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失われた物語の結界――沢山咸辺境開拓団の手紙  作者: 聖稲


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第34話 言いかけた言葉

 昼前の塩湖は、光が強いのに寒い。雲の切れ目から差す日差しが水面を銀色に振らせ、湿地の向こうの葦が、風に押されて一斉に倒れた。岸に置いた木箱の上には、空虹が並べた札があり、「潜る者」「引く者」「合図を見る者」と墨がにじんでいる。真由梨が背負ってきた滑車は、木の枝に縄で固定され、結び目は二重どころか三重だった。


 湖底の洞を離れると、塩を含んだ水が頬の横をすべり、耳の奥がきゅっと鳴った。石板は布で包まれ、真由梨が結び目を重ねたロープにぶら下がっている。継司はその端を指先で触れたまま離さず、口を開けると水が入ると知っているのに、何度も何かを言いかけては飲み込んだ。石板の欠けた一節を見た時から、彼の喉の奥には、言葉より先に痛みが詰まっている。


 怒哀は水の中でも薄い。けれど、薄いほど厄介だった。泡の一粒に混じって、甘く腐った匂いが鼻の裏へ入り、思い出したくない夜を小さくつつく。継司がふと指を緩めた時、包みの布がわずかにずれて、刻まれた文字の端が見えた。たったそれだけで、彼の瞳が水の中で揺れ、肩が硬くなる。


 瑛大は継司の視界に入る位置へ回り込み、手のひらを開いて見せた。言葉は水で消える。だから、合図で先に伝える。「ここにいる」「一緒に上がる」。光希はその横で、継司の手首を支えるように添えた。触れる力は弱いのに、腕の震えが少しだけ止まる。


 「合図は三つ。引いたら止める、止めたら見る、見たら次」空虹は胸の前で指を立てて見せた。返事の代わりに皆が頷く。琉唯は浮き具の紐を噛み、鼻から泡を吐いて「早く上がろうぜ」と言いたそうに眉をつり上げた。泳げないまま潜ったせいで、足が水を蹴るたび、布の浮き具が体の横でぷかぷか揺れる。その動きが妙に間抜けで、友樹也が笑いそうになって、慌てて口を閉じた。


 引き上げの順番は決めてある。最初に継司、次に真由梨、琉唯、友樹也、最後に瑛大と光希。岸では、滑車の縄がきしみ、誰かの掛け声が水を通してぼんやり届く。真由梨の作った引き上げ手順は、合図の回数まで書いてあった。空虹はそれを暗記しているのか、指を折って数える癖で、間違いがないか確かめている。


 ロープが引かれ、体がゆっくり持ち上がる。上から届く光が強くなるたび、塩湖の水が白く光り、腕の産毛が逆立った。水温が少し上がった気がしても、それは気のせいで、指先の感覚が薄くなるだけだ。友樹也は水の中で鼻をひくつかせ、霧の匂いの変化を追った。薄れるはずの匂いが、逆に濃くなっている。彼は指で「上がるほど濃い」と示し、眉を寄せる。


 琉唯が先に引かれていく。浮き具が縄に引っかかり、体がくるりと回りかけた。瑛大がすぐに彼の足首を押さえ、回転を止める。琉唯は礼を言う代わりに、拳で親指を立てて見せた。上へ消える背中のあと、泡だけが残る。


 友樹也が次に上がり、最後に見えたのは、彼が水面越しに片手を振っている影だった。軽口の形をした口が動いた気がしたが、音にはならない。かわりに彼は、指で「舌を噛むな」と示した。怒哀の匂いが濃い時、言葉が荒くなるのを、彼は何度も見てきたのだ。


 残るのは、瑛大と光希と、石板を守る継司の気配だけになる。石板はすでに上へ送られ、継司も引き上げられた。けれど、水の中に残った痛みだけは、まだ一緒にいる。光希は自分の胸元の縄を確かめ、瑛大の肩紐も指先で触れて確認した。瑛大は親指で光希の結び目をなぞり、ほどけていないのを確かめる。その動きが丁寧すぎて、光希は目だけで笑った。笑うと、吐く泡が少し大きくなる。


 引き上げの途中、上の者たちが先に岸へ向かったのか、ロープの揺れが一度止まった。周りの水が静かになり、二人の呼吸音だけが近くに残る。光希は顔を上げ、揺れる水面の膜を見た。そこに映る瑛大の顔は、いつもより真剣で、唇が一度だけ動いた。


 瑛大は喉を動かし、息を整えようとした。けれど息を整えるほど、胸の中に残っていた言葉が、順番を争って前へ出ようとする。「助かった」と言いたい。石板の文字を見た継司の指が固くなった瞬間、自分が何をすべきか迷ったことも、言いたい。それから、光希が水の中で示した合図が、どれだけ心強かったかも。


