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夢流れ  作者: 大和 政
第一章 猿夜叉伝
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中山道の猿

 昨夜から降り続いていた雪は、朝のうちには降り止んでいた。

雲の切れ間からは眩い朝の日の光が差し込んでいて、

降り積もった雪がキラキラと輝いていた。

琵琶湖の湖畔から吹き付ける冬の風は相変わらず冷たいままだったが、

差し込む朝の日の光には少し春の陽気が混じり始めていたようだった。


 そんな日和だったから、藤吉郎が佐和山の宿場を出て、真っ白い雪道に浅く足跡を残したときには、目指す観音寺城下の石寺の市には日の高いうちに着くだろうと思案していた。

真新しい草鞋を履き、真っ白な美濃紙を背中に背負い、まだ旅慣れない足取りで宿を後にした藤吉郎は、まだ幼さの残る旅商人というには若すぎる姿だった。

 年の頃は十と二、三。

どことなく猿に似た容貌は幼さと相まって可愛らしく、

宿を出る頃には宿の客から「がんばれよ」と口々に励まされていた。

背中の荷物は少々重たいが、藤吉郎は若さに任せて足を進めた。


 そうして、昼を過ぎた頃の話。

初めの予想は大きく外れて、昼を過ぎても藤吉郎はまだ石寺の市に到着していなかった。

それどころか藤吉郎は、まだ石寺の市まで三里を残した所で、何故か見ず知らずの人の荷車を押していたのだった。

「よし、藤吉郎さんよぅ、もう一遍押してみるぜ。」

 藤吉郎と善次郎は、荷車の後ろに回り込み、両の手の平を荷車にしかと押し当てた。

「せぃのっせ!!」

善次郎の掛け声と共に二人は、歯を食いしばり、顔を真っ赤にして、額に汗が滲むほどに渾身の力を目一杯に振り絞った。

息も吐けないほど力を込めて、思いっ切り足を踏ん張って、ようやく、泥濘ぬかるみはまった荷車の車輪がギシリと音を立てて動き始めた。

「すまんな、藤吉郎さんよ。

儂一人だったらどうなっていたか、分からねぇや。」

 そう言うと善次郎は、頭に被せた手拭を取って、

自分の息子ほどの年の藤吉郎に素直に頭を下げた。

その白髪の混ざった頭を下げられる度に、藤吉郎は善次郎と別れて先を急ぐ事ができなくなっていったのだった。

藤吉郎が善次郎に捕まってしまったのは、佐和山の宿場を出てしばらく後のことだった。


 道は中山道。

信濃から美濃を横切り、北近江の米原の宿場で北陸道と合流した後は、南近江の草津の宿場で東海道と合わさって、山科、京へと向かう大街道だ。

そんな人通りの多い中山道で、よりにもよって善次郎の後ろを歩いていたのが、藤吉郎の運の尽きだった。

朝方に降り積もった雪は、日が昇るにつれて溶け出して、道端に無数の水溜りや泥濘を作り出していた。

そこに善次郎の荷車の車輪がズボリと嵌ってしまったのだった。

 荷車の荷台には、油が波々と入った、大人が一抱えもするような大きなかめが、六つ七つも積まれていた。

そんな重たい荷車だったから、いくら善次郎が一人で押そうが引こうが荷車はビクともしない。

そんな風に善次郎が一人で四苦八苦しているのを目の前で見て、藤吉郎は知らん顔をする訳にもいかないで、袖擦り合うも他生の縁とばかりに手を貸したのだった。

そうして、二人がかりでようやく荷車を泥濘から押し出して、藤吉郎が「お疲れ様」と立ち去ろうとした時、

運悪く、またもや車輪は泥濘に嵌って、再び手を貸すハメになってしまったのだった。

そうなるともうそのまま善次郎と別れるのも気が引けて、

いつしか藤吉郎は抱えていた美濃紙を荷台に乗せて、善次郎と一緒に荷車を押すようになっていた。

聞けば、善次郎は荷台に積んだ油を売るために石寺の市へと向かうとのこと。

