第7話 言葉が石に染みる夜
日が沈むと、沢山咸の空は急に広くなる。塩湖の水面が薄い銀色になり、湿地の向こうから冷えがじわりと這ってきた。
昼のあいだに、柵の隙間へ布を足し、縄を締め直した。真由梨が結び目の位置を紙に描き、空虹が「次の交代はここから」と指で示し、琉唯が黙って力を入れた。友樹也は「霧さん、こっち見ないで」と笑ってみせたが、鼻先の鉄の匂いは消えなかった。
夕餉の塩粥が、木椀の底でとろりと揺れる。炊事場の火は弱めにしてあるのに、皆の頬だけ赤い。疲れているのに寝付けない顔が混じっている。
泥のついた靴をそろえる板が狭くて、誰かが外へ出ようとして床を汚した。空虹は怒鳴らず、棚から雑巾を取り出して差し出す。琉唯が受け取り、乱暴に拭く。力任せで板がきしみ、塩の粉が舞った。
真由梨が椀を持ったまま言う。
「力は足りてる。角度が足りない」
琉唯は雑巾を止め、眉だけ動かしてから、言われた通りに手首の角度を変えた。汚れがすっと取れて、空虹が小さく頷く。
光希は配る手を止めずに、膝の上の布包みを指で押さえた。欠片は昼ほど冷えていない。怒鳴り声が減った分だけ、ここが少し静かになったせいだと、勝手に思ってしまう。
友樹也は塩粥を一口飲み込み、喉が少しだけほどけたのを確かめてから、わざと大きく咳払いをした。
「今日、木橋、落ちなくてよかったっすね」
誰に向けたでもない言葉なのに、あちこちから小さな『ほんと』が返った。瑛大は食器を戻しながら、机の端に木炭と紙をそっと置いた。
空虹が椀を置き、掲示板の前に立った。
「夜間の見張りは二名。柵の外へは必ず二名以上。合図は短く。……復唱」
誰かが「二名」と言い、別の誰かが「短く」と返す。声が乾いて、口の中の塩が白くなる。復唱しても、安心が増えない。
空虹自身も、そのことに気づいたらしかった。紙の端をつまみ直し、同じ文をもう一度言おうとして、途中で止まる。
「……規律は、守るため。怖がらせるためじゃない」
言い終えるとき、空虹は自分の喉を一度だけ指で押さえた。乾いた音が、胸の奥まで響いた。
瑛大が湯飲みを持ったまま、机の端へ腰を下ろした。笑顔は薄い。けれど目線は逃げない。
「昼に言ったこと、やります。今日助かったことを一つだけ。相手の顔を見て言う。……短くでいい」
椀の縁を指でなぞっていた人の手が止まった。空虹が「手順は」と言いかけて、唇を閉じる。
瑛大は、先に自分から始めた。
「琉唯。今朝、前に立ってくれて助かった。拳が出そうな空気が、止まった」
琉唯は椀を持ち上げる途中で止まり、頬の傷に触れそうになって、指を引っ込めた。
「……ああ」
それだけの返事なのに、椅子の背が少しだけ軋む。琉唯の足が床に深く据わる。
次に瑛大は空虹を見る。
「空虹さん。紙に書いて、同じ言葉を繰り返してくれたから、皆が迷子にならなかった。……僕は、あれが助かりました」
空虹は一拍置き、視線を掲示板から瑛大へ移した。
「……今夜も繰り返す。怖いときほど、短く」
言い方が少し柔らかい。誰かが、息を吐いて笑いを落とした。
光希は布包みを膝に置いたまま、皆の顔を見回した。自分が指名する前に、真由梨が淡々と口を開く。
「空虹。昼、怒鳴らなかったの、助かった。怒鳴ったら、私も怒鳴ってた」
空虹の眉が動く。
「怒鳴るのは得策じゃない」
「得策じゃない、って言い方が、逆に笑える」
真由梨は本当に笑っていない顔で言うから、周りが先に笑った。空気が少しだけ軽くなる。
友樹也がその勢いに乗ろうとして、指で自分の鼻をこすった。
「えーと……光希さん。俺、朝から喉が尖ってたのに、いちいち責めないで『薪割ってた』とか言ってくれて……あれ、助かったっす。俺、怒鳴るとあとで胃が痛くなるんで」
「胃が痛くなるの、知ってたの?」
光希が目を丸くすると、友樹也は肩をすくめた。
