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失われた物語の結界――沢山咸辺境開拓団の手紙  作者: 聖稲


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第37話 君に届きますように、を刻む

 詰所の灯油ランプが、夜更けの風に合わせて小さく揺れた。外では塩湖の面が見えないほど霧が垂れ、柵の縄がきゅ、きゅ、と鳴く。見張り台の上の星は、たぶん出ている。けれど怒哀が目の前を塞いで、空は黒い布の裏側みたいだった。


 机の上には、今日裂いた紙の残りが整えられている。真由梨が、破れ端を揃えて、重ねて、火のそばで乾かしておいたものだ。乾いた紙は軽く、触れるとさらりと鳴る。

 継司はその一番上を引き寄せ、炭の棒を指先で回した。黒が指に移り、爪の隙間が濃くなる。今夜は拭わないと決めている顔だった。


 瑛大は火鉢の前にしゃがみ、薪を一本ずつ向きを変えた。火の息が詰まらないように隙間を作る。ぱち、と飛んだ火の粉が、ひとつ床に落ちて消える。

 光希は椅子の背に手を置いたまま、継司の紙を見ない。見ないで、聞ける形にしている。空虹は帳面を閉じて膝に乗せ、足音を立てない。琉唯は戸の近くに座り、外の気配が変わればすぐ立てるように背を壁へ預けていた。

 友樹也だけが、落ち着かない犬みたいに鼻を動かしている。


 「……さっきより、匂いが軽い」

 友樹也が、口の中で言葉を転がすように呟いた。

 「軽いって何だよ」

 琉唯が低く返す。

 「重い匂いと、軽い匂いがあるんすよ。怒鳴り声の後って、鼻が痛い。今は……鍋の湯気みたいな匂いが混じってる」


 光希が小さく頷き、火鉢のほうへ目を向けた。瑛大は返事の代わりに薪を一本足す。火がふくらみ、影が少しだけ薄くなる。


 継司が炭を紙へ当てた。最初に書いたのは宛名だった。二文字ではなく、もう少し丁寧な形。

 「妹 ……澪へ」

 声に出して確認するように書き、炭を止める。喉が鳴る。怒哀の匂いが一瞬だけ濃くなり、紙の上へ乗ろうとする。

 空虹が、机の端を指で叩いた。とん。たった一音で、霧の重さが引き戻される。


 「順番。宛名、本文、最後に名前。……余計な線は入れない」

 「おい、教官かよ」

 友樹也が小声で突っ込み、空虹は視線だけで黙らせた。瑛大は笑っているのに、笑い声は出さない。火の音だけが、代わりに揺れる。


 継司の炭が動いた。


 ――塩粥を吹いて笑った顔が、まだ目の奥に残っている。

 ――口の端の白い粒が、星みたいだった。


 昨日の一行を、今夜は続きにする。継司は紙の上へ、短い言葉を落とした。沢山咸の詰所で、何月何日かは数えきれない夜。けれど「今夜ここで書いた」という事実だけは、指の腹に熱として残る。


 「こっちは寒い。塩の風が耳を切る。だけど火がある」

 炭の線が、震えながらも途切れない。

 「みんな、変なやつばっかりだ。規律のうるさいやつがいて、鼻の利くやつがいて……」

 友樹也が「変なやつって誰っすか」と口だけ動かす。瑛大が片手で口元を覆い、咳払いに見せて笑いを飲み込んだ。

 継司は続ける。

 「笑う癖のあるやつが、俺の隣に座って薪を割った。……腹が立った。なんで今さらって」

 炭が止まり、黒い先が紙に小さな点を作る。

 「でも、あの夜の鍋の音を思い出したら、破けなかった」


 光希が、そこで初めて息を吸った。言葉を足さない。足したら継司の手が止まると知っている顔だ。


 継司は紙の一番下へ、短い文を置いた。

 「澪。おまえが笑ってるなら、それでいい」

 そして最後に、炭を少しだけ強く押した。

 「君に届きますように」


 書き終えた瞬間、怒哀の匂いが紙の上でつまずいた。黒が消えない。輪郭が歪まない。文字が、紙の繊維へ深く潜り、そこに根を下ろす。

 友樹也が鼻をすすり、目を細めた。

 「……引いてる。霧が、引いてる匂いだ」


 光希が紙を受け取り、火の明かりで一行ずつ確かめた。読み上げる声は大きくない。けれど言葉の端がきちんと届く。

 「『澪。おまえが笑ってるなら、それでいい。君に届きますように』」

 最後の文を読んだとき、光希の声が一瞬だけ柔らかくなった。継司は顔を上げない。けれど指先が紙の端を離さない。


 瑛大が立ち上がり、机の横の箱を開けた。中から平たい石板を取り出す。表面には、レオパードジャスパーの斑が入っている。豹の毛皮みたいな斑点が、火の光を受けると奥へ沈む。

