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短編シリーズ

伯爵様の花嫁探しを引き受けたら、条件が全部私でした

作者: 泉華
掲載日:2026/10/11

こんばんは!短編書いてみました、ぜひお読みいただけるとうれしいです。

「雨の日に、排水溝を見ても怒らない方……ですか?」


 書きかけの紙から顔を上げると、向かいに座ったオルディス伯爵は、真剣な表情でうなずいた。


「できれば、そういう方がいい」

「あの。奥様に望む条件をお伺いしているのですけれど」

「そのつもりで答えている」


 そうなのですね。

 では、きちんと書き留めなくては。排水溝を見ても怒らない方、と。


 わたくしはミレイユ。男爵家の三女で、二十三歳になる。

 王都の叔母様の家に住み込み、一階にある縁談仲介所を手伝い始めて五年。これまで、いろいろなご希望をお聞きしてきた。

 領地が近い方。年齢の近い方。大切な犬を三頭、連れて嫁いでもよい方。


 けれど、排水溝についてお伺いしたのは初めてだわ。


「差し支えなければ、理由をお聞かせいただけますか?」

「雨が降ると、水の流れが気になってしまう。外出中に足を止めることもあるので、嫌がられるかもしれないと思って」

「ああ、そういうことでしたのね」


 それなら納得だ。

 ラウル・オルディス伯爵は、ご領地の橋や水路の改修にも、ご自分で足を運ばれる方なのだ。


 先月も、縁談のご相談で伯爵様のご領地を訪ねた帰り、道に水が溜まっているのを見つけて、馬車を止められた。

 わたくしも降りて傘を差しかけたのだけれど、伯爵様は背がお高いでしょう。腕を伸ばしていたら、今度はわたくしの頭が傘からはみ出してしまって。

 結局、伯爵様が傘を持ち、二人で水の流れる先を眺めたのだった。


「あの日は、あなたまで付き合わせてしまったな」

「いいえ。詰まっているところも分かりましたし、帰りにいただいたお茶も美味しかったですわ」

「そう言ってもらえると、助かる」


 伯爵様の口元が緩んだので、わたくしまで嬉しくなってしまう。

 濡れた髪が額にかかって、いつもより少しだけ幼く見えたことも覚えているけれど、それは言わなくてよいことね。


「では、ほかのご希望は?」

「菓子を等分しなくても、気にしない方がいい」

「等分、ですか?」

「私は甘いものがあまり得意ではない。私の分も食べてくれる方なら、ありがたい」


 思わず、目の前のお皿を見てしまった。

 先ほど伯爵様に促され、苺のお菓子をいただいたのだ。


「それで、いつもわたくしにくださっていたのですね。無理にお出ししてしまって、申し訳ありません」

「いや。あなたは二つあると嬉しそうだから、それを見るのも楽しみだった」


 ……まあ。

 そんなに分かりやすい顔をしていたのかしら。

 ささっとお皿を脇へ寄せると、伯爵様が小さく笑った。


 初めてお会いしたのは二年前。

 仲介所の雨樋が壊れて困っていたところに、通りがかった伯爵様が声をかけてくださった。それ以来、ご領地に住む方々の縁談を叔母様がお預かりしている。


 最初は、ちょっぴり怖い方だと思っていた。

 口数が少なくて、何を考えていらっしゃるのか分からなかったのだもの。

 お付き合いが続くうちに、言葉を選んでお話しになるだけなのだと分かった。こちらが話すときにも、途中で遮らず、最後まで聞いてくださる。


 叔母様をお待ちの間、わたくしが書類を整えるそばで、本を読んでいらっしゃることもある。以前は何かお話ししなくてはと焦ったけれど、今では、その静かな時間も好きだった。


