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失われた物語の結界――沢山咸辺境開拓団の手紙  作者: 聖稲


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第30話 最後の欠落

 詰所の朝は、鍋の音で始まる。真由梨が置いた粥鍋の蓋が、こつ、と鳴った。火の番が薪を一本足すたび、塩の匂いに、米の甘さが少し混じる。夜道で固くなっていた喉が、その匂いだけでほどけそうだった。


 板壁の隙間から、白い光が差し込みはじめる。湿地の冷えはまだ残っているのに、窓の外の塩湖は、朝の風で薄く波を立てている。友樹也が鼻をひくつかせ、空気を確かめるみたいに短く息を吸った。


 「……湖のほう、匂いが強い。さっきより、引っぱられる」


 光希は返事の代わりに、乾かしていた紙をそっと裏返した。昨夜取り返した章は、板の上に並べられ、火から一歩離れた場所で温められている。濡れていた角が波打ち、ところどころ塩の粒が紙に貼りつく。指でこすれば破れそうで、光希は爪を立てず、腹で撫でるように粒を落とした。


 空虹が掲示板から目を離し、机へ来た。皺だらけの紙を胸の袋から出しはしない。代わりに、昨夜の結界文の帳面を指でとんとん叩く。


 「乾いたら、写しを取る。順番を決める。誰が、どこまで読むかも」


 瑛大は頷きながら、琉唯の肩の包帯をもう一度結び直した。琉唯は眉を動かしただけで、痛いとは言わない。けれど、包帯の端を噛むように唇を押さえ、息を一度だけ荒く吐いた。瑛大はその息を見て、声を落とす。


 「琉唯、今朝は見張り台に上がらない。ここで休め。……代わりは俺が上がる」


 琉唯は返事をしない代わりに、槍の柄を床へ置いた。槍がまっすぐ立つ。置き方が乱れていないだけで、「分かった」と言っているみたいだった。


 光希が乾いた紙を揃え、革表紙の本の上に重ねる。失われた物語は、取り戻した章を受け入れるように、静かに口を開けていた。紙が滑り込む音は、布を引く音みたいにやさしい。


 ――けれど。


 光希の指が、途中で止まった。


 そこだけ、文字の流れが途切れている。行の途中がぽっかり白い。前後の文は繋がっているのに、意味が落ちる。結界の文として読むと、肝心の「立てる言葉」が抜けている。紙を何枚めくっても、その一節だけが見つからない。


 光希は目を伏せ、息を整えてから言った。

 「……ここ、足りない。章は戻ったのに、言葉が一つだけ、いない」


 空虹が帳面を開き、指で空白をなぞる。

 「何行目」


 「八行目の途中。……『誰かへ向けた言葉は、石に――』の続き」


 友樹也が鼻を鳴らし、椅子の背にもたれた。

 「うわ。そこ、抜けたら、石がただの石になるやつじゃん」


 瑛大は笑いかけて、途中で止めた。軽くしてはいけない空白がある。怒哀は、そういう空白に入り込む。瑛大は、笑顔を作る代わりに、自分の胸に手を置いた。鼓動が少し速い。昨夜の湿地の続きみたいに、体がまだ緊張を離していない。


 その空白を見ていると、詰所の外から、家畜小屋の戸が鳴る音がした。朝の当番が藁束を運び、山羊が短く鳴く。暮らしは待ってくれない。怒哀が濃くても、腹は減るし、水も汲む。


 瑛大は一度だけ外へ出た。土の上は夜の湿り気を残し、靴底が少し沈む。畑の端では、昨日まで丸まっていた芽が、朝の光に向かってほんの少し背を伸ばしている。小さな命の緑が、怒哀の灰色に負けないように見えた。


 井戸のそばで、小さな子がしゃがみ込み、泥の中から何かを拾い上げていた。光希が夜泣きの鍋蓋の音を作った家の子だ。子は両手で拭い、瑛大へ差し出す。指の腹に、斑模様の小石が乗っていた。


