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夢流れ  作者: 大和 政
第一章 猿夜叉伝
6/61

浅井の人質

 猿夜叉は藤吉郎の背中で心地良さそうに寝息を立てていた。

家まで送ってやると猿夜叉を背負った藤吉郎は、猿夜叉の家が分からぬと少しの間途方に暮れたが、町の人に聞くと案外簡単に道は知れた。

とはいえ、街の人は先程と同じく猿夜叉との係わり合いを避け、ただ指先で行く道を指し示すか、言葉を交わしても二言三言で終う人がほとんどだった。

「皆、浅井の子、浅井の子と忌み嫌うが。猿夜叉よ、お前は何者なんじゃ?」

 藤吉郎の脳裏には先程、浅井は嫌だ、六角になりたいと泣いた猿夜叉の姿が焼き付いていた。

背中におぶった猿夜叉は軽い。

そんな小さな子供が声をしゃくり上げて泣いていた。

のぅ猿夜叉、お主は何故あのように、皆から忌み嫌われておるのじゃ?


 町の人が指し示した道は、石寺の市を抜けて観音寺城へと続いていた。

兵屋ではボロを着た足軽たちが夕飯の支度に追われ、家臣団の屋敷は門を閉ざし夜が訪れるのを待ち構えていた。

「ここを曲るのか。」

 町の人に教えてもらった道を進むごとに立ち並ぶ屋敷は大きくなっていった。

角を曲がって出た大手道は、石畳の敷かれた立派な道で、藤吉郎のような旅商人にとても不釣り合いな大通りだった。

「お前、本当にこんなところに住んでおるのか?」

 藤吉郎は足を進めるたびに段々と不安になって、

ついつい背中で寝息を立てる猿夜叉の顔を覗き込んで、それから気を取り直した。

そうだ、こんな立派な屋敷に住んでおるといっても何も不思議な事はない。

屋敷の下働きや手伝いなどで屋敷に住み込む事はある。

現に俺自身も蜂須賀の屋敷で暮らしとった。


なんとも不安に駈られながら、藤吉郎は教えてもらった屋敷へと足を向けた。

空はもう夜の帳が下りきって、冷たく輝く月明かりが足下を照らしていた。

薄明るい大手道に、目指す屋敷の御門には篝火が煌々と焚かれて、門番が立ち並び、頻繁に人の出入りが続いていた。

「ほれ、猿夜叉。着いたぞ。本当にこの屋敷で合っとるか?」

 藤吉郎が屋敷まで後一歩の場所で猿夜叉を揺り起こすと、

猿夜叉は寝惚け眼を擦って藤吉郎の背中から降り立った。

「うん。猿兄、ありがとう。」

 猿夜叉の小さな手が強く藤吉郎の指を掴んで離さない。

藤吉郎は引っ張られるまま猿夜叉に続いて屋敷のそばまで来ると、屋敷の中から二人の男が飛び出してきた。

何をそんなに慌てているのか、藤吉郎にぶつかりそうになりながら、

その目の前を駆け抜けると、そのうちの一人が猿夜叉を見て、

「おったぉ~。」となんとも気の抜けた声をあげた。


 屋敷に帰り着いて、猿夜叉はすぐさま小野方という女の人と共に屋敷の奥へと消えていった。

そして残された藤吉郎は、先ほどの二人に捕まって、六角屋敷から少し離れた西條屋敷に連れてこられていた。

月明かりは時折、雲の陰に隠れて、周囲を照らすのは定武と之綱が手にした松明の灯りだけだった。

門をくぐり、西条屋敷の中に入れば、中には家人はいないのか屋敷の中は真っ暗だった。

之綱は手にした松明を頼りに屋敷の中に入ると土間で草履を脱ぎ、中に上がり込んで囲炉裏に火を移した。

そして之綱が土間との境の縁に腰を据えると、それを合図にするように定武は藤吉郎を土間へと突き飛ばして、逃げ道を遮るように入り口に立ちふさがった。


それはまるで捕らえられた泥棒のような粗雑な扱いで、

