第二十話『ハウリング・エコー』
落ち着きなく辺りを見回していたネママは挨拶を終えたエコとミモザがそのまま立ち尽くしているのを見て、思い出したように「あ……ああ、どうぞ座って」と、二人を座卓の前の敷布に座るよう促した。それを受けてエコとミモザがネママの前に座る。
ネママがなぜ焦っているのかが分からないエコは、心配になってネママに質問した。
「あの、……もしかして、今日わたしが来るってことが伝わっていなかったんでしょうか?」
「え、あ……。いいや、聞いていたよ。ただあの、ほら、もっと年配の人がね、また魔法薬とかの事で訪ねて来るんだとばかり思っててさ、魔導士やってるとよくあるでしょ? そういう話」
小人族特有の甲高い声で、まくし立てるようにネママが言う。小人族は体の大きさに比例して声帯も短く出来ているため、どうしても声域が高くなる。ネママは自分の高い声を気にして人前ではいつもできるだけ低い声で喋るようにしていたが、それでもやはり乳児が言葉を喋っているような違和感があった。
エコにはその『魔導士あるある』はピンと来なかったが、ミモザが頷いて同意しているのを見て、そういうものか、と納得した。
「そうでしたか、それならよかったです。さっき話が通ってなかったところがあったもんだから……」
「いやあ、うん。そうそう……。そうなんだよね……」
その発言は尻切れに終わり、ネママはそのまま手元にあったコップを掴むと、喉に一気に水を流し込んだ。エコは飲み終わるのを待ってから本題に入ろうと思っていたが、ネママが急にむせ出したので、びっくりして「大丈夫ですか!?」と声をかける。
「ごほっ、こほ、あ、大丈夫、大丈夫だから……。それで、…………どういった御用で?」
ネママがなんとかそういうと、エコは慌てて姿勢を正した。
「あ、はいっ。実は、わたしの兄が原因不明の病に倒れまして……。もしかすると、魔導士の方なら思い当たる事柄やわたしなんかには考え付かないような治療法をご存知ではないかと思って伺ったんです」
ネママは眉間に皺を浮かべてエコの言葉を聞いていたが、エコの話の内容を聞くとみるみるうちに表情が明るくなった。
エコはすこし怪訝に思ったが、魔導士たちは性格にクセのある人種だと言う事はもう分かっていたので、特に気にしなかった。
「そうか~。でも、あなたたちも魔導士なんだから、どういう事なのか予想つくんじゃないの?」
「えっ、良く分かりますね。わたしたちが魔導士だってこと」
エコに虚を突かれ、ネママの表情が引きつった。視線を逸らして、あわてて取り繕う。
「そう? 風体を見れば大体分かるよ。ねえ? えーっと、ほら、確か……そう! この間、ここの宿の人がそんな話をしていたし」
ネママは焦って、つい素の甲高いキンキン声を出してしまう。エコは特に疑うことなく話を進めた。
「そうですか……。わたしたちも色々と調べたんですが、この十何日間なんの手がかりも掴めなくって。――お願いします。何かご存知の事があったら、教えてください」
「えーと、うーん、そうだな……。あ、どういう状態なの、その、お兄さんは」
思いついたようにネママが言った。エコはうっかり話し忘れていたので、焦ってタークの容体について説明する。
「――うんうん。皮膚症状と……吐き気と熱かー。うーん」
説明を聞いたネママが考え込む。エコは先ほどから、ネママの態度がおかしさが気になっていた。
今もネママは考え込んでいるように見えるが、その言葉の響きには真剣さが全く感じられない。それなのにいかにも親身になって相談に乗っているというフリをしているところが、限りなく怪しかった。ミモザもそう感じているのか、少し眉をひそめていた。さてはと思い、エコは鎌をかけてみる事にした。
「魔法の呪い――」
「ん?」
エコが呟くと、ごく自然な動作でネママが頭を上げる。エコの疑いは、ひとまず外れたらしい。しかし、エコの持った違和感は解消されたわけではない。釈然としない気持ちを味わいながらも、エコは話を繋いだ。
