第6話 怒哀が笑いを奪う
翌朝、塩湖の向こうがうっすら明るくなったころ、詰所の庭が白く滲んだ。
柵の外に溜まるはずの霧が、木の隙間をすり抜けて内側へ流れ込む。湿地の冷えが足首へ絡みつき、鼻の奥に鉄の匂いが刺さった。息を吸うたび胸の奥がざらついて、言葉が喉で引っかかる。
見張りの交代の鐘が鳴り、板床を踏む靴音が揃った。瑛大は戸口に立って、庭の白さを目で追う。笑顔を作ろうとしても頬が重い。代わりに、ひとつ深呼吸してから室内へ戻った。
炊事場では真由梨が塩粥をよそい、光希が木椀を手渡していた。湯気の匂いはいつもと同じなのに、鼻の奥へ残る鉄っぽさが消えない。火の近くは暖かいのに、空気だけが冷たい。
友樹也が鼻をひくつかせ、笑ってみせた。
「柵の中まで来るとか、図々しいっすね。規律で追い返せないんすか」
冗談のつもりだったのに、声の端が尖った。言い終えた途端、後悔が膨らんで喉が熱くなる。笑いを置くはずの場所に、針だけが残った。
空虹が椀を置いた音が硬く鳴った。
「言い方を選べ。規律は人のためだ」
友樹也は頷きかけたのに、霧の冷えが胸を掻いた。
「人のためでも、息が苦しいっすよ」
言ってしまった。閉じた口の中で、舌の上に刺が残る。戸口の隙間で霧が揺れ、言葉の角だけを拾って、さらに尖らせる。
机の向こうで、年上の団員がぼそりと言った。
「昨日の革の本だ。あれを開いたから、霧が柵を越えたんじゃないのか」
『失われた物語』の四文字を思い出した瞬間、食堂の空気が一段冷えた。
継司は椅子の背を掴んだ。鍵束を腰に押し当てる癖が出る。金属が鳴らないように、指の腹で押さえ込んでいる。
「関係ない」
短い否定が火花みたいに落ちた。
「関係ないなら、なんで鍵を持ってる。なんで一人で地下へ行った」
誰かの声が荒い。怒っているのに、震えている。霧が頬へ貼りつき、過去の後悔を引っ張り出すみたいに胸が痛む。
継司の瞳が一瞬だけ揺れた。逃げたいのに逃げられない顔だった。光希はその揺れを見て、木椀を握る手に力が入るのを感じた。
空虹が立ち上がった。
「確認は手順を――」
「手順、手順って、今は喉が痛いんだよ」
吐き捨てた本人が、言い終えて顔を歪めた。涙がこぼれそうで、拳が先に固くなる。
瑛大は一歩前へ出た。笑顔を作る前に、まず声の高さを落とす。
「みんな、今は朝の配給を終える。話すなら椀を置いてから」
それでも言葉が止まらない。霧が音を吸って、怒鳴り声だけを残していくみたいだった。
瑛大は、その場で自分の頬を軽く叩いた。
ぱん、と乾いた音がして、視線が一斉に集まる。瑛大は口角を上げ、笑顔の形を作った。頬が痛い。痛いのに、今はその痛みが目印になる。
「みんな、名前を呼ばせて。ここに戻るために。……友樹也」
「……はい」
「空虹さん」
「はい」
瑛大は一息置いて、継司を見る。鍵束を握る手が白い。
「継司。返事だけでいい。ここにいる」
「……はい」
返事が落ちた瞬間、霧が一度だけ揺れて、戸口の外へ引いた気がした。
それでも、机の前で誰かが継司へ詰め寄ろうとした。腕が伸び、肩が前へ出る。
琉唯が、その人の前へ出た。
「やめとけ」
「どけ」
「どかねえ」
押される。琉唯は足裏を床へねじ込む。拳が頬へ飛び、鈍い音がした。口の端が切れて、鉄の味がじわりと広がる。
琉唯は反撃しない。まぶたを一度閉じて、開く。
「殴るなら俺を殴れ。そいつに当てるな」
殴った側の手が震え、息が詰まった。怒りだけじゃない。哀しみのほうが重い。
