婚約破棄されたので家を追い出されると思ったら——なぜか家族全員が王家と縁を切り、私を囲い込んできました
シャンデリアの光が、白いドレスに降り注いでいる。
王城の大舞踏会——招待状には金の縁取りで「フォーリン公爵令嬢リリィ様」と記されていた。美しい文字だと、受け取ったときは思ったものだ。まさかその夜、その名前ごと捨てられるとは想像もせずに。
「リリィ、少し話がある」
カイル王太子殿下が私の腕を引いたのは、夜会が半ばを過ぎたころのこと。華やかな音楽と笑い声が満ちるホールの端、ひっそりとした柱の陰へ連れていかれた。殿下の顔には、いつもの薄い微笑が浮かんでいる。ただ、その目が私を見ていないのは——わかっていた。最初から、ずっとわかっていた。
「婚約を解消したい」
短い言葉だった。あまりにも軽い。
「……え」
「お前は地味だ。表舞台に出ても華がない。王妃として必要なのは、民衆を惹きつける魅力だろう?」
殿下の視線が、ちらりと遠くへ流れる。その先には、薄桃色のドレスをまとった少女——マリエ嬢が笑っていた。侯爵家の三女で、社交界に出てきたのはほんの数ヶ月前。愛嬌があって、誰にでも笑いかけて、いつも人の輪の中心にいる。
「マリエの方が、王太子妃にふさわしい」
「……そう、ですか」
それしか言えなかった。反論する言葉が見つからなかったわけではない。三年間、婚約者として何をしてきたか、思い出せることはいくらでもある。王家の行事を陰で支える手配を、どれだけこなしてきたか。外交の席で粗相をしないよう、どれほど必死に礼儀作法を磨いてきたか。でも——それを今ここで並べたところで、何になる。
「ご理解いただけたなら、話は早い。明日付けで婚約解消の書類を——」
「わかりました」
殿下の言葉を遮ったのは、自分でも意外だった。殿下がわずかに目を細める。
「……思ったより潔いな」
「お気持ちが固まっていらっしゃるのでしょう。長々と引き止めるのは双方にとって無益です」
深く一礼して、背を向ける。膝が震えていたが、それは誰にも見せない。ホールを横切るあいだ、背中に視線が突き刺さる感覚がした。哀れみか、好奇心か、あるいは安堵か——他の貴族たちが何を思っているのか、考える余裕はなかった。
玄関ホールで外套を受け取り、夜の空気の中へ出る。
馬車の中で、ようやく息をついた。
――家に帰ったら、私はどうなるのだろう。
公爵令嬢が婚約破棄される。それがどれほどの恥辱か、貴族社会に生きる者なら誰でも知っている。フォーリン公爵家の名に泥を塗った。父の政治的立場を損ない、母が丹精込めて築いた社交界での信頼にひびを入れた。兄たちだって——あれほど優秀な兄たちが、妹のせいで。
窓の外を、夜の街が流れていく。
追い出されるかもしれない。いや、さすがにそれはないにしても、冷たい目で見られるのは覚悟しなければ。父はあの人だ、感情を表に出すことはないだろうけれど、失望の沈黙はきっと言葉より重い。母は優しいから、慰めてくれるかもしれない。でもその優しさが、かえってつらい。
兄たちは——正直、怖い。長兄のルードは王国軍の将軍で、怒ると本当に怖いのだ。次兄のエドワードは商会を率いていて普段は飄々としているけれど、核心を突く言葉を選ぶのが上手い。三兄のフィンは魔法省の筆頭で、無口な分、表情だけで人を追い詰めることができる。
三人まとめて向かい合うことを想像して、胃が重くなった。
馬車が公爵邸の門をくぐる。
玄関扉を開けると、執事のバルトが深く頭を下げた。
「お帰りなさいませ、リリィお嬢様。旦那様がお待ちです」
——もう知っている。
夜会でのことは、すでに誰かが知らせたのだろう。それとも父には独自の情報網があって、起きた瞬間から把握していたのかもしれない。どちらにしても、逃げ場はなかった。
「……わかったわ」
書斎の扉の前に立つ。ノックをしようとした手が、止まる。
深呼吸を一つ。
それからもう一つ。
「——お父様、リリィです。入ってもよろしいでしょうか」
「入れ」
低く、静かな声。
書斎の中は落ち着いた照明で満たされていた。壁一面の本棚、重厚な机、その向こうに父——フォーリン公爵グレアムが座っている。銀が混じり始めた黒髪、厳しい彫りの深い顔。それでも私を見る目だけは、いつも少しだけ柔らかい。
