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エコ魔導士  作者: 中村 尽
旅情編
19/67

第十七話『湖畔に立つ』

 ターク、エコとミモザ・ミモレットは、【ハロン湖】まで一緒に行くことになった。


 エコとミモザはよく気が合い、歩いている間中、話し続けていた。さっき見た《御樹おんじゅ》のこと、道端に生えている木や薬草の話、植物の話。



「エコちゃん知ってる~? 植物の根っこにアーバスキュラー菌根ってのが共生してるでしょ? マンドラゴラやセチオポイアーなんかのウネ科の植物はね、アーバスキュラー菌根を介して受粉時期を統一してるってのが最近、かなり有力な説になってるんだよー」


 エコは驚いた。アーバスキュラー菌は知っているが、ウネ科の受粉に関係するという話は初耳だ。ウネ科には多くの薬草が属しており、マンドラゴラもウネ科である。



「えっ、そうなんだ! アーバスキュラー菌根って言ったら、ラン以外ほとんどの植物の根に付いてるやつだよね? じゃあアーバスキュラー菌根に何かのシグナルを伝達して違う株同士で意思統一してるってこと?」


「そうそう。まだ研究中だけど、アレロパシーの解釈がそれでまた広がりそうなのー。特に、植物によっては種の出芽をアーバスキュラー菌根を介した情報伝達で制御してる種があるんじゃないかって、研究してるグループもあるのよー」



 ミモザが自慢げに言うと、エコは素直に感心して、ずっと気になっていたことを聞いた。



「ねえ、あれが聞きたいんだ。昔なんかの本で読んだんだけどさ、レッドウッドの樹冠近くに生態系が出来てるじゃん。あそこにしか生えない薬草があるって聞いたんだけど、名前忘れちゃった。ミモザ知ってる?」

「“カルセノオン”かな? あれ薬草じゃないよ」

 すんなりとミモザが答え、エコが驚く。



「え、そうなの? 薬草だって書いてあったんだけど」

「結局薬効が無いって話になったんだよ。プラセボだったんだろうね。あんなところに生えてるから……」


 エコは、ミモザの豊富な知識量に感服していた。本職だけあって、薬草学や植物学の知識が凄い。




 今まで、本で読んだり師匠に教えてもらった時抱いた疑問をミモザに話すと、最近の事情や思いがけない新説を交えて返ってくる。

 それがエコには途方もなく楽しく、歩くのも時間を忘れて、気付けば夕方になっていた。


【ハロン湖】まではまだ距離があったので、その晩は三人で野宿することになった。タークが手早く野宿の準備を整え、エコが火を起こして食事を作る。ミモザは二人を手伝おうとしたが、何をしていいのか分からずほとんど役には立たなかった。


「タークさんすごいー。これどうやって作るんですか?」

「防水加工した布に穴を開けて、後はその場にある材料を合わせて組む感じだな。二人は入れるから、エコとミモザが使えよ」


 タバコをくわえながらタークが言う。それを聞いてエコは心配した。

「ターク、大丈夫?」

「まだそこまで寒くないから大丈夫だよ。だが冬になったらそうは行かないな」

「ありがと。ごはんできたよー」



 エコが作ったのは、『魔導餓避丸まどうがひまる』と『緑養散リょくようさん』を入れて作った麦粥だった。干しショウガ、アキビル、干したキノコなどで香りがついており、それに塩で味付けがしてある。



「えへえ、よくあの丸薬入れてここまでおいしくなるね……」

 ミモザが関心して呟く。


「まずい理由、ほとんど粉っぽさだったからね。水を足せば割と……。で、臭み消して……。あと苦味はちょっとオオムギで甘味出して消してんの」

「魔導士弁当は栄養だけはあるからなぁ~。味さえよきゃ言う事ないよ。これならばっちりだねー。……ところでさあー」

「何?」



 ミモザがすこし真面目な顔になったので、それに応じてエコとタークも聞く態勢に入った。



「魔導士の間では、けっこう噂になってるんだけどー……。このところ“忌み落とし”を推奨してる人たちが集まって、よくない団体を作ってるって話なんだ。タークさん知ってます?」