「それから、黙っていても気まずくならない方」


 続いた言葉に、ペンを止めた。


 雨の日も、お菓子も、お茶を飲みながらゆっくり過ごす時間も。

 なんだか、わたくしのことに聞こえてきてしまう。


 いいえ。落ち着いて、ミレイユ。

 当てはまるからといって、わたくしを望んでくださっているわけではないでしょう。

 もしそうなら、花嫁を探してほしいなんて、わたくしにおっしゃらないもの。


「ご年齢や、ご身分についてはいかがですか?」

「年齢は近い方がいい。家同士で話し合う必要はあるだろうが、爵位の高低にはこだわらない。それから……結婚後も続けたい仕事がある方なら、応援したいと思っている」


 紙に、ぽとりとインクが落ちた。

 ああ、いけない。ペン先を止めたままにしていたわ。


 伯爵様は二十八歳。わたくしとは五歳違い。

 実家は裕福ではないけれど、一応男爵家の出自である。

 それに、仕事も続けてよいとおっしゃるのは……いいえ。考えすぎよ。


「ミレイユ嬢?」

「はい!承りました。ご希望に合う方を、お探しいたしますね」


 にっこりと微笑んで、書類を揃える。

 お引き受けしてから、少しだけふうっと息をついた。


 伯爵様にふさわしい方を、探さなくては。

 それがわたくしの仕事なのに、今日は、少しも張り切る気持ちになれないのだ。


 ***


「ミレイユ、代わりましょうか?」


 伯爵様がお帰りになると、叔母様が隣の部屋から顔を出した。


「何をですか?」

「伯爵様からのご依頼よ。気が進まないのでしょう」

「そんなこと……」

「伯爵様に奥様ができたら、寂しい?」


 書類を揃える手が止まった。

 叔母様はその手を見て、わたくしの隣に腰を下ろした。


 いつから好きだったのか、よく覚えていないけれど。

 伯爵様がいらっしゃる日は、朝から楽しみで。

 玄関でお声が聞こえると、髪に乱れがないか確かめてからお迎えに出たし、お帰りの際には、次はいついらっしゃるのかお聞きしたかった。


 わたくしからの用事もないのにお呼びするなんて、おかしいでしょう。

 だから、毎回聞かずに我慢していたのだけれど。


「……寂しいです」

「そう。では、私が」

「少し、考えさせてくださいませんか。まだ、お引き受けしたばかりですから」


 伯爵様のお役に立ちたい気持ちも、ちゃんとある。

 ご結婚が決まれば、笑ってお祝いできるかもしれない。

 そう思ったのだけれど、叔母様はわたくしの顔をじっと見ていた。


「無理をして、お相手まで困らせてはいけませんよ」

「はい。それは、もちろんです」


 大切なお客様の大切な縁談だもの。

 わたくしの気持ちで、振り回してよいはずがないわ。


 ***


 一週間後。

 わたくしは三人の方の書類を並べ、伯爵様のご希望を確かめていた。


「こちらの方は、ご実家の農園の管理を手伝っていらっしゃいます。こちらの方は読書がお好きで、静かに過ごせるお相手をお探しです。それから、こちらの……ソニア様は書店を継いでいらして、ご結婚後もお店を続けたいとおっしゃっています」

