第36話 継司の一行
配給札が束ねられて棚に戻るころ、詰所の中は鍋の匂いよりも紙の匂いが強くなっていた。灯油ランプの芯が少し伸びて、火がぱち、と乾いた音を立てる。外では塩湖の風が柵を擦り、霧が地面を舐めるように流れている。見張り台の足元に掛けてある縄が、きゅ、と鳴るたび、誰かの喉が反射で固くなる。
机の上には、欠けた章を集めて戻してきた「失われた物語」が開かれていた。綴じ糸の色が違うところは、後から縫い直した跡だ。ページをめくるたび、紙が乾いた砂みたいに擦れて、指に粉が残る。
最後のページだけ、どうしても白い。文字の間に、指がすり抜けそうな空白が一本、残っていた。
空虹が帳面の端を押さえ、ページの余白へ指を置く。
「ここが、まだ埋まってない。……結界の線も、ここだけ薄い」
友樹也が鼻を鳴らし、わざと大げさに腕を回した。
「じゃあ俺が書きます? 『みんな仲良く、喧嘩するな』とか。響き、良さそうじゃないっすか」
真由梨が椅子に腰を下ろし、配給札の裏を切った紙を何枚か重ねて出した。端は揃っている。角で指を切らないように、少し丸くしてある。彼女は炭の棒も二本、折れた先が滑らかになるまで指で擦って置いた。
琉唯は机の端を指の腹で叩き、短い音で友樹也の軽口を止めた。友樹也は口をすぼめたまま、肩だけで「はいはい」と返す。
光希が空白をじっと見つめ、言葉を選ぶように息を吸った。
「ここ、誰かに向けた言葉じゃないと入らない。宛先がないと、怒哀がねじってしまう」
怒哀――怒りと哀しみが混じった霧。外にいるはずなのに、名前を出すだけで室内の空気が少しだけ湿る気がする。
瑛大が頷き、友樹也に視線で合図した。
「じゃあ、試しに書いてみよう。消えたら、違う。残ったら、近い」
友樹也は待ってましたとばかりに炭を握り、「うまい言葉、いきますよ」と言って紙へ走らせた。
『喧嘩は腹が減る。だから飯を食え』
書き終えた瞬間、炭の黒がじわ、と薄くなる。紙に染み込んだのではなく、逆に紙が黒を吐き出したように、文字の輪郭がぼやけた。次に、最後のページの空白に、風が吹き抜けたみたいに冷気が走り、文字がふっと消える。
「うわ、食えって言ったのに消えた!」
友樹也が抗議の声を上げ、空虹が「静かに」と短く返す。声の角は立っているのに、目はページの変化を追っていた。
真由梨も一つ、試しに書いた。『井戸の縄は結べ』。実務の匂いがする文だ。だがそれも、紙の上で黒が浮いて、さらりと消えた。
光希が書いたのは『ありがとう』だった。短い。誰に、は書いていない。すると黒は残ったが、紙の繊維がざらつき、字が少し歪んだ。怒哀が、宛先のない感謝を横から掴んで引っ張ったみたいに。
空虹が眉を寄せる。
「……宛先。たしかに必要だ」
その言葉に、継司の肩がわずかに動いた。鍵束は腰で鳴らず、彼の手は膝の上で固く組まれている。指先の白い粉が、夜の灯りで浮いた。彼はページを見ない。けれど空白のあたりだけ、視線が吸い寄せられている。
瑛大が本をそっと閉じ、継司の前へ置いた。笑顔は、いつもみたいに大きくない。けれど目だけは真っ直ぐだった。
「継司。お前が最後の鍵を持ってる。……この一行も、お前の手で戻してほしい」
継司は頷いた。頷いてから、机の紙へ手を伸ばした。光希が炭の棒を差し出す。真由梨が、炭の先が折れないように小さな布切れで包んで持たせる。
炭先が紙に触れた瞬間、空気が少しだけ重くなった。霧が詰所の床下から染み出したわけじゃない。けれど、怒りと哀しみが混じった匂いが、喉の奥へ貼りつく。友樹也が鼻を押さえ、黙る。
継司の手が走った。黒い線が紙に刺さり、字の形になる前に、刃みたいに尖る。
「……返せ」
継司が呟いた声が、紙の上に落ちる。次の線はもっと荒い。墨ではなく、傷だ。
「奪ったやつを――」
炭が折れた。ぱき、と乾いた音。折れた先が紙を掻き、紙の繊維がざらりと立った。継司は息を吐き、紙を握り潰した。握った手が震え、次の瞬間、紙が裂けた。ばり、と裂ける音が、詰所の壁に跳ね返る。
