第十一話『雨前道中』
街道から少し外れた、人気の無い森深く。針葉樹が生い茂り、光は地表に届かない。
ところどころ岩が突き出す湿った地面を、色とりどりの地衣類や苔が覆っていた。早朝の森の空気は湿度が高く、ひんやりと冷えこんでいる。
そんな緑一面の景色の中、冗談のように白い一軒の建物が建っていた。
扉も窓枠も屋根も全てが白く光り、巨大な貝から削りだしたかのように滑らかな白い壁には、ひとかけらの苔すら生えていない。ただ、窓にはめ込まれたガラス板だけは吸い込まれるように黒く、まるでそこに深い洞穴が口を開いているかのように見えた。
「さて、我等が会長、偉大なる魔導士スンラ・クンプト様の仰るところによると、『忌み落とし』には限界が無いそうです。ご存知のように、今のご神体は400歳であらせられ、その長い生の合間、手足を初めとして実に67箇所もの忌み落しをしておられます。また、スンラ・クンプト様やその妹御は数箇所の『忌み落とし』をしておられ、90歳を超えるご長寿でいらっしゃいます。つまり『忌み落とし』は、魔力の増幅だけでなく、命を永らえさせるのです」
ネママ・ネメルリムは、今日始めての食事を楽しみながら、集会所の長が話す説教を聞いていた。
今日の話し手は声がいい。安定感のある低音、はっきりとした発音。聞いていて落ち着く声だ。自分の声も、こうだったら良かったのに……。
叶わぬ夢とは思いながらも、ネママは小さなため息をついた。でも、自分だっていずれきっとその夢を叶えるのだ。そのためにならどんなことでもしよう――。
ネママはそう自分に言い聞かせると、再び長の話に耳を傾けた。
「――私たちは、確かに疎まれているかもしれません。しかし、歴史が語っております。どんなに疎まれようと、勇気を持って真に正しい行いをする者たちこそ、最後にはマナに愛され、栄光を勝ち取るのです。そして悲願を成就させる。――マナよ、永遠たれ」
いつも通りの締めの言葉を述べると、ネママ以外の十人足らずの参加者たちも、一斉に締めの言葉を復唱した。――マナよ、永遠たれ。
集会所の長も含めて、この建物の中にいる者たちには、ある共通点があった。
人種もまちまちなら年齢や出自も全員違うが、皆、どこかしら身体の一部を欠損しているのだ。
――右足のない老人、左手首と右腕を欠いた男性、手の指が2本ずつしかない娘。
長に至っては、両足と両目が存在しなかった。魔法で浮遊しながら、暗い眼窩で出席者を眺め回す。
「では皆様、平素からくれぐれも行政魔導士にはお気をつけ下さい。最近いよいよ、国が我々を危険視し始めましたので……。お国の魔導士は優秀者揃いです。魔力もなかなかですが、生き馬の目を抜くような、曲者の魔導士が群れております。――かくいう私も、彼らに目を抜かれた一人でありまして……」
自らを皮肉った長のユーモアに、あちこちで笑い声が起こる。
「さて、そろそろ行くかな」
ネママは食事を終えると、傍らに置いてあった小さな杖を持って、低い机から飛び降りた。街道までは、そう遠くは無い。
――悲願を成就させる。その為に、出来ることをしなくちゃ。
――
クレーターを出てからニ日後、エコとタークは宿場に至る街道を歩いていた。【ヒカズラ平原】を北上すると次第に草地がまばらになり、標高が上がって荒れた土地になっていく。
エコたちの目指す宿場町のある【ハロン湖】という湖は、この辺りの交通の要所だ。
昔から長旅の中継地として旅人に親しまれている【ハロン湖】には、自然と宿屋や料理屋、旅の必需品を売る店などが軒を並べるようになり、今では治安を維持する行政魔導士が常駐するまでに発展していた。
「こんにちは! ……こんにちは! こんにちは!」
エコは、すれ違う人全員に笑顔で挨拶している。
街道に出たのは昨日の昼ごろ。最初はまばらだった人通りも、街道が合流するにつれて増えてきた。
初めはタークも一緒に挨拶をしていたのだが、相手が増えるにつれて恥ずかしくなって止めてしまった。だがエコはそんなことは全く気にせず、相手が女でも男でも老人でも、人の顔を見れば挨拶をし続けている。
エコがにこやかに挨拶すると、大体の人が笑って返してくれた。エコはそれが非常に嬉しいらしく、止める様子はまったくない。だから、タークもやめろとは流石に言えなかった。
