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失われた物語の結界――沢山咸辺境開拓団の手紙  作者: 聖稲


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第5話 地下棚の一冊

 昼の作業がひと段落して、詰所の板壁がきしむ音も落ち着いた頃だった。柵の補強用の縄を束ね、釘を数えて、空虹が掲示板の前で鈴を鳴らす。


 「縄の予備が足りない。地下の保管棚を確認する。灯火を持て。湿気で滑る。転ぶな」


 言い終わると、空虹は自分の手で掲示板に「地下」「灯火」「二名」と書き足した。書く順番も、いつも同じだ。


 瑛大は、みんなの顔を見回しながら言った。


 「友樹也、匂いの変化、気になってるよね。地下は空気がこもる。僕が行きたいけど、上の縄の締め直しもある。……一人じゃなくて、誰かと」


 友樹也は「俺、地下苦手っす」と言いかけて、舌を噛んだ。苦手だと口にした瞬間、何かに負けた気がするのが嫌だった。


 「行きます。灯りも持つ。……ええと、誰か、付き合って」


 琉唯が手を挙げそうになり、空虹に視線で止められた。代わりに、継司が鍵束を揺らさずに一歩出た。


 「鍵が要る。俺が行く」


 声は小さい。けれど、鍵を持つ指は迷っていない。


 地下への戸は、炊事場の奥にあった。板を二枚重ねた簡素な扉で、取っ手は手の汗で黒ずんでいる。継司が鍵を差し込み、ゆっくり回す。金具が鳴る寸前で止めて、最後だけ指で押さえて外した。


 「音、立てない派っすね」


 友樹也が冗談にしてみせると、継司は返事をしない。代わりに、灯油ランプの火を見ている。炎が揺れるたび、継司の瞳の奥が少しだけ陰る。


 階段は狭く、踏み板が湿っていた。下へ降りるほど、塩の匂いが薄くなり、代わりに古い木とカビの匂いが強くなる。友樹也は鼻を動かし、胸の奥のざらつきを数えて落ち着こうとした。


 地下の天井は低い。頭をぶつけないように腰をかがめると、息が自分の耳に返ってくる。壁沿いに棚が並び、縄、釘、布、空の瓶、壊れた工具。どれも「いつか使う」と言いながら忘れられた顔をしている。


 継司は迷わず棚の一番奥へ向かった。鍵束を腰に押し当てるようにして、手を伸ばす。


 「そこ、縄の棚じゃ……」


 友樹也が言いかけて、言葉が消えた。


 棚の影で、継司が革表紙の本を抱えていた。抱えている、というより、胸の前で守っている。灯りの色が革のひび割れを浮かび上がらせ、角には白い粉みたいな塩がこびりついている。


