第二十一話『晩秋・真夜中・床の中』
――――エコの後を追って来たミモザがその場に駆け付けたのは、エコとネママが倒れて少し経ってからだった。
ミモザは眼前に広がる思いもよらない光景――倒れたネママ、凍り付いたエコ、散らばる小動物の死体――を前にしても、大して驚きはしなかった。ネママとエコが戦うであろうことは最初から分かっていたし、魔導戦によって死人が出ることも、ある程度覚悟している。ミモザは陽だまりにうつ伏せで横たわるエコの姿を認めると、容体を確かめようとエコの元へ走り寄って名前を呼んだ。
「エコちゃんっ! 大丈夫、返事して!」
なんの反応も無い。ミモザは最悪の事態を想像しつつエコの身体を転がして仰向けにし、エコの顔に頭を寄せて呼吸と鼓動の有無を確かめた。身体は氷のように冷たくなっているが、何とか呼吸はしているようだ。ひとまず安心して、処置に移る。
(意識が無いのはまずいな。体温が低すぎる……。凍傷になりかけてるところだ)
ミモザはその後も呼びかけを続けながら、なるべく日当たりの良い地面に自分の上着を敷き、その上にエコを移動させた。その途中で、ミモザはエコの手首にある赤く張れた刺し傷に気が付いた。創部が炎症を起こしている事から毒針による創傷だと判断したミモザは、服の中から画陣薬と硬筆を取り出し、解毒用の魔法陣をエコの胸骨の上に直接描き付け、起動呪文を唱えた。既知の毒物ならば、これで大方の解毒が出来る。そこまで済ませると、ミモザは立ち上がってネママの様子を見に行った。
(この人とエコちゃん、相討ちになったのかな?……にしては外傷が見当たらないな)
ネママも意識を完全に断たれてはいるが息はしている。ミモザはとりあえずネママの杖を取り上げ、小さな肢体を縛って動けなくした。その後またエコのところへ戻って呼びかけると、反応して瞼がわずかに動いた。鼓動も強くなってきている。驚くべき回復力だが、このままここに置いておくわけにはいかない。ミモザは助けを呼ぼうと、来た道を戻った。
(二人とも死にはしなさそう。うーん、でも宿まで運ぶのは人手がいるな~。宿のおじさんに頼むか)
ミモザがそう考えながら太い道に出ると、強面の親父が急に後ろから話しかけてきた。
「なあ姉ちゃん、」
「うわあっ、わた、私なんでも無いです! 違います!」
ミモザは、突然悪人顔の男に話しかけられて慌てふためき、訳の分からない言い訳をして逃げようとした。
「待て、早合点するな! 姉ちゃん、エコちゃんを追ってきたんだろ? ただ事じゃなさそうだったが、大丈夫かよ? エコちゃんはこの奥にいるのか?」
「へ? エコちゃんを知ってるんですか?」
走って逃げ出しかけたミモザが、足を止めておじさんの方へ振り返った。
「知ってるよ! さっき小人を追ってるっていうから、道を教えたんだ」
ミモザは、きっとこの人がエコの言っていた「凶悪な外見のわりに人のいい闇商人のおじさん」なのだと分かった。では助勢を頼もうと、今見たありのままの事を話す。するとおじさんは「待ってろ」と言って取って返し、どう見てもチンピラにしか見えない若者達をゾロゾロと引き連れて戻ってきた。ミモザはその強面の男たちを見て少しひるんだ。
「わ、わあー……、つ、強そうですねお兄さんたち……」
「ウチの店のもんよ」おじさんは腕を組んで少し誇らしげに言った。
「で、エコちゃんはこの先か? よっしゃ行くぞてめえら!」
「――待って、待ってよ!」
両手両足を縛られ為す術なく地面に転がっているネママが、大声で懇願する。ネママの眼前には、先端に青い卵型の石がはまった杖を高く掲げたエコの姿があった。血が滴っているのは、先ほど手を何度も地面に打ちつけたせいだ。
杖の先にはうなりを上げて燃え上がる、『フレイム・ロゼット』の火球。エコはまだ意識が朦朧としているらしく足元がふらついていたが、総身から迸る殺意はまっすぐネママに向かっている。ネママを見据える視線の中には、殺人をも辞さないという冷たい覚悟の火が灯っていた。
