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夢流れ  作者: 大和 政
第一章 猿夜叉伝
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猿夜叉の行方

 猿夜叉が連れ去られた。

その報せは間もなく、猿夜叉の守役、西條之綱の許に届けられた。

「そんな馬鹿な!!」

 之綱はその報せを受けて、屋敷を飛び出して石寺の市へと駆け出した。

夕刻、日は徐々に西の比叡の山に消えつつあり、空の色は青から茜色に、そして藍色に染まっていた。

石寺の町の灯籠には灯が点り始めて、薄暗くなった通りは昼間の活気を失い、足早に家路を急ぐ者ばかりだった。

そんな通りの人の流れをかき乱し、之綱と彼の部下は猿夜叉の姿を追っていた。

「まだ見つからんのか!!」

 普段は飄々と過ごしている之綱が珍しく部下に声を荒げた。

その之綱は屋敷仕えの羽織袴が泥に汚れるのも気に留めずに、必死に市の隅々まで猿夜叉を探して廻った。

 もうじき日が沈む。

通りを出歩く人はまばらで、ましてや子供の姿など探しても見当たらない。

流石にこんな時間になっても猿夜叉が屋敷に帰っていないのは、マズい。

「探せ、何としてでも猿夜叉を探し出せ!!」

 町衆の話だと、連れ去ったのは、若い男…というより、まだ子供。

北近江の手の者ではないと思うが…。

それでも、万が一、北近江に連れ去られていたら…。

之綱の脳裏に様々な憶測や推測が浮かんでは消えていく。


 猿夜叉、どこにおるのだ。

大通り、裏の路地、店の裏側、軒の下。

子供が隠れそうな場所は片っ端から立ち寄り、覗き見て行く。

「もう無理です西條様。お屋敷から人を寄こしてもらいましょう。」

 たった四人で石寺の市のほとんどを探し回って、之綱も彼の部下も全員汗だくだった。

猿夜叉が連れ去られたと聞いてもう半刻。

この辺りは捜しつくした。

いや、たった四人では捜したといってもタカが知れている。

しかし、それでも何としてでも探し出さねば。

絶対、何があっても、屋敷には、知られる訳にはいかない。

もし、お館様に知れたら、どうなるか予想もつかない。

石寺の市を調べ尽くして、市の外れの草むらで、息を整えて、

思案に暮れていた之綱の下へ若侍が早馬を掛けて来た。

「申し上げます。五個荘、沓掛の関所。

共に、猿夜叉や怪しい者はいなかったそうです。」

「そうか…」


 もうこれで他に心当たりはない。

これ以上は屋敷に言って人を寄こしてもらうしかない。

之綱は、その若侍の報告を聞いて腹を括って、若侍と替わり馬に跨ると屋敷へと急いだ。

屋敷から人を出してもらっても、それをお館様に知られなければ良い。

アテはある。

それに、今日の亀松丸様は悪ふざけが過ぎていたと聞く。

屋敷の者や町衆ならともかく、他所者なら猿夜叉を不憫に思い、

連れて逃げる事もあるかも知れない。

「…くそっ。」

 結局、俺や定武では猿夜叉を守ってやる事もできないのか。

之綱は手綱を強く握り締め、馬は市を抜けた。

通りの両側には店屋に替わり長屋が並び始めた。

砂ぼこりにまみれた足軽長屋。

組頭の長屋通りを過ぎれば、六角家家臣団の屋敷が立ち並んでいた。

そして、通りから観音寺城の大手門へ至る大手道を曲がると、伊庭屋敷、京極屋敷、平井屋敷、西条屋敷と立派な武家屋敷が続いて、大手門のすぐ脇に六角屋敷があった。

その屋敷は、他の屋敷に比べても格段に大きく、まさに南近江の主の館に相応しい風格だった。

まるで城門かと見間違えるほど大きな門の両側には、パチパチと音を立て、煌々と篝火(かがり火)が焚かれていた。

屋敷の門をくぐる人の行き来は日が落ちても止む事はなく、門をくぐれば本邸の玄関先もまた多くの篝火に照らし出されて、

屋敷には昼と夜の区別がないようだった。


「どけ、どけ!!どいてくれ!!」

 突然、その屋敷の門前は悲鳴に包まれた。

大手道から怒鳴り声と馬のひずめの音が聞こえたと思ったら、

之綱を乗せた馬が人混みの中に突っ込んで来たのだった。

