二人の猿
佐和山の宿場を出て半日。
日はいよいよ西に傾いて、空を朱色に染め始めていた。
藤吉郎と善次郎の二人は、もう石寺の市のすぐそばまで来ていた。
けれども、善次郎と藤吉郎の二人は、善次郎が南近江のお国自慢を始めてから、何故か黙りこくってしまった藤吉郎につられて、無言のまま荷車を押していた。
大きな山や峠の少ない近江平野を縦断する中山道。
荷車はその道を、もう泥濘に嵌る事もなく順調に先に進んでいた。
言葉も交わさず足元だけを見て歩く二人が雑木林を抜けた時、目に刺さるような光が藤吉郎の顔を照らして、思わず顔を上げた藤吉郎はハッと息を飲んだ。
わずかに小高いその地から、視界を遮るものはなく、草地、田畑のその先に琵琶湖の湖面が広がっていた。
西に傾く黄金の夕日の光は、さざ波にキラリキラリと反射して、湖面は光の湖だった。
光り輝く琵琶湖の向こうには、比良、蓬莱から比叡の山々が広がり、その山麓には三井寺、坂本の町の陰も浮かんでいた。
「こりゃ、なんちゅう絶景じゃ。」
不意に目に飛び込んできたその琵琶湖の絶景に、藤吉郎が今まで抱いていた不安は消し飛んだ。
しばらくの間、そこから先に進む事さえ忘れる程、藤吉郎はすっかり琵琶湖の絶景に取りつかれていた。
「さて、ぼちぼち先に行こうかのぅ。藤吉郎さんよぅ。
石寺の市も、もうしばらくじゃ。
ほれ、観音寺のお城も見えて来おった。」
果たしてどれほどの間、雄大な琵琶湖の絶景に見惚れていたのか。
善次郎の声で我に返った藤吉郎が、再び歩き始めようと前に向き直った時、遥か中山道の先にあるモノを見て「なんじゃアレは!!」と、驚きの声をあげた。
ソレは、琵琶湖の湖畔にデンと腰を据えた一つの山だった。
しかし、その山は他の山とはまるっきり違っていた。
山の頂上から中腹まで、まるで山より大きな大男が山の表面を剥ぎ取ったかのように、全ての木々が伐り取られて山肌がむき出しになっていた。
更にその斜面には段々畑のような、曲輪がいくつも造られていた。
そして、その曲輪にはまるで伐り取った木々の代わりと云わんばかりに、何百もの旗、幟が風に揺らめいていた。
そしてその山の裾野には大きなお寺や屋敷があって、その下には城下町が広がっていたのだった。
「なんと…山が、丸々一つ城になっとる…」
藤吉郎の口から漏れて出た言葉が一言でその様子を言い表していた。
口をアングリと開けたまま目を丸くしている藤吉郎の隣で、善次郎が「そうじゃ」と自慢げに頷いた。
「アレが観音寺城。
南近江守護・六角定頼様の居城じゃ。」
二人が歩を進めるたび観音寺城はますます大きくなっていった。
山の頂に造られた本丸の御殿は、首が痛くなる程見上げなければ見えないで、曲輪のなかには弓矢を携えた兵の姿が見えた。
そうして二人が観音寺城のすぐ麓まで来ると、道は中山道と別れて、いよいよ石寺の市へと続いていった。
石寺の市は藤吉郎が今まで見た事のあるどんな市よりも大きくて賑やかだった。
日はいよいよ地平線に近づいて空を朱色に焼き、辺りは徐々に薄暗くなっているのに、人の流れは衰える事がなかった。
気の早い宿屋はもう提灯に火を点して、酒場には一日の仕事を終えた男たちが集まりだしていた。
そんな活気溢れる石寺の市の入り口で、藤吉郎と善次郎はようやく荷車を押す手を休めて、すぐ側にあった茶屋の長椅子に腰を下ろした。
「さぁ、藤吉郎さぁ。白湯と団子じゃ。」
善次郎は頭に掛けた手拭で顔の汗を拭きとると、今までのお礼にと店の者に白湯と団子を持って寄こした。
「あ~、生き返った。
こんなに旨い団子は生まれて初めてじゃ。」
何を大袈裟にと笑い飛ばしかけた善次郎は、藤吉郎の満面の笑みを見て、心底から喜びが込み上げてきた。
