言う。

「お待たせしてすまないね。どうも、仕事をしなければならなくなった。悪いが、あちらの扉から出てくれないか」

 エコは立ち上がり、必死に首を振った。

「いえ、とんでもないです。貴重なお時間を頂いてほんとにありがとうございました。しかもお休みのところを……」

「いいんだいいんだ、そんなことは。で、結局ターク君のことをちゃんと話せなかったね。さっきからこれを渡そうと思っていたんだ」

 そう言いながらゼイゼリリが取り出した包みを、エコが両手で受け取る。綺麗な布で包まれたそれは、手に取るとずしりと重く、僅かに湿り気を帯びていた。

「それをターク君の枕元に置いてやりなさい。確かなものだ」

「どうもありがとうございます!」

 エコが勢いよく頭を下げる。ゼイゼリリはエコの頭に手のひらを優しく乗せて言った。

「君達の上にマナの導きがよく出るといいなあ。また何時でもおいで。あの本も、私が居る時なら読んでいいから。……また、内緒でな」

 ゼイゼリリがまた口の前に指を立ててウインクした。二人は深く礼を言って、そのまま屋敷を出た。


……ゼイゼリリは二人が去った後、次の客を部屋に招き入れた。丈の長い、真っ黒なドレスを翻して入ってきたその婦人は、部屋に入るなり口を開いた。

「あら、チャズナクローブに黒香り木を混ぜて焚くなんて趣味がよくなりましたね、おじ様。でも、……ふふふ。耳試しの鈴を5つも鳴らすなんて、相変わらず意地の悪いこと」

「ほほほ、君も変わらんね。嫌になるほど鋭いじゃないか。ソリャ・ネーゼ君」

 ゼイゼリリが目を細めて婦人の名を呼び、椅子に腰かけた。


「ええ、自分でもそう簡単に変わる性格ではないと思っています。今日は魔物対策の報告に来ました」

「ああ、立ち話もなんだから座り給え。で、例の『人間もどき』の討伐は上手くいったか」

 ソリャ・ネーゼは先ほどエコが座っていた椅子にかけると、涼やかな目元を伏せながら言った。

「……例の『人間もどき』の首領格には、また逃げられてしまいましたわ。追撃をさせてますけれど……。まあ、期待は出来ません。あいつは本当に狡猾ですから」

“あいつ”と口に出す時にだけ、ソリャ・ネーゼは整った顔に一筋の皺を寄せた。

「ふむ。……困ったな。出来るだけ早く、境界魔法陣を完成させねばな……」

 ゼイゼリリは遥か天空を見上げるかのように天井を見上げ、肺にある空気をゆっくりと吐き出した。






 エコとミモザの二人がゼイゼリリの屋敷を出たとき、すでに外は暗くなりかけていた。日の落ちる時間は、秋の深まりとともにどんどん早くなっている。帰り道の途中、エコは薄明りの元でゼイゼリリに渡された湿った包みを開き、そっと中を見てみた。布の包みの下には更に紙の包みがあり、それを開くと、中から黒っぽい塊が覗く。


「なにかなあ、これ?」それをそのままミモザに見せる。

「ん? うーん、炭の粉?……いや、土かな?」

「土? なんか特別な土なのかな」

「帰ってからゆっくり見てみようか」


 タークが寝ていたので二人はミモザの部屋に腰を落ち着けた。ミモザの部屋の中は少し散らかっていて、作りかけの薬や開きっぱなしの本がそこかしこに置いてある。

 部屋の窓際にある、抽出に使うフラスコや金属製の薬研やげん(薬を粉にする道具)などが豪快に置いてある広い机の上で、エコは改めてゼイゼリリに貰った包みを開いてみた。入っていたのは、ミモザの言った通りただの土だった。ところどころに白いカビの菌糸が見えており、とても枕元に置いたぐらいでタークに影響を及ぼすものには見えない。

「カビた土だ……」

 びっくりしたエコが率直に言う。ミモザが訝しみながら土を掻き分けて中を調べた。

「中になんか埋まってるのかと思ったけど、それもないみたいだねぇ」

「とりあえず、後でタークの枕元に置いてみよう」

 エコはひとまずその包みを脇に退け、暗い面持ちになって言った。


「でさ……タークを治すには、やっぱり薬かなー、と……」

「……【ゲイス・ウェア】の治療薬かー。前人未踏の領域だねえ~。――薬作りには、この部屋にある私の道具使っていいからね」

 ミモザは散らかった部屋を腕で示した。

「ありがとう。色々教えてもらいたいことがあるの。一応基本的な薬作りはしたことあるんだけど、下痢止めとか消化薬くらいしか作らなかったから」

 エコが言うと、ミモザも唸ってしまう。

「……問題は、【ゲイス・ウェア】程の強力な毒になると、当然薬草も相当強い物を使わなきゃいけない……から、それをどうやって手に入れるかだね。薬屋は【ハロン湖】にもあるんだけど、大した種類は無いし……私の手持ちも少しはあるけど、新薬の開発をするには全然足りないしねー」

 エコは頷いた。そのまま自信ありげに言う。

「うん。タークの身体の状態からすると、かなり強力な薬草を使わないといけないよね。お金もかかるし……。でもね、それはわたしに考えがあるの」

「お金の当てがあるの?」

「上手くいくか分からないけどね。それは、明日。明日見せる。じゃ、わたし、タークの様子を見てくるから……また後で」

「うん、おっけえ~。またねエコちゃん」

 

 エコはミモザの部屋を出てタークの元に行った。エコは寝ているタークを起こさない様に土の入った袋を枕元に置き、その脇に腰を下ろして膝を抱え込むと、膝に頭を埋めるような体勢になってタークの顔をまじまじと眺めた。

 痩せ細びたタークの顔にすっかり目が慣れてしまい、……ふと気づくと、エコはついこの間までのタークの人相が思い出せなくなっていた。エコはそんな自分に気づき、一瞬、気が遠くなる。


 薬を作る……とはいっても、エコには何の当てもない。薬作りのノウハウも、ミモザ頼りになる所がほとんどだろう。全く先の見えない道だが、それでもエコはタークのためになら、どこまでも頑張れるような気がしていた。





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