「言い忘れてたんですけど、アグレッドという方から『魔法の呪い』なんじゃないかって助言を頂いたんです。どうでしょうか、その可能性はあると思います?」
「呪いか……。うん、それ、あるかもしれないよ。呪いは一回かければ遠距離でも作用するから、そうなるとなかなか治せないよね」
平静を取り戻したらしいネママが言った。エコの疑心は相変わらず晴れなかったが、これ以上聞いても大した情報は得られそうにない。
「そうですか……。すみませんでした、お忙しいところ。この辺で失礼しようかと思います。ね、ミモザ」
「はい。どうも長々とお時間頂戴して申し訳ありませんでした」
そう言って二人が立ち上がると、ネママも座卓の上に立ち上がって言う。
「ええ、さようなら。気をつけてね」
二人が部屋を出ていくと、ネママは再び椅子に深く沈みかかり、大きな大きなため息をついた。
宿から出て2、3回角を曲がり、ネママの居た宿が見えなくなると、エコはミモザに先ほど気になった事を聞いてみることにした。
「ミモザ、今の人どう思う……?」
それを待っていたかのようにミモザがエコの方に顔を向け、声を低くして言う。
「今の小人さん、絶対怪しいよねぇ~……。なんか慌ててたし、目が泳いでた」
「やっぱり……。なにか嘘ついてそうだったよね。わたし、呪いをかけたのがあの人なんじゃないかと思って話を切り出したんだけど、それは違うみたい。なんだろう、このもやもや感は……」
「怪しいって程度じゃあねえ~。次はどうする? ゼイゼリリさん」
エコはちょっと考えて言った。
「わたし、一度宿に戻ってタークと話したいな。約束は急ぎじゃないから、それからでも遅くない」
「わかった~。それじゃ、こっちだねー」
ミモザが言って宿の方を指差し、角を曲がって宿に向かった。
エコとミモザが自分達の宿に戻ると、ちょうどよくタークが目を覚ましていた。
「お帰りエコ……。なにか分かったか?」
タークは掠れた声で言った。タークの喉は吐き続けている胃液のため完全に潰れてしまい、まともな声が出せなくなってしまっていた。激しい吐き気のためにがっしりしていたタークの身体は見る影もなくやせ細り、眼窩は窪み頬肉がこけて、顔の陰影をより一層濃くしていた。ただ水色の瞳だけは爛々と輝き、かつての様な生気のこもった光を宿している。
「ただいまー。うん。なんとか原因が分かりそうだよ。あのね、呪いじゃないかって話になったの。タークは、人に呪われるような心当たりがある?」
エコは、いつも通りの口調でタークに話しかけた。ミモザなどには、これだけ体調の悪い人間を前にして普段と同じ口調で喋ることはなかなか出来ない。だがエコはずっとタークの看病をしていたために、そのようなことは気にしないようになっていた。それにタークとしても、その方が元気になる気がして喜ばしかった。
「……あると言えばあるが――ミシエータの事とか…………」
「うん。もっと直接的に、誰かに強い恨みを抱かれたりしてない?」
「そこまでは――無いと思いたいが……グ、ごほっ」
タークが咳き込む。エコはタークの口の周りを濡らした布で拭いて、唇を湿らせてやった。
「ずばり聞いちゃうけどさ、小人族に恨まれるような覚えはないかな? さっき話を聞きに行ったら、怪しい人が居たんだよ。ネママ・ネメルリムって人なんだけど。心当たりない?」
タークはしばらく考え込んだが、結局「無いな」と小さく呟いた。しかしすぐに別の事を話し出す。
「林で眠り込んだ時、――近くで何か小さなものが動いてた気がする……。――その後子どもみたいな声がして……。それからいきなり眠気がきた――」
「それ、魔法なんじゃないかな……。魔法に抵抗のない人を眠らせるぐらいだったら、魔法で簡単に出来るよ。それにあの人、子どもみたいな声だった」
脇で聞いていたミモザがエコに言う。