「団子一つでなんちゅう幸せそうな顔をしとるんじゃ、藤吉郎さぁは。」
「でも、善次郎さん。
この団子もそうじゃが、この白湯も旨い。
白湯が旨いと思うたのは、本当に生まれて初めてじゃ。」
藤吉郎の無邪気な顔を見ていると、善次郎にまで幸せな気分になるようだった。
それに、知ってか知らずか、話の勘所が鋭い。
「おぉ、そうじゃ。
その白湯は湖東三大名水・水華の水を沸かしたモノじゃ。
ほれ、そこに湧いて出とるのがその水華の水じゃ。」
善次郎が指差した茶屋の隣には立派な東屋があった。
その中には椅子に腰かけて井戸端会議に華を咲かせる女衆や、石桶で顔を洗う男がいて、その隣の井戸からはコンコンと水が湧き出ていた。
「なるほど、あの井戸から溢れて出とるのが水華の水かぁ。」
藤吉郎は物珍しさに喉の渇きも手伝って、水華の井戸に近寄って、両の掌でその水をすくい上げると、一気に口の中へ流し込んだ。
「こりゃ旨い。
こんな旨い水を使っておれば、そりゃ白湯も団子も旨い筈じゃ。」
目を丸くして素頓狂な声を上げる藤吉郎の様子に、東屋にいた人たちから笑い声が漏れる。
藤吉郎は周りの視線に恥じ入って「いや、本当に旨いんじゃ」などと付け足してみても、ますます好奇の視線は増すばかりで、藤吉郎は堪らずに東屋の隅へと目をそらした。
その時、東屋の柱の陰に隠れている子供の姿が藤吉郎の目に入った。
歳は四つか五つ。
粗末な着物を着て、顔や体は泥だらけだった。
その子供は東屋の柱の陰に身を隠すと、時折脅えたようにコッソリと石寺の市の通りの様子を窺っていた。
鬼ごっこかかくれんぼでもしておるのか?
それにしても、ちと様子がおかしい。
その子は、まるで誰かに追われているかのように身を小さくして、ビクビクと脅えていた。
藤吉郎がその子供から目を離せずにいると、通りの方から数人の子供たちの駆け寄ってくる足音が聞こえた。
柱の陰に隠れたその子供もその足音に気付いたのか、更にその場に膝を抱えて座り込み、必死に見つかるまいと身を小さくした。
その様子からますます目の離せなくなった藤吉郎の後ろから、突然子供の声が掛かった。
「猿はどこじゃ!!」
不意に聞こえた大声に藤吉郎は文字通り飛び上がって、
思わず「ごめんなさい」と声に出しかけた。
いや、待て、待て、落ち着け。と、藤吉郎は自分に言い聞かせると、大きく息を吸い込んだ。
ここにあの義父が居る筈がない。
そして脳裏に蘇った義理の父親との忌まわしい記憶に、藤吉郎は無理矢理に蓋をしようとした。
それは、藤吉郎がまだ幼かった頃の事。
優しくも気弱な母と、生まれたばかりの弟と、そしてあの義父と、四人で暮らしていた時の事だった。
藤吉郎の実父が戦で命を落として、母が次に夫に選んだ男は勇ましく戦で命を落とすような性質ではなかった。
しかしその分性格は乱暴で、何か気に障ることがあるとすぐに「この猿が」と怒鳴り散らし藤吉郎に手を上げた。
そうしていつも生傷の絶えない藤吉郎の姿に、母は心を痛めていつも涙を浮かべていた。
しかし、戦が絶えず女手一つでは生きていくのも儘ならないこの世の中で、夫と別れる訳にもいかず、母は藤吉郎が三つの時に、泣く泣く藤吉郎を義父から遠ざけるために、藤吉郎を村から離れた寺へと預けたのだった。
ええい。嫌な事を思い出した。
大体今の声は子供の声じゃないか。
まだ藤吉郎の心の臓はバクバクと波打っていたが、藤吉郎は努めて冷静にゆっくりと後ろを振り返った。
やはりそこにいたのは、あの悪鬼のような義父ではなく、柱に隠れた子供と同い歳ぐらいの四人の子供たちだった。
ただ、さっきの子供とは身なりは随分と違っていて、皆見るからに上等そうな着物を身に纏って、腰には立派な小太刀が差されていた。