「ほう。……知らないな」


「旅人が結構襲われてるらしいの。特に魔導士だと、半強制的に“忌み落とし”をさせられて仲間に引き込まれる、な~んて怖い話もあるんだよ。エコちゃん気をつけなね」



 エコが怪訝な顔をしてミモザに聞く。



「ねえ、“いみおとし”ってなに? どういう字を書くの?」

「ああ、うん、『忌まわしい』の“忌み”に『落ちる、落とす』の“落とし”だよ。……魔導士が、魔力を底上げするために身体の一部を切り取っちゃうこと。自分でね」



「なにぃ?」

「自分でぇ!?」

 タークとエコが仰天する。



「学院で習わなかった? エコちゃんは行ってないんだっけ? なんかねえ、身体の一部を落とすと、魔力が跳ね上がるんだってー。私みたいな研究と調合ぐらいしかしない研究魔導士にはあまり関係が無いけど、境界魔法陣を描かなきゃいけない画陣魔導士がじんまどうしとか、行政魔導士を目指してる人とかは、魔力に困ってこっそりやる人もいるみたい。ピアスしたりとか、髪をざっくり切ったりとか、刺青入れたりとかするだけでも目に見えて魔力が上がるらしいよ」



「その程度でいいんだ」



「うん。ふつーはねー。でもそのよくない団体はもっと強烈な“忌み落とし”をしてるんだってさ。それこそ、腕を切り落としたりとか……。こわいよねえ。腕なんて切ったらもう生えないのにね」



 ミモザは自分で言って、自分で怯えている。エコも怖かった。せっかく持って生まれた自分の身体を魔力のために捨てるなんて。



 だが、エコはふとソリャ・ネーゼに完敗した悔しさを思い出し、ほんの少しだけは、身を削っても魔力を上げたい時があることは理解できた。……そのつもりだった。



 しかし実際には、エコは本当の意味でその気持ちを理解することは出来ていなかった。――――本当に理解するのは、エコが直接その執念をぶつけられる時。それは、まだ少し先の話だった。







 次の日の昼には、三人は【ハロン湖】に入ることが出来た。大勢の人だかりに目を回しながら、エコがタークに言う。


「すごい! ターク、湖はどこ? 家の近くにあったのよりも大きい水溜りなんでしょ?」


 タークも少し興奮気味で答える。


「いやあ、この辺は宿場の入り口でな。宿ってのは入り口に近いところに店を作った方が客が入りやすいんで……。後から後から入り口に新しく店が出来たんだ。――つまりだ」


「入り口がどんどん街道沿いに延びちゃって、湖はまだ先!」

「お前やるな! その通りだ」

 二人は盛り上がり、笑って両手を打ち合わせる。


「そうなんだったんだー。私知りませんでしたよー」

 ミモザは平常どおり、のんびりとした姿勢を崩さない。ミモザは【ハロン湖】を中心に薬草集めをしていたので、ここは家のようなものだったのだ。



挿絵(By みてみん)



「で、どこの宿を取るかだが……」

「あー、タークさん私、常宿があるんですよー。宿のおじさんとも仲がいいので、二人もそこに泊まりませんか?」

「なるほど、それはいいな」




 知っている宿があるならありがたいことだ。エコとタークはミモザの提案に乗った。中心の太い道を少し逸れて宿屋街の裏手にまわり、湖に向かって下っていくと、そこには少しくたびれてはいるが品のいい小さな宿があった。





 ミモザを先頭にして、三人が門扉代わりの苔むす岩の間を抜けると、湿気を含んだ涼しい風がそよぐ。中庭の手入れをしていた人のよさそうな宿の主人が、ミモザに気付いて声を掛けてきた。


「おや、おかえりなさいミモレットさん。そちらのお二人さんはお連れさん?」


 蓄えた黒い口髭と白い頭髪のコントラストが特徴的な主人が、ゆったりとした聞き取りやすい口調でミモザに尋ねる。


「はい、そうなんですー。途中で仲良くなった二人なの。お部屋ありますか?」

「あぁ、あぁ、ありがたいですよ、お客さんがお客さんを引っ張ってきてくれたら、こんなうれしいことはありませんねえ! お連れさん、部屋はひとつでいいですか? 湖の見えるいいところが空いてますよ」