今夜は——どうだろう。
「カイル殿下に婚約を破棄されました」
言ってしまえば、案外すんなりと言葉が出た。「地味だと言われました。役に立たないと。マリエ嬢の方が王太子妃にふさわしいと——そう告げられました」
沈黙が落ちる。
父は私をじっと見ている。何も言わない。怒ってもいない、少なくとも表情には出ていない。ただ静かに、私の言葉を受け取っていた。
その静けさが怖くて、私は続けてしまう。
「申し訳ございません。公爵家の名に傷をつけてしまって。お父様のお立場も——」
「リリィ」
短く、名前を呼ばれた。
「はい」
「そうか」
父はゆっくりと立ち上がり、窓の外へ視線を向ける。夜の庭園が、月明かりに照らされていた。
「では王家とは、縁を切ろう」
——え。
「……お父様?」
「聞こえなかったか。王家との縁を切る。明日にでも動く」
「そ、そんな——何をおっしゃって」
「お前を軽んじた者たちと、これ以上関係を続ける理由がない」
振り返った父の目は、静かで、揺るぎなかった。激しい怒りではない、燃え上がるような感情でもない——ただ、決定、という言葉がそのまま表情になったような顔。
扉が開いた。
「まあ、リリィ。帰ってたの」
母のエレナが入ってくる。絹のガウン姿で、就寝前だったのだろう。でも顔には疲れた様子がなく、穏やかな微笑みを浮かべていた。
「……お母様」
「聞いたわ。よく頑張ったわね」
すっと歩み寄ってきた母が、私の頬に手を添える。温かい手のひら。
「え、でも、婚約を——」
「三年間、ずっと我慢していたでしょう」
母の声は静かで、責める色が一切ない。
「殿下が何を見ていたか、私にはわかっていたもの。お前がどれだけ尽くして、どれだけ耐えてきたかも」
「お母様……」
重い足音がして、書斎の入口に三つの影が現れた。
長兄ルード、次兄エドワード、三兄フィン。
「遅かったじゃないか、リリィ」
最初に口を開いたのはエドワードだ。いつも飄々としている顔が、今夜は少しだけ違う色をしていた。
「む、むしろ遅いくらいだ」
ルードが腕を組む。軍人らしい厳めしい顔で、でも私を見る目は——怒っていない。
フィンは何も言わずにいたが、静かに私の方へ歩み寄って、無言で頭を一度だけ撫でた。三兄にそんなことをされたのは、いつ以来だろう。
「あの、みんな——」
声が震えた。
「叱らないの?」
「何を」とルードが眉を上げる。「お前が悪いことを何かしたか」
「でも、王家との婚約が——」
「破棄したのはあちらだろう」
エドワードがさらりと言う。「うちの妹が捨てられたんだ。怒る矛先は一つじゃないか」
部屋の空気が、静かに変わっていた。
翌朝、屋敷の空気は前夜とはまるで違っていた。
静かなのに、動いている。そんな奇妙な感覚。廊下を歩けば使用人たちがきびきびと行き交い、書斎からは父の低い声が聞こえ、応接間では兄たちが何かを話し合っている。私が階段を下りていくと、ルードが地図を広げたまま顔を上げた。
「起きたか。朝食は用意してある」
「……ねえ、昨夜のお父様の言葉、本気なの?」
「本気じゃない言葉をあの人が口にしたことがあるか」
それはそうだが。
食堂へ向かう途中、エドワードとすれ違った。いつもは少し気だるそうな顔をしているのに、今朝は目が鋭い。手には羊皮紙の束を抱えていて、足取りが速い。
「エドワード兄様、何をするつもりなの」
「仕事だよ」
「……どんな?」
立ち止まったエドワードが、少しだけ口の端を上げた。
「王家御用達の取引先に、一斉に連絡を入れる。フォーリン商会の名前で。内容は——まあ、察してくれ」
「ちょ、ちょっと待って。それって——」
「リリィ」
穏やかに、でもはっきりと遮られる。
「うちが王家の何を支えてきたか、お前はあまり知らないだろう?」
「……それは」
「今日から、少しずつ知ることになる」
そう言って、兄はまた歩き出した。私は朝食も忘れて、その背中を見送った。
