第9話 手紙の一行
鍵束の冷たさは、掌の体温を吸ってもまだ硬いままだった。瑛大はそれを鳴らさないよう指の腹で押さえ、詰所の戸を開ける。
中では、空虹が掲示板の前に立ち、真由梨の書いた紙に目を走らせていた。友樹也は机に肘をつき、指先で木目をなぞっている。琉唯は薪を割る斧を持ったまま、入口へ顔だけ向けた。
光希は、棚の前で布包みを抱えていた。割れたレオパードジャスパーの欠片だ。昨日の夜、掌で温めていた布が、いまは少しだけふくらんで見える。
「戻ったの?」
光希が声をかける。瑛大は頷き、鍵束を机の上に置いた。金属が鳴りそうになって、空虹が反射で手を伸ばし、木の板に当たる直前で押さえる。
「古い鍵束。土の下から」
「土の下……」
友樹也が顔を上げた。軽口の形は作るのに、言葉が見つからないらしく口角だけが上がる。
「埋蔵金? いや、鍵だと、開くものがあるってことだよな」
空虹が息を整えるように一度だけ肩を下ろし、真由梨の紙の端へ木炭を置いた。
「鍵の形を写す。戸棚、床下、地下。順に確認する。……だが、先にやることがある」
空虹は「怒鳴らない」を守るために言葉を短く切る。けれど、短いほど刺さることもある。室内の空気が、また硬くなりかけた。
その硬さを、光希が手のひらでそっと撫でる。
「先に、紙を配っていい?」
光希は棚から薄い紙を取り出した。新品ではない。裏に線が残っていたり、端が少し破れていたりする。けれど、どれも丁寧に重ねられている。
「配給表?」
友樹也が言うと、光希は首を振った。
「手紙。短いのでいい。宛先は、生きてる人でも、もう会えない人でも。……読むかどうかも、自由」
琉唯が斧の柄で頭を掻いた。
「手紙で、何が変わる」
空虹が口を開きかける。だが光希は、反論より先に、琉唯の手元の斧へ目を向けた。
「さっき、薪を割ってくれてたよね。斧の振り下ろし、一定だった。あれがあると火が消えない。だから、今夜の灯りが保てる」
琉唯は「は?」と言いかけて、言葉を飲んだ。褒められたのに戸惑っている。斧を壁へ立てかけ、紙を一枚受け取った。
真由梨も紙を受け取る。遅れてきたのに、受け取る手が一番早い。友樹也は、紙を鼻先へ近づけて匂いを嗅いだ。
「紙の匂いってさ、安心するよな。食えるもんじゃないけど」
「食うな」
空虹が即座に返す。友樹也は肩をすくめ、炭を借りた。
瑛大は紙の山を見て、光希の顔を見た。
「どうして、手紙?」
光希は布包みを机の端へ置き、欠片をそっと取り出す。斑模様が灯りを拾って、瞳のように揺れる。
「昨日、瑛大が『助かった』って言ったとき、欠片が温かくなったでしょ。……結界って、立派な宣言より、誰かへ向けた一言で厚くなる。ここに書く言葉は、その一言に近いと思う」
空虹が紙に視線を落とした。
「読み上げるのか」
「読み上げたい人が、読み上げていい。でも……今夜は、瑛大に読んでほしい」
光希がそう言うと、室内の視線が瑛大へ集まった。瑛大は咳払いで逃げず、頷いた。
「わかった。読む。……その代わり、無理に書かなくてもいい。白紙でも、折ってポケットに入れててもいい」
継司の姿が、入口の影にあった。いつの間に戻ってきたのか、気配が薄い。鍵束を見てから、視線を紙へ移し、また床へ落とす。
瑛大は継司の近くへ行き、紙を一枚差し出した。
「継司。宛先は、決めなくていい。……まず、名前だけでも」
継司は受け取らない。けれど、瑛大の手の紙を見つめたまま、指先がわずかに動いた。
光希は何も言わず、別の紙を机へ置き、炭を短く折った。折れた炭は、筆圧が弱くても線が出る。
昼のうちは、鍵の形を写し、戸棚と床下を確認した。友樹也は「ここ、湿ってる」と床板の隙を指で押し、真由梨は「記録、残す」と紙に丸をつける。空虹は手順を三つに絞って掲示し、琉唯は力仕事を黙って終わらせた。
本は見つからない。
だからこそ、夜が来た。