 からからと明るく笑いながら、宿の主人がエコたちに聞く。


「あー、はい。ひとつでいいです。ところで一晩、おいくらでしょうか」

 タークが返答する。


「ええ、えぇ、ミモレットさんのお連れさんですからねえ、4000ベリルでどうでしょうねえ。大したものは出せませんが、食事もお出しいたしますよ」

「そんな、いいんですか? ありがたいです。助かります」


 一晩越すも危ういギリギリの懐事情を心配していたタークが頭を下げて礼を言うと、エコもそれに倣った。


「ではお部屋にご案内しますよ」





――





「うわぁー! 綺麗!!」


 

 主人に付いて部屋に移動したエコの第一声は、感激の叫びだった。


 主人の言ったとおり、部屋には湖を一望できる大きな窓があった。よく整えられた庭の松を手前に置いて、【ハロン湖】の美しいエメラルドグリーンが映える。



 緑豊かな岸辺にはのんびりと釣り糸を垂れる人の影。光輝く湖の上には舟に乗って遊ぶ観光客の姿が見え、遠くに目をやれば対岸の賑わいが伺える。



【ハロン湖】はもともと小さな山小屋から始まったに過ぎない、旅人たちの集まる部落だった。だが、各地から商人が入って急速に発展を遂げ、ついには湖を囲む一回りが全て宿場になり、いまや役所まであるいっぱしの町になっていた。


「この辺もどんどん変わりましてね。結構なもんですよ。お嬢さん、ボートにでも乗って遊ぶといいよ。今の季節だと、特に水が澄んでいて綺麗なんだ」

「舟か、舟は乗ったことないなあ」



 エコが水面よりも輝く瞳で、タークの顔を見上げた。かつてスカーレットを買わせた時と同じ瞳だ。タークはこの目に逆らおうとはしない。



「そうだな。明日でも乗るか!」

「ぃやったぁー! 楽しみだな!」



 主人は部屋の使い方を簡単に説明すると階下に降りて行った。ミモザは荷解きをするため自分の部屋に行くというので、夕食を一緒に摂る約束をしてから別れた。

 エコとタークはひと時部屋に腰を下ろし、一服して少し落ち着くと、タークが冬越えに必要な物品を考えて書き出す。その間エコはそわそわと落ち着かない。



「タークターク、外行こう」

「ん、まて。2日くらいしか時間がないから、まず計画を練らんと」

「じゃあ一人で行っていい?」

「危ないから駄目だ。夕方くらいに出よう」

「えぇ、まだ昼じゃん~」


 そう言って大の字に寝てしまう。タークは特に関せず、ひたすら紙に何か書いていた。行動を一通り決めて見通しが立ったころタークがエコの方を見ると、エコはそのまま眠っていた。





――





 エコが目を覚ました時には、すでに部屋の中はすっかり暗くなっていた。窓の外の湖は闇に沈み、風が立てるかすかな波の音だけが、不気味に響いている。



 何時間眠っていたのだろう。エコは半身を起こし、まだ眠気の残る目で暗い部屋を見回した。タークは見当たらない。やけに不安な気持ちだった。階下から知らない人の笑い声が聞こえる。

 エコは尿意を覚えていたが、部屋から出て知らない建物の中を一人でうろつくのは何となく嫌な気がして、タークが掛けてくれたらしい毛布に包まってまどろんでいた。



 そうしているうちに尿意が限界に達し、目が冴えて来る。エコは少し勇気を出して、笑い声のする階下へと降りてみることにした。運よくミモザがいればミモザに聞けばいいし、あの優しそうな宿の主人になら、話しかけられる気がした。