 「……」瑛大は言葉を形にしかけて、口を閉じた。水の冷たさでも、塩の刺激でもない。怒哀の匂いが舌にまとわりつき、うっかりすると、感謝が別の形にねじれそうだった。誰かを守るための言葉が、誰かを刺す形で出てしまう。そう思うと、唇に力が入る。


 光希は近づき、瑛大の手首に指先を添えた。水の中での触れ方は、引っ張らない。押しつけない。そこに置くだけ。彼女は指で自分の胸を軽く叩き、次に瑛大の胸を指した。水中の合図は短いほどいい。「続きは、帰ってから」そう言う代わりに、口元で形だけを作る。瑛大の瞳が一瞬だけ揺れ、次の瞬間、彼は眉の力を抜いて、いつものように少しだけ笑った。


 再びロープが動き、二人は水面へ押し上げられた。空気に触れた瞬間、塩の匂いが強くなり、肺が痛いほど膨らむ。光希は咳き込み、唇に付いた塩を舌でぬぐった。瑛大も同じように咳き込みながら、まず光希の背中を二回、軽く叩いた。背中を叩くたび、彼の手から冷たさが移り、光希は「冷たい」と笑って言い、瑛大は「じゃあ、後で温める」と言いかけて、今度は言い切った。


 岸では、空虹が腕を組んで待っていた。二人が並んで上がるのを見た途端、わざとらしい咳払いが一つ。続けて、手を叩く音が二回。「安全確認。今すぐ。順に」声はいつも通り固いが、目だけが二人の間の距離を測っていた。霧が岸の足元にまとわりつくと、空虹は視線をそらし、代わりに手順に集中するように口を動かす。


 「耳、痛くないか。指先、しびれてないか。息、浅くないか。吐き気、ないか」空虹は質問を短く切り、返事を待つ。真由梨が湯を入れた水筒を差し出し、継司は石板の包みを抱えたまま、首を小さく振って無事を示した。琉唯は髪から水を振り落とし、地面に塩水のしずくを飛ばしながら「俺は平気だって」と言い、空虹の視線が刺さると、しぶしぶ指を広げてしびれの有無を見せた。


 友樹也は岸の小石を蹴って、いつもの調子で言った。「いやあ、塩湖で二人きりって、なんか絵になるな。結界が勝手に祝福しそう」言い切った瞬間、自分で変なことを言ったと気づいたのか、耳まで赤くして咳払いを真似した。空虹の咳払いと、友樹也の咳払いが重なり、妙な間ができる。琉唯が「お前、今のは自分で恥ずかしくないのか」と首をかしげ、友樹也は「うるさい」と言いながら、さらに赤くなった。


 光希はタオルで髪を押さえつけながら、友樹也を見て肩をすくめた。怒哀の匂いがまだ鼻に残るのに、今の軽口は変に刺さらない。刺さらないように、皆がわざと真面目な顔を作っているのが、逆に可笑しい。継司まで口元だけが少し緩み、その瞬間、胸の奥の固まりがわずかにほどけたのが見えた。


 瑛大は石板の包みに手を伸ばし、継司の指が固くなっているのを見た。瑛大は言葉を選んだまま、先に行動を置く。包みの下に自分の手を入れ、重さを半分だけ引き受ける。継司は目を伏せ、呼吸を整えてから、小さく頷いた。真由梨が包みの上にもう一枚布をかけ、結び目の位置を指で示して「ここ、後で締め直す」とだけ言う。


 「帰ったら、温かい湯を作ろう。喉も、耳も」瑛大が言うと、光希は「塩が落ちるまで、歌は歌わないでね」と返した。瑛大の口角が上がり、友樹也が「そこは歌うんだ」と小さく突っ込み、また赤くなる。琉唯は湯の話を聞きつけて、先に走り出しかけ、空虹に肩を掴まれて止められた。


 空虹は皆を並ばせ、ロープと滑車の回収手順をもう一度読み上げた。濡れた縄は重く、引くだけで掌が痛む。だが空虹は一つずつ確認し、「次」と短く言い、誰かが先に動くと手の甲で止める。その手つきが、怒哀の匂いの中で、さっきよりも少しだけ柔らかい。


 最後の一文だけ、空虹は少し間を置いて言った。「……戻るまでが、作業だ。誰も欠けるな」


 光希はその言い方を聞き逃さず、瑛大の袖をつまんで小さく引いた。瑛大はうなずく。さっき水の中で閉じた言葉が、喉の奥に残っているのを互いに知っている。だからこそ、今は歩幅を合わせる。塩湖の風が背中を押し、霧はまだ水面にたまっているのに、岸の足元だけは、少しだけ軽かった。



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