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失われた物語の結界――沢山咸辺境開拓団の手紙  作者: 聖稲


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第8話 消えた本と沈黙の背中

 夜明けの風が、塩湖の匂いを薄く運んできた。詰所の板壁は冷えていて、指先を当てると小さく跳ね返る。


 瑛大は名簿を机に置かず、立ったまま一人ずつ目を見る。まだ眠い顔も、眠れなかった顔も混じっている。


 「おはよう。……光希」

 「はい」

 「友樹也」

 「はいっす」

 「真由梨」


 返事がない。


 空虹が紙をめくり、同じ順番で呼ぶ。


 「真由梨。返答」


 琉唯が「またか」と小さく言い、友樹也が「寝坊の天才」と笑いかけた。笑いは広がりきらず、途中で止まる。外の白い靄が、窓の隙間で細く揺れている。


 瑛大は笑いを作る代わりに、机の脇の戸を指した。


 「点呼のあと、昨夜の『失われた物語』をもう一回見る。欠けたところの前後を確かめたい」


 空虹は頷き、戸の前へ先に立つ。戸は腰の高さの小さな木戸で、留め金に鍵が付いていた。昨夜、継司が鳴らさないように回して、空虹が最後に確かめた。


 「灯りを寄せる。触るのは一人。記録はその場」


 言いながら、空虹は掌で留め金を押さえ、鍵穴の縁をなぞった。爪の先に塩の粉がつく。鍵を回す音が、いつもより大きく聞こえた。


 木戸が開く。


 中は空だった。


 布の上に置いたはずの革表紙がない。塩がこびりついた角も、湿った紙の匂いも、そこだけ抜け落ちている。


 友樹也が息を呑んだ。鼻が勝手に動く。鉄っぽい匂いが、薄く戻ってきた。


 「……ない。ないっすよ。え、え?」


 琉唯が一歩前へ出て、棚板を指で叩いた。


 「誰か、持ってった」


 空虹は戸を閉めず、むしろ大きく開けたまま、詰所の入口へ向かって声を通した。


 「全員、外へ出るな。詰所内の捜索を行う。持ち物は、机の上に置く。二名ずつ確認。……理由は、今説明する」


 誰かが「疑ってんのか」と言いかけて、言葉が喉でつかえた。白い靄が、床を這うみたいに薄く入り込み、舌の奥をしょっぱくする。


 空虹は、怒鳴らない。紙を掲示板に貼り付け、木炭で大きく書いた。


 『本がない=結界の文が減る。怒哀が増える。』


 最後の一行だけ、少し強く書き直す。


 『だから、今は探す。誰も置き去りにしない。』


 瑛大は、その背中を見てから、皆へ言う。


 「空虹さんの言い方で、助かる。……探そう。責めるためじゃない。取り返すために」


 友樹也が「奪還、ってやつっすね」と笑おうとして、口の端が引きつった。胸の鼓動が速くなる。昨夜の欠片の温かさが、思い出の中で揺れる。


 光希は布包みを胸に押さえた。欠片は冷たくない。けれど、落ち着いた温かさでもない。小さな火が、居場所を失って探しているみたいだった。


 「……鍵は、壊されてない?」


 光希が尋ねると、空虹は留め金を見せた。木の削れは少ない。錆もいつも通りだ。


 「壊されていない。つまり、鍵で開けた可能性が高い」


 空虹の視線が、一瞬だけ継司に行った。継司は鍵束の重みを腰に押し当てる癖で、指の腹を動かした。金属は鳴らない。鳴らさない分だけ、息の音が目立つ。


 琉唯が継司へ歩き出しかけた。瑛大がその前へ、半歩だけ出る。


 「琉唯、棚を壊す前に探そう。壊したら、次にしまえなくなる」


 「壊すつもりじゃねえ。……でも、腹が立つ」


 「腹が立つのは、正しい。だから、言葉の刃はこっちへ向けよう。探す手に」


 瑛大がそう言うと、琉唯は拳を開いて、代わりに縄を握った。握った縄が、ぎゅっと鳴る。


 捜索は、真由梨がいないまま始まった。空虹が二名の組み合わせを板に書き、瑛大が「手の大きい人は棚の奥、目のいい人は紙の束」と言い、光希が「重い袋は二人で」と声を足した。