そうして袖擦り合った二人は一蓮托生となって、共に中山道を歩んでいたのだった。


「いかし、本当にスマンのぅ。

一人であったらもう石寺に着いておったろうに。」

 あれからもまた善次郎の荷車は四度も五度も泥濘に嵌り、太陽はついに西に傾き始めていた。

それでも藤吉郎は、善次郎が頭を下げる度に「お安いご用」と笑って答えていた。

いや、確かに二度目三度目の時には流石の藤吉郎も腹に据えかねていたが、これが四度目五度目となると、これも何かの縁かと腹を括っていた。

「いやぁ、気にせんで善次郎さん。

俺、小さい時に家を出されて、もう何年も親と会ってないから。

親に孝行できん分、他人に優しゅうせんとバチが当たります。」

 そう言って笑う藤吉郎に善次郎は、

「ウチの馬鹿息子に爪の垢でも煎じて飲ませてやりたいわい。」

と感心して、藤吉郎の方へ向き直って真面目に言った。

「お礼と言っちゃぁなんだが、

石寺へ行くのは初めてって言ったな。

よし、儂が店を出すのを手伝ったる。」

 善次郎がひょろっとした胸板を突きだして、景気よくドンと胸を叩くと、藤吉郎と善次郎は声を合わせて笑い合った。

「でも、善次郎さん。

本当に石寺に行けば、俺でも店を出せるのか?商売ができるのか?」

 噂には聞いている、里を出る前にも説明は受けた。

それでも藤吉郎は、石寺の楽市楽座を今一つ信じきる事ができないでいた。

「おぉ、心配いらんって。

儂はもう何遍も石寺の市で商売をしとる。

楽市楽座、ちゅうてな。

座に入っておらんでも、誰の許しがなくても、

儂みたいなモンでも商売ができるんじゃ。」

 善次郎はさも簡単にそう言うと藤吉郎の頭に手を乗せた。

「そら、他所ではのう、

金を売るなら金座、銀を売るなら銀座、

油なら油座、材木なら材木座があって、

商売をするには必ず座に入らんと、物を買う事も売る事もできん。

その上、座に入るには入座料、商売をすれば上納金。

商売に励めば励むほど、何にもせんお上が儲かる仕組みでな。

石寺の市もこの間までは他所と同じただの市じゃった。」

 さも窮屈そうに言葉を続けた善次郎は、

そこで一息置いて、晴れやかに言葉を続けた。

「それを良うしてくれたのが六角のお殿様よ。

楽市楽座っちゅう有難い市を開いてくれてな。

それから、石寺では儂らでも商売ができるっちゅう訳じゃ。

ほんに良う出来たお殿様じゃ。

それにのう、

このお殿様は、いよいよ公方様をお連れして京へと上られるらしい。

いや、これで世の中益々良くなるのう。」

 心持ち、足取りまで軽くして、善次郎はお国自慢を続けた。

善次郎の言う通り、南近江の六角家は今や天下をうかがう強大な勢力を誇っていた。


 応仁の乱以来の戦国の世で、将軍職はその権威を失い、いつしか只の傀儡かいらい(操り人形)に成り果てていた。

時の実力者は、その力を持って自らの言う事を聞く足利家の者を将軍に据えて、

幕政の実権を握り、

また新たな実力者が現れると、それに担がれて別の足利家の者が将軍に就く。

時と共に万華鏡のようにコロコロとかわる時の実力者と将軍。

そして今、将軍足利義藤は南近江守護の六角定頼という後ろ盾を得て、

京へ戻り、幕政を取り戻そうとしていた。

それは、将軍足利義藤の後ろ盾として、

六角定頼が幕政を支配して、天下に号令をかけるという事に他ならなかった。


「どうじゃ、たいしたお殿様じゃろ。」

 延々と、自分の国の領主を誇らしげに語り続ける善次郎の話を、藤吉郎は浮かない顔つきで聞き流していた。

「天下の大大名、六角家か…」

 藤吉郎の耳からは次第に善次郎の声が遠ざかっていたった。

代わりに訪れたのは言い知れぬ不安。

藤吉郎はこの旅の本当の意味、目的を思い出していた。

相手は将軍をも動かす事のできる強大な六角家。