「以前、あなたが教えてくれた店の方だろうか」

「ええ。ご存じでしたら、お話も弾むかもしれませんね」


 ソニア様は明るくて、話を聞くのもお上手だ。

 伯爵様と好きな本についてお話ししているところも、簡単に思い浮かぶ。

 あの方なら、伯爵様がお返事を考えている間も、にこにこと待っていらっしゃるでしょう。


 自分で想像しておいて、胸が苦しくなった。

 伯爵様のお隣に、ソニア様がお座りになるのね。


「……よろしければ、ご意向をお伺いしてみましょうか」


 ちゃんと笑えているかしら。

 伯爵様は書類から顔を上げると、わたくしの手元をご覧になった。


「今日は、お茶を飲まないのか?」

「あ。考えごとをしておりました」

「私の縁談のことで?」


 カップに触れると、すっかり冷めていた。

 まだ飲んでもいないのに、去年の渋いお茶の味を思い出してしまう。


 あの日は、互いに想い合っていたお二人の縁談が、家同士の事情でなくなってしまった。

 もう少し何かできたのではないかと、店を閉めたあとで泣いていたところを、書類を届けに来た伯爵様に見つかったのだ。叔母様はお客様のお見送りに出ていた。

 事情を話すと、伯爵様は黙って聞いてくださって、それから脇の茶器と湯の入ったポットに手を伸ばされた。


 淹れていただいたお茶は、びっくりするほど渋かった。

 思わず顔をしかめたわたくしを見て、伯爵様も一口お飲みになり、同じ顔をされたのよね。


 お茶を失敗したと気づいて、淹れ直そうとなさった伯爵様の袖を、わたくしはつかんでしまった。

 このままで大丈夫です、と。

 お茶のこともあったけれど、本当はそばにいてほしかった。


 その方の花嫁を、わたくしが探している。

 うまくできると思ったのに。お祝いできるつもりだったのに。


 ソニア様にお声をかけてから、やっぱり嫌ですなんて、言えるはずがないわ。

 深呼吸をしてから、口を開いた。


「伯爵様。申し訳ありませんが、担当を叔母に代わってもらってもよろしいでしょうか」


 伯爵様が、驚いたように目を見開く。


「何か、無理をさせただろうか」

「いいえ。わたくしの都合なのです。まだ皆様にはお話ししておりませんので、叔母から改めて……」

「ミレイユ嬢」


 呼ばれて顔を上げると、灰色の瞳と目が合った。


「差し支えなければ、理由を教えてもらえないだろうか。私が困らせたのなら、知らないままでいたくない」


 そういうところが、好きなのだわ。

 わたくしが大丈夫だと言えば、それで済ませてもよいのに。


「……よい方をご紹介できても、喜べそうにありません」


 言ってしまった。

 伯爵様が黙ったので、わたくしは慌てて続けた。


「伯爵様がいらっしゃるのを、いつも楽しみにしていたのです。ご結婚なさったら、こうしてお茶を飲むこともなくなるでしょう。それを考えると、寂しくて……ですから、わたくしではだめなのです」


