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失われた物語の結界――沢山咸辺境開拓団の手紙  作者: 聖稲


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第38話 新しい結界、古い霧

 夜更けの沢山咸は、塩湖から吹く風がひゅう、と笛みたいな音を立てた。見張り台の階段を上るたび、靴の裏に白い粉がきゅっ、と鳴る。さっきまで地面を走っていた結界の線は、いまも薄く脈を打つように光っていた。


 「できた……はず、なんだけどな」

 友樹也が鼻をひくつかせ、手袋のまま口元を押さえた。軽口を言いたい顔をしているのに、言葉が喉で引っかかっている。霧――怒哀の匂いが、引くどころか濃くなっていた。


 見張り台の外、畑の端に立てた杭の向こうで、白い霧が渦を巻く。人が怒鳴り合ったあとの空気を、湯気で煮詰めたみたいな重さ。誰かの胸の奥を、無理やりこじ開けるみたいな気配。

 瑛大は、目尻を上げて笑う形をつくり、皆を順番に見た。点呼の時と同じように。けれど見張り台が、ぎし、と揺れた瞬間、その笑顔が一拍だけ途切れた。


 「足場、確認! 縄、結び直す!」

 空虹が声を張る。怒鳴らない。けれど、一言ずつが釘みたいに刺さる。

 真由梨は返事をせずに、腰袋から紙と鉛筆を出した。手すりの上で、さらさらと線を引く。揺れた回数、揺れた方向、風の向き。書き終えると、紙を折って瑛大の掌へ押し込んだ。まるで「読む時間はあとで」と言うみたいに。


 琉唯は杭の一本に体をぶつけるようにして立ち、霧に背を向けた。誰かの前に立つ癖が、いま夜の寒さより先に動いている。

 「おい、霧が殴ってくるなら、殴られ役は俺でいいだろ」

 言い方は乱暴なのに、足は一歩も引かない。瑛大が肩で息を吸い直した。


 「……ありがとう。琉唯」

 瑛大が礼を言うと、琉唯は鼻を鳴らして目を逸らした。照れた、と言わないかわりに、杭を蹴って土をならす。


 その時だった。畑の外れの石――レオパードジャスパーが、黒い斑を瞳みたいに開いた。瞳の奥が、ゆら、と揺れる。霧がそこへ吸い寄せられ、結界の線にぶつかっては、ばちん、と音を立てる。

 見張り台がまた揺れた。木が泣くような音。


 光希は、鍋を抱えて階段を上がってきた。湯気が白い霧と混じり、境目がわからなくなる。けれど、彼女の足取りは迷わない。鍋のふたを開けると、塩と野菜の匂いが広がった。

 「配給。今夜の分。口に入れて、いまを戻そう」

 彼女は紙コップを並べ、皆の手へ渡していく。湯気の熱が指先をほどく。塩気が強く、舌の奥がちくりとする。

 友樹也が思わず言った。

 「これ、涙の味がする塩ってやつ?」

 「泣いた人が増えると、塩が濃くなるのかもね」

 光希がさらりと返し、友樹也は笑うしかなかった。笑った瞬間、胸の締めつけが少しゆるんだのが、自分でもわかった。


 霧がもう一度、結界の線へ体当たりした。ばちん。ばちん。言葉が荒れそうな音。

 見張り台の下から、羊か山羊か、家畜小屋の鳴き声が上がった。霧の気配に反応しているのか、いつもより高い。

 「夜中に鳴くなよ……心臓が胃まで落ちるだろ」

 友樹也がぼやきながら階段に足をかけると、空虹がすぐに止めた。

 「降りない。今は上に集める。確認は二人で、順番どおり」

 「また順番どおりかよ、空虹」

 琉唯が鼻で笑い、次の瞬間、縄の結び目がほどけかけているのに気づいて舌打ちした。乱暴に引っ張ると、木の柱がきしむ。

 真由梨が紙をちらりと見せる。そこには簡単な図と、結び方の手順が三行で書かれていた。

 琉唯は黙ってその通りに結び直す。終わると、誰にも聞かれない声で呟いた。

 「……こういうの、やったことねえんだよ」

 瑛大が笑って肩を叩く。

 「やったことがないのに、やるのが偉い」


 下の小屋の鳴き声がもう一度上がった。今度は、鶏の羽音も混じる。結界の線が鶏小屋の近くを走ったせいで、地面がかすかに震えているのだろう。

 友樹也が見張り台の縁から身を乗り出し、両手を口に当てて叫んだ。

 「おーい! 寝ろー! 明日の卵、減るぞー!」

 返事の代わりに、ばさばさ、と羽音が増えた。

 光希が思わず吹き出し、すぐ口を押さえる。

 「友樹也、鶏に説教しても通じないって」

 「いや、通じる。うちの鶏、結構賢い。……たぶん」

 そう言いながら、友樹也は妙に上手い鶏の鳴き真似をしてみせた。「コケッ、コケッ」。琉唯が肩を震わせ、空虹が一度だけ目を閉じた。笑いが漏れそうなのを、飲み込む仕草だ。