父の書斎の扉が開いたのは、それから間もなくのこと。中から出てきたのは見知らぬ男性で、貴族のそれではない、地味な旅装束を身につけていた。深く頭を下げて玄関へと消えていく。使者、だろうか。どこへ向かうのか——どこの国へ向かうのか。
「リリィ、入りなさい」
父の声がした。
書斎へ入ると、父はすでに机に向かっていた。羽根ペンを走らせる手が止まり、私に椅子を勧める。向かいに腰を下ろすと、父は静かに書類を脇へ置いた。
「昨夜言ったことを実行に移す。王家への各種協力を、順次停止する」
「お父様——本当にそんなことをして、いいんですか」
「いいとか悪いとかの話ではない。当然のことだ」
「でも、王家は——」
「王家が何だ」
低い声だった。怒りではなく、ただの事実を述べるような声。
「カイル殿下はお前を三年間、婚約者として傍に置きながら、一度もその価値を理解しなかった。最後には"地味で役に立たない"と言い捨てた。——そういう相手に、私がこれ以上便宜を図る道理があると思うか」
言葉が出てこなかった。
「お前を軽んじた代償だ。それだけのことだ」
父の目が、真っ直ぐに私を見ていた。怒りも悲しみも超えた、静かな確信がそこにある。
「で、でも、王国全体に影響が出るんじゃ——」
「出るだろうな」
あっさりと父は認めた。
「それが困るなら、王家が考えればいい」
「お父様……」
「リリィ」
少し間があった。父がこういう間を置くとき、次の言葉は短くて重い。経験上、知っていた。
「お前は、この家が王家に頭を下げているとでも思っていたか」
「……え」
「答えろ」
「……思っていました」
正直に言うと、父はわずかに目を細めた。怒っているのではない。ただ——何かを確認するような顔だった。
「そうか。それは私の失敗だな」
静かにそう言って、父は立ち上がる。窓辺に立ち、朝の光の中に輪郭が浮かび上がった。
「今日はルードについて行け。見ておくといい」
「……軍に?」
「お前が知らなかったことを、今日知ればいい。それだけだ」
長兄ルードに連れられて向かったのは、王都の外れにある大きな倉庫群だった。フォーリンの紋章が控えめに刻まれた木箱が、どこまでも積み上げられている。
「これは」
「王国軍の物資だ」
ルードが腕を組んで言う。「兵糧、武具の素材、薬品、馬の飼料——国境の砦から首都の駐屯地まで、補給の六割以上がうちを経由している」
「六割……」
「三代前からそうだ。戦争があるたびに公爵家が動き、補給線を支えた。王家は剣を振るが、その剣を磨いているのはうちだ」
「……知らなかった」
「知らせなかった。お前が婚約したとき、父上は意図的に伏せたんだろうと思う。王家との関係を対等に保つために、あちらにも手の内を見せすぎない方がいいと判断して」
倉庫の中を歩きながら、ルードは続ける。
「でも結果として、お前自身がこの家の力を知らないまま三年間、向こうの土俵で戦い続けた。——不公平だったな」
「……兄様」
ルードは私の方を見ずに歩いていた。でも声が、少しだけ柔らかくなっていた。
「今日から知ればいい。遅くはない」
次にエドワードの商会へ寄ると、そこではすでに書記たちが忙しく動き回っていた。次兄は積み上げられた書類の前に立ち、一枚一枚確認しながら指示を飛ばしている。
「エドワード兄様、これは全部——」
「王家と取引のある商会への通達書だ。フォーリン商会として、一部の取引を見直す旨を連絡している。柔らかい文面だが、受け取った側にはわかる」
「何が?」
「公爵家が動いたということが」
エドワードが振り返って、少し意地の悪い笑みを見せた。次兄がこの顔をするときは、本気を出しているときだと昔から知っている。
「王都の物流の四割はうちのネットワークを通っている。港の使用権、街道沿いの宿場と倉庫、他国からの輸入品の窓口——全部うちが絡んでいる。それが動かなくなったら、どうなるか」
「……王都の経済が」
「止まる、とまでは言わない。でも、鈍る。じわじわと、確実に」
私は返す言葉が見つからなかった。婚約者として三年間、王城に出入りしていた。でも王家の華やかな表側だけを見ていて、その裏側を支えていたのが自分の家だったなんて——考えたこともなかった。