大人二人に囲まれて身を竦めた藤吉郎に之綱が静かに声をかけた。

「さて、其の方の名前から教えてもらおうか?」

 之綱の妙に丁寧な口調が、一層不気味に藤吉郎の不安を煽った。

土間の土の上に突き倒された藤吉郎が之綱の顔を窺っても、

囲炉裏の火を背にした之綱の顔色は読むことができない。

「と、藤吉郎じゃ。」

 なにやら不穏な雰囲気に、藤吉郎の言葉が喉に引っかかる。

「ほう、それで姓は。」

「ご、ございません。」

「では、お主。どこの生まれだ。どこから来た。」

 後ろを振り返れば定武がまるで鍾馗のように藤吉郎を見下し睨み付けていた。

「尾張、中村。」

 まるで理不尽な、罪人の取り調べのようなやり取りに、藤吉郎は段々と腹が立ってきて、終いには開き直り、大きく胸を張って胡座を掻いた。

「では、中村の藤吉郎。何故、猿夜叉を連れ去った。」

「連れ去ったとはなんじゃ!!あのような小さい子供に寄ってたかって…。

俺は猿夜叉を助けただけじゃ。」

「その言葉に偽りはないな。」

 之綱の言葉に、藤吉郎は頭から冷や水を浴びせられたように身を竦めた。

マズイ。

俺はもしや人攫ひとさらいと間違われてるんじゃなかろうか。

慌てるな。慌てるのが一番マズイ。何を言っても言い訳がましくなる。

丁寧で落ち着いた之綱の口調が唯一の救いだった。

藤吉郎は深く息を吐き出すと必死に冷静さを装い、

之綱の口調に合わせて丁寧に答えた。

「ご、ございません。」

 本心だ。なにも後ろめたいことはない。

藤吉郎はまっすぐに之綱の目を見据えた。


「だ、そうだ、定武。

もういいだろ?今日は冷え込む、一杯やろう。」

 之綱は、決死の覚悟で見据える藤吉郎の視線を受け止めると、

それ以上は分かり切った答えを聞くだけだと興味を示さずに囲炉裏の奥に行き、徳利から杯に酒を注ぐとそのまま囲炉裏の前に腰を下ろした。

「之綱!!」

「良いでないか。土間は冷える。

定武も藤吉郎もこっちへ来いよ。」

「之綱!!戯けるのもいい加減にせぇ。

コヤツが北近江の間者だったらどうするのだ!!」

「ハッ。

だからと言って、ここで問答したって、自分が間者だなんて言う間者はいない。

時間の無駄だ。」

 杯を手に戯けた態度を取っても、心中には譲る気持ちなど微塵もなく、之綱は定武を睨み付けた。

態度こそ惚けているが、話の筋は通っている。

こうなると之綱は折れる事が無い。

仕方なく定武は戸口から歩み寄ると藤吉郎の手首を掴み、囲炉裏の端へと腰を下ろした。

そうして、一人、囲炉裏の前で立ったままの藤吉郎に、之綱は射貫くような視線を投げつけた。

「もう一度聞く。

さっきの言葉に偽りはないな。」

 膝を立て、杯を片手にした気の抜けた態度だったが、之綱の声は真剣そのもので、藤吉郎の答えの真意を推し量っていた。

「ない。…いえ、ご、ございません。

俺は猿夜叉を助けたかったから、あの場から猿夜叉を連れ去ったのです。」

 他に他意はない。隠すことも、躊躇うこともない。

藤吉郎は自らの腹の内をさらけ出す覚悟で言い切った。

その言葉を聞いた之綱は、杯の酒を一気に飲み干すと、

手酌で酒を注ぎ、藤吉郎に差し出した。

「どうだ。屋敷で働かないか?」

 早くも酒に酔ったのか、之綱は何の脈略も無くいきなり話を切り出した。

その話の切り出し方に藤吉郎はおろか定武でさえ言葉を失ったが、之綱は至って真面目だった。

「どうだ?藤吉郎。」

 手酌で酒を煽りながら、まるで女を宴に誘うような口振りの之綱に、定武は怒りにまかせて酒を一気飲みした。

「之綱!!

