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失われた物語の結界――沢山咸辺境開拓団の手紙  作者: 聖稲


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第4話 割れた核と斑の石

 朝の霧が引ききらないうちに、空虹が鈴を鳴らした。音は乾いているのに、空気は湿っていて、鳴ったあとに冷たさだけが指に残る。


 「柵の外周は昨日の通り。今日は支柱。結界の支えを点検する。二名以上。持ち物、釘、縄、灯火」


 瑛大は名簿を見ずに顔を上げ、並んだ顔を一つずつ確かめた。


 「光希さんは石の保管箱。友樹也は匂いの変化。琉唯は傷と割れ。真由梨は地図と記録。継司は鍵。僕と空虹さんは順番と手順」


 真由梨は返事の前に紙を胸へ押さえた。炭と小刀と、昨日より太い縄まで抱えている。遅刻が当たり前みたいだった人が、今日は最初からそこにいた。


 「今日は早いね」


 光希が言うと、真由梨は肩をすくめた。


 「遅れると、今日はまずい気がした」


 友樹也が鼻をひくつかせ、笑いに変えるタイミングを探してから、やめた。


 「俺も。鉄が濃い。あと……腹の底が、ぎゅってなる」


 瑛大が軽く頷く。


 「ありがとう。じゃあ、早めに見よう」


 詰所の裏手を抜け、低い丘へ向かう。塩湖のほうから吹く風が頬を撫でるたび、舌の奥が白くなる。霧は地面を這い、草の先だけを濡らしていた。


 支柱は、土の盛り上がりに立つ石の杭だった。根元は粘土で固められ、周囲に縄が張られている。縄の結び目は、昨日までぴんと張っていたはずなのに、今日は指一本ぶんだけ弛んで見えた。


 空虹が眉を寄せる。


 「まず縄。誰が最後に締めた」


 継司が鍵束を鳴らさずに差し出した。


 「昨夜、戸締まりのあと……俺が見た。弛みは、なかった」


 声は小さいが、言い切った。瑛大はその言葉を受けて、空虹へ目を向ける。


 「昨夜の時刻、覚えてます?」


 「日没の鈴のあと。見回りが戻って、配給札を片づけた頃」


 空虹は即答した。言葉が早い。早い言葉は、誰かを追い詰める刃にもなる。


 光希は、支柱の脇に据えられた石箱の前に膝をついた。箱は蓋が二重になっていて、外側の金具は錆びている。継司が鍵を差し込み、音を立てないようにひねる。重い金具が、鈍い音で外れた。


 蓋を開けると、冷気がふっと漏れた。


 中にあったのは、斑模様の石――レオパードジャスパーだ。褐色と黒の斑が、まるで瞳の縁取りみたいに輪を作っている。光希は手袋の上から布を敷き、両手でそっと持ち上げようとして、動きを止めた。