やっぱり怪しい、――ネママ・ネメルリム。エコの頭の中で紡がれた疑いの糸が、一本の線になった。
――タークが寝ている間に、呪いをかけたんだ。なのにああしてしらばっくれて――。
一連の事柄につじつまが合った途端、エコの中に激しい怒りの感情が湧き起こった。それが頭を支配すると、エコはそのまま行動に移った。
エコはいきなり立ち上がると、脇へ置いてあった杖を掴んで部屋を飛び出し、階段を駆け下りた。
「エコちゃんっ!?」
後ろから聞こえたミモザの声を無視して、エコはそのまま部屋を出た。階段を駆け下り、玄関を飛び出して、宿場町を風のように走り抜ける。先ほどの訪問から大した時間は経っていない。ネママの宿はわりあい近くにあり、走ればほんの数分で着く。
だがしかし、エコがネママの部屋に走り着いたときには既にネママの姿は無く、部屋の中を一匹の蝿がのどかに飛んでいるだけだった。
いきなり宿に駆け込んできたエコに驚いた女将が、慌ててエコの後からネママの部屋に入ってきた。
「ネママ・ネメルリムはッ?」
女将が口を開こうとした瞬間、エコが鋭い口調で問いただす。女将は面食らって答える。
「聞いてません……、というか、いらっしゃらないの? 玄関口は見ていたから、宿の中には居ると思うけど……」
――――いや、そうじゃない。エコの直感がそう告げた。窓が開いている。素早く部屋の中を見回すと、先ほど置いてあった杖と小さな肩掛けバッグとコートが無くなっていた。
(荷物を持って窓から逃げた……!)
エコは、ネママを追って宿を出た。
――
「小人? ああ、ちっちゃいのに重そうな荷物もってさ、あっちへ行ったよ」
「小人か……。見なかったな。お兄さん良くなったかい? ――そうか……」
「ああ、小さなのが急いであるってたな。町から出るんじゃないか?」
道行く人々にネママの行く先を尋ねながら、エコはネママを追って行った。どうやら、ネママはこのまま町を出て行方を眩まそうとしているらしい。だが、流石にエコがこのタイミングで追ってくるとまでは考えていないだろう。そこに付け入るチャンスがあるはずだ。エコは不用意な自分の行動を顧みることなく、無理やりそう結論付けた。
宿屋街と屋台町を走り抜け、繁華街へ。繁華街には、エコたちが入ってきたのとは正反対の方角に伸びる太い街道がある。ネママの行く先はそこだとエコは当て込んでいたが、繁華街に派手な店を出している闇商人のおじさんの言うことは違っていた。
「――おうエコ坊! ん? 小人? ――そこの小路に入ったぞ。なんだ、鬼ごっこか?」
エコは闇商人のおじさんに短く礼を言うと、ネママを追って獣道のような小路に入った。鬱蒼とした林の中を通る細い小路の脇には、草に隠れて小さな沢が流れている。
道の途中が藪になっていたり木が倒れかかっていたりと、とても走り抜けられるような道ではないが、小人にとっては十分広い道なのだろう。
湿った地面をよく見れば、ついたばかりの小さな足跡が続いている。小路に入ったネママの意図は分からなかったが、間違いなくネママはこの道の先にいる。エコは乱れた呼吸を整えながら慎重に進んだ。
――呪いを解くには、術者を殺せばいい。
荒れた道を歩く途中、アグレッドの言った言葉がふと思い出され、エコの胸に重く圧し掛かってきた。
(殺す……。そうだ、ネママ・ネメルリムを殺さなきゃ、タークの呪いは解けないんだ。わたしに人殺しが出来るだろうか?)
エコはフィズンを殺してしまいそうになった時の言いようのない恐怖を思い出した。しかし、あの時とは事情が違う。今度は、殺さねばタークが死んでしまうかも知れない。
命は決して平等ではない。少なくとも、今のエコにとっては違った。一緒に生活して、一緒に旅をしたタークの命。それはエコにとってはなにより大切なものだ。
――わたしは出来る、とエコは思った。
タークが助かるのなら、たとえネママ・ネメルリムを殺すことになっても構わない。わたしには出来る。わたしとタークの旅は、まだ続くんだ!!
