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失われた物語の結界――沢山咸辺境開拓団の手紙  作者: 聖稲


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第40話 失われた物語が、ここに残る

 春の朝、沢山咸の塩湖から吹く風が、いつもより少しだけ甘かった。詰所の裏の畑では、昨日まで眠っていた畝のあちこちから、同じ高さの芽が一斉に顔を出している。瑛大は手袋を外し、土の温度を確かめるみたいに掌を当てた。


 「揃ったな。……昨日、真由梨さんが『時間を置いた方が増える』って言ってたけど、こういうことか」

 芽の列を見ていた光希が、しゃがんだまま頷く。膝の上には、濡れ布巾で包んだ苗札が何枚も並んでいた。彼女は札を一枚ずつ指で整え、字が曲がっているものだけそっと書き直す。誰かが困らないように、黙って先回りする手つきだった。


 畑の端から、草を踏む音が二つ、三つと近づく。

 「おはよー。お、芽、そろってる。……俺の髪より整ってるの腹立つな」

 友樹也が朝の空気に向かって軽口を放つと、瑛大は思わず笑ってしまった。笑い声が出た瞬間、友樹也が満足そうに鼻を鳴らす。笑いが出るかどうかで、今日の体調が分かるとでも言いたげだ。


 「おはよ。遅れた」

 真由梨は遅刻を詫びるのに頭を下げず、土の入った桶を二つ抱えたまま、足だけで挨拶した。桶の底には、砕いた炭と塩気の少ない土がきれいに層になっている。

 「遅いって怒られてないの、逆に怖いよね」

 友樹也が小声で囁くと、真由梨は返事の代わりに桶を一つ差し出した。受け取った友樹也の腕が沈む。

 「重っ。……やっぱ怒られてるのこれ?」

 「怒られた覚えはない」

 真由梨はそう言い、桶の縁を指で叩いた。音が乾いている。昨日の夜のうちに乾かし、今朝の風で仕上げたのだろう。


 「手順。畝の端から。声は短く」

 空虹が来た。いつも通り、帽子の縁を指で揃え、土の上に立つ位置を決める。言葉は固いのに、視線は畑の芽を一つずつ追っている。まるで数を数えながら、無事を確認しているみたいだった。


 「俺は盾でいいんだろ」

 琉唯が畑の外側に立ち、風上を背にして腕を組む。影が戻らないと分かっていても、彼の身体は勝手に守る形になるらしい。瑛大が「ありがとう」と言うと、琉唯は顎を少しだけ上げた。

 「口で言うな。手、動かせ」


 皆で苗札を刺し、土を寄せ、踏み固める。単純作業のはずなのに、誰かの癖が出るたび笑いが起きた。

 友樹也が札を逆さに刺して光希に無言で直され、真由梨が「上と下は匂いで分かる」と言って友樹也が「鼻が万能すぎる」と呻き、空虹が「匂いで判断は規定外」と言った直後に、自分も芽の匂いに顔を近づけてしまい、瑛大が笑いを堪えて咳払いした。


 畑仕事がひと段落すると、光希は手を洗い、詰所の中へ皆を呼んだ。机の上には、一冊の古い本が置かれている。背表紙の擦れた『失われた物語』。棚から消え、泥に濡れ、怒哀の影にさらされ、また戻ってきた本だ。最後のページには、新しい紙が綴じられていた。


 「継司の……手紙だ」

 瑛大が低く言う。紙の端は少し破れている。筆圧が強い人の癖だ。誰かの名前を書いた時と同じだと、瑛大は思い出していた。


 光希は紙をめくり、みんなの前に開いた。そこには継司の字で、沢山咸に残ること、怒哀に奪われた言葉を取り戻すこと、そして——「守りたい相手の名前」を、これからは隠さず呼ぶ、と書かれていた。

 その下に、短い言葉が並んでいる。瑛大の字。光希の字。友樹也の、笑いながら書いたのが見える丸い字。真由梨の、余白の多い字。琉唯の、字というより刻み傷みたいな字。空虹の、規則正しい字。

