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失われた物語の結界――沢山咸辺境開拓団の手紙  作者: 聖稲


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第39話 瞳の奥の涙と笑顔

 見張り台の上に残った言葉の熱は、風にほどけて消えるはずだった。けれど、消えない。沢山咸の塩湖から吹く風が、冷たいだけではなく、胸の奥をつんと刺す酸っぱさを運んでくる。灯りの下、継司が畳んだ手紙の角が、ふっと持ち上がった。


 「……来る」


 空虹が短く言った。声は小さいのに、縄を引くように皆の背筋が伸びる。見張り台の下、詰所の屋根をなでる霧が、ゆっくりと形を変えた。白いはずのものが、黒く滲み、壁に吸い付く影になる。怒哀が、最後の息を集めたみたいに。


 足元の地面に、昨夜刻んだ線が走っている。言葉を石に刻み、土に沈めた結界の輪郭だ。線の要所には、欠けた宝石が埋められている。レオパードジャスパーの斑が、灯りを受けてきらりと瞬いた。誰かの感情が、まだ中に残っている証拠みたいに。


 光希はその斑を見つめ、息を吸った。自分の胸の鼓動が速いのがわかる。それでも、指先だけは温かかった。瑛大の手が、彼女の手を探している。握った瞬間、彼の手のひらが汗ばんでいるのが伝わった。


 「詰所へ、突っ込む気だ!」


 友樹也が鼻を鳴らし、顔をしかめた。軽口を言いかける口が、途中で止まる。鼻の奥が痛い。塩の匂いの中に、濡れた布と、焦げた鉄のような匂いが混じる。あの匂いは、怒哀が寄る場所の印だ。


 影が、結界の線をまたごうとした。足があるわけじゃないのに、跳ねる。風が一度、逆向きに吹いた。灯りが揺れ、詰所の戸がガタリと鳴る。線の斑が、ひとつずつ、瞬き返した。まるで「見ている」と言うみたいに。


 瑛大が、前へ出た。


 笑っている。いつも通りの、点呼の時みたいな笑顔だ。けれど光希は、すぐ隣で見てしまった。瞳の奥で、何かが小さく震えている。怖い、と言う代わりに、笑顔が先に立っている。


 その震えに、影が触れた。黒い表面が波打ち、誰にも聞こえない囁きのような音が混じる。光希の脳裏に、以前、レオパードジャスパーの斑から覗いた映像がよぎった。口元を固くした瑛大。落ちていく輪郭。届かなかった指先。瑛大も同じものを見ているのだ、と直感した。


 瑛大の目尻に、透明なものが滲んで、ひと筋、頬を落ちた。


 「……泣いてる」


 光希が小さく言うと、瑛大は唇の端だけで笑い直した。


 「風だよ。塩の風、しみるんだ」


 言い訳が下手だ。いつもなら皆が突っ込む。今は誰も笑えない。だから光希は、笑わなかった。そのかわり、瑛大の手をぎゅっと握った。指先に、震えが伝わる。震えているのに、離れない。


 「逃げない顔は、逃げじゃない」


 彼女は、瑛大の目を見た。涙の跡があるのに、目をそらさない。瑛大の呼吸が、一度だけ大きくなり、次の瞬間、肩が少し下がった。笑顔の裏に隠していたものを、いまだけは手放せたみたいに。


 「……うん。通さない」


 影が、二人の前で盛り上がり、壁のようになる。そこから、黒い糸みたいなものが伸び、詰所の戸へ絡みつこうとした。糸の先が戸板へ触れた瞬間、木がきしむ。中に置いた本棚が、かすかに揺れた。


 「空虹! どうする!」


 琉唯が叫ぶ。見張り台の支柱を抱えた夜から、まだ腕が痺れているのに、彼は地面を蹴った。粗い呼吸のまま、影に向かって身体ごとぶつかる。影は柔らかいのに、押し返してくる。泥の中へ足を取られるみたいに、琉唯の靴が沈んだ。


 空虹は一歩も下がらないで、手順を口にした。まるで、板に書いた文字を読み上げるように。


 「真由梨、灯りを一段上げて。影の輪郭を見えるようにする。友樹也、匂いの薄い場所を言って。琉唯、そこへ押し込む。瑛大と光希は、結界の線の内側に影を閉じる。継司、言葉を続けて」