儂はまだコヤツの話を信じた訳ではないぞ!!」

 先程から怒鳴り声を上げ続けている定武だったが、之綱はもう慣れ切っているのか、風になびく柳の枝のように受け流すと、無邪気な子供のような微笑みを浮かべて定武に言った。

「せっかく連れ去った猿夜叉を、また屋敷まで連れてくるような間者はいないよ、定武。」

 之綱は、囲炉裏の前で立ったまま、二人の話の行方を見守っている藤吉郎の手を引いて傍に座らせた。

「まぁ、なんじゃ。コヤツを屋敷に入れるのはいいが。

どうするのだ?下働きの手は足りておるぞ。」

 之綱が考えもなくいきなりこのような事を言うはずがない。

定武は藤吉郎を屋敷で雇うと言った理由を探った。

「さっき藤吉郎が言っただろ、猿夜叉を守りたかったと。

正直、俺やお前では猿夜叉を守れない。

他の家中の者の目もあるし、今は上洛の準備に追われてそれどころじゃあない。

そこで、この藤吉郎に猿夜叉の守りをしてもらおうと思うんだ。

ほら、藤吉郎の年の頃で屋敷の下働きなら、猿夜叉と四六時中一緒にいてもおかしくない。」


 之綱の言葉に定武は苦々しく唸った。

之綱の本身はなまくらではない。

戯けた言動も突飛な行動も本人にはそれなりの考えがある。

生まれたときから兄弟のように育って、之綱の事を良く知る定武は、

久々に彼の本領を垣間見た気がした。

なるほど、悔しいが、定武や之綱では家中の立場もあり、

猿夜叉を庇うことができないことがしばしばあった。

しかし立場など気にする必要のない下人ならばこそ、

猿夜叉を庇う手もあるのかもしれん。

之綱に丸め込まれて定武は、期待を込めて藤吉郎に目線をやったが、

肝心の藤吉郎はまるで話を聞いていないように思案に暮れていた。

「藤吉郎、聞いておるのか。」

 定武の言葉に我に返った藤吉郎は、そのまま定武に目をやり言葉を返した。

「…あの…定武様…」

「平井じゃ。むこうのウツケは西條。」

 定武は、初めて会う藤吉郎が呼び名に戸惑っているのを汲んで姓名を教えてやると黙って藤吉郎の言葉を待った。

「では、平井様。

ひとつお教え下さらんか。

猿夜叉とは何者なのじゃ?