「ううん、ダメ。わたしにとっては、あなたの命よりタークの命の方が大事なの。あなたが死なないとタークの呪いが解けないっていうのなら、死んでもらわなきゃ。わかるよね?」
「いやっ、まって、違うんだ! 呪いじゃない! 私が死んでもアイツの症状は良くならないよっ!」
エコが眉をひそめる。杖を握りしめる手は震えていた。その顔は今にも泣きだしそうだったが、口を引き結んでなんとか耐えていた。感情のこもらない声で、ネママに聞く。
「どういうこと」
「あ、あれはっ! あの毒は、げ、【ゲイス・ウェア】で……。魔法を使って注射したんだ! だ、だから私を殺してもあの男は治らない! 頼むから見逃してよ!」
ネママの叫び声は真剣そのものだった。聞いたエコの目から、耐えていたはずの涙が溢れ出す。
「……じゃあ、それじゃあ!!……それじゃあタークは治んないじゃない!! な、……なん、なん、なんてことを!! なんてことを、なんてことをするんだよ!!!」
「頼むよ! 悪かったとは思ってる! でも、でも私もこれしかやりようが無かったんだ! 【ゲイス・ウェア】で殺してほしいってのが依頼者の要望だったんだよ!」
「今更ああぁあぁぁ!! 謝ったってぇええーーー!!」
「やめっ、やめて!! ダメだってっ!!!」
エコが怒りの余り掲げた杖を振り下ろしそうになった時、丁度ネママの叫び声を聞きつけたミモザ達が駆け付けた。
「エコちゃん! たんまたんま!」
「エコ坊やめろ! てめえら、抑えろ! 小人は連れてけ!!」
「止めないでよおおぉぉぉぉおおぉぉっ――――!!」
泣き叫ぶエコをミモザが懸命になだめ、屈強な男たちがネママを持ち上げて宿へ連れていく。興奮しきったエコは、ミモザに説得されて『フレイム・ロゼット』の火を消すとそのまま蹲って大声で泣いていたが、闇商人のおじさんが背中におぶされ、と言ってしゃがむと、大人しく従った。おんぶされたまま宿に向かっている間も、エコは泣き止まなかった。傾き始めた日の光がいつもと何も変わらぬ様子で、湖面を赤く彩っていた。
「そうか……そうか。やはり【ゲイス・ウェア】なんだな……」
しわ嗄れた声遣いでタークが言った。その語調は、波のない水面のように静かに落ち着いている。エコは泣き疲れてタークの横で寝付いていた。
タークは喉が潰れて虫の羽音ほどの声量しか出せないため、周りの者はタークの言葉を聞き逃すまいと必死で耳を澄ませなければならなかった。
いかつい若者たちは繁華街へ帰したが、闇商人のおじさんはエコを心配して宿に残り、ミモザとともにネママを尋問しているところだった。闇商人のおじさんが、改めてネママを問いただす。
「……話に一切の偽りはねぇんだな? 何度も聞くがよ。1つでも嘘が分かったら、耳を引きちぎるからな」
「この薬はどこで手に入れたの?」
おじさんが脅し、ミモザが聞く。ネママの前には黒い液体――【ゲイス・ウェア】が入ったラベルの無いビンが置いてある。すっかり観念したネママは、もう隠し事をする元気もないと言った様子で、訥々と話した。
「本当だよ。薬は……、イルピアの魔導薬店で。もちろん闇ルートだよ」
「……1つだけ気になる。いつの間に毒を盛ったんだ? 食事に入れたのか?」
「うっ、その……」
タークの質問に、ネママは少し答えを躊躇う。が、闇商人のおじさんが睨みつけると、左目を伏せておずおずと話し始めた。
「私は虫の魔法生物を作る魔導士なんだ。【ゲイス・ウェア】の中で『カチューシャ』って言う魔法生物を羽化させて、あんたの身体に少しずつ注入した……。今でも、その薬の中には孑孑が何匹かいるはずだよ」
ネママがビンを持ち上げてよく見ると、確かに白っぽい孑孑が身をよじって元気に蠢いている。
「ああ――蚊ね。あれがそうだったのか……。わかった。それだけ気になっていたんだ。――――なあ二人とも、これでこの人を解放してやっちゃくれないか」
「エコちゃんにも聞いてみんと――」
闇商人のおじさんの発言を遮ってタークが言う。
「エコには俺から言って聞かせるよ。――頼む、後生の頼みだ。ふふ……今となっては、ちょっと価値が落ちてるがな」