 笑いが落ち着いた頃、瑛大は見張り台の床に手をついた。手のひらに、昼間の木のささくれが残っている。畑の畝を直し、井戸の滑車に油を差し、配給の袋を運んだ。暮らしの細い糸を、一本ずつ結び直してきた一日。

 「守るって、こういうことだな」

 彼が小さく言うと、光希が隣にしゃがみ込み、瑛大の手のささくれを指でなぞった。

 「痛い?」

 「痛い。……でも、ここが痛いと、今日やったことを思い出せる」

 光希は頷き、紙コップをそっと瑛大の前へ置いた。熱がまだ残っている。


 空虹が同じ言葉を繰り返す。

 「今夜は、ここを守る。今夜は、ここを守る。今夜は――」

 繰り返すほど、声が少しだけ震える。震えを隠さない。隠さないまま、続ける。


 光希は、鍋の取っ手を置いた。手を空にして、皆の顔を順番に見た。さっき瑛大が点呼のようにしたのと同じ順番で。

 「今日の強み、言うね」

 突然の宣言に、琉唯が眉をひそめる。

 「強み? いまそれどころかよ」

 「いまだから。怒哀は、怒鳴り声が好き。でも、ちゃんと届く言葉は嫌い」


 光希は瑛大の前に立ち、皆に聞こえる声で言った。

 「瑛大は、目を見て挨拶できる。怖いときほど、相手を見失わない」

 瑛大は口を開けかけ、閉じた。笑顔をつくるより先に、喉が熱くなった。


 次に友樹也へ。

 「友樹也は、匂いを拾える。怖さを軽口で包んでも、最初に『変だ』って言える」

 「……それ、褒めてる? 俺、ずっとビビってるけど」

 「ビビってるのに、逃げないのが、もう仕事」


 真由梨には、紙を指さして。

 「真由梨は、手順を止めない。遅れて来ても、全員を進ませる紙を書ける」

 真由梨は小さく頷き、鉛筆を一本、光希へ差し出した。足りないなら貸す、と言わんばかりに。


 琉唯へ向けて、光希は少しだけ声を柔らかくした。

 「琉唯は、前に立てる。言葉がなくても、守るって足で言える」

 琉唯は耳まで赤くなり、乱暴に紙コップを飲み干した。

 「……足で言うとか、変な言い方すんな」


 空虹には、繰り返している言葉に重ねるように。

 「空虹は、理由を言い続けられる。秩序って言い方じゃなくて、『どうして必要か』を同じ形で渡せる」

 空虹は一拍止まり、すぐに、さっきより低い声で言い直した。

 「今夜は、ここを守る。……守るために、順番どおりに動く」


 最後に継司。見張り台の影で、霧を見ないようにしていた。光希はそこまで歩き、短く言った。

 「継司は、少人数でも決めたら手を離さない。黙ってるのに、いちばん長く差し出してる」

 継司の喉が、ごく、と鳴った。返事はない。代わりに、胸の内ポケットから紙を出した。妹宛ての、短い手紙。


 「……もう一回、読む」

 継司は紙を広げ、灯りの下で文字を追った。途中で噛みそうになり、息を吸い直す。言葉を握りしめるみたいに。

 そして最後の一行を、見張り台全体へ向けて言った。

 「君に届きますように」


 その瞬間、レオパードジャスパーの瞳が、すっと澄んだ。結界の線が、地面から見張り台の柱へつながるように光り、揺れが一度、止まった。

 友樹也が鼻を鳴らした。

 「……匂い、変わった。怒哀が、悔しがってる匂い」

 「悔しがるなら、もっと悔しがらせよう」

 瑛大が笑った。今度は、途切れない笑顔だった。


 霧はまだ残る。だが、古い霧は新しい結界の縁で、形を変え始めている。怒鳴り声になれないまま、言葉になれないまま、薄くほどけていく。

 光希は鍋の底に残った最後の一口を見て、皆へ回した。

 「飲み切ったら、交代で見張ろう。夜明けまで、順番どおりに」

 空虹が頷き、真由梨が紙に「夜明けまで」と書き足し、琉唯が杭の前に立ち直し、友樹也が鼻を鳴らし、継司が紙を畳んだ。


 沢山咸の夜は冷たい。けれど、いま見張り台の上には、言葉の熱が残っていた。



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