「はあぁ~~~ぁあ~~ああ、すぅか~~ぁぁ~~あ、れっとーーぉぉ~~~んおぉー」
突然、二人の前方から珍妙な売り声が聞えてきた。
――スカーレット売りの声だ。
『スカーレット』というのは小型の魔法生物で、「スカーレットは旅の災厄から守ってくれる」という伝承があるため、籠に入れて連れ歩く人が時々いる。
ただし「この伝承の出所はスカーレット売りだ」というまことしやかな都市伝説もあって、スカーレット売りはうさんくさい、というイメージがタークの頭に焼きついていた。
「こんにちは!」
スカーレット売りにエコが元気よく挨拶したとき、こりゃ捕まるな、とタークは思った。
「こんにちは。おや、こんなかわいい嬢ちゃんが旅かい? こちらのいかすお兄さんはご兄弟?」
「ターク? 違うよ、わたしたちは――――、 !! あれなんだ!??」
言葉の途中で、エコが突然大声を上げた。同時に大空に向かって指を突き出す。
びっくりしたタークとスカーレット売りも、つられて同時にそちらを向いた。見ると、大きな雲の切れ間から、群れをなして飛ぶ大きな鳥のような影が現れ始めていた。
「ほ~お~~、よーく見つけたねえ。あれはねお嬢ちゃん、ハーピィ族の渡りだよ。見ててごらん、鳥みたいだけど、人の形をしてるから」
立ち止まってそちらを見ていると、ハーピィの群れはだんだん近づいてきて、やがて形がくっきりと見えるようになった。
背の広く大きな翼を広げ、遥か大空を悠然と飛んでいるハーピィたちは、確かに身体は人の形をしている。しかし、上半身は人間と変わらないものの、腰から下はスカート状の尾羽とたくましい鳥の脚が付いた異形であり、人間とは明らかに異なった種族だと分かる。
「春先にあっちに行ったのが、今こっちに帰ってきてるんだな。おじちゃんは春も見たぞ。この街道筋では名物だよ」
「へー、すごいねー………………」
エコが感嘆の声をあげる。
「イルピアの手前に冬の間のねぐらがあるらしい。噂じゃ、ハーピィの住む山の近くに住んでいると、かわいい娘がさらわれて食われっちまうんだとよ。かわいいお嬢ちゃん、気をつけなよ! これからどこに行くんだいっ?」
「【エレア・クレイ】ってとこだよ。タークの故郷なの」
「えへえっ!! そいつぁー遠いな! どうだい、長旅にスカーレットを連れてくってのは。こいつが居ると旅がうまくいくんだぞ、なあ兄ちゃん」
極めて自然な流れでスカーレット売りが営業に入る。すると、示し合わせたかのように、そのうちの一匹が鳴き始めた。
それはまるで、水晶で出来た笛のような寂寥感のある清らかな音色だった。周囲を歩く旅人や行商人までが、耳を向けて聞き入っている。
エコはそれを聞いて、急にクレーターの家のことや師匠のこと、自分が生まれたときのことなどを想起させられたような気がして、泣きたい気分になった。
「――どうだ兄ちゃん、2000ベリルでどうだいっ」
「いらん。そんな金はない」
「まあ待ってくれよ、妹さんの意見も聞いちゃどうだい。なあ、いい声だろ?」
「荷物になる。いらん」
タークが突っぱねる。エコはやっと我に返り、タークの方を向いて言った。
「わたし、欲しいな。ターク、ね」
それを聞いてスカーレット売りの目が光った。
「兄ちゃん、負けたよ! ――1700ベリルだ。妹さんのためだぜ」
「しょーがねえなぁー。ホレ、あいにく金貨しかねえぞ。つり銭あるかい」
それはクリノッケにもらった金貨だった。タークの持っていた金は家と共に燃えたので(紙幣ばかりだった)、今のエコたちの全財産はこれだけだ。この先のことを考えると、まったく足りない。どうせどこかで稼がなければならないのだ。タークはそう思うことにして、ポケットから金貨を差し出した。
「餌はどうする? スカーレットの餌は虫とか小動物なんだが」
スカーレット売りはつり銭を出しながらそう言った。エコが二人の金のやり取りを分からなさそうに眺めている。
「サービスしろよ」
「分かったよ兄ちゃん。俺と兄ちゃんの仲だからな! 10匹付けとこう」
そうしてスカーレット売りと分かれたエコたちは、少し道を外れたブナの木の影で休むことにした。