茂った藪をくぐると、急に視界が開けた。
空き地。道と平行して流れていた沢の源流は、清らかな水が湧きだす小さな泉だった。泉の周りは開けた草地になっており、辺りを白く冷たい色をした珍しい蜻蛉が目まぐるしく飛び交っている。湿気を帯びたひんやりとした空気は、普通よりも重たい。豊富なマナに満ちた大気だ。
「ここへは、来ると思ってたよ……。どうも、思ったより早かったけどね」
ネママの甲高い声がする。しかし姿は見えない。どこにいる……? エコは警戒して杖を構えた。
「まさかあんなことでばれるとは思わなかった。やっと成功したと思ってたのに、なんだいお前は? どうしてなんの前触れもなく、私のところに訪ねて来るんだよ……。あれは予想できなかった……。完全に不意打ちさ。これじゃ戦うしかやりようが無くなるじゃないか」
「ネママ・ネメルリム……!! なんでタークをあんな目に合わせた!? あんなにやさしい人を――!」
エコは興奮して叫んだ、しばらく応答は無い。
「……答える必要ないけど、答えない意味も無いね。知ってどうする?」
「それは聞いてから決める!」
エコがきっぱりと言う。ネママの声は笑いだした。だが声の発する位置がどうしても掴めない。音源が複数あるような、変な聞こえ方だった。
「あっははは、正直だね。――夢のためさ」
「夢!?」
意表を突かれて、エコは少し狼狽えた。ネママの声は勢いを得て、さらに続ける。
「そうさ夢だ! 私は夢のためにならどんなことだってする! 私の夢を叶えられるのは、他でもない自分自身だけだからね」
「やめてよ……」
厳しい目つきで宙を睨みながら、震える声で言う。
「勝手に他人の命を奪っておいて『夢だ』はないでしょ。もうダメだ、今すぐタークの呪いを解かなければ、わたしはあなたのことを殺す!」
エコが怒りを込めて叫ぶと、またどこからかネママの声がしてきた。
「それは出来ないね。でもさ、考えてごらん。知ってるの、あいつは女を毒殺した悪党なんだよ? それが同じ目に遭って死ぬのは当然じゃないの? 命は命でしか購えないんだよ」
ネママの声が理屈をこねる。エコの怒りは頂点に達した。
「自分勝手言って話を正当化しようとするな!! なら、タークの命は誰が購うの? そういう事を言うから、そういう事を言うから――! ……タークは誰にも殺させない。あんなにいい人が、こんな風に死んでいくなんて酷すぎるよ。――わたしはもっと、タークと一緒に居たい」
「じゃあ、仕方ないね。……やなんだけどなーあ、あんたとまともに戦っても勝ち目が無さそうだから。――――知ってる? ここは、ここいらで一番の、マナ・スポットなんだ。ほら、あんたにも分かってるでしょ? ふつうよりマナが濃いってこと。つまり、」
その時、ネママの姿を探して周囲を見回していたエコの左肩に、一匹の蜻蛉が止まった。
「地の利があるってことよ……!! 魔法生物を使う、私にとってはね!!!」
その蜻蛉が弾けた。同時にエコの肩から首、左目を激しい冷気が襲い、凍りつかせる。エコは仰天して、思わずその場に腰を突いた。
「うわっ!!……なん、うわあぁあっ!!」
想像もしなかった方法での攻撃。エコはパニックに陥った。態勢を立て直そうと反射的に立ち上がると、転ばないようにしながら後ずさる。一呼吸置いて、自分に起こった異変に気付いた――なんと、左目が凍り付いて見えなくなっている!
エコは必死で杖を振り回し、半分になった視界を飛び回る蜻蛉を追い払おうとした。が、すぐに右脚と背中に刺すような冷気が走った。体温を一気に奪われ、脚が思うように動かなくなる。まずい……! このまま動きが重くなれば、反撃する間も無くやられてしまう!
気付けば直径30レーンほどの円形の空き地の中に、白い蜻蛉が数十匹も飛び回っていた。その一匹一匹が音もなくエコに近づき、体に止まろうとしている。こちらはネママ・ネメルリムの位置すら特定できないというのに……!!