どうして、あのように非道い目に遭わされとるんじゃ?」


 藤吉郎の問いかけに之綱と定武は、どう答えようか言葉に詰まった。

囲炉裏の火がユラユラと三人を照らし出す。

定武が之綱に目をやり、囲炉裏の火がパチリと音を立てて弾けたのを合図に之綱が口を開いた。

「猿夜叉はね。人質なんだよ。浅井家の。」

 時間をかけた割にアッケラカンとした口調で切り出した之綱に続いて、

定武が言葉を付け加えた。

「儂ら六角家と浅井家との間には長い間、戦が続いておってな。

猿夜叉はその人質として浅井家から六角家に送られてきたのじゃ。」

 猿夜叉は戦敵の人質で、それ故六角家の者たちから非道い目に遭わされる。

単純で分かりやすい説明だったが、

しかし、藤吉郎はその言葉では納得できなかった。

「しかし、平井様、西條様。

尾張にも人質がおったが、猿夜叉のように非道い目に遭わされたとは聞いた事もありません。

それに、人質を送ったなら戦は終わったはずじゃ。

どうして、猿夜叉があのような仕打ちを受けるのじゃ。」

 藤吉郎の質問に定武が目を見開いて、之綱は笑みを浮かべた。

これは良い拾い物かもしれない、と。

土間の土の上で小さくなっていた、さっきまでの姿はどこにいったのか、

藤吉郎は口調を荒く、大げさに手振り身振りを加えて話を続け、定武と之綱は熱弁を振るう藤吉郎の話を聞いていた。


 降伏し人質を送ってきたその人質を虐げる。

なるほど、一見ありがちな話だが、これほど馬鹿げた事はない。

虐げられた方は必ず恨みを積み重ね、やがて新たな戦の火種になっていく。

だからこそ、人質はよほどの事情がない限り、家臣団や主家の子と同じように保護され大切に育てられるのが普通だった。


 よく考えれば当然の話だが、

そのことを瞬時に感じ取った藤吉郎の勘の良さに、之綱と定武は舌を巻いた。

まして、藤吉郎は元服も済んでいないような子供である。

「まぁ、まことにその通りだが。

世の中には想像もつかない複雑な事もあってな、

猿夜叉は、浅井家に人質とも思われておらんのよ。」

 定武は手にした杯の酒を一気に飲み干して、空になった杯をトンと床に叩き付けた。

「浅井の子の猿夜叉が浅井の人質でない…。どういう事じゃ?」

 二人が思った通り上手く事情の飲み込めない藤吉郎に、之綱は今までの経緯を順を追って説明しだした。

「猿夜叉を庇い、守る為には知る必要があるしな。

どうして、猿夜叉がここに居て、あんな非道い目にあっているのか。

説明するよ。」

 長い話になるのか、之綱は座敷の奥から新しく酒を用意すると、腰を据えた。

そうして之綱は揺らめく囲炉裏の炎を見つめて、昔話を語るようにゆっくりと言葉を紡いだ。

「昔、二十年も三十年も昔から、六角家と浅井家は戦を続けていたんだ。

それが、今から七年前。

北近江を支配している浅井家の当主、浅井亮政がこの世を去った。

亮政という人は、一代で浅井家を、一豪族から北近江の盟主にまで押し上げた大人物でね、浅井家の大黒柱だった。

その亮政が亡くなったのだから、浅井家家中は大層混乱した。

跡を継いだ久政には、父の亮政ほどの才覚は無くて、

家中の混乱を収める事ができなくてね。

翌年、その浅井家の混乱の隙を突いて、俺たち六角家は北近江に兵を出した。

ただでさえ混乱していた浅井家は、まともに戦うこともできずに敗戦敗走を繰り返した。

そして俺たちは浅井家の本拠地、小谷城にまで兵を進めて、浅井家は降伏。

和睦の条件に浅井家当主・久政の正室・小野の方が六角家に人質に出されたんだ。

そう、人質に出されたのは、猿夜叉の母・小野の方だけ。」

 意味深に繰り返された言葉に、藤吉郎はすかさず二の句を継いだ。

「人質は小野の方だけ?

