プロローグ
景色が、揺らいでいた。
見渡す限りの砂原の上で悪魔のように燃え盛る火の玉が、地を灼き、木々を枯らし、吹き渡る風を渇いた熱風に変えている。
それでも、正午の光は真上にあった頃に比べればいくらか落ち着きを取り戻していた。
そして灼熱の暴君が地平線に隠れてからは、天を冷たい月が支配する夜の世界になる。
すると昼間の暑さからは想像も出来ない極寒の世界が、この砂漠に出現するのだ。
昼は真夏。
夜は真冬。
砂漠は、一年間の気候をたった一日で再現してみせる。それによってもたらされる急激な気温の変化と、果てのない餓えと渇き。
周辺に住む人間達は、この砂漠のことをこう呼んでいる――。「死の世界」と。
……ここに存在する生命達にとって、砂漠の苛烈な環境に挑戦することは如何なる意味を持つのだろうか。
砂漠に生きる事ができる生物は絶対的に少なく、まして熱射の降り注ぐ昼間に、その姿を見ることは滅多にない。
――――揺らぐ景色の中をゆくその男の目にも、そうしたものが写ることは、ついになかった。
男は、必死に何かを考えていた。
強すぎる光で目が見えなくなっている上、命綱である水と食料も、とっくに底をついていた。しかし男が考えているのは、残り少ないであろう自分の命についてではなかった。
首にぶら下がった顔をうつむき、腕をだらりと垂らしながら、男は重い身体を引きずるようにして、少しずつ、少しずつ、前進した。
その動作はあまりにも緩慢で、鈍重で、不恰好だった。両の脚を頼りなく前に踏み出すたび、倒れてしまわないことが奇跡に思えるほどだ。
それでも、男は前進を止めない。力を振り絞ってやっと踏み出すその一歩が、砂漠を越える道行きの、なん万分の一にも満たないとしても。
そんな男の行く手には、聳え立つ砂の隆起があった。
――砂丘だ。
男の背丈の何倍も巨大な砂丘が、男の行く手を阻もうとでもするかのように、どっしりと鎮座している。砂でできた滑らかな表面は西日を受けて乙女の肌の如く艶めき、微風が起こる度上質なドレスのように揺れた。
それからしばらくの時間が経ち、赤く潰れた太陽が地平線に半分ほどその姿を隠した頃……。砂丘のなだらかな斜面に、ようやく、男の黒いつま先がかかった。
一歩、二歩……。男の足がゆっくりと踏み出され、砂丘を登り始める。
しかしいくらなだらかとはいえ、細かい砂で出来上がった坂道である。ただでさえ覚束ない男の足取りでは、登りきれるはずもなかった。
それでも男はなんとか2メートルほど斜面を登り、尚も一歩、足を前に踏み出す。砂を踏みしめるわずかな音が、風の音の陰に消える。
風がやみ、次に男が繰り出した一歩は、滑らかに吹き流れる斜面を捉えることが出来なかった。
日に灼かれた砂の坂に、踏ん張ることのない男の体が、前のめりに倒れこむ。それが最後……もはや男に起き上がる力など無く、――――男は、そのままそこで死んでいった。
男の死と同時に、どこかですばらしいものが生まれた。それは重大なことだったし、重大でないことでもあった。
取り残された男の亡骸は、死してなお何かを考え続けている様に見えた。