「知らないっす。今言ってみたら、ほんとに痛くなりそうで」
笑いがまた一つ落ちる。
光希は小さく息を吸い、今度は継司へ向けて言った。
「継司。昨夜、鍵を鳴らさないで戸を閉めてくれてた。……音が少ないと、皆が眠れる。私は、それが助かった」
継司の指が膝の上で動いた。鍵束を触りたいのに触れない形で、空を握る。
「……うるさい音は、嫌いだ」
短い言葉が机の上に落ち、誰も拾わずに置いた。拾わないほうが、重さが残った。
そのとき、光希の膝の上の布包みが、ふっと温かくなった。
熱ではない。手のひらに当たる呼吸みたいな温度。光希が布を少しだけずらすと、レオパードジャスパーの欠片の斑が、灯油ランプの光を吸って、ほんのり金色に滲んだ。
机の上に置くと、欠片が「ことり」と鳴った。石なのに、鈴みたいな音だった。
瑛大が眉を上げる。
「……光ってる?」
光希は否定しかけて、口を閉じた。確かに、欠片の中に小さな火がある。斑が、瞳のように開いて閉じる。
友樹也が覗き込み、喉を鳴らした。
「やべ……胸、速い」
「熱でも出た?」
真由梨が淡々と聞く。
「違うっす。……なんか、こう……ドキドキする物語みたいだなって」
言った瞬間、友樹也の耳が赤くなった。自分で言って照れている。琉唯が鼻で笑う。
「お前、物語とか言うんだな」
「言わないっすよ。今だけっすよ」
言い訳の声が弾む。欠片の光も、それに合わせるみたいに、ふっと強くなってから落ち着いた。
空虹が欠片と皆の顔を交互に見た。
「……規律の復唱より、今のほうが効く」
誰も反論しない。反論する言葉が、霧の方へ吸われずに、ちゃんと机の上に残っている。
瑛大は欠片のそばに、紙と木炭を置いた。
「今日の『助かった』を、ここに書こう。短くでいい。宛先は、言った相手の名前」
光希は頷いて、最初の一行を自分で書いた。
――瑛大へ。朝、名前を呼んでくれて助かった。
書き終えた瞬間、欠片がもう一度だけ温かくなった。紙の上の炭の黒が、少しだけ濃く見える。
皆が順番に書き始めると、筆圧の癖がはっきり出た。真由梨は線が細いのに迷いがなく、琉唯は字が歪んでいるのに最後まで途切れない。空虹は同じ大きさで揃え、友樹也は途中で「これ、漢字合ってる?」と小声で聞いて、光希が指で直した。継司は一行だけ書いて、紙の端を指で押さえ続けた。
書かれた言葉が増えるほど、室内の冷えが薄くなる。外の湿地の匂いは残っているのに、鉄の匂いが一歩引いた。
片づけが始まるころ、光希は布包みを抱えて地下へ降りた。灯油ランプを片手に、古い棚の前へしゃがみこむ。『失われた物語』の欠けた章が結界の文なら、それを補うための書付が、どこかに残っているはずだ。
棚の奥は湿っていて、指先が冷える。光希は箱を一つずつ引き出し、紙の角を確かめる。釘の錆。縄の切れ端。昔の配給札。使い込まれた羽根ペン。
最後の引き出しの底に、薄い板が一枚、わずかに浮いていた。光希が爪を差し込み、そっと持ち上げると、下から折り畳まれた紙が出てくる。
『結界術 核に刻む文は、口で読む前に、誰かへ向けて書け』
短い覚え書きだった。筆跡は荒く、急いで書いた線が震えている。けれど、その文だけは真っ直ぐだった。
光希は紙を胸に当て、階段を上がる。
詰所の食堂では、皆が寝床へ散る前の片づけをしていた。瑛大が桶を持ち、空虹が火を落とし、真由梨が縄の束をまとめ、琉唯が椅子を逆さにして床を掃く。友樹也は欠片の布を抱え、落とさないようにそろそろ歩く。継司は戸口で鍵の音が鳴らないように指を添え、外の闇を一瞬だけ見た。
柵の外に白いものはまだある。だが、今夜は、こちらへ寄ってこない。
光希は欠片の布をそっと撫で、さっき書いた一行を思い出した。
宛先のある言葉は、紙にも石にも、ちゃんと染みる。