之綱は手綱を引くどころか、逃げ遅れれば踏み殺さんとばかりに勢いを増し、人々は蜘蛛の子を散らすように身をかわした。

そして之綱は、何事も無かったかのように騎馬を操り、屋敷の門を突き抜けた。

 門を潜ればその奥に馬屋がある。

之綱はその馬屋の前でようやく馬の足を止めると、馬を預けて、そのまま屋敷の裏へと廻った。


 ともかく、小野方おののかたの小屋だ。

まだ子供の猿夜叉の事だ、案外平気な顔をして飯でも食っておるかもしれん。

六角屋敷の本邸から離れた、屋敷の片隅にある小さな小屋。

まるで物置小屋のようにひっそりと木佐貫山の木々の木陰に隠れるように建てられている小屋で、猿夜叉とその母・小野の方が暮らしている。

之綱はその小屋の前まで来て息を整えた。

 猿夜叉、居てくれ。

之綱は祈るような気持ちで、戸の代わりにすだれのように掛けられた茣蓙ござめくった。

小屋の中は、わずかな土間と板の間があるだけで視線を遮る物はなにもない。

戸口から中を覗いたその先には美しい女性が一人、板の間の奥で背を向けて、座卓に向かって座っていた。


「小野方。さ、猿夜叉はおらんか?」

 突然の声に小野方は驚いて、筆を持った手を止めた。

手を止めた筆の先から垂れた墨が和紙に滲み広がる。

小野方は、お館様から書き写すように命じられて預かった四書五経の本に墨を溢さないよう、ゆっくりと筆を和紙から離した。

小野方の白く細い指先が緩やかに筆を硯の片隅に置く。

そうして、ようやく小野方は声のした方へ顔を向けた。

 そこには小屋の入口から中を窺う人の陰。

日はもう暮れて、揺れる灯りに人の顔までは分からなかったけれど、

その声はいつも耳にしている之綱の声だった。

「西條様?」

「猿夜叉はおらんのか?」

 何やら普段と違った様子の之綱に、恐る恐る声を掛けた小野方。

構う余裕もなしに之綱は、小野方の声を無視するかのように小屋の中に足を踏み入れて、小屋の中を見渡した。

「西條様!」

「おらんのか。」

小屋の中は一目で見渡せる。

そこに猿夜叉の姿がない事を知った之綱は、ようやく小野方に気をやった。

「猿夜叉は帰ってないか?」

 その之綱の様子は明らかに普段と違っていた。

この猿夜叉を仇のように扱う人ばかりの六角屋敷の中で、之綱は数少ない猿夜叉の味方をしてくれる人。

ときおり手の空いた時に優しく猿夜叉の遊び相手をしてくれる時もあるけれど、このような時間に、こんなに慌てて小屋を訪れた事はない。

胸を覆う不安が、予感に変わる。

「何か…猿夜叉に何かあったのですか。」

「いや、お、おらんなら、良い…。邪魔をした。」

 嘘が下手だ。良い訳がない。

之綱は安い芝居をしながら筵を捲り上げ外に出た。

おかしい。おかしすぎる。

そもそも西條様は私や猿夜叉の守役、見張り役。

それが、その方が猿夜叉の居場所を聞くなどと…。

之綱の背を見送りながら予感が確信へ変わる。

 猿夜叉がいなくなったのだと。


 日は沈み、夜の帳が下りた六角屋敷にあって、屋敷方衆の間だけは昼と変わらないほど煌々と明かりが点され、男たちの熱気に包まれていた。

「雪吉!!上洛足軽の食糧の数はなんじゃ!!何日分のつもりじゃ!!」

「佐平!!京屋敷の修繕にあと何日かかる!!雨など漏れてみぃ、儂等の首が飛ぶぞ!!」

 屋敷方衆の間という大広間で男たちは皆、机に向って、算盤を弾き、書簡を書き、怒鳴り散らしていた。

 征夷大将軍の上洛。

この一大事を前に、屋敷方衆の間は、事務仕事の戦場となっていたのだった。

上洛軍の編成。

八千人にもおよぶ兵士たちの宿場や食料の手当て。

公方様やお館様のお宿。

さらには京の帝への謁見の為の交渉、根回し。

仕事はすれどもすれども一向に減らずに、むしろ日を追うごとに増えて行くばかりだった。

無言で算盤を弾く者、怒鳴り声を上げて書簡を書きなぐる者。

殺伐とした大広間の真ん中に陣取って、平井定武はその太い指を器用に動かして算盤を操り、大声をあげ大広間に集まった部下たちに次々と指示を出していた。

 その定武の野太い声は障子の向こう側にも筒抜けで、

