青と雲。
空をゆっくりと漂う雲を眺めていたら、正午を告げる町内放送が流れてきた。
先週から降り続いていた雨が降り止んだのは今朝のことで、町内放送が流れている今では、穏やかな陽光が狭い町をこれでもかとばかりに燦々と照らしている。
そんな、おそらくは誰もがアクティブになるであろう今日という日に私は学校をサボり、雨が止んだ朝方から空を延々と眺めていたわけである。特に理由があっての行動ではない。昔からの癖なのだ。ふと空を見上げると、様々な形をした雲が青い空を泳いでいる。時間が経つとともに、様々な雲は様々な形へと姿を変えて行き、最後には私の目の届かない遠くへ行ってしまう。その一部始終を眺めているのが、どうしようもなく好きなのだ。
その悪癖がたたってか、家族や友人からは変人扱いされることもよくあるが、私は何も気にしていない。たとえ指摘された時は腹が立ったとしても、空を見上げ、雲の動きを目で追っているだけで、私の周りを取り囲む全ての物事がどうでもいい些末事に思えてしまうから不思議である。
いつの頃からこうだったのはよく覚えていない。私が幼い頃の話を両親に聞いてみたこともあるが、両親共々、幼く可愛い娘に対する愛情が乏しかったらしく、記憶が曖昧で回答は要領を得なかった。父親に至っては、お前は産声を上げた直後から空を眺めていたよ、などとつまらない嘘八百を並べ立てる始末で、私という人間は元々この男の中にいたのかと思うと全身が総毛立つ思いをした。
ふと気付くと、正午を告げていた放送は鳴り止んでいた。先程眺めていた雲はとうの昔に遠くへ流れていったようで、今では雲の尾っぽしか視認出来ない。雲との出会いは一期一会なのである。
それにしても、学校をサボり空を眺めているととても気持ちがいい。風邪を引いて休むとか、止むに止まれぬ事情故に休んで見上げる空とは格が違う。サボる、ということこそが重要なファクターなのである。
私は意気揚々とベッドから起き上がった。部屋の中から眺める空もいいが、外に出て、誰も居ない広い公園で見上げる空はもっといい。両親もいない。友達もいない。見ず知らずの他人もいない。そこにいるのは私と空と雲と青。そんな事は理想論であって、現実には自分以外、誰も居ないなんて事はあり得ない。でも私はそんな理想の空間を探したいと思う。私は外に出る。陽光が眩しい。暫し瞼を閉じる。次に瞼を開けた時には一体どんな世界が私の眼前に広がっているのだろう。理想の世界が広がっている事を期待して、私は瞼を開ける。
久しぶりの投稿です。
ここまで読んでいただいた皆様、本当にありがとうございます。