なら、猿夜叉はいつ六角家に来たのじゃ?」

「猿夜叉は六角家に来ていない。」

 今まで淡々と話を続けていた之綱の口元が歪んだ。

定武も渋い顔で酒を煽っている。

之綱も一口、杯に口を付けると、納得のいかないまま話の続きを待っている藤吉郎に、渋々話すように猿夜叉の出生の謎を明かした。

「猿夜叉はね、六角家で生まれたんだよ。」


「それではもしや、猿夜叉は…」

「つまらない想像はよせ。」

 どこでそういう事を覚えたのか、下世話な想像を膨らませる藤吉郎の頭を、

之綱は思いっきり叩いた。

「猿夜叉が産まれたのは、この観音寺城に来てから九ヶ月後の事だ。

人の子が産まれるのには、十月十日と言うからね。

だから間違いなく、猿夜叉は、浅井家が降伏する前、

小谷城で仕込んだ子だよ。

まぁそれでも、藤吉郎。

お前のように小野方の不義を疑う奴も居た。

人の噂は悪いほど面白いからね。

猿夜叉は不義の子だの、小野方が手籠めにされただの、

一時、家中はその噂で持ちきりだった。

そして、そんなただの噂を久政は真に受けた。

いや、もちろん、そんな下らない家中の噂なんて浅井家には届くはずがない。

だから、久政は自分の考えで、そう疑っちゃったんだろうな。」

 之綱はよほど話したくない話なのだろうか、手酌でグイと酒を煽ると、

今度は定武がその話の続きを継いだ。

「人質に出した自分の妻が、九ヶ月も経って自分の子を産んだ。

久政にしてみれば、なかなか信じられん話だ。

なにしろ、小野方はこちらに来られた時は、まだ腹も出ておらず見た目には子を宿しておるなどと、儂も思いも寄らなかった。

それが、九ヶ月経って突然、子が生まれた。と文が届く。

しかも、小野の方は南近江に人質に出されていて会う事も確かめる事もできん。

そうなると、疑うのは簡単で、信じるのは困難を極める。

なにしろ小野の方は六角家に囲われているのだからな。」

 定武は、杯を置き、両の手で胡座をかいた両の膝を掴んだ。

酒に酔い、前屈みに身を乗り出し、揺れる灯に照らし出される姿は山賊の頭のようだった。

「例えば、六角家の者が小野の方を手籠めにして子が出来たとする。

産まれるのは当然十月十日の後じゃが、久政にはそれより早く、

小野の方が人質に来た九ヶ月の後にでも文を送れば良い。『子が産まれた。』と。

そして、その文を出した数ヶ月後にその子が産まれたとしても、

二、三年も経てばそんな違いは誰にも分からなくなる。

そして、その子が久政の跡を継いで浅井家の当主になれば、

六角家は戦わずに浅井家を乗っ取ることができる。

いや、もっと単純に、六角家の子を小野方の子と偽っても良い。

どのみち浅井家には確かめる術など無いのだからな。」

 あまりの話に藤吉郎は息をするのも忘れていた。

なんと非道い、それではその子はただの道具でないか。

「藤吉郎、落ち着け。例え話だ。実際には違う。」

 之綱は、藤吉郎が空になった湯飲みをいつまでも握りしめているのを見て、たしなめると、水瓶から水を一杯掬って藤吉郎に手渡した。

気がつけば、藤吉郎の喉はカラカラに渇いていた。

藤吉郎はその水を一気に飲み干すと話の続きを待った。

「もちろんそれはただの噂、尾びれ背びれの付いた噂話なのだがな。

でも、久政はそう疑った。

小野方は何度も文を出して、身の潔白を訴えたがそれは通用せんかった。

そして、自分が騙されたと勘違いした久政は、

六角家との和睦の条件を無視して、美濃の斎藤家に妹を嫁がせて勝手に盟約を結び、たびたび南近江の田畑を荒らすようになった。

そのたびにな、小野の方や猿夜叉は辛い立場に追いやられて。

人質として南近江に来た頃には、他の家臣たちと変わらぬ暮らしをしておったのが、遂には屋敷働きの下人と同じような扱いにされてしまった。」

 だから猿夜叉は六角家の中でもぞんざいに扱われていたのだった。

特に、六角家に降伏しながら次々と盟約を破っていく久政に対する、六角家当主・六角定頼の怒りは凄まじく、その怒りの矛先は全て小野方と猿夜叉に向けられた。

そして、六角家の主である六角定頼が猿夜叉を乱暴に扱うのだから、

終いには誰も猿夜叉の事を大切に扱おうとする者はいなくなった。

「お館様が猿夜叉を粗雑に扱う以上、

儂らが猿夜叉を庇ってやることはなかなかできんのじゃ。

しかし、藤吉郎。そなたであれば立場など気にすることはない。

猿夜叉を庇い、守ってやる手立てもあろう?