「まぁ、そんな訳はないわな。」と一安心する藤吉郎を気にも留めずに、子供たちは東屋の辺りへ駆け込んだ。
「おった。猿がおった。」
そのうちの一人が東屋の陰に廻り込んで声を上げた。
子供たちが猿、猿と言う度に、藤吉郎は幼かった頃の事を思い出して、子供たちから目を離せられなかった。
そうして、子供たちが猿と呼んで東屋の陰から引っ張り出して来たのは、やはり先程から柱の陰に隠れていた子供だった。
「残念だったな、猿。
まだ鐘は鳴ってないぞ。
さぁ、早く背中を出せ。」
子供たちの大将だろうか、子供たちの中でも一番身なりの良い子供が腕を組んで、他の子供たちが柱の陰から『猿』を引っ張り出してくる様子をニヤニヤしながら待っていた。
そして、表に引っ張り出された『猿』は、また両腕をしっかりと掴まれて身動きできずに、為すが儘に着物を捲られて、まだ赤く腫れている背中をさらけ出していた。
「嫌じゃ!!離せ!!離せ!!嫌じゃ~~~~~!!」
『猿』が鳴いて懇願しようが、子供たちは容赦なくその背中に平手打ちを喰らわして、『猿』の言葉は悲鳴の中に消えて行った。
「おい、何をしとるんじゃ。やりすぎじゃろ。」
その余りに可哀想な光景に一歩踏み出して、止めに入ろうとした藤吉郎の肩を、善次郎がグイと引っ張り押し止めた。
「いらん事はせんでええ。
あれは、亀松丸様。六角家の若様じゃ。」
善次郎が目をやった子供は、先程から腕を組んで泣き叫ぶ『猿』の様子をニヤニヤと見ていた子供だった。
「でも、放っけん。」
「放っとけ!!」
善次郎の一喝が藤吉郎の足を止めた。
その善次郎の上ずった声に藤吉郎が善次郎を振り返れば、そこにはあの義父と同じ悪鬼の様な面構えの善次郎がいた。
「アレはな、『猿夜叉』言うて、浅井の子じゃ。
儂の父と兄を殺した浅井の子じゃ。」
言いようのないどす黒い光を宿した目が藤吉郎を射抜いていた。
藤吉郎はそんな善次郎の様子に言葉を失い、蛇に睨まれた蛙のようにその場に立ち尽くしていた。
「止めて、許して、助けて!!」
その間にも子供たちは、さも楽しそうに猿夜叉の背中に平手打ちを喰らわして、パチンパチンと甲高い音を響かせていた。
そして猿夜叉の泣き叫ぶ声が藤吉郎の耳に届いた時、善次郎に心の臓を鷲掴みにされて、身動き一つできなかった藤吉郎の脳裏に、
「止めて、許して」と、毎夜毎夜、酒を呑んでは拳を上げる義父に、為す術もなく身を小さくして泣き喚いていた日々の事が蘇った。
「そのような事、知るか!!」
藤吉郎は肩に乗った善次郎の手を振り切って、勇ましく子供たちの輪の中に入って行った。
そして藤吉郎は、猿夜叉の両肩に手を掛けると強引に猿夜叉の体を引き寄せて、子供たちから猿夜叉を引き離した。
「やって良い事と悪い事があろう。」
「邪魔するな!!」
その時、藤吉郎の言葉に間髪入れずに返した子供の言葉に藤吉郎はゾッとした。
その子供の言葉には悪びれる様子も戸惑いもなかった。
それどころか、自分がどうして怒鳴られたのかも分からずに、ただただ楽しい遊びを邪魔されたとの怒りしか籠っていなかった。
「邪魔するなじゃと。
お主らは、寄って集って、この子が可哀想じゃろ。」
藤吉郎は、てっきり声を掛ければ治まる子供の悪ふざけだと思っていた。
けれども、予想もしなかったその返事に藤吉郎は空恐ろしくなって、発した声も戸惑いに震えていた。
「おい、お前。浅井の子の味方などするな。」
その言葉は目の前の子供たちの言葉ではなかった。
思わぬ所から飛んできた声に、藤吉郎はビックリして声のした方を振り返れば、
いつの間にか藤吉郎はグルリと腕を組んだ大人たちに取り囲まれていた。