 命令じゃなく、言葉の橋だ。皆がその上を走れるように、短く、はっきり。


 真由梨は返事をしない。代わりに、腰の袋から油の小瓶を取り、灯りの台へ滑り込ませた。火がぱちりと音を立て、光が一段強くなる。影の表面が、濡れた布のように波打った。真由梨は小瓶の蓋を閉めると、転がらない場所へ置き直した。背中で、皆の足音を数えているようだった。


 友樹也が鼻をひくつかせ、手袋で口元を押さえた。


 「右……いや、右じゃない、戸の左下! そこ、匂いが……薄い! 塩だけだ!」


 「塩だけ、って何だ!」


 琉唯が怒鳴りながらも、友樹也の指さす場所へ身体をねじ込んだ。影の中へ腕を突っ込むのは、冷たい水に入れるみたいで、ぞくりとする。彼は顔をしかめ、それでも押した。押しながら、足で地面を探り、結界の線を踏まないように位置を変える。乱暴なのに、ちゃんと守る場所を避けている。


 影が、ぎゅっと縮む。縮んだ分だけ、別の方向へ膨らもうとする。詰所の戸へ、黒い糸が伸びる。糸の先が、今度は戸の取っ手へ絡もうとした。


 その時、継司が手紙を開いた。紙が震える。声が出るのか、出ないのか、迷った一瞬が、全員にわかった。


 「……妹へ」


 彼は、書かれた言葉を読むのではなく、自分の声で渡した。灯りの下で、紙の文字が薄く光るように見える。結界に刻んだ言葉と、同じ温度がする。


 「俺は、逃げたくなる。……でも、逃げないで、ここにいる。お前が読む日が、来るように。ここで守った話が、いつか誰かの腹を抱える笑いになるように」


 最後の一行は、さっきまで紙に無かった。継司が、今の自分で足した言葉だ。言葉が、空気を押した。影が、ふっと揺れる。黒い糸が、絡みつく前にほどけていく。


 光希は、瑛大の手を引いた。


 「線の内側へ。今!」


 瑛大はうなずき、笑顔を作り直すのをやめた。涙の跡が残ったまま、まっすぐ前へ出る。結界の線の上で足を止め、両手を広げた。光希も並ぶ。二人の影が、地面の線と重なった。レオパードジャスパーの斑が、その足元で、ひときわ強く瞬いた。


 「ここは、俺たちの場所だ」


 瑛大の声は震えている。震えているのに、言葉は折れない。光希はその横で、深呼吸をして、昨日言った“強み”を思い出した。誰かの良さを見つけるのが得意。今は、瑛大の中の弱さも見える。弱さがあるから、言葉が届く。


 琉唯が押し、友樹也が「そこだ!」と叫び、空虹が「今、閉じる」と短く言う。真由梨が足元へ、石を一つ転がした。石は結界の線の上で止まり、鈍い音がした。合図みたいに。


 影が、線の内側へ押し込まれた。怒哀の形が崩れ、黒が白へ薄まっていく。最後に、誰かの泣き声みたいな、風の音が鳴った。


 瑛大の頬の涙が、もう一粒落ちた。涙が地面へ落ちる前に、光希が袖で受け止めた。拭ったのではない。落とさないで、ここにいる証を持っておくみたいに。


 霧が、元の白へ戻り、塩湖の風が普通の冷たさに戻った。詰所の戸は、もう鳴らない。皆が、同じ方向を見ている。地面の線は薄く光り、やがて、夜の土の色に溶けた。レオパードジャスパーの斑も、静かな光へ戻った。


 友樹也が大きくくしゃみをして、肩をすくめた。


 「……塩、鼻に入った。俺の鼻、今日で引退かも」


 空虹が一瞬だけ眉を動かし、口元を押さえた。笑いを隠す癖が、こういう時にも出る。琉唯が「引退すんな。まだ使う」と短く言い、真由梨が灯りの火を見ながら、音も立てずに頷いた。


 誰かが、ふっと息を漏らした。笑い声にはならない。でも、その一息が、朝へ繋がる気がした。


 継司は手紙を畳み、胸に当てた。空虹は掲示板の紙を押さえ、風で飛ばないように石を乗せた。真由梨は灯りの油を閉め、琉唯は靴の泥を払った。瑛大は、光希の手を離さないまま、もう一度だけ笑った。今度の笑顔は、涙を隠すためじゃない。


 沢山咸の夜はまだ冷たい。けれど、詰所の前には、言葉で立つ静けさが残っていた。



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