 「これ、目みたい」


 瑛大は受け取り、覗き込んだ。レオパードジャスパーほど大きくないが、斑の丸が確かに瞳に見える。石は冷たい。けれど、握ると、掌の熱がじわりと移る。


 「見つけたのか。すごいな。……ありがとう」

 子は得意げに鼻を鳴らし、すぐに真顔になって、塩湖の方を見た。

 「きり、いや。みんな、けんか、いや」


 瑛大はしゃがみ、子の目線に合わせた。笑ってごまかさず、言葉を選ぶ。

 「嫌って言っていい。怖いって言っていい。言ったら、守り方を考えられる」

 子は少し考え、こくんと頷いた。頷き方が、昨夜の皆の頷きと同じに見えて、瑛大の胸が少しだけ熱くなった。


 戻る途中、光希が畑の水桶を抱えて歩いてきた。瑛大の手の石を見て、光希は膝をつき、子の頭の高さで言う。

 「見つけるのが早いね。あなたの目、助かる。……今度、畑の芽も一緒に見てくれる?」

 子は照れて、母親の影へ隠れた。けれど、隠れたまま、もう一度だけ頷いた。


 「見つけよう。足りない一文を、ちゃんと連れて帰ろう」


 継司が机の端へ、小さな筒を置いた。錆びた金具で閉じられた古い記録筒だ。継司は言葉を少なく、留め金を外した。中から出てきたのは、塩で固まった紙片と、湿った革紐だった。


 継司は紙片を机へ広げ、指で端を押さえた。紙が破れないように、爪を立てない。光希と同じ手つきだ。継司は視線を上げずに言う。


 「……詰所の床下。昔の責任者が残した。『欠けた文は、湖底の洞窟へ沈めた』って」


 空虹の眉が動いた。昨夜の皺の筋が、胸の袋の中で鳴っているような顔だ。

 「湖底。……誰が潜る」


 真由梨が粥の火加減を見ながら、淡々と言った。

 「誰が潜るかは、今決めなくてもいい。まず、湖へ行くかどうかを決める。行くなら、ロープと滑車は要る。井戸の古い滑車、まだ使える」


 友樹也が手を上げ、軽く言う。

 「俺、泳ぎは得意じゃないっす。……いや、得意じゃないって言うと、格好悪いけど。普通に怖いっす」


 言い終えると、友樹也は自分で笑おうとして、笑えなかった。喉が詰まる感じが、そのまま顔に出る。空虹が咳払いをしかけたが、瑛大が先に口を開いた。


 「怖いって言っていい。……俺も怖い」


 詰所の中の空気が、ふっと止まった。瑛大の声は大きくない。けれど、まっすぐで、逃げる音がしなかった。


 瑛大は、机の上の空白へ視線を落とした。

 「霧の中で、言い返して、後で後悔するのも怖い。守れないまま笑ってしまうのも怖い。だから、怖いを隠さないで行こう。隠した瞬間、怒哀がそこに住む」


 光希が頷き、継司の紙片をそっと指で押さえ直した。継司の指先がわずかに震えているのが見えたが、光希はそれを言葉にしない。代わりに、具体的なことを拾った。


 「継司、その筒、見つけてくれてありがとう。……その一文があれば、皆の手が迷わない」


 継司は返事をしない。けれど、紙片の端を押さえる指の力が少しだけ緩んだ。


 琉唯が立ち上がった。包帯の肩を一度だけ動かし、痛みを確かめるみたいに目を細める。それから、瑛大の前へ槍を置いた。槍は、昨夜みたいにまっすぐ立つ。


 「……行くなら、俺も行く」


 短い言葉だ。理屈はない。けれど、槍の影が床に落ちる形は、誰かの前に立つ形だった。


 空虹が、掲示板の方を一度だけ見た。そこには、昨夜貼られなかった紙の場所が空いている。空虹はその空白を見てから、瑛大へ向き直った。


 「行くなら、今日のうちに準備の順序を決める。無茶な順番は、しない」


 「うん。順番は、守るためのものだ」

 瑛大は頷き、光希を見た。

 「光希、最後の欠けた一文。……あれが戻ったら、結界は厚くなるか」


 光希は空白に指を置き、静かに言った。

 「厚くなる。石が、言葉を覚える。覚えた言葉が、土地に読まれる。……だから、取りに行く」


 友樹也が鼻をひくつかせ、窓の外を指差した。

 「匂い、今も湖へ流れてる。怒哀も、そこに集まってる。……放っといたら、ここへ戻ってくる」


 真由梨が粥をよそいながら、皆の器を机に並べた。遅れても慌てない手つきが、今はありがたい。器の湯気が上がり、詰所の空気が少しやわらぐ。瑛大は器を受け取り、皆の顔を見回した。笑顔は作らない。代わりに、名前を呼ぶ。


 「友樹也」

 「はい」

 「真由梨」

 「いるわ」

 「琉唯」

 「……ああ」

 「空虹」

 「いる」

 「継司」

 「……いる」


 最後に、光希が頷いた。


 「行こう」

 瑛大が言うと、誰も大声で返事をしなかった。けれど、それぞれが自分の器を持ち、湯気の向こうで小さく頷いた。怖いは残ったまま。残ったままでも、言葉にした分だけ、霧の入り口が狭くなる気がした。



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