光希がその人の前へしゃがみ込み、目線を合わせた。
「今、胸が痛い? 眠れてない?」
返事の代わりに、涙が一滴落ちた。泣くまいとして、肩がかたくなる。
光希は責めない。代わりに、ここで確かに起きたことを並べる。
「あなたは今朝、薪を割って火を守ってた。だから塩粥が温かい。友樹也は匂いに気づいた。真由梨は危ない木橋を塞いだ。空虹は手順を繰り返して皆を迷わせない。琉唯は今も前に立つ。継司は鍵を鳴らさずに戸を閉めて、夜の不安を増やさない」
名前と仕事が並ぶたび、霧の冷えが薄まった。殴った人の肩が、少しだけ下がる。
「……ごめん」
小さな声が落ちた。琉唯は頬を拭い、血の味を飲み込んでから鼻で息を吐く。
「次は拳じゃなくて、口で言え。口のほうが重い」
空虹は掲示板へ向かい、紙に太く書いた。
「霧が濃いときは、名前で呼ぶ。火の近くへ。拳を出さない」
書いたあと、自分の口でもう一度繰り返す。
「名前で呼ぶ。拳を出さない」
友樹也は木椀を両手で包み直した。
「空虹さん、さっきの言い方……悪かったっす」
空虹は湯飲みを一口すすり、短く言った。
「今の謝罪は受け取る。次に同じ言い方をしないと決めろ」
瑛大は皆を見回した。笑顔をほどくと、頬の痛みが戻る。だからもう一度だけ口角を上げ、声を落ち着かせる。
「昼、失われた物語の欠落位置をもう一度確かめよう。責めるためじゃない。欠けた章を探すために。……それまでに、柵の隙間に布を足そう。二人組で、縄を締め直す。霧が入る道を減らす」
真由梨が無言で頷き、縄の束を持ち上げた。空虹は「二人」と書き足し、琉唯は口の端の血を指で拭ってから縄を受け取る。
光希は胸元の布包みを指で押さえた。レオパードジャスパーの欠片が、さっきより少し温かい。怒鳴り声が減った分だけ、石が呼吸を取り戻したみたいだった。
戸口の外で、霧が柵の隙間へ戻っていく。完全には消えない。けれど、こちらの言葉と手の動きに押されて一歩引いた。
瑛大は最後に、皆へ向けて言う。
「帰ってきたら、今日助かったことを一つだけ言おう。短くでいい。……それを忘れなければ、霧に笑いを奪われても、取り返せる」
塩の匂いの中で、生活の音が戻り始めた。
外へ出ると、霧は庭の地面を這っていた。縄を握ると冷たく、指がかじかむ。真由梨が結び目の位置を示し、空虹が「左から三枚」と具体を言う。布が風を受けてぱたぱた鳴り、白い靄がその音に怯えるみたいに引いた。
友樹也は笑いを作ろうとして、わざと大げさに息を吐いた。
「ほら、霧さん。ここから先は入場禁止っすよ。……って言うと、怒るっすかね」
誰も大笑いはしない。それでも瑛大が肩をすくめ、光希が小さく口角を上げた。その瞬間、友樹也の胸のざらつきが、ほんの少しだけほどける。
琉唯が結び目を締めた拍子に頬の傷が開き、赤がにじんだ。光希は布を取り出し、そっと押さえる。
「動くと開く。帰ったら、もう一回洗う」
「わかった」
短い返事が、朝の風に紛れた。霧はまだいる。けれど、彼らの手は止まらない。
瑛大は琉唯の頬の赤を見て、視線を逸らさずに言った。
「さっき、前に立ってくれてありがとう。……痛いだろ」
「痛い。だから、もう殴らせない」
琉唯の返事は乱暴じゃない。ただ、まっすぐだった。瑛大はそのまっすぐさに背中を押され、もう一度だけ皆の名を心の中で呼んだ。
遠くで朝の鳥が鳴き、塩湖の水面が白く光る。いつもの朝と同じ景色が、ようやく戻ってきた気がした。