タークは自嘲ぎみに笑ったが、ミモザとネママはこの冗談で笑う気にはとてもなれなかった。闇商人のおじさんだけが大声を上げて豪快に笑い、「これは承知せんといかんな、俺はここで帰るとするよ」と言って帰って行った。おじさんが帰った後、ミモザが確かめるように聞く。
「タークさん、本当にいいんですかあ? だってこの人――」
「いいよ。……ネママって名だったか? 俺が死ねばお前にも金が入るんだろ。遠慮せず、使うといい。お前は仕事をやり遂げたんだ。俺がしたことを考えれば、これは当然の報いだと思うよ」
ネママは歪んだ表情でタークを見た。ネママの目に映るタークはやせ細り、頬がこけ、体中を見苦しい傷に覆われた半分死体のような人物だったが、その精神性はネママに(とても敵わない)と思わせる凄みを持っていた。自らの死に向き合い、それを受け入れたタークは、人として最も高い精神状態に到達しているように思えた。
ミモザがタークの言葉通りにネママの拘束を解いて部屋を出ていくと、タークはエコの穏やかな寝顔を目に焼き付けるように眺め、微笑んだ。
――これでいい、これでいいんだ。タークは自分でも驚くほど落ち着いていた。もう少しで、俺もあの『赤い流れ』に乗っていく事になるのかもしれない。生きる覚悟を捨てたわけではないが、タークはもう生と死を平等に考えていた。生と死、どちらも価値は同じ。どう転ぼうと、あまり変わりのないことだ――――。
タークはこの時、生きることのしがらみとこだわりから完全に解き放たれて、心と体が充足感で満ちていた。どちらにせよ、今自分はエコ達の世話にならずに生きていくことが出来ないのだ。ならばすべてを受け入れ、なすがままにされよう――――。不思議なことに、タークはそう考えるようになってから体の痛みや辛さがどこか他人事のように感じられて、あまり苦しいと感じないようになった。
タークはエコの寝顔を目の中にしまい込むかのようにゆっくりと目を閉じ、エコと同じ夢の世界へと落ちて行った。
ミモザとネママが宿を出て少し歩いたところで、ミモザが口を開いた。
「これは興味で聞くんだけど……あの時どうして倒れていたの? 全然ケガもしてないし、エコちゃんの魔法?」
ネママは少し答えを躊躇したが、ネママ自身不可解な出来事だったので、ありのままを話してもいいという気になって話し出した。
「……わからない。心臓が止まったのを確認して立ち去ろうとしたら、あの子が……、いきなり暴れ出して凄い声で叫び出したんだ。私は魔法を使おうとしてたんだけど、耐えられなくて耳を塞いだ……そしたらなぜか突然意識がぶっ飛んだんだ。少なくとも魔法じゃない――と思う。詠唱してる様子は無かったし」
「……周りに小動物の死骸が散乱してたんだけど、あれは単なる魔導戦の巻き添えじゃない……ってこと?」
ミモザは悪い予感がしていた。思い当たることが1つだけある。
「ああ、それは多分あの子の叫び声で――、……あの子は一体何者なんだい。どうも普通の人じゃないみたいだけど」
「変だけどいい子だよ。――あなた、もうエコちゃんには関わらないでね。ここからも出て行って。またあの二人に危害を及ぼすようなことがあったら、私だって許さないから……。あ、これ杖」
かがんだミモザが差し出した杖を、ネママが背伸びして取る。
「分かった――。あの子とお兄さんには負けたよ――。実力も心も敵わない。自分がいかに小さな人間か思い知った……。文字通りの意味じゃなくね。すぐに出てくよ。じゃあね」
「じゃあ……」
二人は小さく手を振って分かれた。ネママは急ぎ足で先ほど連行された繁華街への道を辿り、そのまま街道へ出た。【ハロン湖】を背にして、休むことなく歩き続ける。小さな胸の中にやりきれない気持ちが渦を巻いて、足を止めると捉まってしまいそうだったのだ。頭がこんがらがって、何も分からなくなっている。そんな自分の乱れた心を、あの男――タークは涼しい顔で眺めていた。曇りのないあの表情。死を前にして、あれほど冷静でいられるなんて……。