 エコが部屋から出て薄暗い廊下を抜け1階に下りると、入り口のカウンターに座っていた宿の主人がエコに気づいた。


「やあ、おはよう。お兄さんはそろそろ帰ってくる頃ですよ。お夕飯がもうすぐだから、食堂にお出で。すぐそこの部屋です」



 その親しみのこもった温かい声を聞くと、途端にエコの不安感は取り払われ、普段通りの楽しい気分になってきた。促されて入った食堂にはひよこ色のクロスのかかった四人掛けのテーブルが並んでおり、そのひとつに座っているミモザが、こっちを向いて手を振っている。



「あ、ミモザ! おはよう、タークは?」

「部屋が暗いから居ないのかと思ってたけど、エコちゃん寝てたのー? タークさんは知らないよ~」

「どうしたんだろう……」

「散歩じゃないの~? 先にご飯食べてようよー」

「ううん、わたし探しに行ってくる!」



 ミモザが慌てて止めるのも聞かず食堂から出ると、主人がエコを強く引きとめた。



「駄目ですよ、このあたりも夜女の子が一人でうろついていいほど、治安が良くないんです。お客様の安全のため、出ていくことは許しません」



 固い口調できっぱりと戒められると、さすがのエコも立ち止まらざるを得なかった。



「大丈夫ですよ、お兄さんはすぐに帰ってきます。そんなに心配なら、後で宿の者が探しに行きますから……。きっと、すこし遠出してるんですよ。さあ、夕食をどうぞ」

 再び食堂に促されたエコだが、今度は足を向けなかった。


「そうだ、おじさん。わたしトイレを探してたんだけど、どこにあるの?」

 主人はトイレの位置を教え、エコは礼を言って歩いて行った。だが、エコは行ったきりなかなか帰って来ない。主人の妻が心配して様子を見に行くと、トイレにエコの姿は無く、明かり取りの小さな窓から金色の月光が差し込むばかりだった。






――




 人ごみの中、タークは逃げていた。手っ取り早く金を得ようと、ひとまず宿と反対側の岸にある繁華街へと足を延ばし、浮かれ歩く酔っ払い達から適当に財布を抜いていたところ、そこで思いがけない顔に出会ったのだ。




「まてよコラ! ターク、手前ぇ……!!」




 険しい表情でタークを追ってくるのは、魔導士フィズンだった。この間一緒に食事をして打ち解けたとばかり思っていたが、フィズンの心の中にある憎悪はまだ晴れていないらしかった。目の前でいきなり杖を構えて詠唱を始めたフィズンをとっさに殴り倒したタークは、衆目の中タコ殴りにするわけにもいかず、そのまま逃げることにしたのだ。暗い湖の岸辺にでも逃げれば、追手の一人ぐらい撒くのはたやすい。



「止まれ止まれっっ! はぁっ、……この泥棒! ひぃっ」


 聞いてつい笑ってしまった。咄嗟に口から出た言葉だろうが、的を射ている。タークの着ているマントの内ポケットには、先ほどすりとった小銭入れのずっしりとした重みがある。


 フィズンは走るのが遅い。聞いていれば息も絶え絶えといった感じで、このまま走れば普通に逃げられそうだったが、タークは一応脇道に入って林に逃げ込んだ。




 フィズン程度の魔導士には、走って逃げる相手を追いながら魔法を唱えることは出来ない。ちゃんと呼吸を整えてからでないと、魔法が暴発する危険性があるのだ。タークが逃げ込んだ林の前でフィズンはあっさり追撃を諦めて、とぼとぼと湖を取り巻く太い道に戻った。




「はぁ、はぁ、はー……。畜生、思い切り殴りつけやがって……。だが、タークの野郎が一人で居るってことはあの娘とは別れたのかな。そんなら、アイツを殺す機会はいくらでもあるな……」



 殴られた痕を手で抑えながらぶつくさ言って歩いていると、フィズンはいつの間にか屋台町に出ていた。

【ハロン湖】には大きく分けて4つのエリアがある。宿が立ち並ぶ宿屋街。酒屋や売春宿がある繁華街。住民の住む住宅街。そして、最も観光客に人気があるのが、色とりどりの活気のある屋台が立ち並ぶ、この屋台町だった。