 誰の言葉も長くない。けれど、どれも逃げない形をしていた。


 戸口の方で、靴の泥を落とす音がした。皆が振り向く前に、空虹が「入室前、泥を落とす」と小さく言う。返事の代わりに、誰かが二度、強く靴底を叩いた。


 継司が立っていた。肩に細い板を二枚、抱えている。視線は机の本へ一直線なのに、足は一歩ずつ慎重で、まるで叱られる順番を待っているみたいだった。

 「……棚、直した。ここ、また開ける」

 言い終えると、継司は板を床にそっと置き、手紙のページを一瞬だけ見て、すぐ目を逸らした。


 友樹也が肘で瑛大をつつく。

 「ね、あれ。照れてる人の歩き方、初めて見た」

 瑛大は笑いそうになって、咳払いで誤魔化した。


 光希が継司へ、さっきと同じ調子で紙を差し出した。

 「最後の余白、まだある。継司も一つ書いて」

 「……もう書いた」

 「じゃあ、もう一つ。誰かが読み返した時、今日の匂いが分かる言葉」

 継司は困った顔をして、鉛筆を受け取った。数秒、動かない。けれど、紙の上に落ちた影が揺れ、やがて筆先が走る。書き終えた継司は、紙を破かないように指先で押さえ、黙って皆の方へ向けた。


 そこには一行だけ——「畑の芽は、嘘をつかない」。


 真由梨が小さく息を吐いた。笑いにも泣きにもならない音で、けれど確かに肩の力が抜ける音だった。琉唯が「いい」と短く言い、空虹が頷いてから、紙の端に規定のように小さな丸印を付けた。



 「結界術は、言葉を石に刻む」

 空虹が本から目を上げ、皆の顔を見た。今日は復唱させない。代わりに、自分の指で机の上をなぞる。そこにはレオパードジャスパーが置かれていた。斑の石の中心に、猫の目みたいな光がある。光が、ゆっくりと瞬いた。


 瑛大はその瞳の奥に、畑の芽の列を見た。さっきの風。土の匂い。友樹也の軽口。真由梨の重い桶。琉唯の背中。空虹の指の動き。そして、光希が札の字を直す細い指。

 石は、誰かの過去の痛みだけを映すものじゃない。今この場所の、今日の気配も映せるのだと、瑛大は静かに理解した。


 「……怒哀が来ても、もう暴れさせない。俺たちの言葉で止める」

 瑛大が言うと、友樹也が「やだ、急に声が低い」と笑いかけ、すぐ口を押さえた。真由梨がその様子を見て、ほんの少しだけ口角を動かす。琉唯が「止められなかったら俺が殴る」と言い、空虹が「殴る順番は決める」と返す。笑いが起きる。笑いの中に、泣く前の喉の詰まりが混ざらないのが、嬉しかった。


 午後、塩湖の縁で、皆は石に触れた。結界の石標に、短い言葉を新しく刻むためだ。刻むのは空虹の役目で、皆は読み上げる。長い祈りは要らない。誰かの名前を、まっすぐ呼ぶだけでいい。

 瑛大は「光希」と呼び、光希は「瑛大」と返した。友樹也はふざけて「俺の昼寝」と言いかけ、空虹の視線で飲み込んでから「皆の朝」と言い直した。真由梨は「戻る道」と言い、琉唯は「背中」と言った。空虹は最後に「守るための言葉」と刻ませた。


 夕方、仕事が終わり、詰所の裏で水桶を片づけていると、光希が一人残っていた。瑛大は木の取っ手を握り直し、息を整える。風が少し冷える。芽の上を撫でていく音が、さっきよりはっきり聞こえた。


 「光希」

 呼ぶと、彼女は振り返った。目が細くなる。眩しさのせいだけじゃないと、瑛大は分かった。

 瑛大は言葉を選んだ。笑顔で誤魔化すのではなく、逃げない形で。

 「俺、ここで……君の隣で、ちゃんと笑いたい。勝手に守るんじゃなくて、頼っていいって言ってほしい」

 光希は少しだけ唇を噛み、すぐ笑って頷いた。笑いながら、瑛大の手から水桶を奪う。

 「じゃあ、まず頼って。これ、重い」

 「……重いの、真由梨さんの桶で慣れた」

 「比べる相手が違う」

 光希は肩をすくめ、瑛大の腕に自分の腕を軽く当てた。ほんの一瞬の接触なのに、瑛大の胸は畑の芽みたいに揃って跳ねた。


 「今日の言葉、石に残したよね」

 光希が夕焼けを見ながら言う。

 瑛大は頷いた。石に刻んだのは短い言葉。けれど、石に残るのは文字だけじゃない。言った人の息、迷い、決めた瞬間まで、少しずつ積み重なっていく。

 失われた物語は、棚に戻った。けれど終わりではない。沢山咸の結界は、誰かに届く言葉で、これからも静かに保たれていく。



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