エコは、とにかく動きを止めてはならないと思い、走りだした。足元は深い草地で走り難かったが、動いてさえいれば蜻蛉は体に止まることはないと分かった。
――魔法生物での攻撃。かつて師匠に聞いた言葉がエコの脳裏をよぎる。
『魔法生物の創造は、今やったみたいに魔法陣を描いて行う。魔法陣を描くのは地面でもいいし、術者の身体にあらかじめ描いておいてもいい。それで、攻撃に使う場合だが……一体一体が強力だったり頭が良かったりする場合は大した数作れないから、魔法生物の性能をよく観察しろ。――逆に、数が多い場合は個々の能力は大したことはないんだ。質と量、どちらを取るかは魔導士のさじ加減だが、もちろん強力な魔力の持ち主が作る魔法生物は全体的な水準が高くなる。つまり魔法生物の性能を見れば、その魔導士の魔力の程は大体分かるんだ。見極めが肝心だ』
(数が多い……。質より量ってタイプか。でも、どちらにしても……相手の位置が分からないと攻撃できない……!)
エコは、ネママの居る場所を探して草地を走り回った。また、どこからともなくネママの声がする。
「走り回っても逃げられないよ……、私の『イテツキトンボ』は、少しずつあんたを追い詰める」
移動したおかげか、今度は声のする地点がはっきりと分かった。あそこ、泉の脇――!!
「そこかっ!!!」
エコはその地点に、渾身の『ウォーターシュート』を数発放った。それは何匹かの『イテツキトンボ』を巻き込みながら、泉の脇にある生い茂った草地に激突して、激しい音とともに土砂の混ざった水柱を噴き上げる。だが、すぐにまたネママのからかう様な声が聞こえてきた。今度は、エコの後ろからだ。
「あっはははは! そっちじゃないよ。行け、お前達!」
ネママの号令が掛かると、草地を飛ぶ蜻蛉の群れの動きが変わった。まるで意志を持ったかのようにエコの方に向きを揃え、体に止まろうと一斉に寄ってくる。
「!!」
エコは蜻蛉を振り切ろうと、勢いをつけて更に早く駆けだした。だが林近くの深い草地に足を踏み入れた途端、何かが足に引っかかって思い切り転んでしまった。驚いて杖を取り落とす。
「うわぁっ!! くそっ!!」
エコは急いで杖を拾い上げ、蜻蛉を阻もうと振り向きざま『ウォーターシュート』で弾幕を張った。が、『イテツキトンボ』の群れはエコの予想よりも遥かに早く、エコの眼前にまで迫っていた。
エコは満身の力を込めて後ろへ飛びのいたが、既にエコの体に取り付いていた何匹もの蜻蛉が次々に弾けた。同時に発生した鋭い冷気が、エコの体中を凍らせていく。
急激に体温を奪われたエコは思うように体を動かせなくなり、足をもつれさせて後ろに生えていた木にぶつかり、その場でしりもちを搗いた。
木の根元にはまり込むような態勢になったエコの身体に、追討ちをかけるように何匹もの『イテツキトンボ』が群がる。そして体に付いた順に一匹ずつ弾けて、エコの全身からどんどんと温度を奪っていった。
(さむい…………)
木の股に蹲るエコの凍り付いた手足には、もう力が入らなくなっていた。目は霞み、音もよく聞こえない。遠のく意識の中、ただ恐ろしく重い瞼だけがしきりとエコに眠気を訴えてくる。
(寝たら、まずい……)
凍えるエコの脈拍は、一気に半分以下にまで下がっていた。それは冷え切った末梢の体温を体の中心に運ばないための、エコの体に備わった防護機構だ。エコは血の流れが遅くなってぼんやりした頭で、必死に体を動かそうと考えた。だが、既に全身の感覚が消え失せたエコの体は、もはや寒さも、痛みも、湿った地面の感触も、――何も感じなくなっていた。
薄れていく意識の中で、エコははっきりと悟った。
――死ぬ。
――
ネママ・ネメルリムは、勝利を確信した。