 言い終わる頃には、顔が熱くて仕方がなかった。

 これでは、好きですとお伝えしているのと同じではないかしら。

 いえ。同じね。どう考えてもそうだわ。


「……私も、楽しみにしていた」

「え?」

「ここへ来る日は、朝から仕事を早く片づけていた。あなたと話す時間が減ると、残念だから」


 お顔を見つめていると、伯爵様は困ったように眉を下げた。


「母に、妻とどんな暮らしをしたいのか考えてみろと言われたんだ。一緒に出かけて、帰りにお茶を飲んで。話をしたり、黙って本を読んだり。それで、あの条件を伝えた」


 伯爵様が、机の端にある条件書をご覧になって、笑った。


「全部、あなたと過ごした時間だったな」


 心臓がどきんと跳ねた。


「それは……わたくしに似た方を、お探しだったということでしょうか」


 期待してしまう。ああ、どうか、わたくしに期待をさせないで。

 膝の上でぎゅっと手を握った。


 伯爵様は紹介の書類を静かに閉じた。


「あなたに似ていればいいのかと聞かれると、違うと思う。その方とまた一から親しくなりたいのではなく、あなたと過ごす時間を増やしたいんだ」

「わたくしと?」

「ああ。いったん、私の依頼を取り下げてくれないだろうか。あなたのことを知りたい」

「それは、問題ないのですけれど、わたくしを知りたいというと……」

「仕事を離れたあなたとも、会ってみたいということだ。あなたが親切にしてくれるのは、仕事だからだと思っていた。他の相談者にも、いつも熱心だろう」


 伯爵様は一度言葉を切って、閉じた書類を脇へ寄せた。


「それなのに、あなたといるときのことを並べて、同じような暮らしがしたいと頼んだんだな。……無茶なことを言っていた」

「お仕事だからというだけで、お帰りになるのを寂しく思ったりは、いたしませんわ」


 思わず答えると、伯爵様が顔を上げた。

 ああ。こんなことまで言うつもりではなかったのに。


「それを、先に聞くべきだった。あなたと過ごしたいのに、ほかの誰かを探してくれと頼むなんて。困らせてしまったな」


 嬉しい。

 今すぐそうお伝えしたいけれど、あまりに急で、言葉が出てこない。

 だって、ほんの少し前まで、お別れするような気持ちでいたのよ。


「……伯爵様。わたくし、お願いがあります」

「何だろう」

「お仕事ではなく、お休みの日に、一度ご一緒してくださいませんか?」


 伯爵様の目が、少し大きくなった。


「もっと、あなたのことを知りたいです。仲介所のお手伝いをしているわたくしではなくても、一緒にいて楽しいと思っていただけるか、知りたいのです」

「ぜひ、ご一緒させてほしい」


 迷わずお返事をいただけて、ほっとした。

 それからようやく、わたくしは自分からお出かけに誘ったのだと気づいた。

 なんて、大胆なことをしてしまったの。心臓がうるさい。


「今度の日曜日は、空いているだろうか」

「はい。仲介所もお休みですから」

「では、十時に迎えに来るよ」


 うなずいてから、日曜日まであと何日あったか、指を折りそうになってしまった。


 ***


 伯爵様から叔母様へ、花嫁探しのご依頼を取り下げるとお伝えいただいた。まだどなたにも打診していないことを確かめ、叔母様は紹介の書類をしまわれた。

 お帰りを見送ってから日曜日の約束を報告すると、今度はにっこり笑っていらっしゃる。


「日曜日、晴れるといいわね」

「……まだ、お仕事中です」

「ええ。だから、書類を片づけているでしょう?」


 叔母様のお手元を見ると、本当にきちんと片づけていらした。

 言い返せないので、わたくしも自分の机に戻ったけれど、その日の仕事はなかなか進まなかった。

 次は何のお菓子を、と考えかけて、違うわ、お出かけするのよ、と思い出してしまうのだもの。


 そして、日曜日。


「お待たせいたしました」


 二階の居間へ入ると、叔母様とお話ししていた伯爵様が立ち上がった。

 今日は淡い水色のドレスを選び、髪もいつもより丁寧に結ってある。

 おかしいところはないはず。鏡で何度も確かめたのだから。


 けれど、伯爵様はわたくしを見たまま、何もおっしゃらない。


「あの……?」

「よく似合っている。そう言おうと思った」

「まあ。ありがとうございます」


 待っていればお返事をくださる方だと、知っていたのにね。

 今日は、なんだか落ち着かないわ。


 叔母様に見送られて街へ出ると、伯爵様が腕を差し出してくださった。護衛の方が少し後ろを歩いてくださる。

 そっと手を添えたけれど、近い。いつもより、とっても近くて、なんだか良い香りがした。

 これで普段どおりお話しできるのかしら。


「どこへ行きたい?」

「東の市場へ。手袋を買いたいのです」

「では、そちらへ行こう」


 露店を覗きながら歩くうちに、少しずつ緊張も解けてきた。