「お前が知らないのは当然だ」とエドワードは言う。「俺たちも、父上から全部教わったのは成人してからだ。この家がどういう家か、本当の意味でわかったのは」
「……この家は」
「国の基盤だよ、リリィ」
さらりと、でも確かな重みを持って、エドワードは言った。
「王家は名前だ。旗印だ。でも実際に国を動かしている歯車の、一番大事な部分は——俺たちが握っている」
屋敷へ帰り着いたのは夕刻だった。
フィン兄様は書斎の隣の小部屋に籠もっていた。魔法省の書類だろうか、細かい文字の並んだ羊皮紙を何枚も広げている。私が入っていくと、無言でちらりと視線を上げた。
「フィン兄様も、何か動いているの?」
少しの間があってから、フィンはペンを置いた。
「魔法省の研究支援金の出所は、七割が公爵家の寄付と融資だ。それと、王城の魔法陣の維持管理を請け負っている術師たちは、全員うちの伝手で集めた者たちだ」
「……全員?」
「全員。私が一言言えば、来月から王城の結界維持の術師が全員別の仕事に就く」
フィンの声は淡々としていて、感情の起伏がない。それがかえって、言葉の重さを増す。
「そんなことまで——」
「リリィ」
静かに名前を呼ばれた。
「この家の力を使うことを、後ろめたく思うな」
「……でも」
「お前が三年間、あちらの都合に合わせて生きてきた。今度は、こちらの都合で動く番だ。それだけのことだ」
三兄は再びペンを取り、書類に向かった。それ以上言葉はなかったが、十分だった。
その夜、夕食の席で初めて家族全員が揃った。父が上座に座り、母がその隣、兄たちが続いて、私はいつもの席に着く。華やかでも賑やかでもない、でも温かい食卓。
「今日、いろいろ見てきた」と私は言った。
「そうか」と父が短く返す。
「この家が——国を支えていたことを、知りました」
誰も大げさな反応をしなかった。当たり前のことを確認したような、静かな雰囲気。
「私は、ずっと思っていたんです。この家の重荷になってると。お父様やお兄様たちがあれほど優秀で、私だけが何もできないって——だから王家に嫁いで、少しでも役に立てればって」
「リリィ」
母の声だった。
「あなたは重荷なんかじゃなかったわ。一度も、一秒も」
「でも——」
「婚約の話を受けたとき、あなたが望むなら、と私たちは思った。でも決して、公爵家の政治的利益のためではなかったわ。あなたが幸せになれると思ったから、承諾したの。——その判断が間違いだったかもしれないと、今は思っているけれど」
母の穏やかな声に、目の奥が熱くなる。
「お母様……」
「泣かなくていい」
ルードが少し乱暴な声で言った。「もう終わった話だ。これからの話をしろ」
「そうだね」とエドワードが頷く。「王家の方は、もうじき騒がしくなる」
「どういうこと?」
「動きを止め始めて、まだ二日も経っていない。でも、もうすでに港で荷物の遅延が出ている。王城への物資搬入も、いくつかの取引先が確認中という名目で留めた。表向きは——全部、ただの業務上の手続きの話だ」
エドワードはワイングラスを傾けながら言う。
「でも王家の財務担当は、もう気づいているはずだ。何かが、おかしいと」
夕食の席に、静かな笑いが流れた。重くはない、でも確かな手応えを含んだ笑い。私もつられて、少しだけ口元が緩んだ。
そして——その翌週のことだ。
王城が、動揺し始めた。
最初の知らせは、商会の番頭からエドワードにもたらされた。王都の主要な市場で、いくつかの物資の価格が上がり始めたという。理由は単純で、いつも定期的に入ってくるはずの荷物が、軒並み遅れているからだ。
それから数日後、ルードの部下——退役して今は民間にいる元部下だが——から情報が入った。国境付近の砦で、補給の遅れを訴える声が上がっているという。兵糧に余裕がなくなってきた、と。
フィンの方からは、王城の魔法陣の一部に軽微な乱れが出始めたという話が漏れてきた。維持管理の術師たちが、次々と体調不良や家庭の事情を理由に休みを取り始めたのだ。もちろん、誰も命令などしていない。ただ——フィン兄様が「しばらく休んでもいい」と一言言っただけで、みんな心得たように動いた。
「すごい……」
私は思わず、そう呟いた。
食後に家族で集まる小応接間で、兄たちから報告を聞きながら。
