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夢流れ  作者: 大和 政
第一章 猿夜叉伝
32/61

正気だからの戦だろう。

 日は空を朱く染め上げて西の彼方に姿を消していた。

木佐貫山の天辺の観音寺城本丸に設けられたら物見櫓では、退屈そうに物見が大きな欠伸をした。

眼下に広がるのは南近江の野原。

その奥には北近江の国がある。

今はまだ野原に琵琶湖、比叡や比良の山々が夕陽に染まって見ても飽きることない絶景だが、間もなくの夕闇に沈みば、目に見える物は遠くの街の灯ばかりになる。

まもなくそんな退屈な夜の物見が始まるのだ。


「今からそんな大欠伸をしてどうする。

今からがお役目やぞ。」

 共に物見櫓に上がった相方が呑気に笑いながら小突いた。

夜の闇の中、なんの変化もない暗闇を監視し続ける夜の物見は退屈すぎて人気のないお役目だった。

そんな退屈な役目とはいえ、戦はいつ起こるか分からない。

決して疎かにできないお役目だ。

「とはいえ、石助よ。

今や我らは公方様を奉じて上洛しとるんじゃぞ?

まさか浅井の馬鹿でも今我らに攻め入るもんか。

そんなことをすればあやつ等は、公方様に刃向かう賊軍じゃあ。」

「まぁ、違いねぇ。」

 物見などそっちのけで雑談に興じる二人の視界の片隅で、葛籠の城の灯が大きく揺らめいた。

 初めに気が付いたのは石助の方だった。

石助が「おい」と声を掛け、葛籠の城を指さすと、今度は高宮の城、荒神山の城の灯も瞬き揺らめき始めた。

「こりゃただ事じゃねぇぞ。」

「火矢じゃ、火矢が飛んどる。」

「敵じゃ、敵が来とるぞ!」

「鐘じゃ鐘。半鐘を鳴らせ!!」




 その日の六角屋敷の夕餉はいつもより遅かった。

聞けば下働きの多くが葛籠の城に向かい、夕餉の支度をする者が少なかったという。

また、その膳もご飯と味噌汁に焼き魚だけという質素なものだった。

「申し訳ありませぬ。

明日からはいつものようにしますので、今日はこれでご勘弁下さい。」

 六角定頼の寝所へ夕餉を届けに来た下女は恐る恐る深々と頭を下げると、布団の中で上身を起こした六角定頼は「よいよい。」とにこやかに言葉を掛けて下がらせた。


 あの日、軍議で倒れて以来、定頼の頭痛は治まることなく、朝餉、夕餉を寝所へ運ばせる事となった定頼は、襖が閉まり下女が居なくなるのを待ってから夕餉へと箸を伸ばした。

味のない飯、味のない味噌汁、味のない焼き魚。

もう先は長くない。

それでも定頼は一日でも長く生き延びるため、味のしない飯を口の中へと押し込んでいた。


 早う、上洛の知らせを持って来い。


上洛軍は今、京の都の端、東山で三好軍と睨み合いを続けているという。

あと一歩で六角家が天下に号令を掛ける。

そんなときに儂が倒れれば上洛は頓挫。六角家が天下を取るという夢も遠ざかってしまう。

六角家が天下を取るという夢を、取ったという知らせを糧に定頼は、昨日、今日を生きていた。

砂利を噛むような味のない飯を飲み込み、ようやく夕餉の膳を平らげたとき、遠く半鐘の音が鳴り響いた。


「何事じゃ。」

 思い通りに動かない身体を引き起こし寝所の襖を開けると、隣の部屋に控えていた御松の方が綿羽織を抱えて駆けつけた。

「戦でございましょう。」

 半鐘の音は、前の軍議の時のものとは明らかに違っていた。

これは、領内に敵が攻めてきた時の鐘の音。

もう幾度となくこの音を聞いてきた御松の方は臆する事なく気丈に手にした綿羽織を定頼の方に掛けると力無く廊下を歩く定頼に手を添え、軍議の開かれる大広間へと定頼をいざなった。


 六角家の軍議に具足を身に付ける者は誰もいない。

そのような暇があるのなら一刻も早く軍議に駆けつけよ。

それが定頼の定めた掟だった。

大広間の上座に寝間着姿の定頼が腰を降ろせば、次々の平着姿の家臣たちが転がり込んでくる。

「敵は浅井か!」

「佐和山から出たらしい。」

「よりにもよって、公方様の上洛の最中に戦を仕掛けるとは浅井は正気か。」

 軍議に開始の挨拶などない。

大広間に着いた者から口々にものを言うと、後から来た者も次々とその輪に入っていく。


 正気か。いや、むしろ正気だからの戦だろう。

次々に駆け付け意を述べる家臣たちを余所目に定頼は思考の渦の中へと入り込んでいく。

 恐らくは北近江の取り潰しの事が向こうに伝わったのだろう。

それで一か八かの戦。

勘所は悪くない。儂ならば、仕掛ける。勝機はある。

 まず、今の六角家は手薄だ。

京へ向けて七千の兵が出て、まして、京では三好軍と睨み合いを続けておる。

兵を引き上げるのは簡単な事ではない。

なにしろ上洛の軍、ただの戦ではない。

もし、上洛を諦めるとなれば、六角家には天下に号令する力がないと他の大名どもに見られてしまう。

そして、最も恐ろしいのはその事実を利用して、三好の奉じる足利義栄が将軍に任じられることだ。

だからこそ、上洛の軍は動かせない。

「上洛の最中に我らを攻めるなど、浅井め、公方様に逆らう賊軍になるつもりか。」

 誰かが言った言葉に定頼は首を振った。

もし、最悪、三好が奉じる義栄が将軍となれば、義藤の上洛を阻止した浅井は大手柄となる。

新しい将軍義栄の大忠臣だ。

まさに一か八かの大博打だが、浅井と六角の立場を逆転できる奇手でもある。

 しかし、あの久政が…。

これが先代亮政の仕業ならば納得もできる。

湖北の鷹と称された亮政は、追い詰められれば追い詰められるほど攻めに転じて、勝利を収めてきた。

しかし、久政はそういう性格ではない。

このような時には交渉事で手堅い手を打つ。そういう性格だ。


「やはり、上洛の軍を差し戻しましょう。」

「おお、そうじゃ。

上洛の軍も長い間睨み合いを続けるばかり。

一旦兵を引き、浅井を蹴散らしてから再度上洛すればよい。」

 声を発せず思案に更けていた定頼を余所に軍議の風向きが定まりつつあった。

そんな流れを定頼は静かにピシャリと遮った。

「それは、ならん。

上洛軍をどうするか。それは六角当主義賢が決める事じゃ。

儂等、留守居の役目は残された手勢でどう浅井を封じるか。

そう、心得よ。」

 かすれ、耳を向けなければ聞こえないような定頼の声に誰も反論は出来なかった。

「ならば今、かき集められる兵は?」

「蒲生から兵を工面してはどうじゃ。」

「それでは陣立ては如何する。」

 定頼の一声で軍議の向きは定まった。

上洛軍については浅井侵攻の知らせを走らせ、そのあとの事について義賢の判断に任せる。

浅井に対する兵は蒲生などから工面する。

大方の手立てが整って軍議も締めに向かう頃、誰からともなく「猿夜叉は如何なさるか。」と声があがった。




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