 「……割れてる」


 石の中心から、細い線が走っている。線は一本じゃなく、蜘蛛の巣みたいに広がって、欠片がわずかに浮いていた。


 友樹也が一歩引き、鼻を押さえた。


 「うわ。ここから匂い、出てる。鉄……と、なんか、泣いたあとみたいな」


 「泣いたあとって何だ」


 琉唯が鼻で笑い、指を伸ばしかけて、空虹の声に止められる。


 「素手で触るな。記録が先」


 空虹はそう言いながらも、視線は石の割れ目から離れない。口元がきゅっと固い。


 「誰が、石箱の扱いを間違えた」


 言葉が落ちた瞬間、周囲の空気が重くなる。誰かが息を飲み、誰かが視線を逸らした。霧が薄いのに、胸の中だけが曇る。


 瑛大は、石箱の横にしゃがみ込んで、両手のひらを見せた。止める手ではなく、受け止める手。


 「今、責任者を探すと、言葉が荒くなる。まず原因を探しましょう。空虹さん、手順にしましょう」


 空虹が言い返しかけて、唇を噛んだ。瑛大が続ける。


 「いつ、誰が、どこで、何をして、どう割れたか。分かる順に」


 真由梨が紙に線を引き、炭で項目を書いた。口に出さず、手だけが早い。


 「昨夜、石箱を開けた人は」


 瑛大が尋ねる。


 「いない。開けたら必ず二名で記録する。私は見てない」


 空虹が答え、真由梨が頷きながら「開けてない」と紙に書く。


 瑛大は次に、縄の結び目へ手を伸ばした。結び方を触って確かめるのではなく、目で見て、指先で空中をなぞる。


 「結び目は崩れてない。誰かがほどいた形でもない。弛んだだけ」


 友樹也が、ぽつりと言う。


 「弛んだ……って、内側から押されたときも弛む?」


 空虹が睨むが、瑛大が先に頷いた。


 「いい視点。琉唯、割れ目の感触、見てくれる? でも、手袋で」


 琉唯は「めんどくせえ」と言いながら、光希の差し出した厚手の手袋を奪い取った。装着の仕方が雑で、指先が少し余る。


 「これ、俺の手に合ってねえ」


 「合ってないけど、今はそれで」


 光希が笑うと、琉唯は「しゃあねえ」と言って、石の割れ目の縁を指でなぞった。


 その瞬間、琉唯の眉が動いた。


 「……外から叩いた割れじゃない」


 「何が違う」


 空虹の声が少しだけ低くなる。


 「欠片が外へ飛んでねえ。割れ目の縁が、内側から盛り上がってる。押し広げられた感じだ。……ここ」


 琉唯は割れ目の中心を軽く押した。石が、きし、と小さく鳴った。音に、全員が息を止める。


 「やめろ!」


 空虹が叫びかけ、瑛大がすぐ横で「今ので十分」と言って琉唯の手首を押さえた。琉唯は不満そうに舌打ちしながらも、手を引いた。


 友樹也が鼻を動かし、割れ目の上へ顔を寄せるのを我慢しながら言った。


 「ここ、霧の匂いの元だ。柵の外の白いやつと同じ……いや、もっと、怒ってて、悲しい」


 口にした途端、喉がひりつく。自分の声が、少しだけ荒く聞こえた。


 瑛大は友樹也の肩へ手を置き、短く言った。


 「今の言い方で、十分伝わった。ありがとう。吸い込まないように距離を取ろう」


 光希は、割れかけた欠片を布の上へそっと滑らせた。小さな欠片が二つ、ころりと転がり、斑模様が一瞬だけこちらを見た気がした。


 空虹が唇を噛み、石箱の縁を指で叩いた。


 「内側から押すものがあるなら、誰かが近づけた。石箱の鍵は継司が持つ。なら、継司——」


 継司の肩が、ほんのわずかに揺れた。言い返す声が出ない。視線だけが足元へ落ちる。


 その前へ、瑛大が一歩出た。


 「空虹さん。今は『鍵を持ってる人』じゃなくて、『鍵がどう動いたか』を見たい。継司、鍵束、今の状態を見せて」


 継司は頷きもせず、鍵束を差し出した。瑛大は受け取らず、真由梨へ目を向ける。


 「真由梨、鍵の数、記録できる?」


 「できる」


 真由梨は鍵束の形を紙に写し、欠けていないか、摩耗の跡がないか、一本ずつ印をつけた。空虹は黙ってその手元を見守り、言葉を飲み込む。


 琉唯が支柱の根元へ回り、土を踏んで音を確かめた。


 「地面は沈んでねえ。外からぶつけたなら、ここが崩れる。……崩れてない」


 瑛大が頷く。


 「じゃあ、内側。石の中か、石箱の中。光希さん、欠片を安全に包めますか」


 「うん」


 光希は布を広げ、欠片を一つずつ包んだ。布の端を折って、折り目を揃える。手は震えていない。震えないように、折り目を数えている。


 友樹也が、急に妙な顔をした。


 「……なあ。これ、塩粥で固めたら直る?」


 空虹が睨む。


 「ふざけるな」


 友樹也は両手を上げた。


 「違う違う、ふざけてねえ。俺、怖いと余計なこと言う。いま、それ。止めたいのに口が先に出る」


 瑛大が小さく笑った。


 「正直に言えたから、大丈夫。塩粥は……僕の床を白くした話を思い出すから却下」


 その言い方に、光希の口元が少しだけ緩んだ。空虹も、眉の角がほんの少し落ちる。


 瑛大は立ち上がり、手を叩いて音を揃えた。


 「今日の結論。原因はまだ不明。だけど、外からの衝撃じゃない可能性が高い。だから、石箱の周辺は二名で交代監視。支柱の縄は今日中に張り直す。柵の内側の見回りも増やす。……言葉が荒くなりそうになったら、名前で呼び合う」


 空虹が短く頷き、鈴を一回鳴らした。


 「手順、今の通り。掲示板に書く。全員、詰所へ戻る」


 帰り道、霧はまだ地面を這っていた。塩の匂いに混じる鉄の匂いが、少しだけ薄くなった気がする。だが、薄くなった分だけ、割れ目の中の「何か」が近く感じられて、友樹也は唇を噛んだ。


 詰所へ戻ると、皆が縄と釘を準備し始めた。空虹は掲示板へ手順を書き、真由梨は鍵の記録を清書している。瑛大は一人ずつ名前を呼び、作業を渡していく。


 光希は、包んだ欠片を抱えたまま、台所の奥へ入った。炊事場の隅は、薪の熱が残っていて、外より少しだけ暖かい。誰も見ていない。鍋の蓋が小さく鳴る音だけがする。


 光希は布をそっと開き、欠片を掌に乗せた。


 冷たいはずの石が、指の間でわずかにぬるくなる。斑模様が、まるで目を開けるみたいにゆっくり動いた気がした。


 光希は声を出さずに、口の形だけで言う。


 「大丈夫。ここにいる。……ちゃんと、守る」


 掌の中で、石がとくん、と脈を打ったように震えた。瞳の奥へ、知らない誰かの横顔が一瞬だけ映る。涙の跡と、口元の固さ。そこへ、短い言葉が重なる気配。


 光希は布を閉じ、欠片を胸へ抱き直した。


 外の霧が、戸口の隙間でゆらりと揺れる。


 誰かの後悔が、言葉の形を探している。


 光希はそのまま、息を整えた。掌のぬくもりが消えないうちに、皆のいる明るいほうへ戻るために。



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