詰所の灯油ランプを一つだけ残し、窓の布を閉める。外の霧は薄いが、境目が曖昧で、柵の外に白い海が広がっているように見えた。
皆は机を囲み、紙を膝に置いた。折られた紙、丸められた紙、端を噛みそうになって慌てて離した紙。どれも形が違う。
瑛大は、光希から布包みを受け取り、欠片を机の中央に置いた。斑が灯りの中で、まばたきのように揺れる。
「じゃあ……僕が読む。名前は、読まない。宛先も、読まない。書いた人が言っていいときだけ、言う」
空虹が頷いた。規律の読み上げより、声が少し柔らかい。
最初の紙は、真由梨のものだった。瑛大が開くと、文字がきっちり詰まっている。だが、短い。
「……『明日、井戸の縄を張り替える。転ぶな。』」
友樹也が吹き出した。
「宛先、誰だよ」
真由梨は肩をすくめた。
「私」
笑いが起きた。乾いた笑いではない。湯気のある笑いだ。
次は友樹也。
「……『怖いって言うと、怒られそうだから、鼻で当てる。今日の霧は、酸っぱい。あんたの機嫌も酸っぱい。だから、湯を飲め。』」
空虹が「機嫌は酸っぱくない」と言い、友樹也が「じゃあ霧だけだ」と返す。琉唯が小さく鼻で笑った。
琉唯の紙は、文字が大きい。行が斜めに走っている。
「……『殴られるのは俺でいい。前に出るのは俺でいい。だから、後ろで泣くな。』」
読み終えた瞬間、琉唯が目を逸らした。光希がそれ以上見ないふりをして、指先で欠片を包む布を整える。
空虹の紙は、最初の一行が手順のようだった。
「……『一、遅れるなら理由を言う。二、怒鳴る前に息を吐く。三、守る人の名前を言う。』」
空虹はそこで止まった。続きを言わない。瑛大は紙の端へ目をやる。
下に、小さく付け足しがある。
「……『守る人が増えた。だから、私も変える。』」
空虹は、机の木目を見つめたまま、頷いた。
光希の紙は、字が少し揺れていた。震えではなく、迷いが線になっている。
「……『あなたの得意は、あなたが思うより強い。私が先に言う。畑を見てくれたこと、配給を回してくれたこと、黙って火を守ってくれたこと。……ありがとう。』」
瑛大はそこで止めた。光希が小さく首を振る。
「最後まで」
瑛大は続きを読む。
「……『今日、私は怖かった。だから、言葉を渡す。君に届きますように。』」
欠片が、ふっと温かくなった。灯油の熱ではない。掌を当てなくても、空気が変わる。
斑模様が、まるで瞳のように開いて、机の上の影を映した。皆の顔が、ほんの少しだけ照らされる。見張り台の外から吹いていた白い気配が、戸の隙間で立ち止まった。
瑛大は、最後の一枚を見た。
紙は折られていない。丸められてもいない。端が破れている。炭の線は太く、何度も書き直した跡がある。
宛先の欄には、名前がない。
けれど、文がある。
「……『守りたい。選びたくない。』」
瑛大は読み上げたあと、継司を見た。継司は相変わらず視線を合わせない。だが、指先が膝の上で紙を握っている。
瑛大は、紙を机の中央へ戻し、欠片の横へ置いた。
「今夜は、これでいい。……明日の朝、柵の外の霧を見よう」
灯を落とすと、窓の布の隙間から星が一つ、瞬いた。塩湖の上の暗さが、少しだけ澄んで見える。
友樹也が小声で言う。
「なあ。いま、霧……引いた?」
誰も即答しない。耳を澄ますと、外の湿地の呼吸が遠くなっている。怒鳴り声ではなく、笑い声と、短い言葉が、戸の内側に残っている。
瑛大は頷き、暗い中でもわかるように、わざと大げさに深呼吸をした。
「引いた。……一晩だけでも、道が狭まった」
光希が、欠片を布に包み直す。その手が、さっきより迷わない。
継司は立ち上がり、戸へ向かった。出ていくのかと思った瞬間、振り返らずに言った。
「……明日。鍵、持っていく」
それだけで、瑛大は笑ってしまった。笑い声は小さい。けれど、そこに熱があった。
「うん。鳴らさないように、ね」
返事はない。けれど、戸の外へ出る前に、鍵束が一度だけ、ことり、と優しく鳴った。