本当にそれを味方につける事ができるのか。

藤吉郎の胸中には誰にも言えない不安が渦巻いていた。


 その時、藤吉郎は不意に、尾張を離れるときに見送ってくれた小六の顔を思い出した。

幼い頃、野垂れ死にしそうだった藤吉郎を助けてくれた命の恩人、

小六は藤吉郎にとって父親同然の存在だった。

 そんな小六が率いる蜂須賀党に危機が訪れた。

それまで、戦の続く尾張と美濃の狭間で荒くれ者達を束ねていた蜂須賀党は、その尾張の織田家と美濃の斎藤家の間を揺れ動いて命脈を保ってきたのだった。

織田家にしても斎藤家にしても、戦う相手が他にいるのにわざわざ更に戦う相手を増やすのは下策であるし、敵の敵は味方とばかりに蜂須賀党を援助するような事もあった。

しかし、織田家と斉藤家の間で婚姻が結ばれ、同盟が成立すると、それまでの情勢は一変したのだった。

斎藤家と織田家に挟まれた蜂須賀党には次々と圧力が掛かり、

いずれ蜂須賀党は、織田家か斉藤家の傘下に組み込まれるのは間違いのない事だった。

 その危機から蜂須賀党を救う為、蜂須賀党の主だった党衆は各地の有力大名の下へ駆け込み助力を求めたのだった。

藤吉郎が兄と呼んで、蜂須賀党の中で共に暮らしてきた党衆たちは、次々に織田家、斉藤家、今川家、武田家へと旅立っていった。

そしてそんな兄たちと同じように六角家の南近江へ旅立とうとする藤吉郎を党主の小六が呼び止めたのだった。

「正直な、かの六角家が儂らのような豪族の為に力を貸してくれるとは思えん。

よいか、世の中は広い。見分を存分に広めて来い。

今や六角家は天下に王手をかけた大大名じゃ、学ぶべき事も多かろう。

藤吉郎、お前はこの蜂須賀党の中でも一番出来が良い。

この蜂須賀党は儂やお前の兄たちがなんとかする。

じゃから、お主はしっかりと見分を広めてまいれ。」

 小六の言葉は、もう蜂須賀党がなんともならないことを見越しての事だった。

小六はまだ背の低い藤吉郎に合わせて、膝を折って目線を合わせると、

ゴツゴツした手の平で藤吉郎の髪をグシャグシャにして言った。

「お前はな、儂の自慢の息子じゃ。

例え、六角家にそのまま仕えても、きっと身を立てる事ができる。

その時には、こんな小さな豪族の事などに気を残すな。

どこであろうとお前が立派になってくれれば、

儂はそれで満足じゃ。」

 まだ幼い藤吉郎だったが、『その時』というのが決して六角家に仕官できた時ではないと理解していた。

涙を飲み込んで藤吉郎は、本当の親子の様に自分を育ててくれた小六と、今生の別れのような挨拶を笑顔で交わした。

そして、南近江へ向かい歩き続ける藤吉郎は心に誓ったのだった。


必ず六角家の助けを得て小六の下へ帰ると。

六角家からの書状を持って、

六角家の旗印を預かって、

六角家の軍勢を率いて、

必ず小六の下に帰ると。




《虚実考察》


 木下藤吉郎について


 木下藤吉郎は、後に名前を豊臣秀吉と改めて関白に就任する、歴史の教科書にも出てくる有名人です。

しかし実は、彼の前半生はあまり知られていません。

彼が織田家に仕えたのは18歳の頃。

それ以前は、三河国の松下加兵衛に仕えていた。と伝えられていますが、さらにそれ以前の事については現在でも詳しくは分かっていません。


(関白となった秀吉はきっと身分の低かった時分の事を語るのは嫌だったのでしょうし、関白が語らない事を他の人も言い広める事は憚られたのでしょうね。)


 また一説によるとこの間、木下藤吉郎は六角家に仕えた事があり、後に織田信長に攻め滅ぼされた六角家の六角義賢や義治を御伽衆として召し抱えたのも、この時の縁が有っての事。と言われています。

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