「すごくない」とルードは言う。「当然の結果だ」
「こういうのを"静かな圧力"と言う」エドワードが説明する。「派手に動いていない。誰かを攻撃していない。ただ——止まっているだけだ。でもそれだけで、どれほど王家がうちに依存していたかが、浮かび上がってくる」
「カイル殿下は、今頃どんな顔をしているんだろう」
口に出してから、少し意地が悪いかと思った。でも誰にも咎められなかった。
エドワードが笑う。「そろそろ青ざめている頃じゃないか」
実際、王城での様子は想像以上に混乱しているらしかった。翌日、母の社交界の知人から便りが届いた。王城の茶会や夜会の準備が滞っているとか、財務卿が難しい顔で廊下を歩いているとか——そういう他愛のない情報が、母のネットワークを通じてさりげなく入ってくる。
「お母様、そういう情報も集めてるの?」
「集めているのではないわ」と母は微笑む。「入ってくるの、自然に」
社交界の支配者、という言葉が頭に浮かんだ。母はいつも穏やかで優雅で、誰かを傷つけるようなことを言う人ではない。でもその穏やかさの裏に、王都の貴族社会の情報の糸がいくつも集まっていたとは——これもまた、私が知らなかったことだった。
そしてさらに数日が過ぎたある朝、ついに王城から使者が来た。
応接間で父が対応している声を、廊下で聞いた。
「王太子殿下より、フォーリン公爵閣下に面会のご要望です。早急に——」
「お伝えください」と父の声が静かに遮る。「私はただいま多忙にしております。日程が空き次第、こちらからご連絡します」
短い沈黙。
「……かしこまりました」
使者の足音が遠ざかる。
私は廊下の端で、その声を聞いていた。父が——王太子からの呼び出しを、あっさりと保留にした。それだけのことのはずなのに、何か大きなものが変わった気がした。
使者が帰って三日後、カイル殿下は直接屋敷へやってきた。
予告もなく、護衛を二人だけ連れて。それ自体が異例のことで、門番から報告を受けた執事のバルトが珍しく困惑した顔で父のもとへ走ったほどだった。私はちょうど母と共に庭にいて、その騒ぎで殿下の来訪を知った。
「リリィ、中へ入りなさい」と母は言った。穏やかな声だったが、有無を言わせない響きがあった。
「……会ってみたい」
「え?」
「お母様、私、殿下に会います」
母が少しの間、私を見た。値踏みするのではなく、確かめるような目で。
「……あなたが決めたなら」と、母はそっと頷いた。
応接間へ通されたカイル殿下は、夜会のときとは少し違う顔をしていた。相変わらず整った顔立ちで、衣装も上等だ。でも、あの薄い微笑が消えていた。代わりにあるのは、かすかな焦りの色。それを隠そうとして、隠しきれていない顔。
「リリィ」
殿下は私を見て、すぐに名前を呼んだ。以前は「フォーリン嬢」と呼ぶことの方が多かったのに。
「カイル殿下」
私は椅子には座らず、立ったまま向き合った。殿下の隣には護衛だけで、父も兄たちも同席していない。それは私が望んだことだった。これは私自身の話だから。
「急な訪問を失礼した。だが、どうしても直接話したくてきた」
「伺います」
殿下がわずかに眉を動かした。私の声のどこかが、変わって聞こえたのかもしれない。三年間の婚約期間、私はいつも殿下の前では小さくなっていた。同意して、微笑んで、波風を立てないように、立てないように。その癖が今日はなかった。
「……先日のことは、少し言いすぎた」
殿下が口を開く。
「婚約破棄については——考え直したい」
「考え直す、ですか」
「そうだ。お前は……確かに、公爵家のご令嬢だ。王太子妃として、不足はない」
言葉の選び方が、妙だった。「不足はない」。褒め言葉ではなく、条件の確認のような言い方。
「最近、いろいろと……不都合が生じている。公爵家のご協力をいただけなくなると、王城の運営にも支障が出かねない。だからこそ、改めて関係を——」
「殿下」
遮った自分の声が、自分でも驚くほど落ち着いていた。
「今のお言葉は、私への謝罪ですか。それとも公爵家への打診ですか」
殿下が口を閉じる。