空虹が立ち上がりかけたが、椅子の脚を鳴らす前に止まった。帳面の角を押さえる指が、白くなる。琉唯の拳が机の下で固まる。友樹也は口を開いたが、何も言わずに閉じた。
継司は裂いた紙を見下ろし、喉を鳴らした。
「……書けねぇ。恨みしか出ねぇ」
光希は紙の破れ端を拾い、膝の上でそっと重ねた。破れ目の線が、縫い目みたいに残る。
「恨みも、本当。無かったことにしなくていい」
継司が顔を上げる。瞳の奥が暗い。怒哀がそこを覗き込んでいるみたいだった。
光希は目を逸らさず、言葉を続けた。
「でも、守りたい相手も本当。倉庫で名前を書いたでしょ。……あれみたいに、宛先を先に置こう」
空虹が咳を一つした。わざとらしくない。喉の奥が乾いた音だった。友樹也がその咳に助けられたように、息を吸う。
継司は、もう一枚の紙を取った。炭の残りを握り直す。今度は、線がゆっくりになる。字が、刃ではなく形になった。
「……妹」
たった二文字。けれど、その二文字が紙に乗った瞬間、詰所の匂いが少しだけ変わった。塩の匂いが、わずかに甘くなる。怒哀の刺が、一本だけ抜けた気がした。
光希はそこへ、指で小さな空白を作るように示した。
「名前の横に、思い出を一つ。短くていい。いつ、どこで、何をして笑ったか。守りたい理由が、字に乗るから」
継司の炭が止まる。喉が鳴る。言葉が出ない代わりに、呼吸だけが早くなる。
友樹也が思わず「どんなのでも――」と言いかけたが、瑛大が首を振って止めた。瑛大は何も言わない。代わりに立ち上がり、薪束へ行った。
瑛大は薪を割った。ぱん、と乾いた音がする。割れた木の匂いが広がり、詰所の冷えた空気を押し返す。火鉢の中へ小枝を組み、火打ち石で火花を散らす。火がつくまで、誰も声を出さなかった。火が小さく揺れ、灯油ランプの光と重なる。火の色が増えるだけで、人の顔の影が少し柔らかくなる。
瑛大は火の前に座り、継司の隣の床へ腰を下ろした。肩が触れない距離。けれど、逃げ道を塞がない距離。瑛大は手を膝に置き、ただ呼吸を揃えた。
その横で、空虹は帳面を閉じ、見張りの札を一枚ずつ指で撫でて整えた。声を出さずに、音を減らす。それだけで「急かさない」を示している。
継司の指が、炭をもう一度動かした。字は震えている。けれど裂けない。黒い線が、今度は紙の上を歩いた。
「塩粥を――」
そこで止まり、継司の喉が詰まる。光希が、火の揺れを見ながら囁いた。
「その夜の匂いを。鍋の音を。手の温度を。……妹さんの顔が浮かぶところまで、戻って」
継司は目を閉じた。詰所の匂いの下で、別の夜の匂いを探すように眉が動く。
そして、紙に続きを落とした。
「塩粥を吹いて、笑った。口の端に白い粒がついてて、星みたいだった」
短い。けれど宛先がある。妹という二文字の横に、笑い声の欠片が置かれた。
その瞬間、机の上の「失われた物語」の表紙が、かすかに鳴った。綴じのあたりに埋め込まれた石が、ぬくもりを持ったように見える。外の霧が一拍遅れて揺れ、詰所の床板の隙間を吹き抜ける冷えが、少し弱くなる。
大きな変化じゃない。けれど、誰も見逃さなかった。
真由梨が破れた紙を片づけ、火のそばで乾かすように重ねる。琉唯が詰所の戸のほうへ行き、外の霧の濃さを確かめた。友樹也は、わざと鼻をすすって「煙いだけっす」と言い、誰も突っ込まない。
継司は紙を握り潰さず、机の上に置いたまま、指先で文字をなぞった。炭が指に移り、黒くなる。それでも拭わない。
瑛大は火を見つめたまま、ぽつりとだけ言った。
「書けたな」
継司は返事をしない。けれど、肩の力が少しだけ抜けた。怒哀の匂いが薄い布のようになり、詰所の天井へほどけていく。
最後の空白は、まだ残っている。だがその空白へ向かう道に、いま確かに一行が置かれた。宛先のある言葉は、夜の火よりも静かに、結界の線を太くしていく――そんな予感がした。