 手袋のお店では、鼠色と淡い黄色のものを並べていただいた。


 仕事に使うなら、鼠色ね。汚れが目立たないし、今持っているドレスにも合う。

 でも、黄色も可愛いわ。手元が明るく見えるもの。


「そちらが気に入ったのか?」

「はい。けれど、お仕事には少し……」

「休みの日に使うのはどうだろう」


 そうね。今日のように、お出かけするときに。

 また、ご一緒してくださる日もあるかもしれないし。


 黄色の手袋を選んで代金をお支払いすると、伯爵様が包みをご覧になった。


「来週の日曜日も、会ってもらえるだろうか。屋敷の庭に、ちょうどその手袋と同じ色の薔薇が咲いているんだ」

「はい!ぜひ、拝見したいです」

「では、今日と同じ十時に迎えに来る。その手袋を着けてきてくれると嬉しい」

「もちろんですわ」


 少し大きな声になってしまった。

 伯爵様が嬉しそうに笑われたので、わたくしも笑ったけれど、気が早いと思われなかったかしら。

 包みを鞄にしまいながら、今日のドレスにも合うかしら、と考える。次お会いする日曜日は、どんな装いにしようかしら。


 その先のお店では、伯爵様が胡椒の利いたチーズの薄焼きをお買いあげになった。


「こういったお菓子は、お好きですのね」

「ああ。甘くないものなら、よく食べる」

「知りませんでした。今度は、こちらをご用意しますね」

「では、いつもの菓子を譲れなくなるな」

「わたくしのお菓子は、すこし大きめのものにしてしまおうかと思いますわ」


 きっぱりお伝えすると、伯爵様が声を上げて笑った。

 わたくしもつられてしまう。

 伯爵様の好きなものを知れたのが、とても嬉しい。


 ***


 昼食のあと、運河沿いを歩いていると、伯爵様が石橋をご覧になった。


「気になりますか?」

「先月、修繕したと聞いていてね」


 橋のたもとには、下へ降りる階段がある。

 どうぞ、と言いかけて、少しためらった。


 今日はまだ、わたくしとお話ししていてほしい。

 けれど、足を止めても怒らない方がよいと、おっしゃっていたでしょう。

 怒ってはいないけれど、見に行かないでくださいとお願いするのは、どうなのかしら。


「ミレイユ嬢?」

「あの。橋は、また今度でもよろしいですか?今日は、もう少し一緒に歩きたいです」

「もちろん。どこまで行こうか」


 すぐにこちらへ向き直ってくださったので、少し拍子抜けしてしまった。


「あちらの木陰まで。長椅子がありますから」

「では、あそこで休もう」


 並んで腰掛けると、風が頬を撫でた。

 今日のお出かけは楽しい。次も楽しみだし、できればその次も、お会いしたい。

 だからこそ、聞いておきたいことがある。


「伯爵様。先ほどは、わがままを申し上げました」

「橋のことか?また行けばいいので、気にしていないよ」

「ありがとうございます。けれど、少し不安だったのです。伯爵様に合わせていられるわたくしだから、お気に召していただけたのではないかと」


 伯爵様はわたくしの方へ身体を向けた。

 きちんと聞こうとしてくださっているので、わたくしも膝の上の手を見つめるのをやめ、お顔を見上げた。


「今日は、橋よりわたくしを見ていてほしかったのです」


 なんだか、子どものようなわがままだと、呆れられてしまうかしら。

 でも、いまお伝えしておくべきよね。


「それから、疲れて、うまく笑えない日もあるでしょう。最初の条件どおりには、できないかもしれません」

「それなら、今日のように言ってほしい。気づかないこともあるから。笑えない日なら、前にもあっただろう」

「お茶を淹れてくださった日ですか?」

「ああ。何と声をかければいいか分からなくて、茶まで失敗した。それでも、帰りたくなかったんだ。あなたが袖をつかんでくれたので、そばにいていいのだと、ほっとした」


 わたくしは、ぱちりと目を瞬いた。

 ご迷惑をおかけしたと思っていたのに。

 伯爵様も、そばにいたいと思ってくださっていたのね。


「翌日も気になって、会いに行く用事がないか書類を探したんだが……」

「もしかして、あの、もう頂いていた書類をお持ちになったのは」

「そうだ。確認が足りなかった」


 伯爵様が気まずそうに目を逸らした。

 くすくすと笑ってしまう。思い返して、目の奥が熱くなった。


 あの日も、わたくしを心配して、会いに来てくださったのね。

 知らなかったわ。二日連続でお話しできて、嬉しいとばかり思っていた。


「ミレイユ嬢。あの日も今日も、私はあなたに会いたかった。橋のことで遠慮させたのなら、すまない。今日はあなたと出かけているのにね」


 膝に置いていた手に、伯爵様の手が触れた。


「私は、あなたが好きだ」


 灰色の瞳でまっすぐに見つめられると、照れてしまう。

 今度は、わたくしもきちんとお伝えしなくては。