「考えてみれば、エコの前からいきなり売り唄をやり始めたのは、もうその時には俺たちに標準を絞ってたんだな」
なんという商魂強かなスカーレット売りだったのだろう。しかも、値段が2000ベリルのままだったら、タークは買わないつもりだった。それを見切ってすかさず値を下げる、絶妙の呼吸。
「プロだな」
タークはひとりごちた。エコは寝そべって、籠の中のスカーレットに話しかけている。
「キミ、これからよろしくね。おなかは空いてない?ほらー、食べたら? 食べないの?」
そう言って餌をつまみ、目の前でぷらぷら揺らす。それはミルクティーのような色をしたまだら縞模様の芋虫、ミルワームだった。スカーレットはお腹がいっぱいらしく、見向きもしない。
「食べないのか。ターク、さっき渡してたの何? あれってクリノッケさんがくれたやつだよね?」
「あれは金だよ。今スカーレットを買ったから、その代金を渡してお釣りをもらったんだ」
タークは、エコに常識がないことに慣れきっていた。自然に、エコが最低限分かる範囲の情報を与えて理解させることが出来るようになっていた。幸いエコは学習能力が高く、新しい概念でも一度説明すればほとんど理解してしまう。
「あれが買い物かあ!! この子、高かった?」
「ん、まあ2日分の食費くらいかな。大した額じゃなかった。気にするな」
「うん、じゃあ気にしないね!」
「――ちょっと火をくれんか」
「うん。はい」
タークがタバコを取り出して言うと、エコが指の先から小さな火を出してタバコに火をつけた。
エコが明るい気持ちになるのなら安いものだ。タークはタバコを燻らせながら、そう思った。エコはただでさえ慣れない旅で疲れきっていたのだ。
何しろ、旅暮らしと今までの生活とでは、内容が全て違う。水と食料の確保。毛布1枚での野宿。トイレのない場所での排泄。いくら休養を多めにとっているにしても、そんな生活を続けながら重い荷物を背負って1日中歩くのだ。家でのんびり暮らしていたエコにとっては、厳しい旅路だった。幸い今のところ雨には出くわしていないが、タークがふと見ると、高く晴れ渡る空にはうろこ雲が浮かんでいた。――――雨の予兆だ。
タークの隣でエコがまた籠に向かって話しかけていると、スカーレットが歌うように鳴き出した。エコは微笑みながら目を閉じて、久しぶりに家に帰ってきたような落ち着いた気分で寛いでいた。
一方タークは、スカーレットの鳴き声に混ざるノイズに気付いて、げんなりした。耳障りで不愉快な、甲高い羽音。蚊がいやがる……。見回すと、大きな蚊が数匹、タークの周りをからかうように飛んでいた。蚊に付きまとわれるのには慣れていたが、せっかく休んでいるところに来られると本当に気分を害される。蚊はなぜかエコには見向きもせず、タークだけを狙っているようだった。
「エコが魔法生物だからか……」
エコはマンドラゴラだから、きっと血の味も違うのだろう。タークはそう納得すると、群がる蚊と静かな格闘を始めた。風のない、穏やかな秋の昼さがり。いつの間にかエコは眠っていた。
――
「フウ、フウ、フー……。さて、いつ効いてくるかな?」
ネママは呼吸を整えながらそう呟くと、液体の入ったビンの蓋を締めた。そのビンにはラベルが貼られておらず、中身を示す情報は見当たらない。しかしネママが慎重に蓋を締めたことからすると、ただの液体ではないらしい。
時間はかかると思うけど、これで上手くいくはず。許容量を超えさえすれば、もう対策のほどこしようがない。この魔法は無敵だ……。これを習得するまでに、どんなに苦労を重ねたことか。
辛くて長い修行、魔法陣を書くためのお金稼ぎ、そして、魔力を上げるため落とした、右目と生殖能力。
(失ったものばかり見ていても仕方ない。得たものをどう活かして生きるかが大事なんだ。私はどんなことをしてでも、夢を叶える。もっとお金と魔力があれば、きっと出来る。可能性があるなら、どんなことをしてでも……)
ネママは立ち上がり、さりげなくその場を離れて街道に戻った。ターゲットに見つかってはいけない。……隠れるのは得意だけれど。
後ろから、スカーレットの寂しくて美しい歌声が聞えた。地平線が赤みを帯び始めている。――雨が近いな、とネママは思った。