せめて、猿夜叉のそばに居てやってはくれんか?」

定武の分厚い手が藤吉郎の手を握り締めた。

その温かな手は藤吉郎が夢に見ていた父親の手の平のようであった。

そしてその手と共に今度は猿夜叉を守ってやるのだと思えば、

藤吉郎に断る理由などなかった。


 明くる朝、藤吉郎は日が昇る前に起こされた。

まだ、昨日の夜の酒が残っているのか、フワリとした足取りで表に出れば、

空は、宵闇に朝日が混じり、遠く鈴鹿の山々の稜線が白く輝き始めて、

外は、雪が降り積もり、屋根も塀も庭も真っ白な雪化粧だった。

「おう、やっと起きたか。早う顔を洗らえ。」

 声を掛けた定武は、西条屋敷の片隅にある井戸端で定武は豪快に上体を寒風に晒し、頭から水を被っていた。

「ほれ、ボーとしとらんと。今日からは屋敷仕え、儂の部下じゃからな。

屋敷で酒の臭いなどさせてみろ、倒れるまでシゴいてやるからな。」

 定武は上機嫌に笑いながら藤吉郎の腕を掴んで井戸端まで引っ張っていくと、そのまま同じように頭から水を被せた。

「ひぃやぁ、冷たい!!」

 息が止まるほど冷たい水を浴びせかけられて、目が覚めた藤吉郎は、定武から手渡された手拭いで顔を拭う。

「では、早速、お屋敷に行くか。」

 定武は、まだ囲炉裏の横で寝息を立てている之綱をそのままにして、藤吉郎を連れて西條屋敷を出た。


 そこから六角屋敷へは京極屋敷、伊庭屋敷を挟んですぐのところにあった。

そんな僅かな間であったが、鈴鹿の山上の空は白から黄色、朱色へと変わり、いよいよ日の出も近づいていた。

定武の後ろを歩きながら、こんな朝早くから起こさんでも…と恨み言を思い重ねていた藤吉郎であったが、六角屋敷の門を潜って一遍に目が覚めた。

夜が明ける前から六角屋敷の朝は始まっていて、

門前や馬屋の掃除、馬の世話、朝餉の支度に水汲み薪割りと、屋敷に住み込んでいる下人たちが忙しなく働き出していた。

「平井様、お早うございます。」

 定武が門前に差し掛かると、両脇に立っていた門番が挨拶をして、近くの下人たちが続いて頭を下げた。

「おう、お早う。

のぅ、佐平はいとるか?」

 定武は気さくに下人たちと挨拶を交わし、佐平という男を呼び寄せた。

定武が熊のようなら、佐平は猪のようだった。

佐平はその達磨のような丸い顔に人懐こい笑顔を浮かべて、定武の下に駆けつけると薄くなりなじめた頭を下げた。

「佐平には屋敷の下働きの頭をしてもらっておる。

分からん事があったら、佐平に聞け。

佐平、新入りの中村藤吉郎じゃ。よろしく頼むぞ。」

 定武は簡単に互いを紹介すると、早速、屋敷方衆に声を掛けられて屋敷の大広間へと姿を消してしまった。

上洛の準備はまだ山のように残っているようだった。

「藤吉郎、早速じゃが、手が足らん。仕事は山のようにあるからこき使うぞ。」

 佐平は自分の子供より幼い藤吉郎の肩を力を込めて揉むと、そのまま両肩を捕らえて藤吉郎を厨所へと連れて行った。

馬屋、番所と本邸の外側を廻り、その奥に厨所はあった。

本邸の端に設けられた厨所とは、六角屋敷の台所の事で、そこでは早朝から総勢百人を超える屋敷仕えの朝餉の支度に大アラワだった。

「新入りの藤吉郎じゃ。

大二郎、お主は炊き方に廻れ。

藤吉郎は、野菜の水洗いじゃ。」

 一刻さえも惜しむかのように佐平は端的に指示を出すと、いままで水瓶の前に座って野菜を洗っていた大二郎が「へぃ」とノッソリと体を起こして釜戸の前に行き、藤吉郎は言われるがまま、今まで大二郎がしゃがんでいた場所に腰を下ろした。

「分かるな、右手のカゴの野菜を水洗いして、皮をむいて左のカゴに移す。

それだけじゃ。」

 佐平は二、三の言葉を言い残して、後の事を大二郎に託すと、駆け出すように自分の持ち場に戻っていった。

そうしていきなり仕事場に放り込まれた藤吉郎は、戸惑いながらも仕方なく言われた通り野菜を洗い始めた。

藤吉郎の右手には大根、人参、里芋などが入ったカゴが人の背丈ほど積まれていて、それを藤吉郎は一つ一つ手に取り、目の前の桶で泥を濯ぎ(すすぎ)皮を剥いて、左のカゴに放り込んだ。