――自分の夢は、なんて小さかったのだろう。いくら体が大きくなっても、心がそれに伴わなければ何の意味があるというのだろう。ネママは自分の心を恥じた。依頼とはいえターク程の人物を殺してしまったと言う事実が、ネママの心を罪悪感で埋めてしまっていた。
「村に帰って、全部やり直したいな……。親孝行でもしようかな……」
一人呟くと、魔力のために『忌み落とし』をした右目が急に惜しくなってきた。村に帰るにしても、その前にあの魔導士会からは足を洗わなければ。巨人薬を作れる魔導士を探すために入った魔導士会だが、最近はやることが過激すぎて付き合いきれない。脱退の意志を伝え、『忌み落とし』をした右目と生殖器を今回の報酬で買い戻して、村に帰ろう……。とにかくそう決めると、ネママの足取りはいくらか軽くなった。俯いて歩いていると、やけに道が明るい。見上げると、青い満月がネママの正面に浮かんでいた。
――
深夜になってエコは目を覚ました。町がすっかり闇の静寂に落ちた中、月明かりにうすぼんやりと横たわるタークの水色の瞳が、エコと目を合わせた。エコはたまらず目を伏せた。
「――ターク、ごめんね。呪いじゃなかった。タークの病気を治してあげられなかったよ」
「それよりもエコ、死ぬところだったらしいな」
この時どういうわけか、タークの声は嗄れずによく通った。普段通りの口調だったが、その語気には静かな迫力が籠って、静かだが強い圧力をエコに感じさせる。
タークが怒ってる? エコは驚いた。だがいくら考えても、タークを怒らせる事などした覚えが無い。
「なぜ、何も言わずにネママを追った。聞けばお前は、迂闊に突っ込んで罠にはまったらしいじゃないか。そして意識を失った。結果はどうあれ、負けたんだ。――危うく死ぬところだった」
こう言われてやっと、エコはタークの怒りの理由を理解した。昨日のエコの無謀な行為とそれによって危険に陥った事をタークは怒っているのだ。エコは素直に「はい」とだけ答えていた。
「俺の身を気遣ってくれるのは嬉しいよ。色々と骨を折ってくれてるのも聞いている……。でも、そのために自分の事を顧みないで突っ込むのは止めてくれ。エコ、お前はこのところ俺の看病と聞き込みで、ほとんど休んでいないだろう」
「う……、うん。だって、タークが……」エコは戸惑いつつ、今にも消えそうな声で反論する。
「いいか。お前の体調が悪くなったら、俺だって悲しいし心配するんだ。今回の事では俺だけじゃなく、ミモザはもちろんこの宿中の人がエコを心配していたぞ。特に、自分に冷静さが無いと思ったら突発的に行動するな。そういう事をする奴は早死にする」
「うん……わかった。ありがとうターク」
エコが言うと、タークの表情が緩み、声が急に優しくなった。
「ああ。目が覚めたのか……眠れそうか?」
自分よりずっと苦しいはずのタークに聞きなれた優しい言葉をかけられて、エコの胸が熱くなった。この先タークと話せるのは、いつが最後になるか分からない。そう思うと、息が詰まって挫けそうになる。
「眠れないよ……」エコは掠れた声で言った。
「そうか……。こっち来な」
そう言ってタークが身体をずらし、エコの分の布団を空けた。エコが転がってタークの布団に移動すると、タークは自分の掛け布団をエコにもそっと被せる。エコは両手でタークのやせ細った脇腹に縋り付いた。肉の削げたタークの身体からは、冷たい皮膚と骨の強張った感触が伝わってくる。まるで陶器の像に抱き着いているようだったが、エコはタークの側にいるだけで、心の底から安心することが出来た。そのうちにエコの胸のつかえは取れて、二人は同時に寝息を立て始めた。
エコの唯一の頼りだった魔法の呪いの疑いは消え、タークの生き目はまた閉ざされてしまった。【ゲイス・ウェア】の毒が盛られてから、もう3週間の時が経っている。【ゲイス・ウェア】は、使用後およそ2カ月で死に至るという。タークに残された時間は少ない……………………。季節は冬に向かっていた。