「浅井の子なんぞ、放っておけば良いのに。」
「そうじゃ、そうじゃ。どうして浅井の子など庇う?」
「何も知らぬ他所者はこれだから困るわね。」
その場にいた大人たちの全員が藤吉郎に白い目を向けて非難を重ねた。
なんじゃ、コレは。
昔、藤吉郎もまた猿夜叉と同じように毎夜毎夜酒に酔った折檻を受けていた。
しかし、それは家の中での事だった。
家の中から一歩外に出れば、村の誰もが藤吉郎の事を気遣い、優しく心配をしてくれた。
しかし、今この場には猿夜叉の事を気遣う者はだれ一人としていなかった。
これは、どうなってるんじゃ。
藤吉郎は悪い夢の中に迷い込んだような気がした。
誰もが猿夜叉とそれを庇う藤吉郎を憎しみの籠った目で睨みつけていた。
誰か、何がどうなっとるのか教えてくれ。
この悪い夢の中から助けてくれ。
その今まで藤吉郎が見た事もない恐ろしい光景に、藤吉郎は猿夜叉を抱え込んだまま一目散にその場を逃げ去った。
その後、藤吉郎はどの道をどう走ったのか覚えていなかった。
ただ胸の中に猿夜叉を抱きかかえて、無我夢中に息が切れるまで走り続けた。
「もう、もう、だめじゃ…」
石寺の市の外れにある古寺の境内に逃げ込んで、ようやく足を止めた藤吉郎は、息を切らせて大粒の汗もそのままに玉砂利の上にへたり込んだ。
「ともかく陰へ、陰に隠れよう。」
わずかに息の整った藤吉郎は、腕から猿夜叉を降ろしてホウホウの体で猿夜叉の手を引いて、お堂の陰に身を隠した。
「だ、大丈夫?」
「だ、だ、大丈夫じゃ、ち、ちと待って、くれ。」
藤吉郎は地べたに座り込むと足を投げ出して、終いには大の字になって地面に転がった。
額には大粒の汗。
猿夜叉が心配そうに覗き込むと、藤吉郎はニッタと笑顔を作った。
「どれ、大丈夫か?は、お主の方であろう?
背を見せてみぃ。
おぅ、おぅ、こんなに真っ赤に腫らして。」
息が整い始めた藤吉郎はヨイショと体を起して座り込むと、猿夜叉の頭をワッシャと掴み撫でて、服を脱がした。
「どれ、少し冷やしてやろう。」
言うが早いか、藤吉郎は立ち上がり、服の裾を井戸水で濡らして来ると、猿夜叉の赤く腫れた背中に押し当てた。
「のう、そなた名前は?
確か、猿夜叉と聞いたが合ってるか?」
背中越しに猿夜叉の顔は分からないが、猿夜叉は確かに小さく頷いた。
「そうか、そうか、猿夜叉か。
ワシもな、昔、小さい頃には、猿っちゅうて呼ばれとったんじゃ。」
「猿…」
「おう、そうじゃ、ワシもお主も同じ猿。
猿兄じゃ。」
「猿兄…」
「おぅおぅ。」
大丈夫と一言言った切りで押し黙っていた猿夜叉が口を開いたのが無性に嬉しくて、藤吉郎はまたニッタと笑顔を作った。
「しかし、さっきのは酷かったな。
何故、子供ばかりか大の大人までがあんな仕打ちをするんじゃろうな?」
「オレが…浅井の子だから。六角じゃないから。」
何気なく漏らした藤吉郎の言葉に猿夜叉は背中を小さく丸めて答えた。
「浅井はヤだ。痛いのはヤ。オレ、六角になりたい。」
足を抱えて顔を埋めて、息を引きつらせて泣きだした猿夜叉を、藤吉郎は再び抱きかかえると陽気に言った。
「大丈夫じゃ。ワシも六角になるためにココに来たんじゃ。
ワシもお主もなれる。一緒に六角になろう。」
日は地の果てに沈み、辺りはいよいよ暗くなっていた。
家まで送ってやると藤吉郎は猿夜叉を抱きかかえたまま歩きだすと、安心しきったのか猿夜叉は瞬く間にスゥスゥと寝息を立て始めていた。
「六角か…、どうやってなるんじゃろうな。」
問いただしても答えは誰も教えてはくれない、誰も知らない。
藤吉郎はそれでも行き先も分からない道を、先へと歩き続けるしかなかった。
「それに、こやつの家はどこじゃ…」
歩き続けるしかなかった。