「私が地味だと言われたことへの謝罪でも、役に立たないと言い捨てたことへの謝罪でもなく——公爵家との関係を回復したいがための打診であれば、それは私ではなく父にお伝えになるべきです」
「……リリィ」
「もし私個人への言葉であるなら、聞きます。でも殿下、正直に申し上げます」
一歩、前へ出た。
「戻りません」
殿下の顔が、かすかに強張った。
「三年間、私は殿下に認めていただこうと努力しました。でも殿下は一度も、私を見てくださらなかった。地味だと言われた夜、私が傷ついたのは——それが事実だったからではなく、三年間一緒にいた方に、そう思われていたとわかったからです」
言葉が、思いのほかすらすらと出てきた。震えていない。胸の奥に、ここ数日で積み上がってきた何かが、言葉を押し出していた。
「だから——」
「だから、戻らないと」
殿下がゆっくりと繰り返した。その声には、まだ信じられないという響きがある。
「はい」
「公爵家との関係も、このままでいいというのか」
「それは父が決めることです。私の返答とは別の話です」
沈黙が落ちた。長い沈黙だった。
殿下は私を見ていた。たぶん初めて——本当に私を、見ていた。婚約者としてではなく、王家と繋がる駒としてでもなく、ただ目の前にいる一人の人間として。
でも、遅かった。
「……そうか」
殿下はそれだけ言って、立ち上がった。何かを言いかけて、やめた。護衛を促して、応接間を出ていく。廊下に足音が遠ざかり、玄関扉が静かに閉まった。
私はその場に立ったまま、しばらく動けなかった。
震えているかと思ったが、違った。軽い。胸が、不思議なほど軽かった。
「よく言った」
振り返ると、扉の陰からエドワードが出てきた。
「……聞いてたの」
「聞いてた」と悪びれもせず言う。「ルードとフィンも廊下にいる」
「もう!」
「だって心配だろ。でも——必要なかったな」
エドワードの声が、珍しく柔らかかった。
廊下に出ると、ルードが壁に背を預けて立っていた。腕を組んで、天井を見上げて。私が出てきたのに気づいて、ゆっくり視線を下ろす。
「……上出来だ」
それだけだった。でも、長兄からのその言葉が、何よりも重かった。
フィンは少し離れたところに立っていて、私と目が合うと小さく頷いた。言葉はなかったが、十分だった。
その後、王家はさらに苦しくなった。
エドワードが止めた物流の影響が本格的に出始めたのは、それから二週間後のこと。王都の市場では特定の物資の品薄が続き、いくつかの商会が王家への納品を「一時的に困難」と申し出た。表向きはそれぞれに理由があった。でも実際には、フォーリン商会のネットワークが静かに動いた結果だった。
ルードの元部下たちを通じて広まった情報は、軍の中にも影響を与えた。補給の遅れを実感した現場の将校たちが、上層部に不満を訴え始める。表立った反乱ではない。ただ、静かな不信感が積もっていく。
フィンの方では、魔法省の予算の見直しが議論され始めた。公爵家の支援が細れば、研究も術師の確保も立ち行かなくなる。魔法省の長官が王城に呼ばれて、難しい顔で報告したという話も母の耳に届いた。
「カイル殿下は、今どんな状況なんですか」
ある夜、父に聞いた。
「王家の財政が圧迫されているらしい」父は静かに答えた。「派手な夜会や行事を縮小せざるを得なくなっている。国王陛下も、財務卿も、頭を抱えているようだ」
「……王家そのものが、悪いわけじゃないのに」
「そうだな」
父は否定しなかった。
「王家が悪いのではない。ただ——うちの力を軽く見た。その結果だ」
「カイル殿下の評判は?」
母が茶を注ぎながら答えた。「下がっているわ。婚約破棄の経緯が、少しずつ広まってね」
「広めたの?」
「広まったの」母は澄んだ顔で言う。「私は何もしていないけれど——貴族社会というのは、情報が自然と流れるものでしょう?」
その言い方に、私はもう驚かなかった。母が社交界の中でどれほどの影響力を持っているか、今はもう少しわかっている。何も言わなくても、何もしなくても、母の周囲には情報が集まり、母の周囲から情報が広がる。それが母という人だった。
「マリエ嬢は?」
「カイル殿下と距離を置き始めているらしいわ」