「なんか食うか」


 ちょうど、フィズンも腹が減って屋台町に出かけるところだったのだ。そこで偶然タークに出くわして追いかける内に、本来の目的を忘れるところだった。




 適当に選んだ『亀串』と書かれた屋台に入り、そこでタガメの串揚げを買っていると、背後から急に声がした。



「あっ!! フィズンだ!!」



 恐る恐る振り返ると、視界に入ったのは忘れもしない、無邪気なエコの顔だった。



「エ……エコ…………」

 フィズンが口を開いてなんとかそれだけ言うと、エコがまくし立てた。


「フィズン、なんでここに居るの? そだそだ、ターク見なかった? ……それおいしそうだね」

 エコはフィズンの持っているタガメの串揚げを物欲しそうな目で見る。



「あ、ああ、ああ。食うか? 食うよな?」

「うん。食べたい食べたい!」



 エコはフィズンが勢いよく差し出したタガメ串を受け取ると、一番上に刺さっている1匹にかぶりついた。

 そのまま串を引き抜き、「ありがとう。はい」と言ってフィズンに返す。エコに折角の好物を横取りされ、返して貰えるとは思っていなかったフィズンは驚いた。

「え? ……いいのか」

「? いいもなにも、フィズンのでしょ? それ。ありがとう、初めて食べたけど美味しーねこれ」

「う、おう……」



 フィズンの認識では、勝者であるエコはフィズンのものを奪いはしても、決して返そうとはしないはずだった。

 フィズンは常に敗者だった。貧乏商家の末息子として生まれ、やっとのことで入った【王立魔法学院】でも落ちこぼれだったフィズン。そんなみじめなフィズンから、勝者達は全てを奪っていった。



 両親が切り詰めて仕送りしてくれた生活費。やっとのことで出来た恋人。入学祝いのロングコート。そして何より、フィズンは成績や模擬魔導戦で惨めな敗者となるたびに、必死に保っていたわずかな自信を少しずつ、少しずつ、勝者に奪われていくような気がしていた。



 落ちこぼれた果てにフィズンはスラム街の用心棒という役どころに目をつけ、【王立魔法学院】を中退した。乱暴なだけのチンピラがのさばるスラム街では、魔法が使えるだけでフィズンは無敵だった。ここでなら勝者になれる。かつてない高揚感にフィズンは浮かれた。しかし、スラムを覆う闇社会で生き残るには身の程を弁える事が必要だと言う事を、当時のフィズンは知らなかった。


 フィズンはまたも敗者になった。何も闇社会に生きる魔導士はフィズンだけではなかったのだ。上には上がいる。【エレア・クレイ】のスラムには、フィズンが最も黒いと思っていた漆黒よりも、なお黒い部分があった。フィズンは結局、スラムの闇社会でも勝者になることが出来なかった……。



「ねえ、フィズン」

 エコの呼びかけで、フィズンは思考の暗がりから引き戻された。



「ターク見なかった? どっか言っちゃってさ」

「たたた、タークか。おおう、うん、見てない。知らんな」

「は?」



 エコの目がきつく光った。思わず、フィズンが竦む。



「絶対知ってるでしょ」

「いや、本当に……」

「なんで嘘つくのさ? 怒んないから言いなよ」

「だ、だからよ……」

 

 フィズンはエコには逆らえない。しどろもどろになりながら、必死で言ってはいけないところだけ隠し、タークが林に入ったことだけを告げた。エコはフィズンが何か隠しているのは分かったが、それ以上追及せず、怒りもせずに聞き入れた。


「じゃあフィズン、探すの手伝ってよ」

「いや、嫌だ」フィズンはきっぱりと断った。……つもりだったが、声がちゃんと出なかった。蚊の鳴くようなか細い声は、エコの耳に届かない。

「んん?」

「……わかった」


 