「わたくしも、好きです。花嫁を探してほしいとおっしゃったときは、悲しかったです。わたくしではないのだと思いましたから」

「すまなかった」

「でも、今日、ご一緒できてよかったですわ。来週のお庭も、楽しみにしております」


 重なった手を握ると、握り返してくださった。

 それが嬉しくて、ついつい、お顔が緩んでしまう。


「次だけではなく、その先も会ってもらいたい。いずれ、結婚も考えてもらえるだろうか」

「はい。わたくしも、そのつもりでお会いしたいです」


 伯爵様が子どものように、無邪気に笑った。

 こんなに嬉しそうなお顔、初めて見たかもしれない。


「……ミレイユと呼んでも?」

「はい。わたくしも、ラウル様とお呼びしてよろしいですか?」

「もちろんだ」


 呼んでみると、ラウル様が笑ってくださった。

 それだけのことなのに、わたくしは照れくさくて、つないだ手へ目を落としてしまう。


 しばらくして、散歩中のご夫婦がこちらへ歩いてくるのが見えた。

 慌てて背筋を伸ばすと、ラウル様も気づかれたようで、ゆっくりと手を離された。


「そろそろ、戻ろうか」

「はい」


 差し出された腕に手を添えて、立ち上がる。

 お迎えに来ていただいたときより、今の方が緊張しているかもしれないわ。

 帰り道は、もう少しだけ、ゆっくり歩いていただこうかしら。


 ***


 三か月後、両家の話がまとまり、わたくしたちは婚約した。


 あれから、何度もお会いした。

 薔薇を見に伺った日は、ラウル様のお母様にもご挨拶をしたし、うちの両親が王都へ来たときには、一緒に食事もしていただいた。

 結婚後の仕事についても相談し、仲介所を手伝う日を決めて、続けられることになった。


 今日は伯爵邸で、両家揃ってのお茶会だった。

 食事の好みまで似ていると分かったお父様たちのお話が弾み、わたくしたちは、先に庭を散歩させていただくことにした。


 あの日見た黄色い薔薇は見頃が終わっていたけれど、庭師の方が植え替えた花壇には、小さな白い花が咲いている。

 ラウル様と東屋の長椅子に腰を下ろしてから、わたくしは鞄の中の封筒を取り出した。


「こちら、叔母様からいただいたのです」


 中の紙を広げると、ラウル様が少し困ったお顔をされた。


「……まだあったのか」

「もちろんですわ」


 雨の日の排水溝。お菓子。静かに過ごせる方。

 わたくしの字で書かれた条件書には、あの日落としてしまったインクの染みも、そのまま残っている。


「これは、しまっておいてくれないだろうか。何も考えていなかった自分に、何か言いたくなる」

「では、大切にしまっておきますね」

「捨てるつもりは、ないんだね」

「ありませんわ」


 丁寧に紙を折りたたみ、封筒に戻すと、ラウル様はとうとう笑われた。

 わたくしにとっては、嬉しいことも書いてあるのだもの。二人で過ごした時間を好きでいてくださった、その証でしょう。


「これからは、わたくしに聞いてくださいね。こうしたい、ということがあるのでしたら」

「ああ。では、今聞いてもいいだろうか」

「はい?」


 封筒を鞄にしまって顔を上げると、ラウル様がわたくしの頬に触れた。


「口づけをしても?」


 ……確かに、聞いてくださいとは申し上げましたけれど。

 すぐにそんなことを聞かれるとは、思っていなかったわ。


 東屋は生け垣に囲まれていて、お屋敷の窓からは見えない。

 庭の小道にも、今は誰もいなかった。


「一度だけでしたら」


 小さく答えて、目を閉じる。

 唇が触れて、すぐに離れた。


 あら。もう?

 ……一度だけでは足りない。そう思ってしまった。


 ラウル様が身を離される前に、きゅっと袖をつかむ。


「どうした?」

「あの。条件を変えてもよろしいでしょうか」

「どのように?」


 優しく聞かれる。

 なんだか言いにくいけれど、ちゃんとお答えしなくては。


「……もう一度、していただきたいです」


 ラウル様が、ぱちりと瞬いた。

 それから、口元を手で覆って、少しだけ横を向かれる。


「あの、ラウル様?」

「すまない。嬉しくて、どういう顔をすればいいか分からなかった」


 まあ。わたくしだけではなかったのね。

 ほっとして笑うと、ラウル様も笑って、わたくしの背へ腕を回された。


 つかんでいた袖を離し、今度はラウル様の肩に手を添える。

 こんなお願いをする日が来るなんて、あの条件書を書いていたときには、思いもしなかった。


 今度はわたくしからも少し近づいて、目を閉じた。



最後までお読みいただきありがとうございます。

おだやかな、ふたりを描きたくて、かいてみました。

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