霜で真っ白になったエコの体は完全に動きを止め、やっと息をしている程度だった。しかし、同時に周辺から『イテツキトンボ』の姿も無くなっている。ネママが創造した76匹の『イテツキトンボ』を全て使い切る総攻撃は、エコが偶然もたれかかった大木に冷気を吸われてしまったせいで、エコを凍死させるには至らなかった。しかし、最早エコは虫の息だ。
「よし、これで後は止めを刺すだけだ……」
ネママは杖を握り締めて、地面に掘った深い溝から這い出した。自分の部屋の見張りをさせていた魔法生物によってエコの追跡に気付いたネママは、マナ・スポットでの待ち伏せ作戦を思いつき、実行に移した。
ネママは草地に生えている草を結んでエコを転ばせる簡単な罠を作ってから、地面に魔法陣を描いて魔法生物を次々と創造し、空き地外れの溝でエコを待った。
ネママが作った魔法生物は3種類。肌に触れると弾けて周囲の温度を一気に奪う『イテツキトンボ』と、声を伝達、反響させる『ヤマビココオロギ』、監視に使う『ジュンラバエ』だ。
ネママ本人は空き地の外れに溝を掘って隠れ、『ヤマビココオロギ』によってかく乱し、攻撃は『イテツキトンボ』に行わせるというネママの立てた作戦は成功した。エコはまんまと罠に嵌り、空き地の反対側で死にかけている。
ネママはエコの動きに気を配りながら、エコの元へと向かった。うららかな午後の日差しが、丁度エコに当たっている。急がなくては、日光で解凍されてしまうかもしれない。ネママはマメハンミョウの毒を刷り込んだ毒針を左手に持ち、急ぎ足で近づいていく。
血の気の失せたエコの身体は、霜で覆われて輝いていた。ネママの思った通り日当たりのいい部分は溶け始めており、身体を触ると幽かに温かみがある。ネママは、まだ脈のある手首深くに毒針を刺しこんだ。これで毒が全身に回れば、さっきまで動いていたエコの身体は永遠に動きを止める。そう思うと、ネママは少し気が滅入った。
「可哀そうだけど、……これも夢のためだ。悪く思わないでね」
ネママの夢。それは、「人並み」に大きくなりたいという単純なものだった。ただし、小人族が種の運命に逆らって人間並みの大きさになるのは、決して簡単な事ではない。
……とある小人族の村長の一人娘として生まれたネママは、料理、刺繍、細工、狩猟と何をやらせても村一番の神童だった。村中から尊敬の目で見られる事に慣れていたネママの自信は、ある時人間の魔導士が気ままに風を操り、森を焼き、川を断ち割る光景を見て、粉々に打ち砕かれた。そして同時に、その姿に強烈に憧れた。
それからネママは高い魔導書を買って魔法の勉強と修行に励み、高名な魔導士に弟子入りもして、死に物狂いで魔法を習得した。努力を惜しまず呑み込みも早いネママは、同年期の誰よりも早く一人前の魔導士として認められるようになった。
しかしそうするうちに、ネママは自分の限界に気が付いてしまった。小人族は体が小さく、そのせいで肺活量に比例するマナの生産量が極端に少ない。ネママの魔法の威力は人間の魔導士以上だったが、強力な魔法になると呼吸が足りず、発動するだけで死に瀕するほどの呼吸困難になるのだ。
その時ネママは、かつて憧れた嵐吹かせ森を焼く魔導士像に自分は全く近づけない、という現実を知った。自身のマナではなく、その場にあるマナを利用する術――すなわち魔法生物の創造術を始めとする魔法陣術ならばネママにも問題なく扱えたが、これまで妥協という事を一切したことがないネママにとって、その選択肢はないも同然であった。
――ネママはしばしの絶望の後、体を大きくする方法を必死で模索した。師の秘蔵書を無断で漁り、目の飛び出るほど高額な魔導書を買い求め、周囲の魔導士に低頭して教えを乞うた。
だがどれだけ調べても、小人が大きくなる方法など見付からなかった。現在、小人族にネママ以外の魔導士は居ない。そもそも小心者で卑屈な小人族の中に、魔導士を目指そうとする者などいないのだ。まして、大きくなりたいという大それた夢を持った者などこれまでいなかったに違いない。