――





「エコちゃん、まだ帰ってきませんか? 心配だなあー、やっぱり、私、探しに」



 エコがタークを追って居なくなった宿では、主人とミモザが二人で気をもんでいた。

「いや、いや、ミモレットさん。もう店の者を探しに出しましたから……。ミモレットさんは安心して待っていてください」

「でもぉ~~……」

 主人はミモザを出て行かせまいと必死だった。主人はミモザのことを良く知っていた。ミモザが行ったら、今度はミモザの捜索を出す羽目になる。



「ほんと、どうしたんだろ……。もうすっかり夜だし、ご飯も食べちゃったし、エコちゃんとタークさん大丈夫かな……。もしかして湖に落ちちゃったり、悪い人に捕まったりしてるのかなあー……」


「きっと迷子にでもなったんですよ。大丈夫、そんなに広い界隈でもないですからすぐに見つかりますよ。お茶でも飲んでいるとしましょう」


 主人が黒々とした顎ひげを撫でつけながら、お茶を沸かしに台所へ向かう。その時、入り口のドアが勢いよく開かれた。



「エコちゃん! タークさん!」

 タークがフィズンとエコに支えられて、何とか歩いている。


「ミモザ~! 待っててくれたんだね、ごめんね!」

「……すまんな……。一緒に飯を食うつもりだったのに」


 タークは息を切らし、足を頼りなく震わせて、なんとか立っている。

「タークさんどうしたんですか!? 苦しそう……」


「タークを探してたら、このフィズンに会って……」フィズンが頭を下げた。

「それでタークもすぐ見つけたんだけど、林に倒れてたの。凄い熱なんだよ」


「ああ……。急に足が萎えてしまって、しばらく……。林で座ってたんだが、そのまま少し寝てしまったらしく……。悪いが、今日はこのまま寝るよ」

「どしたの、風邪引いた~?」


「昨日ほら、寒い中で寝たでしょ。その所為じゃないの。ありゃ、林の中で寝たもんだからいっぱい蚊に刺されてるね! ターク」



「じゃあオレはタークを運んだら帰るからな」

 フィズンは今度はきっぱりとエコに告げ、タークを連れて階段を登り始めた。

「うーん! ありがとう!」



 エコは元気よく言うと、主人の方へ向いて言った。

「おじさん、えーと、さっきはごめんなさい。わたし、どうしても――。居ても立ってもいられなくて」


「えぇ、ええ、良いんですよ。無事で本当に良かった。それに君が行かなかったらタークさんは大変だったでしょう。今日は遅いからゆっくりお休みなさい」



 エコはフィズンに礼を言って見送り、部屋に戻ってタークの世話をしてやると、隣に布団を引いて眠った。タークはしばらく苦しそうにしていたが、やがて、いびきをかいて眠り始めた。






――――――――――――――――――――――――――――――――――





 ついにやったぞ――――、私はついにやった。これで、あとは見届けるだけで成功報酬200万ベリルだ。前金はまだ残っている。しばらくこの風光明美な【ハロン湖】で優雅なひと時を過ごせばいい。


 まったく、ターゲットが一人で林に入って来てくれて、本当に助かった。お蔭で暗闇の中、しこたま『カチューシャ』の口吻を打ち込んでやれた――。



 ネママ・ネメルリムは身体を満たす達成感に身を震わせながら、火の明かりに液体の入った瓶をかざした。ビンはもうほぼ空になっている。全く、危ないところだった。もし発症しなければ、また薬品を買いに出直さねばならないところだ。これはそう易々と手に入る代物ではない。


 ネママは大きく息をつくと、これまでの苦労を思い出す。



 初めて殺しの依頼を受けたのは、およそ2カ月前だった。



それからターゲットを探し続け、やっと見つけたのはつい2週間前。前金で何人かの「目」を雇って【ヒカズラ平原】を張っていたのだ。それから人目を忍んで、じわじわと『カチューシャ』を作り続けること今日こんにちまで……。ネママはその間ろくに寝もせず、ずっとタークを尾行していた。



 ネママはビンの中少しだけ残っている薬品に目を凝らした。黒い液体の中で、白い糸くずのような物がゆらゆら漂っている。



「お前たちには、感謝しているよ」



 ネママはそう言ってビンに口づけすると、布団に入った。今日は自分へのご褒美として、布団が嫌になるほどたっぷり眠るつもりだった。

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