 友樹也が戸を開けた瞬間、古い埃の匂いが顔へ跳ねた。思わず「へくし」と小さなくしゃみが出る。緊張した空気の中で妙に間の抜けた音が響き、瑛大が口元だけ笑った。


 友樹也は地下への戸の前で立ち止まり、鼻をひくつかせた。


 「地下、湿ってる匂い。……昨夜と同じ。けど、本の匂いは、今、ここにない」


 空虹が頷き、合図を短くする。


 「地下、確認。二名」


 継司が無言で鍵を差し込み、灯りを受け取る。友樹也はついていくが、階段を降りても革と紙の匂いは戻らなかった。棚の奥の影も、からっぽのままだ。


 上へ戻った頃、入口の戸が小さく鳴った。


 「おはよ」


 真由梨が、水桶を片手に入ってきた。息は切れていない。髪に霜が少しだけついている。


 空虹が「遅刻」と言いかけて、今の状況を思い出した顔になる。


 「真由梨。どこへ」


 「井戸の滑り止め。昨日、縄が緩んでた。今朝は凍る」


 真由梨は桶を置き、濡れた手を布で拭くと、掲示板の文字を一息で読んだ。


 「本が消えた。鍵は壊されてない。……持ち物検め、してる」


 言いながら、紙を一枚引き抜き、机の端へ置く。木炭を握り、手順を書き始めた。


 「場所。人。時間。最後に見た人。鍵を触った人。……ここを埋めると、怒鳴る暇がなくなる」


 友樹也が「それ、助かる」と言い、空虹が無言で紙を押さえた。琉唯は「怒鳴る暇、いらねえ」と呟き、光希は真由梨の書いた『最後に見た人』の欄へ視線を落とした。


 昨夜、最後に本の留め金を確かめたのは空虹だ。鍵を回したのは継司で、音を立てないように指を添えていた。


 継司は、その欄を見ない。


 瑛大は、皆の手が動いている間に、そっと継司のそばへ寄った。声は小さく、空虹の書く木炭の音に紛れる。


 「継司。……外で、二人で話そう」


 継司は返事をしない。けれど、鍵束を腰から外し、机の上に置いた。金属が鳴りそうで鳴らない。指の腹で押さえたまま、立ち上がる。


 二人で外へ出ると、柵の向こうの湿地が白く息を吐いていた。空は薄い水色で、太陽はまだ低い。塩湖の水面が、遠くで銀に光る。


 瑛大は柵から少し離れ、足元の土を踏みしめた。凍った表面が、きし、と鳴る。


 「昨日、鍵を鳴らさずに閉めてくれて助かった。……今朝は、僕のほうが助けてほしい」


 継司は視線を逸らし、柵の外へ向けた。背中が固い。言葉がそこだけで止まっている。


 瑛大は笑顔を作ろうとして、途中でやめた。作った笑顔が嘘になるのが嫌だった。


 「守りたいなら、守り方を言葉にしてくれ。誰を守りたい。何を守りたい。……どうやって」


 継司の喉が一度だけ動いた。けれど、声は出ない。代わりに、膝をつき、凍った土を指で削り始めた。


 「……そこ、何が」


 瑛大が言いかけたとき、土の下から布が出た。さらに掘ると、小さな木箱が現れる。箱の角は湿って黒ずみ、塩の粒が白く固まっていた。


 継司は蓋を開け、錆びた鍵束を取り出した。


 今の詰所の鍵束とは違う。形が古い。重い。一本だけ、歯が欠けている。


 継司はそれを瑛大の掌へ落とす。


 金属が、ことり、と鳴った。


 継司は何も言わないまま立ち上がり、詰所のほうへ歩き出した。背中は振り返らない。朝の白い靄が、その背中の輪郭だけを薄くぼかしていく。


 瑛大は掌の中の冷たい重みを見つめ、継司の名前を一度だけ呼んだ。


 「継司」


 歩みは止まらない。


 瑛大は鍵束を握り直した。鳴らないように、指の腹で押さえる。その仕草が、さっきの継司と同じだと気づいて、息を吸った。


 これは、守り方の言葉の代わりなのか。


 それとも、沈黙のまま渡された、次の扉の場所なのか。



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