 友樹也は一歩だけ近づき、鼻をひくつかせた。


 「……それ、読むやつっすか。地下で読むと、目ぇ悪くなるやつ」


 自分でも、軽口だと分かった。怖いと、口が先に跳ねる。


 継司は本の背を指でなぞり、何も言わず棚へ戻した。戻す動きが丁寧すぎて、余計に目立つ。棚の木が擦れる音が、湿った空気に吸われて消えた。


 友樹也は、棚の前で立ち尽くした。匂いが、さっきまでのカビだけじゃない。鉄っぽさと、泣いたあとの湿り気。柵の外で嗅いだものと似ている。


 「継司さん。……それ、何なんすか」


 継司はしばらく黙っていた。返事をする代わりに、鍵束を握り直す。金属が鳴りそうで鳴らない。


 「古い本だ。触るな」


 それだけ言うと、継司は棚の上段から縄を二束引き抜いた。目的の物を取った、という顔で。


 「縄は、これで足りる」


 「足りるけど、今のは……」


 友樹也は言葉の続きが見つからず、喉を鳴らした。継司は階段へ向かい、背中で扉を押さえる。


 「上へ戻る」


 その背中の固さが、なぜか腹の底を冷やした。


 詰所へ戻ると、瑛大が縄の結び目を確かめながら、笑顔で誰かに「いい締めだ」と言っていた。友樹也は呼吸を整えてから近づいた。


 「瑛大さん。地下で……継司さんが、変なもん抱えてた」


 自分の言い方が雑だと気づき、すぐ言い直す。


 「革の本。棚の奥。塩がついてた。匂い、柵の外と似てた」


 瑛大は手を止め、友樹也の目を見る。責める顔じゃない。確かめる顔だ。


 「友樹也、教えてくれてありがとう。継司、今夜、皆で確かめたい。いい?」


 呼ばれた継司は、縄を抱えたまま立ち止まった。全員の視線が集まる。空虹が口を開きかけたが、瑛大が先に言葉を置く。


 「原因を探す。誰かを追い詰めるためじゃない。……本が何か、皆で見たい」


 継司は視線を下げた。鍵束の先が、ほんの少し揺れる。拒むなら、今だ。


 「……分かった」


 その一言が、短いのに重く落ちた。


 夜。詰所の食堂は、灯油ランプを二つ並べて明るくした。外は霧が薄く漂い、窓の隙間で白いものがゆらゆら揺れている。火の近くは暖かいのに、床板の下から冷えが上がってくる。


 机の中央に、光希が布を敷いた。真由梨が紙と炭を持ってきて、空虹は「触る人は一人、灯りは二人、記録はその場で」と短く言って、同じ言葉をもう一度繰り返した。


 継司が革表紙の本を置いた。置く瞬間だけ、指が躊躇う。琉唯が「本なんぞ、腹の足しにならねえ」と言いながら、でも目は離していない。


 光希は手袋をはめ、表紙をそっと撫でた。革の割れ目に、塩の粒が白く残っている。


 「ここ、塩が……湿って固まってる」


 光希が言うと、友樹也の鼻が勝手に動いた。鉄と、泣いたあと。胸がきゅっと縮む。


 光希が留め具を外し、ゆっくり開く。紙の匂いが立ち上がった。古いインクと、湿った木と、塩。


 「題名、読める?」


 瑛大が尋ねる。


 光希はランプの光を近づけ、目を細めた。


 「……『失われた物語』」


 その言葉を聞いた瞬間、空虹の背筋が伸びた。真由梨は紙に題名を書き、ページ数の欄を作る。継司は腕を組み、指先が白い。


 光希が一枚、また一枚とめくる。ページの端はところどころ波打ち、塩が結晶みたいに固まっている。指で触れるとざらりとする。


 途中で、光希の手が止まった。


 「……ここ」


 見開きの中央が、ぽっかり空いていた。綴じ糸は残っているのに、紙だけがない。破られた跡が荒い。端に塩がこびりつき、紙の繊維が毛羽立っている。


 友樹也は思わず身を乗り出し、指を伸ばしかけて、空虹の「触るな」で止まった。止まったのに、指先が冷える。


 光希が、欠けた部分の縁を手袋越しにそっとなぞった。


 「冷たい……」


 友樹也は、口の中が急に塩辛くなるのを感じた。指先が、氷を握ったみたいに痛い。息を吸うと、胸の奥がざらざらする。


 「これ、……外の白いのと同じだ。怒って、悲しいやつ」


 自分の声が、少しだけ荒くなる。言い方が尖る。瑛大がすぐに名前で呼んだ。


 「友樹也。今の言葉で十分。吸い込まないように、ゆっくり息して」


 友樹也は、瑛大の目を見て、ようやく肩の力を抜いた。息を吐くと、冷えが指先から少し引く。


 光希は本を閉じずに、欠けた部分の前後を読み取ろうとする。読めない文字があっても、諦めずに指で行を追う。真由梨がその様子を見て、紙に「欠落位置」と書き、前後の章の題を写していく。


 空虹が言う。


 「章が抜けたなら、結界の文も抜ける。……誰が持ち出したか、確認する必要がある」


 言葉が刃になりかける。琉唯が椅子を鳴らして立ち上がりそうになり、瑛大が先に手を上げた。


 「確認する。だけど、今は順番。まず、何が欠けてるか。次に、どう戻すか。……継司、今夜ここに出してくれてありがとう」


 継司は返事をしなかった。けれど、視線だけが一瞬、瑛大へ向いた。すぐ逸れたが、逸れる速さが少し遅い。


 光希が本を抱え直し、布の上に置き直す。


 「欠けてる章があるなら、探す。……誰かが持ち出したなら、理由もある。私は、その理由を聞いてから、どうするか決めたい」


 光希の言葉は柔らかいのに、机の上に真っ直ぐ置かれる。


 窓の外で、霧がふっと濃くなった気がした。白いものが、ガラスの向こうで、こちらを覗くみたいに揺れる。


 友樹也は指先の冷たさを握り込んで、笑いに逃げないように唇を噛んだ。


 今夜、机の上にあるのは本だけじゃない。


 誰かが誰かに向けた言葉が、抜け落ちた穴の形で、ここに置かれている。



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