それでもネママは諦めずに研究を続け、意外な所でその方法を見つけた。それは、小人族に伝わるおとぎ話の中にあった。
――小さな勇者メッペセルは、冒険の果てに大きな大きなドラゴンと戦い、巨人の薬を使ってドラゴンより大きな体になると、ドラゴンを踏み潰しました――
初めは歯牙にもかけなかったネママだったが、一縷の望みを抱いて調べる内、やがてこの伝承が実話をもとにした英雄譚だと言う事が判明した。
そして、わずかな手がかりからネママはついに、伝説の巨人薬を作れる魔導薬士を探し出した。ネママはやっと夢に手が届くところまで辿り着いたのだ。
――あとは、巨人薬を作るための材料と資金を集めるだけだ。タークを殺せば、200万ベリル。偶然ネママの元に舞い込んだ依頼の達成額は、奇しくも巨人薬の調合代と一致していた。
「コイツが死ぬのを、きちんと確認しておかないとな。厄介だから……。どうも普通の人間じゃないらしいし」
ネママはもう一度エコの脈を確認した。手首を強く抑えても、なんの拍動も感じられない。心音も止まったようだ。エコは死んでいた。
ネママは自分が初めて殺めた人間の顔をちゃんと見ておきたいと思い立ち、膝によじ登ってエコの顔を眺めた。口は少し開き、唇が乾き始めている。半目開きになった瞼の下から瞳孔が開いて暗くなった瞳が覗き、何もない空間を見つめていた。呼吸は無く、顔色は蝋人形のように青白かった。
「あんたも不運だよね。なにも、自分が死ななくてもよかったのに――。あんな男のためになんであんな必死に……。まあいいや、私にはよく分かんないし、分かりたくもないな。じゃあね、ばいばい」
ネママはそうエコに向かって言うと、エコの膝の上から飛び降り、湖の方へ戻ろうとした。
――その時だった。突然エコの身体が激しく痙攣し始め、手足が引きつったように跳ね回り、あらゆる筋肉が闇雲に暴れ出した。余りに激しく暴れるので、手足が地面や木にぶつかり、皮膚が破れて鮮血が飛び散る。それはさながら、頭の狂った人形使いがエコの身体をめちゃくちゃに繰り踊らせているかのような、明らかに異常な動作だった。
心底驚いたネママが、身体ごとエコの方に向き直る。動きを止めておかしな態勢で立っているエコのなんの感情もない眼球が、ネママのことを凝視していた。ネママの背筋に悪寒が走る――確かに死んでいたはずだ。ゾンビじゃあるまいし――!!
「一度死んだら大人しく死んでろ!!」
ネママは杖を両手で持ち、魔法を使うべく身構えた。しかし、ネママが魔法を唱えるよりも早く、エコの口が開かれた。
「ィ――ヒ――キャ――――ャアァアァ―――――――ァ―――――ャァァ――ッ!!!!!」
大きく開いたエコの口から放たれたのは、可聴域ギリギリの、極めて高い叫び声。それはおよそ人の身体から発したとは思えないような、高周波の不快な音波だった。ネママは堪らず詠唱を止めて、本能的に耳を塞いだ。
エコの叫び声が辺り中に容赦なくまき散らされると、その尋常ならざる叫び声を聞いてしまった哀れな小鳥やリス達が、エコの周りにゴミのように降って来る。それらは石のように硬くなり、地面に散らばったきり、もう動くことはなかった。
ともすればその不快な音が開かれた目や口からも入ってくるのではとの思いに駆られ、ネママは無我夢中で目を閉じ、口を引き結んだ。それでも、びりびりと震える体が、骨が、その毒々しい音波に冒されていくような気がして、ネママは気が遠くなった。
……どれくらい時間が経ったのか、空き地から叫び声の残響が止んだ時、しゃがんで丸くなったネママの身体がその場に崩れ落ちた。ネママはなにが起こったのかも分からないまま、完全に意識を失ってしまっていた。それとほぼ同時に、エコの身体も糸が切れたかのようにうつぶせに倒れる。
生き物の気配が消え失せ、ただせせらぎだけが聞こえる空き地を、木漏れ日が照らしていた。