母が静かに続ける。「賢い子ね。情勢を読んでいるのでしょう。愛嬌はあっても、沈みかけた船には乗らないということかしら」
皮肉ではなく、ただの観察として言っていた。
私はしばらく、茶碗を眺めていた。
三週間前、この家に帰ってきた夜のことを思い出す。震える膝で書斎の扉をノックして、叱責を覚悟して、それでも正直に話した。そうしたら——世界がひっくり返った。
怒られると思っていたら、守られた。
追い出されると思っていたら、囲まれた。
この家が重荷になると思っていたら、この家そのものが私の足場だった。
「お父様」
「なんだ」
「私、この家のことを——もっと知りたいんです」
父が少し目を上げた。
「軍のことも、商会のことも、魔法省とのつながりも。私はずっと、何も知らないままここにいた。知ろうともしなかった。でも、これからは……」
言葉を探す。
「この家を支える側に、なりたいんです。守られるだけじゃなくて」
しばらく沈黙があった。父は私を見ていた。あの静かな、揺るぎない目で。
「……そうか」
それだけだった。でも父の口元が、ほんのわずかに——本当にわずかに——緩んだのを、私は見た。あの父が笑う。それがどれほど珍しいか、この家で育ってきた私にはわかる。
「ルード、エドワード、フィン」
父が名前を呼ぶと、三人が顔を上げた。
「リリィを教育しろ。それぞれの分野で」
「了解」とルードが即答する。
「喜んで」とエドワードが笑う。
フィンは無言で頷いた。
その夜遅く、私は自室の窓から夜空を見上げた。
三週間前と同じ空なのに、見え方が違う。あの夜は——婚約破棄された夜は、この空がひどく遠く見えた。足元がなくなったような感覚で、自分がどこに立っているのかわからなかった。
今は違う。
足元に、確かなものがある。
少し後に、扉がノックされた。
「入ってもいい?」
エドワードの声だった。
「どうぞ」
次兄が部屋に入ってきて、窓枠に寄りかかった。手に何か書類を持っている。
「他国との話が、一つ進んでいる」
「他国?」
「東のセレニア王国だ。うちとは長い付き合いで、貿易と外交で深い関係がある。先方の国王から、父上への書簡が届いた」
「……どんな内容?」
エドワードが少し間を置いた。
「リリィ、お前のことを聞いてきた。フォーリン公爵家のご令嬢が自由になったと——向こうにも情報は伝わっているようだ。第二王子が、興味を持っているとか」
「え」
「まだ話が出ただけだ。お前が嫌なら断る。父上もそう言っている」
「私が嫌なら、断る」
繰り返してみると、その言葉の重みが改めてわかった。三年前、王家との婚約を受けたとき——私は「嫌」と言えただろうか。家のためになると思って、父の立場を助けられると思って、半ば自分を押し込めるようにして頷いたのではなかったか。
「……すぐに答えを出さなくていい?」
「当然だ。急かすつもりはない」
「そう。なら——考える」
考える。それだけで良かった。断る権利も、選ぶ権利も、保留する権利も、今の私にはある。
エドワードが出ていって、また一人になった。
窓の外、夜風が木の葉を揺らしている。
私は「守られる存在」だと、ずっと思っていた。公爵家の令嬢として、誰かの役に立てるかどうかだけが自分の価値で、それが果たせなければ——ここにいる意味がないとさえ思っていた。
でも違った。
この家は最初から、私を守っていた。私が気づいていなかっただけで、父も、母も、兄たちも——ずっと、私の側にいた。守られる価値がある存在だと、一度も疑わずに。
「私は"捨てられる側"ではなく——守られる価値がある存在でした」
声に出してみると、少し恥ずかしかった。でも、本当のことだった。
今度は、守られるだけじゃない。
この家が国の基盤なら、私もその一部になる。軍のことを学んで、商会の仕組みを知って、魔法省との繋がりを理解して、母のように社交界を読めるようになって——そしていつか、この家をもっと強くする側に回る。
窓を閉めて、振り返る。
明日から、始めればいい。
長い夜が終わって、窓の外がほんのりと白み始めていた。新しい朝が来ていた——今度は、ちゃんと自分の足で立って迎える朝が。
終幕