 瑛大は小さな鉄の刻み具を取り、石板の縁へあてがった。

 「刻むよ。……皆、音を聞いてて」


 空虹が頷き、帳面の間に挟んでいた掲示板の紙を一枚抜く。配給の取り決めを書いた紙だ。角をきっちり揃えて折り、胸の内側へ入れる。手順を「紙」にして持ち歩く。それが、今夜の空虹の守り方だった。


 瑛大が刻み具を打つ。こつ、こつ、と乾いた音が続く。石の粉が細かく舞い、火の息に乗ってきらりと光る。星が降ったみたいに見えた。

 光希が、隣で同じ文をもう一度だけ口にした。刻む音の間に、言葉が挟まる。


 最後の「君に届きますように」を刻み終えた瞬間、石板の斑が、ふっと開いた。

 目だった。瞳孔のような黒が中心に集まり、周りの斑が虹彩みたいに広がる。

 誰も声を出さない。火がぱち、と弾ける音だけが、息の代わりに鳴った。


 次の瞬間、詰所の床板が、かすかに震えた。揺れではない。線が走った感触だ。

 瑛大が石板をそっと床へ置くと、床の木目の上に、薄い光の筋が伸びていく。詰所の扉の下をくぐり、外の地面へ続き、柵の足元へ輪を描くように回り込む。

 塩で白い土の上に、線が浮き、消えずに残る。霧が、その線を越えようとして躊躇し、波のように引き返した。


 「……線が、見える」

 真由梨が、火のそばの紙を押さえたまま、ぽつりと言った。落ち着いた声なのに、指先だけが少し速く動いている。

 琉唯が戸を押し開け、外を覗いた。冷気が一気に流れ込むのに、怒哀の酸っぱさが薄い。

 「柵の外が……少し遠い」


 友樹也が鼻を鳴らし、笑いとも泣きともつかない息を漏らした。

 「すげぇ。今の、俺の鼻が嘘ついてない」


 継司はようやく顔を上げた。紙の上の文字と、床の上の線を、交互に見る。怒りで割れた指先が、紙の端をそっと撫でた。

 光希が紙を返すと、継司は胸の内側へしまい込んだ。折らない。折ると、文字がずれる気がしたからだ。


 瑛大は石板の表面を指でなぞり、斑の「瞳」がゆっくり閉じるのを見届けた。目が閉じても、線は残る。

 瑛大が継司のほうへ向き直り、火の明かりの中で、短く言った。

 「届いたよ。いま、ここに」


 継司は返事の代わりに、紙の上から炭の粉を指で軽く払った。黒い粉が舞い、火の前で一瞬だけきらめく。星みたいに。

 空虹がランタンを持ち、戸を押し開けた。夜の冷気が頬に当たり、塩の匂いが鼻へ刺さる。けれど怒哀の酸っぱさは、さっきより一段奥へ引っ込んでいる。

 「外へ出る。踏むな。線は、今は薄い」

 言いながら、空虹は足元へ棒を差し出し、地面の光の筋をなぞった。棒の先が線に触れると、す、と滑って弾かれない。だがその瞬間だけ、霧が棒の周りで渦を巻き、線を越えない。


 友樹也が、試したくてたまらない顔で片足を浮かせた。

 「ちょっとだけ、つま先で……」

 「戻せ」

 空虹が短く言う。

 「はいっ」

 友樹也は即座に足を引っ込め、咳払いで誤魔化した。琉唯が「素直か」と鼻で笑い、友樹也が「痛いの嫌いなんすよ」と返す。


 真由梨が継司の手を取った。指の腹に小さな裂けが残っているのを見つけ、黙って布を巻く。布は配給札を束ねるときに使った端切れだ。結び目が小さく、邪魔にならない。

 継司が「……ありがと」と言いかけて止めた。宛先のない言葉は、今夜は紙の外へ出したくなかったからだ。真由梨は頷くだけで、布の端を指で押さえ直した。


 光希が線の上へ視線を落とし、瑛大のほうへ顔を向ける。

 「刻む音、まっすぐだった。皆、聞こえた。だから線がまっすぐ走った」

 瑛大は返事の代わりに、口角だけを上げる。褒められて照れるときの顔なのに、すぐ火鉢のほうを指差して「戻ろう」と言う。照れ隠しが下手だ。


 外の霧はまだ消えていない。けれど、輪郭ができた。守る場所の形が、今夜の地面に刻まれた。



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