大広間の前まで来た之綱は、その障子の向こう側の地獄絵図を想像して生唾を飲み込んだ。


「こ、殺されるかもしれんな。」

 之綱の漏らした冗談を笑う者は誰も居なかった。

周りに誰も居なかった事だけが理由ではない、もし誰かが居てもきっと真剣に頷いただろう。

今、定武は猪や熊のような顔を真っ赤に染めて修羅場の真っ只中にいた。

そんな折に之綱は猿夜叉を探す手助けをしてほしいと頼みに行くのだ、

それは腹を空かせた熊に、生肉を首からぶら下げて会いに行くようなものだ。

「御免!!」

 自らの弱気を振り払うかのように之綱は、勢い良く障子を開け放ち、腹底から声を絞り出した、のだが。

「あん!?」

 障子を開けた瞬間、屋敷方衆全員の殺気立った視線が之綱を貫いた。

そして全身冷や汗にまみれた之綱を一瞥すると、皆モノも言わずに元の作業に戻っていった。

そして肝心の定武も、之綱の姿を一瞥すると、各地からの書簡を乱暴に机に放り投げ、算盤を弾き続けた。

之綱は覚悟を決め、拳を握りしめると定武の机の正面に胡坐を掻いて座った。

「すまん、定武。頼みがある。」

「断る。」

 定武の正面に座るや否や頭を下げた之綱に、定武は取りつく島もなく言い切った。

今、屋敷方は猫の手も借りたいほど忙しいのだ。

頼みたい事ならこちらにこそある、ブラブラしてる暇があるなら手伝え。

今にも襲いかかろうとする定武の眼光に身を竦める之綱の姿は、まるで大熊に生贄にされた小鹿のようだった。

「頼む。冗談ではないのだ。お前にしか頼めないのだ。」

 音が鳴るほどに勢い良く額を机に押しつけて之綱はもう一度定武に頼み込んだ。

「来い。」

 この忙しい時にと悪態を付きながら定武はみっともない姿を晒している之綱の襟元をムンズと掴むとそのまま大広間の外へと引きずり出した。

「ちょっと、ちょっとまて、主家だぞ俺は。」

「そんなみっともない声を出す主家など知らん。

大体、お前はとうの昔に家臣衆に降籍しとるだろが。」

 そんな兄弟同然に生まれ育った二人のいつものやり取りに屋敷方衆たちは失笑を漏らし、また大広間は修羅場へと戻って行った。

「ちょっと待て、もういい、ここで良い。」

大広間を出た後も定武は之綱の襟元を離さずにグイグイと廊下を引っ張り歩いていた。

途中には屋敷仕えの下人たちの冷ややかな視線。

 まったくこいつは不器用というか、器用というか。

定武は人気の少ない本邸の隅にまで之綱を引っ張って、そこでようやく小さく声を出した。

「それで、儂にしか言えん頼み事とはなんじゃ。

また小野方の好みを教えろなどと言ったら、今すぐ屋敷方の仕事を手伝ってもらうぞ。」

 之綱との長い付き合いで、之綱がどれ程の頼み事を持ってきたのか、定武には簡単に想像はついた。

軽く冗談を言っても、肩に入った力は上手く抜けずに、定武は生唾を飲んで之綱の答えを待った。

そんな射貫くような目付きで之綱の顔を見据える定武の視線に之綱の目が泳ぐ。

「いや。実は…猿夜叉が居なくなった。」


 サルヤシャガイナクナッタ。

定武は暫しの間之綱の言葉の意味が分からなかった。

猿夜叉が居なくなった。

「お前は本物のたわけだ!!」

 思わず怒鳴り声を上げた定武を之綱が制した。

「まだ、屋敷の者は誰も知らないんだ。

知っているのは俺と俺の部下だけで。」

「で、儂に頼みとは?

屋敷に知られず猿夜叉を探すのを手伝ってくれと言う事か?」

 之綱は小さく頷いた。

「そうだ。お館様に知られる訳にはいかない。

頼めるのは定武、お前だけなんだ。」

 之綱が珍しく素直に定武に頭を下げた。

「知られれば、何をされるか分からん…か。」

 腕を組み、試すような眼差しで見つめる定武に、之綱は無言で頷いた。

之綱は責任逃れをするようなたわけではない。

幼い頃から共に育ち、気心が知れた定武だからこそ、それ以上のことは何も言わなかった。

「分かった。儂の屋敷の者にも捜させよう。

身内の者ならお館様に言う者もおるまい。

で、猿夜叉はいつ、どこで居なくなった?」

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