与えられた仕事は単純だったが、右手の野菜が一杯に詰まったカゴはいくつもあって、そのうえ、剥き終わった野菜は瞬く間に料理に使われていく。

その仕事はいつ終わるとも知れなかった。

そうしていくつもの野菜の泥汚れを濯ぎ洗っているうちに、桶の水も泥に汚れ土色に澱んだ。

徐々に野菜洗いに慣れ始めた藤吉郎は桶の水を流して、水瓶に水を汲み直しに行くと、その時一人の子供が井戸から水瓶に水を運んでいた。

「猿兄。」と、先に声を掛けたのはその子供だった。


 幼い猿夜叉も下人たちに交じり水を汲み朝餉の支度を手伝っていたのだった。

「おう、猿夜叉。儂も今日からここで働く事になった。

忙しいから話は後じゃ、またな。」

 藤吉郎は軽く猿夜叉の頭をなでると、「おい、野菜が足らんぞ!!」と、怒声の響く持ち場へと帰っていった。

藤吉郎は、野菜をカゴからまとめて水桶に移すと、両手でワシワシと野菜の泥を落としながら、目線は自然と猿夜叉を追っていた。

見ると猿夜叉は、何度も井戸と厨所の中にある水瓶の間を行き来していた。

小さな体で一抱えもありそうな水桶に一杯井戸水を汲み、厨所の水瓶に水を移す。

途中、猿夜叉が一歩を踏み出すたびに、水が桶から溢れ出し、猿夜叉の髪を顔を服を手足を濡らしていた。

そうして水瓶に運んだ水は、野菜洗いに煮物焚き物にと次々に使われ、瞬く間に無くなってしまい、猿夜叉はズブ濡れになった体を乾かす間もなく、井戸と水瓶の間を行き来していたのだった。

最初、水に濡れ凍りかじかんだ指先も、三度四度と水を汲み運んでいる内に汗ばみ、九度十度と運ぶ頃には火照った体に冷たい水が心地よかった。

そうして、全身をズブ濡れにして朝餉の支度が終わるまで水を汲み続けると、その後ようやく一息ついて、猿夜叉は一人で釜戸の前で体を乾かすのだった。

 厨所には誰もいない。

水汲みで濡れた服を乾かしながら鍋の火加減を見るのが、

いつしか猿夜叉の仕事になっていた。

そして他の手の空いた者は、朝早くからの仕事の褒美と言わんばかりに番所に戻り、束の間、うたた寝などするのが常になっていた。

そうして結局、朝から働き詰めの猿夜叉の事など気に留める者は、

今まで誰もいなかった。

「腹減った。」

 釜戸の前で日に当たり服を乾かしていた猿夜叉は、背を丸めてうなり声を上げた。

日はもう高く昇っていた。

日の出前から起き出して、延々水汲みをしていた猿夜叉の腹の虫が大きな声で鳴いた。

米鍋からはほんのり湯気が立ち、甘い香りが立ちこめていた。

このご飯を、六角家の主である六角定頼が食べる。

その後、六角家の重臣たち、奥の方、屋敷方衆と順々に朝餉の時間となり、

下働きの者の朝餉はまだまだ先の事だった。

我慢…。

身を小さくして膝を抱え込んだ猿夜叉の鼻を、米の甘い香りが刺激する。

見れば、鍋に吹き出した米汁が糊のように乾いてくっついていた。

これなら怒られる事も無い。

もう我慢できずに、考えもなし米汁を剥がそうと猿夜叉は鍋に爪を立てた。

アツい!!

鍋に触れた指先が赤く腫れた。

猿夜叉は口に指を加えると、痛さで空腹も飛んでいった。

それがいつもの事だった。

「猿夜叉。どうした!?」

 ところがこの日は違った。

猿夜叉が指先を口に加えてる事から察して、藤吉郎が水桶に水を汲んでくると、猿夜叉の指先をその水の中に浸した。

「よし、よう冷やせばすぐに良ぅなる。

腹が減っとるからと、あんなもんを摘み食いするからじゃ。」

 大げさに笑い立てる藤吉郎に猿夜叉はしかめっ面を向けたが、

藤吉郎はそれを待ってましたとばかりにニヤッと笑い、懐から包みを取り出した。

中には握り飯。

「西條様から譲ってもらったんじゃ。

ほれ、西條様の屋敷は近いからの、パッと行って、シュッと帰ってきた。」

 藤吉郎は握り飯を一つまみ引きちぎると、そのまま猿夜叉の口の中に放り込んだ。

そして、残った大きな握り飯を丸ごと大口を開けて放り込むと、一気に頬張った。

「あー!!」と、猿夜叉が声をあげると、藤吉郎は大笑いして更に懐から包みを取り出して広げた。

結局、握り飯は3つ。

藤吉郎も猿夜叉も腹を一杯にして笑い合った。

それは、藤吉郎が初めて見た、猿夜叉の久しぶりの笑顔だった。


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